第六章 勇者と姫

     1

 おおさわたかゆきひろらい、ついに熱愛発覚!


 黒板の真ん中に、まるで新聞の号外といった作りのB4ペラ紙が張り付けられており、その大見出しの文言だ。


 朝、登校した来夢が教室に入ってくると、黒板前に人だかり。

 なんだかニヤニヤとした顔でこららを見てきたり、露骨なからかいの言葉を投げてくる者がいて、なんだよこいつらと思いながらその人だかりの中に入ってみてみたところ、このような物が張られていたのである。


 パソコンと安物のプリンターで作ったと思われる手作り新聞は、「なる日報」と紙名ロゴである題字まで本格的に作り込まれており、段落の作り方といい本文書体が若干の平体がかった明朝体であるなど、本物の新聞に酷似した凝った出来になっている。


 その本格的な号外記事の真ん中には、日の暮れかかる校庭で来夢と隆之とが至近距離で見つめ合っている写真が大きく使われている。

 写真の画像は非常に粗い。携帯電話のカメラ機能などで、遠目から撮影したものを、引き伸ばしているのだろう。


 記事の内容は、もう見出しの通りだ。

 幼なじみである大沢隆之と広瀬来夢が、いつの間にか相思相愛の仲に発展。交際を開始したというもの。


「誰、こんなデタラメなの書いたのは!」


 来夢は怒鳴り声を上げ、張られていた紙をもぎ取った。

 紙を留めていた磁石が、ばらばらと床に飛び散った。


 使われている写真は、母親の病気のことで悩んでいる隆之に、来夢が慰めの言葉をかけていた時のものだ。


 こちらは人の生命に対して真面目に話をしていたというのに、それを勝手に熱愛だなどと茶化されて、来夢は本気で頭に来ていた。


「誰だろ、ほんと酷いことするよねー」


 人だかりに加わらずに、大人しく自席で本を読んでいたほしあけが、不意に立ち上がった。

 さも同情する口ぶりではあったが、その口元には楽しそうな笑みが浮かんでいた。


 その表情に、来夢はすぐにピンときた。

 というよりも、来夢にそう思わせるように、彼女は演技をしているのだろう。


 犯人は彼女だ、ということを。

 来夢がどんな反応をするかを見るために。


 どうして彼女がそのような真似をするのか、おおよその見当はついている。

 星野明美は大沢隆之に告白をしたが、断られている。

 おそらく、星野明美はこう考えたのだろう。既に隆之に相手がいるから自分は振られた。つまりは、来夢が隆之とこっそり付き合っているから振られたのではないか。

 でも、その確証はない。

 だからそ、その確証を得るためにこのようなことをしてきたのだろう。


 単に様子を探るためなのか、絶対に渡さないという宣戦布告のため、もしくは近寄るなという警告のため、それともまた別の理由があるのか、さすがにそこまでは分からないが。


 やたらと精巧な作りの新聞は、素人の女子の技とは思えず、おそらくは仲のいい男子にでも作らせたものだろう。


 これまでの人生で恋愛経験のまったくない来夢としては、そのような理由で誰かと戦おうとする気持ちがまったく理解出来ない。

 理解は出来ないし、そもそも彼女が犯人かどうかも分からないけど、でもおそらくそうなのだろう。


 そうなのかどうか、来夢にはもう追求するつもりなどなかったが。

 黒板に張られているものを見た時は、本気で怒ったけれど、おそらく星野明美が犯人なのだろうと思ったら、どうでもよくなっていた。

 少なくとも、怒りの感情はもう既にどこかへ飛んでしまっていた。


 ただ、なんともいえない別の種類のもやもやが生じて脳裏を巡り始めていた。

 その感覚がなんなのか、自分でもよく分からなかった。それが果たして不快なものなのかどうかすらも。


 星野明美は、自席で立ち上がって来夢の顔をじっと見つめたままである。明らかに反応を期待しているような表情であったが、しかし彼女は、残念ながら広瀬来夢からなにも引き出すことは出来なかった。

 いま述べた通り来夢にとって星野明美はもうどうでもよかったし、後ろのドアから大沢隆之が入って来てみんなの注目がそっちに集まったためである。


「結婚すんのかお前ら」

「もう、やっちゃったのかあ?」

「大沢さん、どうぞ感想を一言! 出来ればシモの方向で」


 男子らの視線、興味の矛先が、一斉に隆之へと向いていた。

 同性で下品な話も出来るし、からかいやすいのであろう。


「なんの、話だよ?」


 隆之は、当然ではあるがなにがなんだかさっぱり分からずといった表情で、ちょうど視線が合った来夢に話しかけた。


「別に。なんでもないよ」


 来夢はそういうと、先ほど剥がして後ろ手に持っていたデタラメ新聞を、くしゃくしゃに丸めてしまった。


     2

 らいは転倒し、土の地面に激しく顔から突っ込んだ。


 とくやままなぶの持つボールを奪い取ろうとしたところ、軽く振り切られ、屈辱からの焦りが出て、後ろから腕を絡ませて突破を阻止しようとしたところ、フィジカルでもまるで歯が立たず重戦車にそのまま引きずられて、なんとか踏んばろうとしたところ足をもつれさせて転んでしまったのだ。


