第2話


         ※


 流果が産まれた翌年、母は亡くなった。十四年前だ。病弱だった母は、よく『流果が小学校に上がるまでは』と言っていたが、それすら叶わなかった。無念だったろうな、と今更ながらに思う。


 そして、僕と流果の生活が常軌を逸してきたのも、流果が小学生になる年の春先だった。

 保護者だった父が、行方をくらませたのだ。


『お前たち二人を養っていく気力がなくなった。すまない』――そんな書置きが、実家のテーブルに残されていた。


 そもそもが妙な話だ。父は政府高官で、主に国防組織の運用に携わっていた。金銭的苦労があったとは思えないし、そんな様子は一切見られなかった。

 それに、『気力がなくなった』とはどういう意味だ? 僕と流果は、父の身勝手さ故に被保護対象から外されてしまった、ということか?


 僕たち兄妹が、父の置手紙の内容を咀嚼している間に、来客があった。よれよれのスーツを着込み、頬のげっそり痩せた四十絡みの男だ。本人曰く、父に頼まれて、僕たちを新しい住居へと移住させること、そしてしばらくの間面倒を見ることを請け負っていたらしい。


 そうして連れてこられたのが、この廃棄区画だ。僕は、元の家との落差に愕然とした。

 何せ、父は高給取りだったのだ。それなりの成果水準で過ごしてきた僕たちに、こんな不便で、薄暗くて、非衛生的な場所で生活しろと言われても無理がある。そう思った。


 だが、僕たちは、否、少なくとも僕個人は、完全に天に見放されたわけではなかった。僕たちの一時的世話役となっていた男は、潤沢な資金を父から預かっていたのだ。

 もちろん、それで元の生活に戻れるほどではない。それでも、ないよりはずっといい。


 何が欲しいかと問われ、僕は真っ先に一つの注文を出した。ハマっていたVR対戦ゲームの設備一式だ。コントローラー、ヘッドギア、それに電力と良好な通信環境。

 そんな子供じみたものを、と思われたかもしれないが、男はゆっくりと頷いて、その日の夕刻にはバッチリ環境を整えてしまった。


『子供に教育を受けさせる義務』というものが形骸化して久しい現在、僕が一番得意だったのは、勉強でも運動でもなくゲームだった。父には無断で、賞金目当てにVR対戦ゲームで小遣い稼ぎをしていたこともある。


 何とかして、父からの資金提供が終わる前に、ゲームの腕を上げなければならない。

 自分たちの食い扶持に困らないだけの賞金を得られる、凄腕のプレイヤーになり上がらねばならない。

 せめて僕だけは、流果を裏切るようなことをしてはならない。決して。


 それが、僕をゲームに駆り立てる一番の要因だった。


         ※


「あんちゃん? あんちゃんってば」

「え? ああ、どうした、流果?」

「それはこっちの台詞だって! 一口も手つけてないじゃん、難しい顔しちゃってさ。何かあったの?」


 ふっと視線を流果に移す。怪しむというよりは、純粋に僕のことを心配している、そんな顔つきだ。流果の額の上で、眉がハの字を描いている。


 そういえば、僕は流果と視線を合わせるまで、何を見つめていたのだろう? いや、何も見ていなかったのか。過去のことが、脳裏でぐるぐる回っていた。


「食器、先に洗っといていい?」

「ああ。フライパンとかは僕が洗っておくから、流果は自分の食器だけでいいよ」


 すると流果は振り返りながら、


「サンキュ、あんちゃん」


 と一言。軽く僕が微笑み返すと、流果は器用に足でドアを開けて、廊下に併設された流し台に向かった。


 流果が日々行っていること。それは、僕よりもよっぽど現実的で短絡的な金儲けだ。

 スリ、恐喝、窃盗など、それこそ一発で警察沙汰になるようなものである。紛れもなく、犯罪行為。いつの間にそんなことを覚えてしまったのか、兄としては頭痛の種になりそうな問題ではある。


 勝手な想像だが、きっと『ディジネス』に所属している間に学んだのではないか。彼らにしてみれば、強盗やサイバー攻撃(現在のところは未遂)など可愛いもので、それよりも下等な軽犯罪を流果に教えるのは造作もなかったのだろう。


 通信環境が確保されているため、僕もよくニュースには目を通す。詳細は不明と報道されているが、それでも『ディジネス』は、かなり手広く犯罪を行っている組織なのだろうとは推測できる。


