確認 五

 貧民街と言うのはむろん俗称で、ログロッタ市の北門から東へ十数分歩いた区画を漠然とそう呼んでいるに過ぎない。


 中央広場からだと北東へ一時間ほど歩く距離になる。市が出来た当時は、よそからきた日雇い労働者が宿泊するための場所ではあったものの、決して変な場所ではなかった。


 むしろ市民とはうまくやっていた、と言うより日雇い労働者にきてもらうためにわざわざ市が格安の宿泊所や食堂を立てたのである。


 市が拡張している時分には、労働者はいくらいても余ることはなかった。


 しかし、市民が経済力を蓄え、安定期も中盤を過ぎると、拡張も止まった。すると日雇い労働者の需要は激減せざるを得ない。


 では区画そのものを取り壊すのかと言うとそうもいかなかった。他の街で行き詰まったり追われたりした人々が、ある者は素性をごまかし、またある者は慈悲をこい、『移住』してきたからである。


 市当局としてはむげに追い返すわけにもいかず、一年そこにすみつけば市民としての権利を認めるものの、各種の税金が払えないなら出ていってもらうという方針で当たっている。


 生まれて初めて貧民街を訪れたガロッドだが、そろそろ宵の口だと言うのに余りにも露骨な非衛生さに愕然とした。


 まずゴミである。紙くずや野菜の芯から始まって、木切れや針金、壊れた箱、欠けたビンなど何でもござれだ。ゴミ自体を集めて露天商が出せそうですらある。それらが発する異様な臭気も凄まじい。


 臭気の有無だけで貧民街を区別できそうなほどだ。良く聞くと、ゴミを踏みつける音がどこかから忍び寄ってくる。


 安酒をやり過ぎたのか、激しく嘔吐する声もまきちらされている。


 どこかでさかりのついたネコが騒がしく喚いたかと思うと、ドアを乱暴に開け閉めする音、怒鳴ったり叫んだりした後物を投げつける音、嗅覚だけでなく聴覚においても凄まじいものがあった。


 さすがのガロッドも閉口したが、引き返すつもりはなかった。唇を引き結んでゴミまみれの路上に足を置く。粘つくような湿っぽいような感触が靴底からはい上がってきそうで、全身が粟だった。


 道沿いに立ち並ぶ背の低い無個性な簡易宿泊所を見ながら安酒場を探すと、さほど苦労せずにバラック風の建物が見つかった。


 全体に傾いていて、ガロッドと同じ位のサイズのつっかい棒を立てている。黒くて獣臭い煙を放つランタンにあぶられるように、『淡いアンゼリカ』などと場違いなソラマメ型の看板が吊るされている。


 ドアに手を伸ばした矢先、向こうから猛烈な勢いで開き、ノブが壁にめりこみそうになった。


 ガロッドの足元に一人の男がうずくまり、丸まったかと思ったら背をのけぞらせて世にも恐ろしい悲鳴を上げた。


 脇腹からとめどなく血が流れ、それを抑えている手もどす黒く染まっている。


「大丈夫ですか?」


 ガロッドは屈んで傷の具合を見ようとしたが、男は血のあぶくを吹いてけいれんし、それっきり動かなくなった。


 薄暗い店内からは酔漢どもの騒ぎしか聞こえず、たった今絶命したばかりの男についていささかの動揺も関心もない。


 足音が聞こえたので立ち上がると、でっぷり太って薄笑いを口元に浮かべた男が棍棒を弄びながらこちらへ近づいてきた。見た限りでは四十に達してそうだが、実際にはわからない。


「兄さん、そいつはあんたの身内かい?」

「いいえ、違います」


 事実を述べたのだが、男は乱杭歯をむきだしにして笑い飛ばした。


「そんなお上品な物腰じゃ、この酒場にゃ来ない方がいいな。いや、きてもらった方がいいかな? 最近は男の奴隷が足りなくなってるっていうしなぁ」


 男はそう言って、棍棒を自分の肩にたてかけた。


「この人はどうしたんですか?」

「どうしたも何も、賭けに負けちまったのさ。三度の飯より酒が好きって奴だったが、ツケが溜まったんで店主とサイコロをやったのよ」


 賭けなら貴族達も好んでする。たまに乱闘になったりもする。


「勝てばチャラだが負ければ腎臓と胃をもらうことになってんだ。運のねぇ奴だぜ」


 そんな結末は聞いたことがなかった。なめられないよう無表情を保った。


「死体を片付けるのも俺の役目だが、あんた、店にくるのかこねぇのか?」


 ガロッドの返事を待たず、棍棒を持った男は死体を片手で持ち上げた。そのまま軒先から離れ、姿が消える。ほどなくして重いものを水に投げ込んだ音がした。


「なんだ、まだ決めてねぇのか。どっちでもいいが、あんまりうろちょろするなよ」


 戻ってくるなり忠告とも脅迫ともつかぬ言葉を遺し、男は店に入った。


 そもそもガロッドはビール一杯飲んだ経験がない。深呼吸したかったが、極度に濁った空気なのでそれもかなわず、歯を食いしばって戸口をくぐった。


 外から眺めた印象に反して、意外に広かった。パイプや噛み煙草、汗、安物の香水などから滲み出た臭いが渦を巻き、天井からぶら下がっている頼りなげなランタンに吸い寄せられていくようだ。


 丸い木のテーブルが全部で五つと、カウンターに席が八つ。そのほとんどが埋まっている。


 先ほどの、棍棒を持った男はカウンターの隅で店全体を観察していた。奥には厨房もあるらしく、炒め物をしている音が聞こえる。


 ウェイターが一人いて、注文を取ったり料理や酒を運んだりしているが、忙しすぎてかガロッドには目も留めない。

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