 笛は吹かれなかった。

 吹かれたとしても、無茶なプレーをした来夢のファールだろう。


 来夢はすぐに起き上がり、ボールを持つ徳山学の背中を追った。

 試合開始後からほんの数十分の間に、手足は擦り傷だらけになっていた。いまの転倒によって、新たに頬にも。そして心にも。


 今日はたかしゆんに誘われて、久々に男子サッカー部に混じって練習をしていた。紅白戦のメンバーが足りないから、ということで。


 下手くそなうちの男子相手ならば、活躍することで自信を得て、自分がいま陥っているスランプ状態を克服出来るのではないか。そう思って、参加した。

 しかしそれは結局のところ、ますます来夢をイラつかせ、落ち込ませるだけであった。


 自分が、自分を見失って下手になっているだけではない。

 男子たちが、上手になっているのだ。

 技術最低、センス最悪、取り柄はただ男の肉体を持っていることのみ。と、これまで散々にバカにしていたなるこうサッカー部の部員たちが。


 考えてみれば彼らだって、サッカーが好きでサッカー部に入り、日々練習をしているのだ。成長しないはずがない。

 男であることだし、自分などよりも遥かに過酷な筋トレもしているのだろう。

 以前、唯一かなわない能力であったフィジカルであるが、さらに屈強なものになっており、それに加えて様々な個人技の進歩に、来夢は彼らの前に手も足も出なかった。


「お前いらん」


 終了間際、同点ゴールのチャンスで、来夢があっさりと倒され奪われ、カウンターから失点し、突き放された。その時に来夢のそばで呟いた高木俊太の一言である。


 なんだよ、前はあんなにライム様ライム様いってたくせに。


 来夢は不満げな、悔しそうな、ほんのちょっとだけ申し訳なさそうな恥ずかしそうな、そんな顔で、立ち上がった。


「こっちこそいらん」

「意味分からん」


 分からんでもいいわ。来夢は腿やお尻についた土を両手で払った。

 マネージャーのほんゆうが、試合終了の笛を鳴らした。

 来夢の入っていた主力組が、二点差で負けた。


 これで今日の部活練習は終了、みんな引き上げ始めた。


 所詮ミニゲームであったとはいえ、部室への道のりは、やはり来夢にとって肩身の広いものではなかった。

 ゲストとはいえ、参加している以上は自分は部員。来夢は自分のふがいなさに、すっかりしょげかえっていた。


 ないこうが慰めてくれたが、それが逆にかんにさわった。ちょっと前までどうしようもないヘボだった分際でなにを偉そうに、と。

 でも悪いのは活躍出来ないどころか足を引っ張りまくってしまった自分なので、その言葉はぐっと喉の奥に飲み込んだ。


 先に部室で制服に着替えさせてもらい、外でマネージャーの本間祐子と話しながらみんなの出てくるのを待っていると、背後から自転車のベルが鳴った。

 振り向くと、そこにいるのはおおさわたかゆきであった。


「時間ある?」


 怒っているような、悲しんでいるような、辛そうな、歯痒そうな、なにを考えているのかよく分からない、そんな隆之の表情であった。

 最近分かったことがある。隆之がこういう顔をしている時は、間違いなく切実真剣ななにかを抱えているということを。

 だから、というわけではないが、来夢は、小さく頷いていた。


「お、おい、広瀬の彼氏だぞ!」


 着替えて部室から出てきたとくやままなぶが、慌てたように中にいる部員たちを手招きした。


「乗れよ」


 隆之は気にせず、来夢を促した。

 来夢が後ろの荷台に跨がるのを確認すると、すぐさまペダルを踏み込んだ。


「え、え、ほんとかよ」

「どれ」

「お、やっぱり大沢じゃんか」


 部室の中から、まるでゾンビ映画のようにわらわらと部員たちが飛び出してきた。

 上半身裸どころか、中にはパンツ一丁の者もいる。

 マネージャーの制止も聞かず、ひゅーひゅーとからかいの声を発しながら、部員ほぼ全員で自転車を追い掛け始めた。


「ほんっとバカだ、あいつら」


 以前と相も変わらぬ点を見つけて、ようやくほっとした来夢であった。


 そうだよな。

 男子と競っても仕方ないんだから。

 身体能力に差があるのは当然。男子はみんなバカってことで、差し引きゼロだ。

 女子は女子のカテゴリで頑張ればいい。それだけだ。


 ちょっとだけ感謝の念を込めて、後ろを振り向いたのだが、裸で下品な言葉を投げ掛けながら楽しそうに追ってくる獣たちを見て、再び感情は急転直下墜落爆発。


「ほんと鬱陶しいな、あいつら! ねえ、もっとスピード上げてよ!」


 来夢はそういうと、隆之の腰に回していた腕に、ぎゅっと力を込めた。

 ひょろひょろとした見た目の隆之であるが、本格的にバスケットボールをやっているだけあって、お腹の肉はがっちりと引き締まっている。


「おう!」


 隆之は、半分腰を浮かせると、ペダルを踏む足に力を込めた。

 来夢はさらにぎゅうっと力を入れて身体を密着させると、顔を横に向けて頬を隆之の背中に押し当てた。


     3

「転校?」


 はっきりとそう聞こえていたはずなのに、それでもらいはそう聞き返していた。


 広がる田園。

 真っ赤な夕日が、西に見える森の向こうに沈みかけており、その陽光が自転車に乗る二人の長い影を作り出していた。


「ああ」


 たかゆきは頷いた。

 後ろの荷台に来夢を乗せて、ゆっくりゆっくりとペダルを漕いでいる。


 そのまま、どちらも無言になった。

 遠くから、潮のにおいとともに風に乗って、工場のサイレン音が聞こえてきた。


「どこ?」


 と、来夢が次の言葉を発するまで、三、四分はかかっただろうか。


「東京」

「東京?」


 はっきり聞き取れているというのに、また、来夢は聞き返していた。


「東京」


 隆之は同じ抑揚で、再度答えた。


「そうなんだ」

「ああ」


 また隆之は口を閉ざした。ゆっくりと自転車を漕ぎ続けた。


 来夢は、さして意味もなく、ふうと息を吐いていた。

 顔を横に向け、沈みかけている夕日に目をやった。


 そっか。

 聖地国立のある、あの東京か。

 なんか悔しいな。

 こいつのほうが先に、そこへ行っちゃうなんて。


 あえてそうふざけて軽く考えることで、自分の中にある照れなのか寂しさなのか、自分でも分からない感情を払いのけようとした。

 荷台に座ったまま、なんとなく足をぶるんぶるんと振った。


「やっぱりおばさんのことで、だよね?」

「そう」


 隆之は、語り始めた。

 母、さきの治療にチャレンジしてもいいという、そういう病院が見つかったのだ。

 東京都品川区にある大学病院だ。

 大沢咲子はそこに入院し、様々な治療を受けることになる。

 入院期間は不明。

 放射線治療で様子を見たり、場合により臓器提供も視野に入れる必要もあり、おそらくは長い勝負になるだろう、という医師の話だ。


 どうせこのままでも、治るはずのない病気であったのだ。

 隆之の父親は、その医師の話に泣いてすがり、即断で自らも東京へ行くことを決定。

 早速職場の上司に、首都圏での勤務を志願したらしい。

 たまたまポストは一つ空いており、話はとんとん拍子に運びそうとのことである。


「おれも、母ちゃんとは毎日会ってあげたいし、どのみちここで一人暮らしするような経済的な余裕はうちにはないわけで。……だからきっと、家も土地も売って、少しでも治療の足しにすんじゃないかな。うち、貧乏だからな。東京では、母ちゃんは入院で、実質おれと父ちゃん二人だけだから、やっすいボロアパートでも借りて暮らすことになるんだろうな」


 東京でどんな暮らしになるのか想像出来ているのかは分からないが、とにかく色々とふっ切れたような、そんなさばさばとした隆之の口調であった。

 でも来夢には、その中に幾ばくかの寂しさが混じっているように感じられた。それは単に、来夢自身の気持ちが鏡のように跳ね返ってきただけなのかも知れないが。


「そうなんだ……」

「うん。お前にとっても他人じゃないからな、おれの母ちゃんは。だから、しっかり伝えとかなきゃと思って。……まあ、そんなわけだから。みやも、ひがしまつしまも、生まれ育ったあの家とも、もう少しでお別れだ」


 隆之は口を閉ざし、自転車を漕ぎ続けた。

 やがて、ぎい、ぎい、というペダルを踏む音に混じって、ずっ、ずっ、となにかすすり上げるような音に、背後を振り返った。


「あれ、おい、ひょっとして泣いてる?」

「泣いてないよ! 勝手に決め付けないでよ! ……ずるいよ、せっかくおばさんを診てくれるとこ見付かって、それってすっごく嬉しいことのはずなのに、それなのに、なんだかそんな、もうお別れとか、淋しくなるようないいかたをするんだもん!」