 暴力団やマフィアと違うのは、現行政府の転覆を目的として活動しているということだ。

 個人的には、まさかそんなことができるとは思っていない。

 だが、強制的な法改正くらいならできるのではないか。現在の世論では、そんな考えが浸透しつつある。


 流果は、少なからず『ディジネス』と関わりを持っている。きっかけは分からないし、知らない方がいいだろう。


 それはさておき。

 問題は、僕が流果の兄として、こんな臆病な態度でいいのだろうか、という点だ。

『臆病』という言葉には語弊があるかもしれない。ならば『寛容』か? いやいや、そんな生易しい言葉は当てはまらない。


 とにかく、流果もまた僕たちの生活に貢献してくれている以上、僕が彼女に意見することは難しい。そう思っている。


 廊下へと続くドアの向こうから、流果が小声で最近のヒットソングを口ずさむのが聞こえてくる。

 僕の唯一の肉親。守るべき家族。そんな彼女が、暴力沙汰で生活費をかき集めてきているのだという現実に、僕は向き合わなければならない。いや、向き合ってきたつもりだった。


 だが、僕は暴力というものに、並々ならぬ嫌悪感、いや、恐怖感を抱いている。

 ゲームの中で散々人を殺してきた僕が言えたことではないのかもしれない。だが、現実に人を殴れば血が出るし、銃で撃てば殺してしまう。ゲームと現実には、大きな乖離がある。


 それを僕に知らしめたのが、母が病死したことだ。

 母が命を落としたのは、犯罪やテロのせいではない。だが、現実世界での『人の死』というものがいかに重大で、衝撃的で、慣れることのないものだということは、僕には身に染みて感じられる。


 だからといって、流果に犯罪を止めろとは言えない。彼女だって、僕たちの生活のために――って、これでは堂々巡りだな。


「あんちゃん?」

「……んあ」


 流果の呼びかけに、僕は中途半端な音を喉から発することで応じた。


「どうしたのさ? 今日のゲームの成績、振るわなかったの?」

「ああ、いや。勝ち残ったよ」


 そう言うと、流果は目をこれでもかと大きく見開いた。


「マジで⁉ しょ、賞金は⁉」

「百万円。次回が決勝戦だから、それで勝ち残ればもう二百万円入る」

「やったじゃん! これであと一年は生活できるね!」

「そうだな」


 この期に及んで、僕はようやく自然な笑みを浮かべることができた――と、思ったのだが。


「だったらさあ、どうしてそんな変な顔してんの?」


 と、早速流果に注意されてしまった。


「ほら、さっさと食べなよ! お腹、空いてるっしょ?」

「ん、まあ」

「あんちゃんの食器も洗っといてあげるから、早く食べなって! 美味かったよ?」

「そうだな。じゃあ、いただきます」


 テーブルの反対側から身を乗り出す流果。改めて彼女を一瞥すると、満面の笑みを浮かべていた。目は母さんに似ているな、と、どうでもいいことが頭をよぎる。


 事件が起こったのは、まさにその翌日のことだった。


         ※


 その日の夕刻。

 僕がまさに、ヘッドギアを装着しようとしていたところだった。やや乱れた調子で、玄関ドアが叩かれた。


 誰だ? もし流果なら、僕たち同士でしか知らない符丁でドアをノックするはず。それが無造作にガンガン叩かれるとなると、相手が誰なのか分からない。


 出るべきか? いや、容易にドアを開けて相手を迎え入れるには抵抗がある。

 僕は法に触れることはしていないが、流果は軽犯罪の常習犯である。もしかして、警察に尻尾を掴まれたのだろうか。それで、家宅捜索だか身柄の確保だかに、警官が差し向けられた、とか?


 相変わらず、ガンガンと叩かれるドア。力加減もまちまちだ。妙だな。

 それに、警察が捜査に来たのなら、普通は真っ先に名乗るはず。


 僕はごくり、と唾を飲み、ゆっくりと玄関に近づいた。ロックを外し、チェーンをつけたまま外を覗き込む。


「あ、あんちゃん……」

「流果!」


 そこに立っていたのは流果だった。


「どうしたんだ? ノックする時は気をつけるようにと――」

「あは……ごめん、ちょっとミスっちゃってさ」


 ミス? どういう意味だ? 何はともあれ、僕は一歩下がって流果を玄関に引き入れた。

 そして、気づいた。何やら鉄臭い。それに、流果の左腕はだらり、と肩口からぶら下がっている。全身に力が入っていないようだ。辛うじて歩を進めているようにも見える。


 だが、


「うっ!」

「おっと!」


 僕の前を通過しようとして、流果は足を絡ませた。慌てて彼女の前に回り込み、肩を押さえる。よく見れば、その顔面は真っ青だった。そんなに寒かったのか?


 それがいかに馬鹿な考えなのか、僕はすぐさま思い知らされた。

 白いジャンパーを羽織っていた流果の背中は、真っ赤に染まっていたのだ。今まさにこの時も、じわじわと赤い染みが広がっていく。


「る、流果、これって……」

「ちょ、ちょっとね、撃たれちゃった、みたい」


 流果はふっと目を閉じて、そのまま僕にもたれかかるように倒れかかってきた。

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