第10話

「ごっめ~~ん、センセ! 軽く喰らっちゃった!」

「ちょっ、流果ちゃん!」


 流果? 今の声、流果だな?

 僕はブランケットを蹴飛ばし、仕切りのカーテンを引き開けて――って、あれ? 身体が動かない?


「ぶわ!」


 僕は無様な声を上げて転倒、辛うじて身体を捻ったものの、右肩に鈍痛が走った。


「いってぇ!」

「あれ? あんちゃん、ここにいんの?」


 流果がいる。生きてる。会える。話せる。無事を確認できる。

 しかし今の僕ときたら、全身が麻痺したようで尺取虫のような動きしかできない。カーテンの端まであと数センチというところで、腕が機能しない。指が届かない。


「あ、もうお目覚め? 一翔くん、悪いんだけど、もうちょっと寝ててもらえないかしら? あー、でも鎮静剤の過剰投与はよくないのよね。流果ちゃん、場所を移しましょうか」

「ういっす」


 スタスタと軽妙な調子で、二人分の足音が遠ざかる。


「ま、待って! 流果! 僕だ、一翔だ! せめて顔を見せてくれ! 博士、僕の身体を元に戻してください!」


 つと、足音が止まった。


「センセ、どしたの?」

「どしたの、って薄情ねえ、流果ちゃん。一翔くんがあんなに心配してるのに」

「えー、あたいブラコンじゃないしー」


 くるり、と誰かが振り返る気配。


「だってさ、一翔くん。後で会わせてあげるから、少し待ってなさいな」


 僕はまだ声を上げようとしたが、スライドドアの開閉音に掻き消されてしまった。


「る、流果……」


 傍から見たら、さぞ滑稽な姿だったことだろう。

 だが、僕は必死だった。かくなる上は、動かない身体の代わりに、頭を回転させるべきか。


 流果と古川の会話から、何か情報を拾えないだろうか? そもそも、流果がこのラボにやって来た理由は何だ? 

