第3話

 人はよくパニックになると意識が飛ぶというが、僕の場合は逆だった。

 倒れ込んでいく流果の姿が、まるでスローモーションで再生されているかのように見える。


 それに合わせて、僕はそっと流果の身体を支え、うつ伏せに横たえた。苦しげな息遣いが聞こえてくる。やはり仰向けにした方がいいのか? いや、出血は背中からだし、ひっくり返せば余計に出血量を増やしてしまうかもしれない。


「何か止血できるものを……」


 幸い、すぐそばに洗濯機があった。無造作に手を突っ込み、洗浄済みの衣類やらタオルやらを引っ張り出す。だが、ジャンパーを脱がせるところまでは頭が回らず、とにかく流果の背中一面に、洗濯物を押し当てるような形になってしまった。


「流果、聞こえるか? どこか痛いところは?」


 我ながら、思いの外淡々とした口調で僕は問いかける。すると流果は、奇妙に頬を引き攣らせた。笑顔を作ろうとして、しかし激痛で失敗したように。

 だが、それでもまだ意識はあるということだ。救急車を呼ぶか? いや、こんな廃棄区画の住民まで診てくれる医療機関があるとは思えない。

 かと言って、このまま放置するわけにはいかないし……いや、下手に僕が手を加えて致命傷を負わせてしまったら……いやいや、そんな逡巡をしている場合ではないだろう……。


 ついに僕も、思考回路が途切れそうになってしまった。

 どうすれば。一体どうすれば流果を助けられる? 彼女を死なせるわけにはいかない。流果こそ、僕に残された唯一の家族なのだから。


 しかしどう足掻いても、僕にできるのは、ただひたすらに布を流果の背中に押し当て続けることだけだ。それもまた、限界が近づいている。流果の血を吸った衣類がびちゃびちゃになり、僕の掌が真っ赤になったのだ。


 これ以上の出血は許されない。誰か。誰か助けてくれ。


 僕はようやく、駄目元で救急車を呼ぼうと決心した。が、まさにその時だった。

 ガァン、と鈍い音を立てて、玄関ドアがこちら側に押し開けられた。僕は咄嗟に流果の背に覆い被さり、謎の侵入者から守ろうとする。


「全員そこを動くな!」


 威勢よく入ってきたのは、防弾ベストにヘルメット、それに拳銃で武装した男だった。全身が黒を基調とした装備に包まれている。ヘルメットにはバイザーも装着されているので、その表情を窺い知ることはできない。

 

 突然のことに、僕は言葉を発することができなかった。しかし装備からして、彼が国防軍――自衛隊の後衛組織――所属の兵士であることが察せられた。

 それ以上のことは分からない。外からの逆光が、僕の網膜をひりひりさせる。そんな僕の前で、兵士は拳銃をホルスターに戻し、襟元の小型マイクに向かって声を吹き込んだ。


「目標発見、これより身柄を拘束する」

《了解。くれぐれもこれ以上の負傷をさせるな》

「了解」


 待てよ。『これ以上の負傷』? そう聞こえた。

 つまりこの兵士やその通信相手は、流果が重傷を負っていることを知っているのか?

 ということは、流果をこんな目に遭わせたのはこの兵士だということか?


 考えをまとめている間に、僕は片腕を兵士に引っ張り上げられていた。


「立て。抵抗するな」


 だが、とてもその指示には従えない。

 こいつが流果を殺そうとした。

 まとめてしまえば、そういうことだ。


 気づいた時には、僕は肩をぐるりと回し、兵士の拘束を解いていた。僕に格闘戦の素質があったわけではなく、単に相手が油断していたのだろう。

 一瞬怯んだ様子だったが、しかし、兵士もすぐさま臨戦態勢に戻ったようだ。


「抵抗するな。これ以上同じことを言わせると、痛い目を見るぞ」


 再び掴みかかってくる兵士。だが、僕は退かなかった。


「でやあっ!」


 肩を突き出し、兵士にタックルを見舞ったのだ。とはいっても、相手はプロである。すぐさま僕は腕を捻じられ、背後を取られて、狭い玄関の壁に押し当てられてしまった。


 しかし、身体が拘束されても、心は屈しない。


「この野郎! 流果に指一本触れてみろ! ただじゃ置かないぞ!」


 ひたすら喚き散らす。しかし、多勢に無勢だったようだ。兵士は一人ではなく、もう一人いた。バディを組んで行動する、いわゆるツーマンセルというやつだ。


「がッ!」


 僕は後頭部を鷲掴みにされ、そのまま顎を壁に打ちつけられた。一瞬、平衡感覚を失う。

 その間にもう一人の兵士は、土足のままリビングまで入り込み、『クリア』と答えて親指を立てた。


 僕は最初の兵士に無理やり引っ張られ、外へと連れ出される。すると一瞬、視界が真っ白になった。目を細めてみると、この廃ビルの前に、軍用の輸送車両と救急車が並んで停車していた。


