第五章 雲を突き抜けて

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 二〇一〇年九月十九日 日曜日

 チャレンジリーグEAST最終節

 熱海エスターテレディース 対 神原学園

 会場 熱海市かもめ公園陸上競技場


 ひろらいたちかんばらがくえんの選手は、リーグ最終節を戦うため、静岡県最東部である熱海あたみ市へ遠征に来ていた。


 いつもの来夢ならば、「温泉だあ!」などと道中おおはしゃぎしてまた監督の雷を浴びていたかも知れないが、今回はやけに大人しかった。大人しいというよりも、はっきりと、どんよりと、沈んでいた。


 最近すっかりと意気投合し、仲の良くなった広瀬来夢とみながわすみであるが、ふさぎ込んで下を向いている来夢を皆川が冗談をいって明るくなだめ励ますなど、以前の二人からはとても考えられないようなやりとりも起きており、とんこつの奇跡はなおも進化継続中であった。


 来夢の優れない気分とは反対に、今日はすっきりとした快晴。

 スタンドの向こうに目を向ければ、周囲全方一面の青だ。


 JR熱海駅からバスで二十分の、低い山の頂上を開拓した敷地に市民公園があり、ここはその中に作られた競技場だ。

 バックスタンドを最上段まで上れば、眼下に山の木々、熱海市街、遠く箱根の山や、広がる海など美しい景観を見渡せる。


 事前にそう聞いていた皆川は、スタジアムに到着するなり来夢をその最上段へと引っ張って連れて行ったのであるが、あまり感動してもらえずつまらなさそうであった。


 ピッチ上では既にウォーミングアップ、選手入場、選手同士の握手が済んでおり、いまは写真撮影を行っているところである。それが終ればいよいよキックオフだ。


 熱海エスターテレディースのゴール裏には三十人ほどの男性サポーターたちが太鼓の音頭に両手を頭の上で叩き、選手に声援を送っている。


 アウェー、つまり神原学園側のゴール裏には、たった一人しかいない。

 その一人が、太鼓を叩いてガラガラ声を張り上げている。少ない故に目立つのか、少ない故に自然と声が力強くなるのか、熱海に負けていないほどの存在感であった。


 余談ではあるが、彼ははやしさんという三十代半ばの男性で、応援団のサブリーダーだ。一番大きな声が出るということから、応援仲間からのカンパを受けて、いつも一人で遠征に来るらしい。


 写真撮影を終えた神原学園の選手たちは、円陣を組むために自陣中央へと集まっていく。その中には来夢の姿もあるが、彼女は一人なんとも元気なさそうにとぼとぼと歩いていた。


「来夢、頑張れよ!」


 ベンチからの皆川純江の声援に、来夢ははっとしたように顔を上げ、そして首をぶるぶると振った。

 振り返り、皆川に小さくガッツポーズ、ニッとわざとらしい作り笑いを浮かべると、また歩き出した。


 そうだよな。

 ぼけっとしている場合じゃないよな。


 来夢は気を引き締めた。


 今日はリーグ最終節。しっかりと仕事して、チームも自分も、有終の美を飾らないと。

 そうだ。こんな、超ド田舎アウェーの地で、負けてたまるか。

 まあ相手にしても、神原学園に遠征に来た時に同じことを思っただろうけど。

 しおがまとの比較ならどっこいどっこいかも知れないけど、自分の家などと比べれば、こっちのほうがよほど都会のような気もしてきた……

 遠くへ出る際にしても、うちからだと、まずは一時間に一本しかない電車に乗って二時間かけて仙台まで行き、すべてはそこから。でもこの熱海からならば、電車は待っても三十分だし、在来線の普通電車一本で、二時間も掛からずに東京まで行ってしまうのだから。