「はあ、なんだ、やっぱり泣いてたのか」


 隆之は笑った。


「泣いてない!」


 来夢は、隆之の背中に顔をこすりつけた。


「お前、人の背中で涙を拭くな!」

「涙じゃない。目から出た鼻水じゃ。それと鼻から本物」

「もっとタチが悪いじゃねえか!」

「泣かすほうが悪いんだよ。あのさ……これから、家に行ってもいい?」


 もうじきお別れなどと聞いたら、途端に、目に焼き付けたくなったのだ。

 幼い頃より隆之と一緒に過ごしたあの場所を。


「別にいいけど、その東京の病院に検査入院中で二人ともいないぞ」

「いいよ。それでも」

「分かった」


 こうして話をすることが目的であったため、のろのろと自転車を漕いでいた隆之であったが、そうと決まるとぐっとペダルを踏み込んで速度を上げた。


     4

 家には、それから数分で到着した。

 既に日は暮れ、空には星が出ていたが、家には誰もおらず当然窓からの明かりはない。


 家の横に自転車をとめ、二人が降りると、一体いつからこの辺に潜んでいたのか、白い野良犬が近寄ってきた。

 よく餌を貰いにくる中型犬だ。


「今日はなんもあげるもんないぞ。あっちいけ」


 たかゆきはそういうと、手を振って追い払った。


「あれ、いっつもご飯あげてんじゃないの?」

「たまにしかあげてねえよ。お前んとこだろ、いつもあげてんのは」

「うちだって、たまにだよ。……これから、食べさせてくれる家が一軒減っちゃうね」


 来夢はしみじみと呟きながら、しゃがみ、犬の頭をなでた。


「仕方ねえなあ、ちょっと待ってろ」

 隆之はなんだか冷たい奴扱いされたような気がしたか、不服げに唇を尖らせると、家の中に入り、食べ物を寄せ集めて適当に白米に混ぜ込んだものを持って戻ってきた。

 皿を地面に置くと、犬はすぐさま食べ始めた。


「この子、名前あるのかな」


 がっついている犬の姿を眺めながら、来夢はそんな疑問をふと口に出した。


「首輪もつけてねえし、最初っから野良犬だろ。じゃあ名前なんてないよ。ノラでいいよノラで」

「じゃあ白いからシロノラで。って変な名前だあ」


 来夢は自分で命名しておきながら、程度の低いセンスに思わず笑い声を上げた。

 シロノラは食事を終えると、愛想を振り撒くこともなく、尻尾を振ることもなく、とっとと闇の中に姿を消してしまった。


 別の家にたかりにいくのだろうか。

 それと本当は飼い犬で、住み処に帰るのだろうか。

 実はもの凄い金持ちに飼われている犬だったり。


 そんな下らない話をしながら、来夢と隆之は家の中に入った。

 二階にある隆之の部屋に二人で入ったが、隆之は明かりと暖房だけ入れると、なにか飲むものを取りに一階に下りていった。


 来夢は、ベッドに腰を下ろして男の部屋にただ一人。

 壁にはバスケットボール選手のポスター。

 有名選手のものらしいサイン入りのユニフォームが、鋲で張り付けられている。

 どの程度の有り難さの選手だか分からないけど、サッカーならメッシのようなものだろうか。


 いやいや、そんな神様のサインなど簡単に貰えるはずもないか。

 うちにはズンダマーレみやのFWまつしまゆうのサイン入りユニフォームがあるけど、そのくらいのレベルだろう。多分。


 床に目を落とすと、ダンベルなどのトレーニング道具が無造作に置かれている。

 バスケットボールも二つほど、転がっている。一つはいつから使っているのか、もうボロボロだ。


 こうした色々な物に紛れて、エッチな本があったりしないだろうかとちょっとドキドキしてしまったが、どこにも見当たらず、ちょっとほっとした。まあ、ないはずはなく、きっとどこかに上手く隠してあるのだろう。