「おら!」

「うっ!」


 僕は無理やり輸送車両の荷台に放り込まれた。額をしたたかに打ちつける。

 慌てて立ち上がり、振り返って流果の名を呼ぼうとしたが、既にハッチは封鎖されていた。


「くそっ!」


 僕は荷台の前部、運転席の真後ろと思しき場所で、再び喚き出した。


「おい! 流果は大怪我をしてるんだ! お前らがやったんだろう、同じ目に遭わせてやる!」


 両手を握り込み、拳を幾度となく叩きつけたが、反応はない。耐爆発物仕様の荷台なのだから、僕がどれだけ跳ね回っても意味はあるまい。だが、それでも大人しくしてはいられなかった。


 しかし、そんな僕も呆気なく拳を下ろすことになった。凄まじい痺れと痛みが、全身を駆け巡ったのだ。悲鳴を上げる余裕すらなく、僕はふらり、と倒れ込む。

 辛うじて両手を突っ張り、顔面を強打しないようにしたことが、僕の最後の記憶となった。


         ※


 気がついた時、視界は真っ暗だった。ここはどこだ? 僕は今、どうなっている?

 曖昧な五感の中で、最初に復旧したのは聴覚だった。


「荷台がうるさいからって、全身スタンガンで気絶させるなんて、いくら何でも酷くない? ええ、そろそろ目を覚ますと思うけど。……はいはい、分かってますよ。彼女のことは内密に。はい。それじゃ」


 誰かが話している。会話の流れから察するに、この場にいない誰かと通信していたらしい。

 女性の声だった。僕よりは年上のようだが、初老というには若すぎる。三十代後半といったところか。


 次に復旧した僕の五感は、触覚と嗅覚だ。柔らかいものに寝かされている。洗剤の清潔な香りと、薬品臭さが同居している。

 次は視覚。ゆっくりと、自分で自分に命じるようにして目を開く。すると、穏やかな白色蛍光灯の灯りが軽く目に刺さった。目を細めて、顔を横に向ける。左右両方共見遣ったが、カーテンで仕切られていて、この部屋全体の様子を知ることはできない。


 僕は気を失っていたことを思い出し、その前後関係を思い出そうと試みた。――そうだ!


「流果!」


 僕は上半身を跳ね起こし、掛布団をふっ飛ばした。勢い余って、寝かされていたベッドから転げ落ちる。


「いてっ!」


 だが、そんなことを気にしてはいられない。流果は? 無事なのか? 生きているのか?


「はいはーい、落ち着いてねー、伝上一翔くん」


 真っ白なカーテンの向こうから、先ほどの女性の声がする。これだけバタバタしていては、流石に意識が戻ったことを知られてしまっても仕方がない。

 いやしかし。それがバレたからどうした。相手が年上だからって何だ。隙を見せたら人質に取ってやる。


 そんな覚悟の基、破り去るような勢いで、僕はカーテンを引き開けた。しかし、その先に広がっていた落ち着いた雰囲気に、僕の戦意は少なからず相殺されてしまった。


 小学校の教室ほどの広さの、白い部屋。隅から隅まで清掃され、塵一つ落ちていない。

 不規則に実験用テーブルが並べられ、試験管やらビーカーやら顕微鏡やらが置かれている。


「コーヒーでいいかい?」


 はっとして声の方を向くと、件の女性が背中を向けて立っていた。僕は思わず『はあ』と中途半端な声を出した。

 すると女性は、何やら調合していた試験管を無造作に掴み上げ、あろうことか口に含んでしまった。どんどん飲み込まれていく、エメラルドグリーンの液体。おいおい、大丈夫なのか。


「んー、まだ飲料水としては売り出せないなあ。君も試すかい、一翔くん? 私が開発中の新型エナジードリンクの試作品だが」


 その時になって、ようやく女性は僕に振り向いた。

 声から推測したよりも若い。三十代前半だろうか。ウェーブのかかった(しかし手がかけられているとは言えない)茶髪を肩まで伸ばし、長めの白衣と、その下にアニメのキャラクターと思しき図柄の入ったシャツを着用している。

 視線を下ろすと、シャツとは不似合いな無地のスラックスと、真っ白なシューズが目に入った。

 落ち窪んだ目は、いかにもマッド・サイエンティストといった風情を醸し出している。


 女性は、自己紹介をすっ飛ばして試験管を差し出してきた。


「あの、これ……」

「ああ、人体に害はないよ。奇抜な味かもしれないが」


 僕はゆっくりと試験管を受け取り、エメラルドの液体を口に含んでみた。直後、


「ぶふっ!」


 舌先に焼けるような酸味が走った。これで味覚が覚醒し、僕の五感はようやく復旧した。

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