第10話 わくわくキッチン
この日、我が家のキッチンは本来なら料理一つでこんなに白熱するはずのだが、恐ろしいほどに騒がしいものになっていた。
「ああ! 肉を切ったまな板で野菜切らないで!」
「うっせーな、あとで混ぜるんだから味なんて変わんないだろ」
「そうじゃなくて、ああもう使った包丁はすぐ洗えって言ったよね?!」
「ちょっと置いといただけだろ」
「人の道具使ってるんだからもっと大事にしてくれよ」
「て言うか、お前なに自然にため口使ってんだよ」
「こんな滅茶苦茶な人に敬意も糞もないからに決まってるだろ!」
「んだと!」
「ねー、なんでもいいけどまだ出来ないの? 今日晩御飯要らないって言っちゃったんだけど」
勝手なことを言っておいて、私は関係ないからと、作業に加わるでもなく先輩はリビングでスマホをいじくっている。
母もここまで酷いことになるとは思っていなかったらしく、
「お母さんいると邪魔みたいだから出掛けてくるわね~」
と、みえみえの嘘をついて一人逃げ出す始末である。
「早く食事にしたかったら先輩も手伝ってくださいよ」
「だって~、あくまで高崎さんの練習だし。それに料理なんてしたことないもん」
「向上心があるだけ俺の方がましだな」
「それはそうだけど! でももっと言うこと聞いて......」
「教え方が悪いのがいけないんだろ」
そもそも今日はカレーを作る運びだったので、あんなパッケージの裏を見れば作れる料理に、ここまで苦戦するとは思ってもおらず、さりとて教えるようなこともないのでホトホト困り果てているのである。
「手を切ってないのが奇跡みたいなもんだよ。あれか、不良は刃物に長けてるものなのか」
「んなわけあるか! お前俺を何だと思って」
「ああー! 野菜焦げてるじゃん! 油ひいた?」
「油なんて肉から出るしいいだろ」
「お前ー! だから焦げるんだよ! もう貸せ」
「な、俺の練習のために買ってきた食材なんだから手だしさせるかよ」
ああ、このままだと大事な鍋に穴が開く。もしこの調子で一人で練習しようものなら、こいつはきっと家を燃やしていただろう。
「ねーまだー? お腹すいたなー。あ、私カレー辛口は無理だからね」
「へぇ?! そんなの聞いてないですよ!」
「辛口のルー買っちゃったけど」
「えー! 酷い! 最初からそうやって二人だけで食べるつもりだったんだ! 部長はとても悲しいです」
悲しい割に口調がだいぶ軽いのは気のせいだろうか。
「そんなもんあとで卵でも落としてくださいよ。え、なに入れてるの」
「何って、ルーだよ。見てわかんねえのか」
「だって、まだ水もいれてないじゃないか!」
「いやいや、結局煮るんだから早い方が味が染みるだろ」
「だめでしょ! 料理初心者がレシピ無視しちゃ!」
「うっせーな、あんな箱捨てたわ」
不良特有の我が道を行くっていう習性なのか。なんにせよ、もう味見する前から既に胃が拒否反応を起こし始めている。
「ばか! はやく箱拾ってこい!」
「んだと!」
「いいからはやく!」
しかし、箱を持ってきたところで今からどうにかなるものでもなく、水をぶちこんで無理矢理カレーの形に整えるのが精一杯だった。
「で、出来上がったのがこれと」
「はじめてにしては上出来だと思うが、余計なちゃちゃが入ってなきゃもっと上手く出来てただろうなぁ」
「ない、それだけは絶対ない!」
「でもなんかこのカレーシャバシャバしてない? 普通もっとドロッとしてると思うんだけど」
「おい、こりゃどういうことだよ」
直前まで自分の手柄だと誇示していたのに、ケチがついた途端責任を一挙に押し付けるのは面の皮が厚いどころではない。
「いや、実はあまりの酷さに忘れてたんですけど、箱の通りに水を入れるとちょっと多いんですよ」
「なんだよさっきはレシピ通り作れって言ったくせに滅茶苦茶じゃねえか」
「そんなもん例外だってあるに決まってるだろ! 第一あれは全く話を聞かない高崎さんのせいで」