 記憶を辿ってみると、一つの言葉に突き当たった。ラボに入ってきて開口一番、流果はこう言ったのだ。『軽く喰らっちゃった』と。


 怪我をしたのだろうか。いや、ただの怪我だったら、このラボには来ないはず。

古川は『自分は医師ではない』と明言していたし、ここが軍事的組織であるならば、きちんとした医療設備も整っているに違いない。


 にも関わらず、二人はわざわざこのラボで落ち合った。ということは、流果も古川も、何かを一般の兵士や職員に隠している。父も一枚噛んでいるに違いない。


「ぐっ……」


 僕は歯を食いしばり、何とか四肢を動かそうと試みた。ここを出て、流果と古川の後を追わなければ。せめて、このラボ内で何かヒントになるものを見つけなければ。

 機密レベル? 知ったことか。流果は僕の家族だ。乱暴な言い草だけれど、僕には流果がこの施設で何をしているのか、それを知る絶対的権利がある。


 どうにかカーテンに指が届いた。親指と人差し指で摘まみ、ジリジリと引き開ける。

 しかし、この時点で僕は満身創痍になってしまった。何せ、のたうち回るような動きしかできないのだ。生身の身体をここまで酷使したのは、一体いつ以来だろう。


 全身の筋肉が攣りそうだ。ここまでか。何の手がかりすら得られないとは。

 しかし、諦めるのはまだ早かったらしい。


「ん?」


目の前のテーブルに、立体画像ディスプレイが展開されていたのだ。


「んむ」


 僕はうつ伏せの姿勢ながらも、首を上げてその画像に見入った。

 古川が画像を展開したまま、端末を放り出して行ってしまったのだろうか。そこまで不用心な人には見えなかったが。

 何にせよ、これは情報だ。


 その立体画像は、人型を模式的に描いていた。ところどころマーキングされているが、大抵の箇所は緑色で『Clear』の文字が並んでいる。しかし、


「あれ?」


 僕の目を引いたのは、その画像の左の上腕部。真っ赤なマーカーでポイントされ、『Critical』と表示されている。

 すなわち『致命傷』――どういう意味だ? まさか、これが流果の言っていた『喰らっちゃった』の意味するところだろうか。


 だとしたら、冗談ではない。流果は何か、危険なことをやらされているのではないか? そんな疑問が、頭の中で膨張していく。頭蓋が破裂しそうなほどに。


 だが、僕の体力はそこで限界を迎えた。ぶはっ、という奇妙なため息をつき、床に頭を下ろす。ぺたりと頬が床にくっつき、僕のオーバーヒートしかけた頭部が冷やされていく。

 どうやら、僕が気づかないうちに打たれていた鎮静剤は、遅効性の働きもあったらしい。時間差で僕の行動を押さえ込むとは、古川も卑怯なことをするものだ。


 こうして、僕の意識は再び暗闇の中へと引きずり込まれていった。


         ※


 それからしばしの間、僕は無様な姿で床に横たわっていた。不自然な格好で意識を失ってしまったため、ただでさえ酷使した全身の筋肉が悲鳴を上げている。


「起きなさい、一翔くん。そんな格好で床に這いつくばって妹の名前を連呼しているなんて、いつ変態認定されてもおかしくないわよ」

「ん……ほえ?」


 気づいた時には、カーテンは引き開けられて、一組の抗菌シューズが眼前にあった。


「古川、博士?」

「すまなかったわね、一翔くん。もうじき麻酔の効果は切れるから、流果ちゃんに会いに行ってあげなさいな」


 僕の腕を取って軽く引っ張り上げながら、古川は気遣わし気な視線を送ってきた。

 ゆっくりと足に力を込める。なんとか立てそうだ。


「僕、流果の名前を?」

「あら、無意識だったの? 妹思いなのかシスコンなのか、分からないわね」


 医者なのかマッドサイエンティストなのか分からないあんたに言われたくはない。

 って、そんなことよりも。


「流果は? 今どこにいるんです?」

「うーん、食堂かしらね。今、ちょうど午後六時になったところだから」

「あ、ありがとうございます!」

「え? ああ、ちょっと! 一翔くん!」


 僕は前のめりにコケそうになりながらも体勢を立て直し、廊下を駆けて食堂へと向かった。


         ※


 果たして、流果はそこにいた。制服姿の管制官や兵士と思しき人々が、深刻そうな顔で額を突き合わせている。そんな中、広大な食堂の端っこで、流果はカレーライスにがっついていた。


「流果っ!」

「ん? おー、あんちゃん。目、覚めた?」


 よくあるドラマでは『心配かけさせやがって!』などと怒鳴りつける場面なのだろうが、やはり僕は流果には弱い。


「もう麻酔は切れた? どこか痺れてない?」

「あ、ああ、大丈夫だ」


 会話の主導権は、いつも通り流果の手中に収まった。いや、それでも確かめておかねばならないことがある。


「お前、左腕をどうしたんだ? 大丈夫か?」

「げほっ!」


 流果は突然むせ返った。慌てて両手を口元に当てる。それから何とか、口内に咀嚼物をキープし、胸元を叩きながらごくりと飲み込んだ。


「あ、あたいの左腕がどうかしたって?」

「さっき見たんだ、古川博士のラボで! 致命傷、なんて表示が……ごふっ⁉」

「ちょっと黙って、あんちゃん!」


 僕の腹部に見事なエルボーを喰らわせ、両手でがしりと肩を掴んでくる。

 しかし、流果の威勢のよさは急速に萎んでいってしまった。もしかして、守秘義務に抵触するような話題なのだろうか。


「あ、あんちゃんがラボで何を見たかは知らないけど、あたいは平気だよ! ほら、左腕だって」


 左肩から腕の先までを、ぐるんぐるんと回してみせる流果。確かに、負傷している(あるいはしていた)ようには見えないが。


「麻酔で意識が朦朧としてたんでしょ? きっと何かを見間違ったんだよ」


 それは、理屈としては分からないでもない話だ。が、僕は、今の言葉を発する時の、流果の微妙なイントネーションに違和感を覚えた。


「食事が終わったら、一緒に僕の部屋まで来てくれ。話がある」

「あたいにはないよ?」

「僕にはあるんだ!」


 思わず語気を荒げてしまった。はっとして、平静を装い、周囲を見回す。幸いにも、誰の気にも留まらなかったようだ。


「ごめん、流果。でも、大事な話になるから――」


 そう言いかけた矢先のことだった。再び、件の警報と非常灯が起動したのは。


「またかよ! 一体何なんだ?」


 すると、流果はぱっと僕の肩から手を離し、椅子を蹴倒した。大きく舌打ちし、駆け出そうとする。

 僕は一瞬呆気に取られたが、このまま流果を行かせてしまったら今朝の二の舞だ。わけの分からない原因で、流果が負傷して帰ってくるかもしれない。いや、最悪、命を落とすことも。


「行かなきゃ! あんちゃん、話はまた今度――って、うわっ!」


 僕は咄嗟に、流果の左手首を握りしめていた。


「お前、何しに行こうっていうんだ? 僕には包み隠さず話してくれ!」


 真っ当な家族は、流果にとっては僕しかいないのだから。僕にとって、流果しかいないように。


「父ちゃんに頼まれたことだよ!」

「だからそれは何なんだ?」

「今はそれどころじゃないっ!」


 僕の腕は、呆気なく振り払われてしまった。そのまま、テーブルに手をついて跳躍しながら、流果は廊下へと出て行ってしまった。


「流果……」

「伝上一翔、貴様にも仕事がある」

「ッ!」


 慌てて振り返ると、大槻が無感情な目をして立っていた。こいつには気配遮断スキルでもあるのか。


「伝上大佐の命令だ。作戦司令室へ来い」


 こうなってしまっては、従う外ない。不承不承、僕は大槻に背後を取られたまま、食堂をあとにした。

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