 聖地国立のある、あの東京へ。

 ちょっとうらやましい……


「おい! 来夢、どこ行く?」


 はたけやまに呼び止められた。

 声をかけてもらえなかったら、このままゴール裏まで行って壁に顔をぶつけてしまっていたかも知れない。


「すみません」


 謝ると、またぶるぶると頭を振った。

 もやもやとした気持ちを振り払おうとするあまり、どうでもいいことを一生懸命考えすぎてしまった。

 別に田舎レベルなど競っても仕方がないのに。


 今日ここへ来たのは勝敗を競うため。いや、絶対に勝ち点三を掴み取るためだ。

 前々節に、ようやくどうにかチャレンジリーグ残留を決めた神原学園であるが、今日のこの試合に勝利すれば、今日の対戦相手を抜いて確実に一つ順位が上がる。他会場の結果次第で二つ上がる。

 来年に繋げるためにも、今日は内容も結果も求められる、求めなくてはいけない試合になる。来夢個人としても、チームとしても。


「熱海はうちよりほんの少し勝ち点が多い程度の相手。実力は似たようなもの。こっちはもう降格のプレッシャーもなくなったし、みくびらずに、でも自信を持って集中して粘り強く戦えば絶対に勝てる。気合い入れていくよ!」


 神原学園の円陣の中、キャプテンのこんどうなおは叫んだ。

 続いて他の選手たちも叫び声を上げ、円陣は解かれた。


 選手たちは走り、ピッチ上に散らばった。


 アウェー戦であるため、FPフイールドプレイヤーたちは白のセカンドユニフォーム。GKゴールキーパーふくは、青色だ。


 迎え撃つ熱海エスターテレディースは、ファーストユニフォーム。熱海をイメージしたらしいオレンジのシャツに緑のパンツ。胸にはスポンサーである「熱海こずゑ旅館」の文字が入っている。


 なお神原学園のユニフォームには、胸スポンサーはない。

 背中や腕などに、小さく企業名があるばかりだ。

 クラブ創設時には既になでしこリーグバブルが弾けていたし、始まりが高校のサッカー部であることや所属しているのが二部リーグであることなどから、なかなかに獲得が難しいのである。


 なお今日の対戦相手、その名前から既にお察しの方もいるかも知れないが、レディースの名が付くということは、その名の付かない男子トップチームが存在している。


 男子は、やまぎし製作所サッカー部を母体とする古くから存在するクラブである。

 近年になり、将来のJリーグ参入を目指して熱海エスターテと改称。しかし成績は芳しくなく、JFLと地域リーグとの間を行ったり来たりしている状態だ。


 本格的にJリーグ参入を目指そうということで、全体的な強化に本腰を入れ、去年、下部組織としてユースとレディースが発足された。

 レディースチームは、もともとひがし熱海あたみひめリゾートサッカー部として別に存在していたものを移管させ、存続を請け負った格好だ。


 新しく生まれ変わったそのレディースチームは、2009年度の東海女子社会人サッカーリーグを二位以下を大きく引き離しての圧倒的な強さで優勝。

 チャレンジリーグ参入決定戦を無敗で突破。続く入替戦ではアウェーで大敗しながらもホームで劇的な圧勝、二試合の合計スコアで相手を一点上回り、今期より日本女子サッカー二部というこのカテゴリーに参入を果たしたのである。


 さすがに格上であるこの舞台では、思うように勝ち星を得ることは出来ていない。

 しかし、ポゼッション、カウンターを織り交ぜた戦術、バラエティに富んだ前線選手らによるバリエーション豊かで迫力を持った攻撃は、このカテゴリーにおいても相手に脅威を与えるには充分であり、事実、無得点試合がたった二試合しかない。


 その分というべきか守備に難があるからこそ優勝争いにも残留争いにも関係のない中位を維持したままリーグ最終節を迎えることになったわけだが、とにかくその攻撃力はその守備の難を補って余りある。


 特に注意すべき選手が、チャレンジリーグ参入の立役者の一人であるはまむしひさである。と、キャプテン近藤直子は、昨日のミーティングでそう念を押した。


 子供のように痩せて小柄な体格ではあるが、身体能力は非常に高い。幼少の頃からずっとフットサルをやっており、相手を抜き去るトリッキーなプレーとゴール前での得点感覚は、フットサルとサッカーどちらの日本代表に選ばれてもおかしくないと高い評価を受けている選手だ。