 机の上を見れば、バスケットボールの雑誌もあるものの、そのほとんどが教科書、参考書の類。

 医学の本もある。

 きっと母親の病気について、自分なりに学んでいるのだろう。


 ここは二人の共同空間、といってもいいくらいにいつも一緒に遊んでいた部屋であるが、現在はもう完全に大沢隆之だけの空間であった。


 時間や気持ちを常に共有していた頃の痕跡を探して、来夢はきょろきょろと部屋の中を見回した。

 そして思い出したように、ガラス窓を開けた。


 見つけた。

 サッシと、一階屋根の上とに、削ったような傷があるのを。


 ふと、自分の右手を見た。

 右手の人差し指と中指の腹、それと手のひらに、うっすらと、線が入っている。

 それは子供の頃の、傷跡であった。


「なにしてんだ? 窓開けちゃ暖房きかねえだろ」


 隆之が入ってきた。


「あ、ごめん。なんでもない」


 来夢は窓を閉めると、またベッドに腰を下ろした。

 隆之は、コーヒーカップの乗ったトレイを机の上に置くと、来夢の隣に座った。隣といっても三十センチは離れているが。


 今日、この家には、他には誰もいない。

 隆之の父母は、現在東京にいるからである。

 治療をしてくれるという病院で、とりあえず検査入院をしている。

 父親は、明日、戻ってくる予定だ。


「だいぶ、希望が出てきたね」


 二人はまた、さきの治療についての話を始めていた。

 これまでは、死を先伸ばしにしているだけと思っていたから、来夢としても、とりあえず無難な言葉をかけておくくらいしか出来なかった。

 だから、こうした状況の変化によって、咲子のことを笑顔で語ることが出来るようになって、来夢は本心から嬉しかった。


「そうだな。その先生の話では、治療についても、どんどん技術が進んでいるらしいって。だから生きていればいるだけ、治るチャンスが広がっていくだろう、って」

「チャンスもなにも、絶対に治るよ。絶対。……でも、長くかかるんだよね……東京に転校するとなると、もう会えなくなるかも知れないんだね」


 咲子から隆之の話にスライドしていること、来夢はまったく自覚していなかった。


「それはまあ、そうだな。遠いからな」

「それじゃあ、そっちの大学に行くんだ」

「進学するかどうかはまだ決めてない。なるべくすぐに働きたいとも思っているし」

「大学は絶対に行ったほうがいいって。あたしよりずっと頭いいんだから、勿体ない」

「考えとくよ。奨学金制度だなんだって、色々あるだろうし。でもまあ、まだ一年以上も先のことだからな」

「そうだけどさ」


 その後しばらく、他愛のない会話が続いた。

 大半が、幼少の頃から現在までの、共通の思い出話だった。


 隆之が、来夢をいじめっこグループから守るために、公園でこっそり決闘をして、ボコボコにやられてしまったこと。


 学芸会の芝居で、隆之が台詞をろくに覚えずに無茶苦茶にしてしまい、台詞をしっかりいえていた来夢まで、何故か共同責任で怒られて反省文を書かされたこと。


 二人で、宇宙人とコンタクトしようと、夜中にずっと手を繋いで星空を見上げていて、揃って風邪を引いて、それぞれの親にこっぴどく怒られたこと。


 二人して肥溜めに腰まで落ち込んでしまい、咲子に叱られ、冬の外だというのに二人とも丸裸にされて、全身を皮が擦り剥けるくらいいつまでも洗われたこと。


 色々なことがあった。

 そして現在いるこの部屋は、その思い出の中心地。なにをするにしても、まず前進基地として集まった場所だからだ。


 でも、あと数週間で隆之はここからいなくなってしまう。

 二度とこの部屋で、新たな思い出の生まれることはない。


 そんなことを考えていたためであろうか。来夢は無意識に、そっと手を伸ばしていた。途中で自分自身のその仕草に気が付いたが、構わなかった。

 隆之の、腕に触れた。

 その腕が、反射的にぴくりと動いた。

 来夢は構わず、つーっと自分の指を隆之の腕に這わせていった。


 腰を少し浮かせて、隆之に密着するように座り直した。

 二の腕、そして肩、そして隆之の首に手を這わせ、そして腕を回した。


 隆之は、来夢の柔らかな腕に頭を包まれたまま、なにがなんだか分からないといった風にただ真っ直ぐ部屋の壁を凝視しているばかりだった。


 来夢は腕を離すと、そっと、顔を近付けていった。

 隆之の息遣いが、聞こえた。

 驚いて、どきどきしているのか、少し呼吸が荒くなったように思えた。


 そんなカチコチの横顔に、来夢は思わず微笑を浮かべていた。

 なおも顔を近付けていくと、やがて隆之が、首をこちらに向けた。

 目と目が合ったその瞬間、そっと、二人の唇が、触れ合った。


 隆之も腕を伸ばして、来夢の背中に回した。

 その小さな身体を、がっしりとした腕で抱きしめた。


「意外と、柔らかいんだな。スポーツ、やってるから、ガチガチかと思った」


 隆之は、切れ切れに、ぼそりと呟いた。


「バカ」


 来夢は笑った。

 そしてもう一度、唇を合わせた。


 顔を離し、しばし二人は見つめ合った。

 その余韻も醒めやらぬうち、


「そうだ!」


 そう大声を上げるなり、隆之の身体を押し倒していた。


「お、おい! なにを!」

「いいから!」


 来夢は、隆之のワイシャツの裾をズボンの中から引き出して、そのまま引っ張り上げてしまった。


 お腹が丸見えになった。

 勇者の証が、そこにあった。

 それは単なる、脇腹の傷の跡だ。

 肉がねじれひきつれたように、こんもりと盛り上がっている。


 先ほど来夢が見ていた屋根やサッシに残った傷。

 あれは小三の頃、遊んでいて屋根から転がり落ちそうになった来夢を、隆之が助けた時のものであった。

 トタン屋根の出っ張り部分を咄嗟に掴もうとした来夢の指にも傷は残ってしまったが、それは自業自得だ。


 落ちそうになっている来夢に気が付いた隆之は、すぐに窓から飛び出し、来夢を庇うように抱きかかえ、急斜面になっている屋根を転がり、落下した。


 隆之は、ドラム缶の上に置かれていたガラクタの金属板に脇腹を直撃し、意識を失い、病院に救急搬送された。


 一緒に落ちた来夢はなんともなかった。隆之の身体がクッションになったからだ。

 落ちまいと屋根の出っ張りを懸命に掴んでいたため、手は切れ、血が出ていたが、隆之の身にふりかかったことに比べれば、なんということはなかった。


 「ごめんなさい。ターくん、ごめんなさい」

 病院で、意識を回復し、治療を受けて包帯だらけになった隆之に、来夢は泣いて謝った。


 隆之は、来夢へと敬礼の仕草を取り、

 「勇者は無事、姫様を守り抜きました」

 傷の痛みもあるだろうに、そうにっこりと笑ってみせたのだ。


 もう六、七年も前のことだというのに、はっきりと映像が浮かぶ。

 その隆之の勇敢さ、そして純真さに、いまさらながら来夢は微笑を浮かべていた。


「なにがおかしいんだよ。気持ち悪いな」

「なんでもない」


 来夢はそういうと、倒されたまま横たわっている隆之の上に、そっと自分の身体を重ねた。

 二人は見つめ合った。

 来夢は、隆之の顔へ、ゆっくりと自分の顔を近付けた。

 再び、唇を重ねた。


 どれくらい、そうしていたのだろうか。

 分からない。

 分からないけれども、それが、溶けるような濃密な時間であったということに、間違いはなかった。


 もうじき別れの時が来る。そうした思いが、なおさら現在の気持ちを強く、重いものにしているのかも知れなかった。


 隆之はゆっくりと身体を起こした。

 来夢の肩を軽く掴むと、入れ代わった。


 今度は来夢がベッドに寝そべった。

 隆之は手を伸ばし、来夢の膝に触れた。そのまま手を滑らせて、腿の外側をなで上げた。


「んっ」


 来夢は思わず声を漏らしていた。

 そんな声を出してしまった恥ずかしさからか、瞬時にして顔が赤くなっていた。


 拒絶のないことに、隆之はさらに冒険して、手を這わせていく。


 来夢は寝そべり膝を立てたままで、姿勢を整えようと身体を動かした。


 一瞬スカートの中が見えてしまったようで、隆之は思わず唾を飲み込んでいた。

 今度は先ほどと反対に、隆之のほうから来夢へと覆いかぶさった。

 身体を密着させ、そして唇を合わせた。

 唇を離し、ほんの数センチというお互いの熱を感じる距離で、二人は見つめ合った。


「あたし、初めてだから」


 来夢は熱い吐息のような、かすかな声を漏らした。喉が渇いて、かすれた声になってしまったが。


 恥ずかしさにまた、顔を赤らめた。

 漫画やなにやらでよく使われるこの台詞、まさか自分がいうことになるとは思ってもみなかったからだ。


「あ、ああ、ええと、誰、誰でも、最初は初めてだから。って、なにをいっているんだ、おれは」


 ほんとに、なにをいっているんだ、こいつは。と、来夢はくすりと笑った。

 おれも初めてだから、とかなんとかいってくれるのかなと思ったら、なんだその気のきかない台詞は。

 まあ、そもそも初めてなんかじゃないのかも知れないけれど。

 そんなこと知らない。

 どうでもよかった。

 いま、自分のことだけを真っ直ぐ見ていてくれるのであれば。


「ん」


 また、来夢は苦しそうな表情で、声を漏らしていた。

 隆之が制服の上から、胸を触ったのだ。


 片方の手でその弾力を確かめながら、もう片方の手を、腿を這わせてスカートの中へ入れた。

 その手が、下着に触れた。来夢は抵抗するようにぎゅっと足を閉じていたが、不意に、力を緩めて軽く足を開いていた。無意識に求めてしまったことに、驚きながら。恥ずかしがりながら。


 隆之の指が、布地の上から、来夢の中心の部分にそっと触れた。

 ごくり、と唾を飲むと、我慢出来ないようで下着の隙間からするりと指を滑り込ませていた。


 いきなりかよ、と来夢は思ったが、抵抗はしなかった。


 隆之の指が、来夢の複雑な部分を撫でるようにいじりはじめた。

 目をぎゅっと閉じながら、びくりびくりと全身を痙攣させていた来夢であったが、いきなり苦しそうな声を上げた。


「電気ぃ、消してよぉ」


 そういうと、あまりの恥ずかしさに枕を両手で掴んで、自分の顔全体を隠してしまった。

「あ、ああ、ごめん」


 隆之は手を伸ばしてシーリングライトのリモコンを取り、スイッチを押した。ピッ、ピッ、と音がなって、室内は常夜灯による薄暗いオレンジ色になった。


 隆之は、改めて幼なじみの少女の身体に覆いかぶさった。

 そのまま、二人は、どちらからともなくお互いの手を取り合い、握り合った。


 どのくらい、そうしていただろうか。

 やがて隆之は、少し身を起こすと、両手でゆっくりと来夢のスカートをまくり上げて、下着を脱がそうとした。

 来夢は抵抗するどころか、反対に少し腰を浮かせて緩く足を開いたため、隆之はするり簡単に脱がせることが出来た。


「凄く、緊張してる」


 枕でまだ口元を隠しながら、来夢は天井を見上げ、囁くようにいった。


「おれも」


 隆之は素直に白状しつつも、そのドキドキを気付かれまいとしているかのように冷静そうな素振りを見せて、また、来夢の唇を求めた。


 二人は着ているものすべてを脱ぎ捨てて、常夜灯の淡い光の下ではあるものの幼少の頃以来十数年振りに、自身のすべてをさらし合った。

 毛布にくるまり、絡み合うように抱きしめ合い、お互いの体温や吐息を肌に心地よく感じながら、来夢と隆之は結ばれた。


 二〇一〇年十二月二日。

 今日は二人にとって、生涯忘れえぬ日となった。


     5

 二〇一〇年十二月五日

 全日本女子サッカー選手権大会 第一回戦

 会場 安芸運動公園第二競技場(広島県広島市)

 瀬野川女子大学附属高等学校(中国地区代表) 対 神原学園(チャレンジリーグEAST)