「いーからはやく食べようよ。あんまり遅くなっても嫌だし」
「ええ、じゃあ、まあ、頂きます」
言った、言ってしまった。過程を知っている以上どう考えてもイカれた味になっているのは明白である。なのにこのカレーの色から逸脱した黒い液体を、今から口に運ぼうと言うのだから、我ながら正気を失っているとしか思えない。
いや、ここは誰かが食べるのを見届けてからでも遅くはないはず。が、先程から二人とも食べ始める気配がない。それどころか、じっとこちらを見て、まるで死地に赴く兵士でも見届けるかのような目をしている。やめろ、そんな目をするな。
戦線に立っているのは僕一人だけ、二人は生け贄に捧げる気満々らしい。ならば、僕が出来ることは一つ。
いつもより重いスプーンでルーを掬うと、一気に舌の上に広げる。予想通り焦げ臭い、それになんだか具材も臭うような気がする。そのとき、喉が拒絶反応を起こして嘔気が喉を駆け上がってくる。それをなんとか押し止めてグッと喉の奥に押し込む。
「うん! 意外とイケますよこれ!」
「ほんとか?! いやーやっぱり才能があったんだなぁ」
「まじか、これが美味しいのか、どれどれ」
掛かった。どう考えても美味しいわけないのに、命を削った演技にまんまと騙された。各々カレーを口に運ぶとみるみるうちに顔色が変わっていくのが分かる。
「あ、あ! 無理!」
「ちょっ、てめえ! 騙したな!」
「うるさいわい! 恨むならそのガサツさを恨め!」
「ごめん私トイレ!」
言うや否や、跳ねるように席を立つとリビングを出ていったがすぐに戻ってきた。
「トイレどこ?!」
「出て右の扉です」
聞き終わらないうちに踵を返して部屋を出ていった。
「我ながら酷い味だけど、あんなにならなくたってな」
「いや、これは無理でしょ」
「はー、なんか自信なくなったわ」
「お、じゃあもうやめとく?」
「いやでもなー」
どうも思うところというか、引っ掛かりがあるらしく椅子を前後に振って天井を見上げている。
「別にたばこやめるだけなら料理に固執しなくてもいいんじゃないの」
「んー、実はさ。いやなんでもない」
「何でもないって、なんでもない奴がそんな風に悩まないだろ」
それでも尚、椅子を揺すり続けていたが、ピタッと動きを止めるとテーブルに片肘をついて話し始めた。
「たばこやめるために料理を趣味にするって言ったじゃんか。でも、それだけじゃないんだ」
突然顔だけを僕と反対方向に向けると、ボソッと小さく呟いた。
「もうすぐ、母さんの誕生日なんだよ」
「はあ、それで?」
「いや、そこは察しろよ!」
ものすごい勢いでこちらを向く。
「いやいやいや、無理でしょ。情報が少なすぎる」
「はぁー、だからさ、俺ってこんなんだから、まぁ母さんには色々迷惑もかけてるし、それで、誕生日くらい手料理でもして恩返しできればって」
そう言ってまた照れ隠しのためにそっぽを向いた。彼女がどれだけの迷惑をかけてきたかのか想像に難くないが、そんな思惑があるとは、考えなしにやっていた訳ではなかったのか。
「はぁ、いいよお前に言ったって何が変わるって訳じゃないし」
「いや、すごくいいと思うよ」
「そりゃどうも」
「で、お母さんの好きな料理て何なの」
「そんなの聞いてどうすんだよ」
「どうって、作るに決まってるでしょ。どう考えても今のままだと上達なんて無理だけど、一品に絞れば誕生日までには間に合うんじゃない」
「あ、そっか!」
我ながら冴えたアイデアだと心の中で拍手していると、打ちひしがれた様子の先輩が帰ってきた。
「あはは、ごめん。これは強烈だわ。ん? なんでそんな楽しそうなん」
「そりゃお前な」
「ええ、先輩明日もやるんで食事係の方よろしくお願いします」
「へ、へ? まだやるのこれ!」
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