 それほどの選手がいながら熱海が中位にいるのは、先ほど述べた守備の難、それと選手たちがまだチャレンジリーグ初年度のため戦い方に慣れていないということ、そして、どの相手も浜虫久樹が脅威であることを知って、しっかりとそこを潰すように対策をしているからだ。


 浜虫久樹。

 背番号、11番。


 来夢は先ほど、ピッチへの入場後に彼女と握手をかわした。

 背は来夢と同じくらい。色黒で、ガリガリの貧弱そうな体格で、まるで色気のないボサボサ髪で、なんだか小学生の男の子みたいだ。

 色黒というところを抜かせば外見的特徴が自分と似ており、なんだか親近感が沸いた。


 歳は十八、九ということらしい。

 自分と、さして変わらない年齢、さして変わらない身長の選手が、このような舞台で活躍しているということに、来夢は、やれるんだという希望を持ったが、しかし同時に、どうしようもない空虚感に襲われてもいた。

 何故そのような気持ちになるのか自分でも分からなかったが、客観的に考えておそらくは、そのような凄い選手が、高い評価を受けながらも実際のところ代表と無縁であることが原因だろう。

 そんな選手も結局のところ二部所属ということから、なでしこリーグやなでしこジャパンの格の高さに、現在の自分の立場や能力を悲観してしまったのかも知れない。


 そのような思考をしてしまうこと自体、ただ現在の精神状態が不安定という、それだけのことかも知れないが。


 一人の注目選手の存在を、あれこれと考え込んでしまったが、とにかくいまは叩き潰すべき対戦相手だ。余計なことは考えないようにしよう。

 ポジションからして必然的にマッチアップが多くなるのは右SBのいわえみと、そして、自分なのだから。


 来夢は、気を引き締めた。

 既にピッチ上には、両チーム二十二人の選手たちは散らばっており、主審の笛の音が響くのを待つばかり。


 これまで神原学園の出場選手について、しっかり名を連ねたことがなかったので、ここで紹介しておこう。


 FW たけあい

 FW どうおり

 MF おお

 MF ひろらい

 MF はたけやま

 MF てるいく

 DF かまもも

 DF いわえみ

 DF にいぬまあけ

 DF こんどうなお

 GK ふく


 続いてリザーブメンバー。


 FW とうなお

 MF みながわすみ

 MF むかい

 DF よねしげ

 GK がたにいな


 小さな変化はあるものの、最近はだいたい本日の通りだ。

 今回のリザーブメンバーは規定最大人数である五人だが、遠征にかかる費用等の問題から三人か四人の時もある。控えGKなしのことも多い。


 さて、まもなくキックオフの時間である。

 熱海の選手が、センタースポットに置かれたボールを軽く踏みつけている。


 おおおおお~、

 と、熱海サポーターが声を上げ、突き出した片手をひらひらと揺らしている。


 反対ゴール裏では神原学園のたった一人きりのサポーターが、どん どん どん どん と、ゆっくり太鼓を打ち鳴らしている。


 主審の笛の音が鳴った。

 熱海エスターテレディースボールでキックオフだ。


     2

 熱海の9番、FWのありむらこずえが、すぐそばにいるますへとボールを転がした。


 両チームの選手たちが、一斉に動き出した。

 益田美樹は前方へ大きく蹴った。


 かんばらがくえんCBセンターバツクにいぬまあけは落下地点へと小走りし、相手と競りながらもヘディングで跳ね返した。適当なクリアではなく、丁寧にボランチのはたけやまへと繋げた。