 天候 晴れ


 ふくは全身のバネを使って横っ飛びし、手を伸ばしたが、わずかに届かなかった。

 グローブの指先をボールはかすめ、ゴールネットが揺れた。


 後半十七分、開始からこれまでずっと膠着していたスコアがついに動いた。


 がわ女子の選手たちは、思い切りのよい見事なミドルシュートを決めたエースのおしを中心に抱き合い、歓喜に沸いた。


 瀬野川女子大学附属高等学校、中国地区で女子サッカーの強いことで知られている大学の、附属高校だ。

 最近は、大学と同様に実力をつけてきており、本大会も、中国地区での予選をほとんど失点することなく勝ち上がってきている。


 地元のサッカー少女たちの間では、非常に知名度の高い高校とのことである。

 爆発力こそないが、硬い守備を自慢にしている。

 相手が焦れて攻撃への意識を高めたその隙を巧みに突いて得点し、その一点を守り切るか、あわよくば加点を狙う、というのが基本スタイルのチームであり、かんばらがくえんもその術中にはまりつつあった。失点シーンも、まさにその焦りに攻守のバランスが乱れたところを突かれたものであったからだ。


 失点から二分後、後半十九分、ここで神原学園は、この試合二枚目の選手交代のカードを切った。

 だがそれは、戦術的な交代というわけではなかった。

 右SBサイドバツクいわえみが、足が攣って走れなくなってしまったのだ。

 そのポジションを得意とする選手がベンチにいない状況であったが、だからといって走れない選手を使い続けるわけにもいかない。


 交代で入ることになったのは、みながわすみであった。

 皆川自身は慣れた右SH《サイドハーフ》の位置に入り、開始からずっとそこにいたひろらいの位置を下げて岩間の代わりに右SBとした。


 SBサイドバツクとは、4バックの両端、つまりディフェンダーである。

 ディフェンスのポジションを務めることなど、来夢の十数年のサッカー人生の中で初めてのことであった。

 だが、覚悟は出来ていた。

 先日、監督にいわれていたからだ。

 右SBを初めとしてどの守備的ポジションもこなせるよねしげが、インフルエンザにかかってこの遠征に帯同出来ず。そのため、もしも岩間になにかがあれば、来夢がそのポジションを務めるように、と。


 昨日、広島に到着した後に、少しだけそのための練習もしたのだが、守備的ポジションは前目と違って約束事ばかりで、なんだかよく分からず、監督やコーチから怒られてばかりだった。


 でも、不慣れなポジションであろうとも、任されたからにはやるしかない。

 強豪だか中国地区代表だか知らないが、チャレンジリーグにすら属していない、いわば下位カテゴリーのチームが相手。日本の二部リーグに所属する者として、負けるわけにはいかない。


 下位リーグを舐めるつもりは毛頭ないが(勝てば今度は自分たちが下位リーグとして上位リーグのチームと当たることでもあるし)、とにかく来夢は、そのようにして自分の気持ちを高めた。


 即席SBなど、付け焼き刃的なところが通用するか否かは分からないが、とにかく相手が一点を守り切ろうというのであれば、どんどん攻めてやるだけだ。


 SBというのは、ディフェンダーでありながら攻撃においても重要なポジションなのだから。

 いまは試合中であり、昨日の練習のように監督からあれこれ細かくいわれることもないだろうし、とにかく自分がSHをやっている時にSBに求めているような、そういうプレーをすればいいのだろう。

 やってやるぞ。


「絶対に、逆転するよ!」


 来夢は、ピッチに入ってきた皆川へと近寄ると、思い切りその背中を叩いた。


「分かってる。気合い入ってんな、来夢」


 ピッチの中で皆川純江とこんなやりとりをしていることに、来夢はちょっとした違和感を覚えていた。

 そう、公式戦で二人が同じピッチに立ったのは、これが初めてであったのだ。いつもは右SHをどちらがやるかであったから。


 プレーは続いている。

 瀬野川女子の右サイド14番は、高い位置を取っていた神原学園左SBかまもものチェイスをなんとか振り切ると、GKゴールキーパーからの指示を受けて大きくサイドチェンジをした。


 左サイドで、8番が受けた。

 神原学園ボランチのむかいが対応するが、するりとかわされてしまった。


 8番がそのままドリブルに入ろうかというところ、皆川がスライディングでボールを奪っていた。8番はとと、とよろめいたが、しかし笛はない。皆川の足が完全にボールに行っていたためだ。

 すぐさま起き上がる皆川であるが、しかし二人の相手に囲まれて、身動き取れなくなってしまう。


「純江さん!」


 来夢が、後方から全力で駆け上がっていた。


 だが皆川に密着する一人が、来夢との間に入るように立ち位置を調整して、パスを出させない。

 皆川は、相手に肩を当て、そしてその逆をついて右から突破を図る、と見せて左へとパスを出していた。


 来夢へと渡った。

 ボールが足元に入ってしまい、バランスを失いかけたが、持ち直し、駆け抜ける。


 ドリブルをする来夢の前から、瀬野川女子の大柄なDFデイフエンダーが地響きを立てて迫ってくる。


 一か八かだ!


 と、来夢は速度を殺さず、そのまま中央へと切り込んだ。

 すれ違い、抜けた。


 自分を呼ぶ、誰かの声が聞こえた。

 ゴールへ向かうたけあいどうおり、二人のFWの姿が見えた。


 佐竹が、来夢のほうを見ながらゴールを指差して走っている。


 来夢はその指差す先を目掛けて、ふわりとしたボールを放り込んだ。


 佐竹が相手DFを引き付けて潰されると同時に、ファーへと走り込んだ工藤が、そのボールに頭を叩き付けていた。


 瀬野川女子のGKは、まったく反応が出来なかった。

 ゴールネットが揺れた。


 後半二十四分、神原学園は同点に追い付いた。


 神原学園の選手たち、スタッフたちが一斉に、手を振り上げ、雄叫びのような大声を上げた。


 瀬野川女子の選手たちはうなだれ、地面を叩き、みなそれぞれ全身に悔しさを滲ませていた。


「香織ちゃーん、ナーイスシュッ!」


 佐竹愛は、ゴールを決めた工藤香織に手を差し延べられ、起き上がると、彼女とハイタッチ。パン、と大きな音が響いた。


「決めてくれてありがとうございます!」


 来夢は、笑顔で二人に駆け寄り、二人に抱き着いた。


 佐竹は、来夢の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回しながら、


「来夢のおかげ。完全復活やん。つうかしっかりSBこなしてて、それ以上だよ。なんかあったん?」


 佐竹のその言葉になにを思ったか、来夢の顔はいきなり真っ赤になってしまった。


「いえ、別になにも」


 と、笑ってごまかしながら、ぐしゃぐしゃにされた髪の毛を直した。


「お、顔赤くなったぞ。あーっ、そうだ、彼氏が出来たんやろ? この前いっとった、あのオオサワラ君だかなんだか、幼なじみの子やろ」

「違います!」


 来夢は声を裏返して、全力で否定していた。


 本当は、違くは、ないのだけれど……

 しかしなんという勘の良さか。

 さすがは神様。


 恥ずかしさ限界でもうこれ以上その話はしたくないので、来夢は現在試合中であるのをこれ幸いと、「逆転するぞ、おー!」などと叫びながら、佐竹のそばから走って逃げ出した。


