第55話 励ます相手を間違えていると思われるかもしれません。


「……何故だ」


 ハルカさんたちに取り残され彼は一人、黒に染まり始めた教室に立ちすくんでいた。


 ハッキリといってしまえば失恋。しかもあまりに手酷くハッキリと言われてしまえばこんな風に茫然自失としてしまうでしょう。


 ですがこれだけで終わらないのが、彼の彼たる所以とでも言いましょうか。


「一体何を間違えたというんだ!」


 自分の境遇を呪うかのような言葉を呟き、陽の沈んだ後の教室の窓に視線を送るその表情は、まるでこの世で自分が一番惨めであると声高に叫んでいるようですらありました。


 まあ私の立場から言わせて貰えば、「全部ですよ」と言って差し上げたいくらい。もう少し自分を省みて欲しいものですよ。


 正直、打ち拉がれる彼を、テオさんを見ていたい訳では決してありません。さすがにそこまで趣味の悪い私ではない。


 ただ教室から去っていった二人を追う事がどうしても憚られてしまった。


もし追いかけてしまえば私も恥知らずの一匹になってしまう。

 そんな確信めいたものがあったからだ。



 その代償が、今にも泣き崩れそうなテオさんを見つめることしか出来ないというのは……さすがに言葉にならないではないですか。


 ため息でも吐きたくなる心地でぼんやりと彼を眺めている。するとまるでタイミングを見計ったかのようにテオさんの視線がこちらに向いた。


 ジロリと、どこか仄暗い炎を湛えたような瞳の色。これは完全に……『あれ』がきますね。


「なんだ」


 地の底から響いてくるような声。いつもの喧々とした調子は全く聞こえてこず、重苦しい波が私の鼓膜を叩いていきます。


「なんだその目は!」


 次に届いたのは激しい波。耳を劈くようなそれに思わず顔をしかめてしまいますが、こちらの反応など何も気にしていない様子のテオさんは乱暴にこちらに詰め寄ってきます。


 彼の膝元が後数歩で私の鼻先に触れようと言う所までテオさんは距離を詰め。足元の私を見やり更にこの一言。


「何も分からない犬如きが……」


 見下ろす視線は嘲笑に満ち満ちている。それは今に始まったことではないけれども、ここまでのものは初めてかもしれません。

 しかしそれにわざわざ反応をするほど、私は優しくないのです。確かに彼の言う通り、私はただの犬です。だから何も反論することはできません。そんなこと分かり切ったことなのにわざわざ言葉にしているという時点で今のテオさんはおかしくなっていることは間違いないでしょう。


 ですから、ここは大人然と八つ当たりを受け止めてあげようじゃありませんか。


 そんな気持ちで彼を見つめていたからでしょうか。「調子が狂う!」と舌打ちをしながらバツが悪そうにガシガシと後ろ頭を掻きながら、テオさんは教室の隅に取り残されていた椅子に腰掛けます。


 私もテオさんに倣い、彼の正面まで移動して彼に視線を送ります。

もちろん、普段ならこんなことは絶対にしてあげませんよ。今日だけの出血大サービスというやつです。


 目の前まで移動してきた私に苦笑しつつも、「今日は機嫌がいいのか」なんて憎まれ口をきいてくるあたり、少しだけはいつもの調子が戻ってきているのでしょうか。もう少しの間くらいは殊勝な態度でいてくれてもよかったんですがね……まぁさすがにそれも気持ち悪いですか。


 少しばかりこんなやりとりを繰り返した頃、すっかり暗闇が教室を占拠し、月が我が物顔で空に佇む時間になっていました。


「何故なんだろうなぁ。私が一体、何をしていたんだろう」


 なんとも情けない声を出し、テオさんがそう言った。声には現れていなかったが今にも泣き出しそうに見える。

 答えは分かっている。でもそれを伝える術がない私は彼を見つめる。きっと人の言葉を話すことが出来ればこんなことは思わないのだろうけれど、それがあまりに歯痒く感じてしまう。


 目は口ほどに物を言う。そんな諺が確かあったはずだ。少しはそれで私の考えが伝わればいいのだけど。


 最初は怪訝な表情のまま「一体なんだ」と、そんなことを口にしていたテオさんも、私が視線を外そうとしないことに何かを感じたのでしょう。深く考え込む仕草を見せる。


「―――何も、していない。そうだ。私は、自らは何も……」


 キッパリと、テオさんはそう口にした。その言葉に私は自分の身体を起こすことで反応してしまった。このリアクションの良さだけは治さないと悔やみつつ、首を縦に振って彼の言葉を肯定する。

 私の動きに得心したのか、テオさんは頭を抱えなら、


「私一人が何もせずに……ただの、大馬鹿者ではないか」


 そう自嘲していた。その自虐的な様が少し面白かったからと言うのは言い訳になるけれど、これまでずっと彼に向けていた視線を私はようやく外し気持ちを落ち着けようと虚空を眺める。


「君はそれを伝えたかったのか? 本当にありがたい存在だな。君は……」


 甘いところを見せるとこの褒め攻撃ですよ。どれだけ掌を返してくるんですか、この人は。流石の私もさすがにこれには言葉を失ってしまいますよ。


 テオさんが私をどう捉えようと、私が出来ることなんてそんなに多くはありません。私はいつも通りにすることしか出来ませんからね。


 今日はあれですよ……言っておいたじゃないですか。出血大サービスですよって。



 しかしそんなことよりも気になることを思い出してしまいました。

 私・・・・・・テオさんに気を取られて、自分のご主人様のことをすっかり忘れ去っていたじゃないですか。さすがに周囲も暗くなってしまったこの状況では、ハルカさんの会話も終わっているに違いありません。とりあえずはお部屋に戻らなくては!


 勢いをつけ四本の脚で起き上がりながら、急ぎ足で教室の扉まで向かいます。


 背後から少し残念そうな呟きが聞こえてきましたが、これ以上はもうサービスの範疇を超えてしまうので、もう振り返りはしてあげません。

 代わりと言ってはなんですが短く、本当に短く鳴き声をあげることでテオさんへのエールとでもしておきましょう。


 その意図を汲んでくれたのか。


「すまなかった。今日のことも。そしてこれまでのことも……本当に、すまなかった」


 噛み締めるような言葉。きっと後では犬の私に頭を下げる少し滑稽な様子が展開されていることでしょうが、きちんと感謝と謝罪の気持ちを伝えられるのは素晴らしいことです。

 まあ今日はそれを耳に出来ただけでも良しとしましょう。


少しの満足感を抱えながら、私は一路ご主人様の元へと急ぐことにしました。




 今になって思います。


 この時の私はどれほど能天気だったのかと。


 出来れば、ずっとエルフリーデと一緒にいてあげることが出来ればと、私は後悔することになるのです。



 少し離れた廊下の隅で、彼女は泣いていたのです。




「もう、分かんないよ……私、どうしたら良いんだろう……」



 聞いたことのないほどに弱々しい言葉で。



 ただとうとうと涙をこぼしながら。


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