 さて、工藤香織のゴールによって同点に追い付いた神原学園であるが、その後の戦い方として監督が出した指示は、「PKでもいい!」という実に短いものであった。

 そして、その魔法の言葉により、試合は完全な神原学園ペースになったのである。


 ペースを握った理由であるが、まず普通に考えて、追い付いた側が精神的に優位に立てるのは道理である。

 ただし瀬野川女子の選手たちは、相手の焦りを巧みに突いて得点する能力に非常に長けている。

 地区予選では失点した試合がほとんどないが、二試合だけ、先制したものの同点に追い付かれたことがあり、いずれとも、追い付かれた直後に引き離している。

 瀬野川女子の予選での総得点数の少なさを考えると、いざという時の爆発力があるということではなく、むしろ追い上げムードに油断をしてしまっている相手の側こそが問題なのであろう。

 ならば、延長戦やPK戦を覚悟で、じっくりと行け。後から聞かされたことであるが、監督の指示は言葉こそ短いがそのような意味が込められていたのである。


 そして選手たちは、それを実践した。

 予選の時とは勝手異なる相手の反応に、瀬野川女子は半ば自滅。一方的な神原学園ペースとなったのである。


 中でも躍動感に溢れているのが、右サイド、皆川純江と広瀬来夢の二人であった。

 しっかり守ることを基本に置きながらも、折あるごとにワンツーオーバーラップ、パスと見せて単身突破、と、どんどんチャレンジし、攻め上がっていく。


 二人のコンビネーションは、まだ成熟の欠片もない粗いものであるが、非常に可能性を感じさせるのは、ひとえにその躍動感によるものであろうか。

 その、躍動感に溢れているように思えるもう一つの理由は、二人のその表情にあった。

 笑顔。

 サッカーを楽しんでいる。


 そう、ついに二人同時に同じピッチに立ってプレーしているということを、お互いに楽しんでいたのだ。


 その躍動感は、相手の畏縮を生んだ。

 7番、ボランチの選手が簡単なハイボール処理を誤りトラップミス。

 そのボールを、すかさず皆川が奪っていた。


 また来夢が果敢なオーバーラップを見せ、ボールを貰い、ライン際を駆け上がって相手陣地を切り裂いた。しかし疲労にタッチミスが出て、そこを相手のボランチとCBセンターバツクと寄せられ、コーナーに追いやられ、閉じ込められてしまった。


 窮屈な中に押し込められながら、どう突破するか、それとも相手に当ててCKを取るか、と来夢が考えていたところ、誰か駆け寄ってくる足音。


「来夢!」


 皆川のその声に反応した来夢は、相手の一瞬の隙を突いて、二人の間から、ボールを通した。

 そして、相手二人の間を掻き分けるように抜け出した。

 抜け出したその瞬間、皆川からのリターンがきた。

 走りながらそれを受けた来夢は、細かくドリブルをしながらペナルティエリアに侵入した。

 DFのスライディングタックルをかわし、なおもドリブルを続ける来夢は、身体を軽く捻り、利き足と逆の左足でシュートを打っていた。


 シュートタイミングを予測出来なかったGKは、慌て、手をばたつかせながら後ろに倒れた。その脇をかすめるようにして、ボールはゴールネットに突き刺さっていた。


 後半三十六分、神原学園は来夢のゴールにより試合をひっくり返した。


 オフサイド、ないよね?

 ……ないよね?


 自信なさげにきょろきょろしていた来夢であったが、ゴールが認められたことが分かると、その嬉しさに、思わず両手を天へ突き上げた。


「来夢、やった! 凄い! 逆転だ!」


 皆川が両手を広げながら走り寄ってきた。


「純江ちゃんがフォローしてくれたからっ!」


 二人は強く抱き合った。だが二人だけの世界もつかの間、高校生こどもコンビはすぐさま佐竹愛たち大人に囲まれて、押し倒されてもみくちゃにされてしまったのであった。


 主審に促され、すぐに試合再開。

 完全にプランの崩れた瀬野川女子は、その後、なりふり構わない攻撃に出てきた。


 神原学園は自陣深くに押し込められることになり、瀬野川女子のボール回しの時間が続いた。

 だが実は、神原学園はあえて引き、半ば相手に回させていたのである。


 それよりも、予想外であったのは、焦れる瀬野川女子のプレーが残り時間が少なくなるとともに荒さを増し、激しい接触プレーが増えてきたということであろうか。


 残り時間三分を切ったというところで、来夢がアフターでスライディングタックルを受けて、右足首を痛めてしまった。

 もう交代枠は使い切っているが、かといって選手の身を危険にさらすわけにもいかない。と、監督は来夢に退場を促した。


「まだ、やれます!」


 そう強くいい切ったため、監督は渋々とプレーを継続させることにした。

 ただし、皆川純江とポジションを交換させた。来夢が前目のポジションであるSH、皆川が右SBである。


 来夢は足首の痛みに耐えながらも、DFになるべく負担がいかないようにと前線からの守備に最後まで走り切り、そしてタイムアップの笛の音を聞いた。


 どんどんどんどんどん!


 たった一人で応援遠征に来ているはやしさんの、激しく掻き鳴らす太鼓の音が響き渡った。


     6

 静まり返った教室の中、やまざき先生による黒板に書きなぐるような乱暴なチョークの音だけが響いている。


「ここでこの数式を当てはめるとだな……」


 という先生の声を聞きながら、ひろらいは黒板を見ては下を向いてノートにカリカリ。一見、真面目に授業を受けているように見えるが、そういう素振りをしているだけで、まるで集中など出来てはいなかった。


 集中の乱れる原因がなんであるのかは分かっている。

 まず根本原因としては、すぐ隣の席に座っているおおさわたかゆきにある。

 そこから派生し、さらに幾つかの要因が存在している。


 一つには、隆之の部屋で初を捧げ合った日から、もう既に一週間が経過しているというのに、来夢は隆之といるというだけでいまだに記憶を細部まで思い出してドキドキしてしまうということ。

 抱き合った肌の温もりや、

 熱い吐息、

 口が裂けようとも決して決して他人にいえるはずもないが、ベッドの上での様々や、

 十数年ぶりに一緒にお風呂に入ったり、

 そこでもまた激しくお互いを求め合ってしまったこと、

 そういうことをついに経験してしまったという幼稚な優越感や満足感、

 を、抱いていることに対しての自己嫌悪、

 二学期終了と同時に、隆之は遠くへ引っ越してしまう。だから、本当はそれどころではないというのに、それなのにいつまでもそんなガキのようなことばかりを考えてしまっていることへの罪悪感。

 それと、隆之に恋心を抱いているほしあけに対しての、罪悪感。

 罪悪感を抱いているにもかかわらず、彼女に秘め事を抱いている優越感。と、その優越感に対する自己嫌悪。


 と、実に様々な感情や思いがないまぜになって、来夢から落ち着きを奪っていたのであった。


 体育の授業や、神原学園でサッカーをやっている時など、身体を動かしてさえいれば、そういうことから離れられるのだが、このしんとした教室では、まず頭から追い払うのは無理であった。


 考えて仕方のないことは考えなければ良いだけなのだが、それが出来れば最初から苦労はしていない。

 ドキドキするなと思っても、ドキドキしてしまうのだから、どうしようもない。

 隆之とまた抱き合いたい、という思いが頭から離れないのだから、どうしようもない。


 抱き合いたい、といっても、そういう意味ではなく、あの温もりを決して忘れないように、そして自分の温もりを決して忘れて欲しくない、というだけのことで、

 まあ、そういう意味も、なくは、ないのだが。

 むしろそちらの比重のほうが、高いのかも……


 でも仮にそうだからって、女の自分から誘うなんて、とても恥ずかしくて出来るものではなかった。

 あの夜は、自分から誘ってしまったようなものだが、あれはきっと頭が疲れてどうかしていたのだ。


 と、こんなことばっかり考えているから、全然勉強が手につかない。

 母親の病気により、もうすぐ遠くへ引っ越しをするという心身ともに忙しい相手に対し、そんなことばかりを考えている自分が、ますます嫌になっていく。


 そっちが素直にまた求めてくれていれば、こっちもこんな恥ずかしい気持ちにならなくて済んだのに。ほんとに意気地無しなんだから。と、来夢は心の中で隆之を責めた。


 そんな思いを視線に乗せて、ちらりと、横目で隆之の横顔を見た。


 それはどう考えても、冷静に授業に集中している生徒の姿であった。

 隆之が内心どう思っているかなどは分からないが、ちらりと見た分には雑念などまったく感じられなかった。


 中途半端な時期での転校になるから、向こうとうきようで授業についていかれないことがないように、真剣に勉強をしているのであろうか。

 こっちはこんな精神状態なのに、そんなしっかりと勉強に集中出来ているなんて、ということはもう、わたしのことなど、なんとも思っていないのだろうか。

 もう、わたしのことを知ってしまったら、どうでもいいのだろうか。

 確かに、わたしなんかと違って可愛いくてスタイルのいい子なんか、世の中にいくらでもいるだろうし。東京に行けばもっと沢山いるだろうし。訛ってないだろうし。


 と、ことあるごとにそんな思考に陥ってしまうのは、自分の自信のなさから?


 あの夜の、翌日から、一緒に通学する仲にはなったけれど、話すのはなんだかどうでもいいことばかりで、お互いをどう思っているかとか、全然そういう話にならないから、だから、隆之が自分をどう思っているのかなんて分からないし。

 全部が全部、自分の空回りだとしたら、こんな恥ずかしい話はないわけで。


 来夢は、そんな弱気な表情で、おずおずと隆之の顔を覗き込んだ。

 そして、はっと息を飲んだ。

 隆之も、来夢の顔を見ていたのである。

 そして彼は、表情筋を柔らかく緩め、微笑んだのである。


 その笑みを受けた来夢の顔が、ぱあっと花開くように明るくなっていた。


 ほんとわたし子供だ!

 でも、子供でいい。

 こんなんで、そんな幸せになれるのなら、一生子供でいい!


 来夢もにこりと微笑み返した。


「広瀬! お前、さっきからそわそわして、聞く気ないのか!」


 山崎先生が怒鳴り声を上げた。


「やる気がないんなら授業なんざ受けんでいいから校……」

「はい、裸足で校庭を走ってきます! 何十周でも!」


 と、来夢は抜けるような甲高い大声で叫ぶと、その場で上履きと靴下を脱ぎ捨て、勢いよく教室を飛び出していった。


     7

 むかいひろらいは、ボールを挟んで向かい合った。

 後方からのロングボールに追いついた来夢が、足先でトラップをしたところ、小向がプレッシャーをかけてきたのだ。


 よねしげもこちらへ走り寄ってきていることを横目で素早く確認すると、来夢は迷わず瞬時に仕掛けていた。小向の左を抜くと見せて、股抜きでかわしたのだ。


 小向の右を抜けて自分の転がしたボールに追い付いた来夢は、背後から追いすがる小向を振り切って、そのままドリブルで中央へと切り込んだ。遠目からシュート、と見せ掛けて、たけあいを狙ったスルーパスを出した。


 オフサイドぎりぎりのタイミングで上手く抜け出した佐竹は、相手側GKゴールキーパーであるがたにいなとの一対一を制し、落ち着いてゴール隅にボールを流し込んだ。


「愛さん、ナイスゴール!」


 来夢は駆け寄りながら、両手を高く持ち上げた。


「来夢のパスがよかったんだよ。いやほんと、前からいってるけど調子上がってきたよなあ」


 二人はハイタッチ。

 来夢は下ろす手で、佐竹の大きな鼻をぎゅっとつまんだ。


「いて、余計なことすんな、バカ!」


 ここはかんばらがくえん女子高等学校の跡地。

 サッカークラブ神原学園の、練習場である。


 ぜんじよ、全日本女子サッカー選手権大会に備えて紅白戦で汗をかき、攻守の連係を確認、高め合っているところだ。


 ここでやますずコーチの吹く笛の音が鳴った。

 三十分一本勝負が終了し、4-1で来夢のいる主力組が勝利した。


 十一対十一で試合を行なうには、全員揃ってもぎりぎりなのであるが、今日は仕事などでまだ来ていない選手もいる。そのためスタッフや監督も代役として参加しての試合にはなったが、それでも、全女に向けてそれなりに引き締まった、意義のある練習になったのではないだろうか。


 なによりも、主力組が連係に手応えを掴み、自信を高めながらも、攻守それぞれにはっきりとした課題が出たのはよかった。

 ここを修正出来れば、神原学園はもっと強くなれる。

 監督、スタッフ、キャプテン、選手たち、みなそのような共通の充実感に、満足げな表情であった。


 そうした上向き心理状態の、きっかけとなったのは、先日行なわれた全女一回戦での来夢の上げた決勝点だ。

 高校生相手に先制を許してしまうという厳しい内容ではあったが、来夢の諦めない頑張り、献身的な働き、同点弾のアシスト、そして逆転弾、それによって最高のムードで試合を終えることが出来たのである。


 次の相手は優勝候補のこうSCだが、選手たちの表情は、やってやるという気持ちで満ち溢れていた。


「来夢、ナイスアシストだったね!」


 サブ組のみながわすみがビブスを脱ぎながら近寄ってきた。

 ついいままで敵として激しくぶつかり合っていたが、試合が終ればノーサイドだ。彼女は、来夢の復調を心から喜んでいる表情で、手を差し出した。


「おう、ありがと純江ちゃん!」


 いつ頃からだろうか。来夢の皆川の呼び方が、純江ちゃんになったのは。

 なんだか出会った最初から、そう呼んでいたような気さえする。それだけそう呼ぶのが当たり前になっていた。


 二人はがっちりと握手をかわした。

 皆川はくるり踵を返して、来夢と肩を並べて歩きながら、そっとその腕を取って、肘に自分の腕を通した。


「ほんっと仲ええなあ、あんたら」


 そうなるきっかけを作ったキューピッド佐竹愛も、その行き過ぎには苦笑しか出てこないようであった。


「大好き同士ですから」


 皆川は、お互い汗くさいのも構わずに組んだ腕を引き寄せ、より来夢に密着した。


「いや……そこまでの、ものでは」


 来夢は首を傾けながら、真剣に考え、ぼそり呟いた。


「えええーーっ!」


 皆川はわざとらしいくらいの驚き顔を作って、来夢の顔を、息の熱をはっきり感じるくらい間近に覗き込んだ。

 そして、そのままじーーっと見つめ続けた。


「……はい、仲良し同士です」


 来夢は折れた。

 まあ、仲がよいことに違いはないから、いいか。


「そうだよねーっ」


 皆川はにっこり笑顔になって、またぐっと腕を組んできた。

 なんか、仲が悪かった頃のほうが、気持ちが楽な気がしてきた。と、来夢は心の中でため息をついた。


「らーいむ」


 という背後からの声に、振り返った。

 キャプテンのこんどうなおであった。近付くと、来夢の頭をなでた。


「凄くよかったなあ。身体もきれてて。ほんと、どうしちゃった? この前の試合のちょっと前くらいからかなあ、これまでの不調が信じられないくらい調子よくなって。全体もよく見えていたみたいだし。このままいけば、いつか代表呼ばれるかもよ」


 全女一回戦の終盤で足を軽く痛めてしまったため、今日の紅白戦は終盤にほんの少し出場しただけ。だから、そこまで褒められるような結果などは出せてはいないと思うのだが。


 と、心の中で謙遜する来夢であったが、しかしベタ褒めされるくすぐったさに思わずにやけてしまい、ごまかすように別に痒くもない頬を掻いた。


「彼氏でも出来たんじゃないのぉ?」


 おおが、皆川と反対方向から肩を寄せてきて、腰を屈ませながら来夢の顔を見上げた。

 その予期せぬ言葉に、びくりと肩を震わせた来夢は、照れたように少し俯きがちになった。


「えーーーっ!」


 皆川の、不満げな叫び声。


「お、やっぱり? やっぱり美紀っぺもそう思う? こらぁ来夢、白状せんかあ。彼氏だろ?」


 佐竹愛は、来夢の柔らかな頬を人差し指でずんずんとつついた。


「……まあ、そんなような、もんです」


 来夢は消え入りそうな声で、そう答えていた。彼女らの異様なまでの嗅覚に、もう隠し通せない気がして。


「おー! 否定しない!」


 近くで聞いていたてるいくが、なんとも楽しそうな大声を上げた。

 佐竹と大和田の質問に聞き耳を立てていた周囲の選手たちも、ほとんど間髪入れずに照井と同じような反応を見せていた。


「ね、どんな子? 男の子? それとも女? もしかして愛さんに相談してた幼なじみの男の子? テシガワラ君だかなんだか」


 みんながひゅーひゅーと声を上げる中、詳細を聞き出そうと執拗に照井がからむ。


「え、ええと……」


 来夢が返答に困っていると、


「そんなのやだーーーーっ!」


 皆川が、大きな大きな叫び声を上げて、もともとがっちり組んでいた来夢の腕を、さらにぎゅうっと力を入れて引き寄せた。来夢は自分のものだ、といわんばかりに。


「やだといわれても、もう……」


 来夢は慌てて口元を押さえた。

 いかん、余計なこといってしまった。


「もう、なに? え、なんなの? もうなんなの? もうどうしたの? 来夢! もうどうしたの?」


 やっぱり、そこに食い付かれてしまった。


「え、あ、えっと、だから」


 来夢は鼻の頭を掻くと、突然皆川の腕を振り払い、踵を返し、走って逃げ出した。


「えーーー、ちょっとおお、来夢がなんか怪しいいい。絶対に吐かせてやるぞ。待てコラ!」


 みんなの笑っている中を、皆川も来夢の背中を追い掛けて走り出した。


「逮捕!」


 まるでブラジル代表といった実に俊敏な動きで、あっという間に来夢を召し捕り、襟を掴んでいた。

 そのままヘッドロックに入り、吐け吐けといいながら頭を締め付けた。


「痛い、純江ちゃん痛い! 髪こすれて痛い! ほんとに痛い! 本気になってるよ! やめろ純江!」

「あたしはいつでも本気だよ。痛いの嫌なら白状しな」

「頭来た、くそ、絞め返してやる」


 髪の毛こすれてすっかり涙目の来夢は、身体を捻って強引に皆川の腕を振りほどくと、復讐の牙を剥いて襲い掛かった。

 皆川も負けじと手を伸ばし、がっぷり四つに組み合った。

 などと、二人がじゃれ合っていると、


「遅れてごっめーん!」


 柵の向こう側から、ふくの声が聞こえてきた。

 道路に青い乗用車が停まっており、助手席の窓から手を振っている。


 福士は自動車から降りると、そそくさ小走りで、小さな通用門を潜って校庭へと入って来た。

 どうしても外せない家の用事が出来てしまい、練習を遅刻することになったのだが、その用事の帰りに家族に送り届けて貰ったのである。


「ママ、頑張ってね!」


 自動車後部席の窓から、小さな男の子が元気な声を出し、手を振った。

 福士の長男くん、確か四歳という話だ。


「おうっ!」


 福士はバッとジャンプして振り返ると、高く上げた両手を肩から大きく振って応えた。


「うわあ……息子さんいるの聞いてたけど、初めて見たあ、あたし」


 皆川は、来夢の両手をぎゅっと掴んで組み合ったまま、顔はよそ向きすっかりその子の愛らしさに引き込まれていた。


「ねえ来夢、見たあ? サヨリさんはふってぶてしい顔なのに、それなのに息子さんは可愛いなあ。遠くてはっきりとは見えなかったけど、旦那さん似なのかなあ。しかしかっわいな~、ふってぶてしいサヨリさんとまったく違う~」


 そんな皆川のだらけた顔に、来夢は意外な気持ちだった。


 純江ちゃん、子供好きなんだな、と。そういや先日のスクールも、随分と張り切っていたものな。 

 まあ、確かに可愛いよな。サヨリさんの子で、しかも男の子なのに。

 小さな子供は、みんなかわいいんだな。

 わたしもいつか結婚して、あんな子供が出来るのかなあ。


 などと考えていると、ふと視界が暗くなっているのに気付いた。

 皆川が、顔を覗き込んでいたのである。


「なんですか?」

「来夢、すっごいニヤけてたよ」

「ニヤけてないよ」

「ニヤけてたって!」


 皆川は、来夢に勢いよく肩をぶつけた。


「なにすんだ、よ!」


 と、来夢もぶつけ返した。


「そうだ、そんなことどうでもいいんだよ。それより、さっきのこと、白状しなさい」

「だから、なんでもないって」


 来夢は、皆川の手をするりとかい潜って走り出した。


「だったらなんで逃げんのよ!」

「追ってくるからっ」

「そっちが逃げ出したのが先でしょ!」

「ニワトリか卵かは永遠の謎」

「わけ分からんことを、とにかく待て、来夢!」


 と、また来夢を追い掛け始める皆川であった。


「はああ、なんかもう、すっかりいいコンビになっちまったなあ、あの二人は」


 通用門から、今度はヘルメットを脇にかかえたライダースーツの女性が入ってきた。

 はたけやまだ。


 柵のすぐ脇に、バイクが停められている。

 彼女は、昼は市内専門のバイク便のアルバイトをしているのだ。

 サッカー優先の契約なので基本的に残業はなく、従って遅刻もないはずなのだが、今日は非常に欠勤者が多く、手当て弾むし直帰でよいからと所長に頼まれて断れず、残業を引き受けて遅れることになってしまったとのことだ。

 手当てはともかくとして、その職場が神原学園の協賛会社なので、なるべく無下にもしたくないらしい。いつか会社が儲かって胸スポンサーにならないとも限らないし、と。


「それで、今日はどうしたの? あの二人。なに追いかけっ子してんの?」


 畠山は、トレードマークである刈り込んだような短い髪の毛を、特に意味もなく両手で触りながら、佐竹愛の横に立った。


「いやあ、それがどうも来夢に彼氏が出来たらしくてね。この前から怪しいとは思っとったけん、ようやく白状した」


 佐竹はそういうと、大きな鼻をなでた。


「おおー。それはめでたい。ああそうか、そりゃあ純江としては放っておけないってわけか」

「来夢にべったりだもんね。しかし純江も変わったよね、随分と」

「そうだね。前々からちょっと変なところのある子だったけど、来夢が加入したら、うわやっぱりな、ってなっちゃって。でも、過ぎてみればそれが逆によかったんだよな。来夢が来てくれたことがさ。やり合って、とことんまでいっちゃったことで、仲良くなれて、純江自身ももの凄く大人に成長したっていうか……って、おい、どっちか死ぬぞ、いい加減にしとけ! やっぱり全然大人じゃないよ、お前らは!」


 吐け、嫌だ、と首を絞め合う二人の、その冗談とも本気ともつかない姿に、思わず畠山は叫び、苦笑した。


「二人とも、本当に世話の焼ける子供だ」

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