 畠山は前線に背を向けながら、胸でボールを受けた。


 すぐさま熱海の選手が対応に動き出した。二人がかりで畠山を取り囲もうとプレスをかける。


 その動き出しを察知した来夢が、すぐにフォローに駆け寄った。


「志保さん!」


 畠山志保は6番の選手をかわすと、声のほう、来夢へとパスを出した。

 だが、来夢の背後に潜んでいた熱海の11番、はまむしひさが絶妙のタイミングですっと前に飛び出して、来夢の受けたばかりのボールを一瞬のうちに奪い取っていた。


 来夢はすっかり混乱して、迂闊と自分を叱咤する余裕すらもなく、ただ追いかけた。


 後ろに誰もいないと思って油断をしていたといわれればそれまでだが、実際、誰もいなかったはずだ。だから、志保さんだって咄嗟にパスを出したんだ。

 それが、いつの間に背後に忍び寄っていたのか。

 その動きの老獪さに、感動と劣等感のごちゃ混ぜになった気持ちを味わいつつ、来夢はその背中を追い掛けた。


 だが浜虫久樹は俊足を飛ばして既に遥か前。神原学園ボランチのてるいくと向かい合っている。


 照井に加勢して浜虫を挟み撃ちにしてやろうと、おおが走り寄る。


 それに気が付いた浜虫は、躊躇なく動き出していた。照井をフェイントでするりとかわすと、まだ上がり切っていない低い位置から、浅い角度のクロスを上げた。


 熱海の選手が何人か、ゴール前へ駆け上がろうとしている。それに気付いたからこその浜虫久樹のクロスだとすれば、彼女の視野の広さも瞬時の判断力も、なんと優れていることか。


 小学生のように華奢そうな細い身体から打ち出されたクロスは、反して実に力強く、そして精度もまた素晴らしかった。

 軽い山を描いて飛ぶボールが、神原学園CB新沼明美の頭上を越えた。


 ファーにぽっかりと出来ていたスペースへとボールが落ちた。

 そこに倒れこむように飛び込んだ熱海のFW有村梢が、頭を叩き付けた。


 ボールはバウンドし、ゴールへ。

 ヘディングシュートが決まったかに見えたが、しかしラインを割る寸前、神原学園GKゴールキーパーふくが横っ飛びでパンチングし、ボールを弾いていた。


 こぼれたボールに、熱海の選手が詰め寄った。

 福士は素早く起き上がると、自ら弾いたそのボールに飛びついて、抱きかかえるように守った。


「集中集中! 繋ぎんとこでミス出てるよ! 声出してこう!」


 立ち上がった福士は、そう怒鳴り声を上げ味方を叱咤鼓舞すると、軽く助走をつけてボールを蹴った。


 大きな山を描いて、来夢のほうへと落ちてきた。

 来夢は落下地点を目測して立ち位置の微調整、見上げながら、胸で受けようと構えた。


 背後に人の熱気、気配を感じた。

 感じた時には遅かった。それはまたもや、浜虫久樹であった。来夢はほとんど無抵抗といっていいくらい簡単に回り込まれ、簡単にボールを奪われてしまっていた。


 奪った浜虫の右足からすぐさま、前線のFWを走らせるスルーパスが出た。

 熱海のFWである益田美樹は小柄ながら足の速い選手で、早速その特長を生かして神原学園DF陣の間から飛び出し、ボールを受けた。

 正面にはGK福士紗代莉が一人。再び訪れた、熱海の決定的なチャンスであった。


 しかし益田に、ボールタッチのミスが出た。もたつく一瞬の間に神原学園のこんどうなおに並ばれ、肩をぶつけられて大きくよろめいた。

 そんな中でもシュートを狙った貪欲さと体幹の頑丈さは称賛に値するが、しかしボールは枠の上。

 神原学園は難を逃れた。


「来夢!」


 しお監督の怒声がピッチ上に轟いた。

 来夢のハイボール処理時のミスというか油断から大きなピンチを招いてしまったことを怒ったのだろう。


「すみません!」


 来夢は謝った。

 でも、怒鳴りたいのはむしろ自分のほうであった。

 ふがいのない自分のプレー、軟弱な精神に。


 とにかくいまはプレーするしかない。来夢は、気を取り直した。


 福士のゴールキック。

 大きくは蹴らず、近くにいるCBの新沼明美へと転がした。


 新沼は、状況を確認し、落ち着いてボランチの畠山へとパス。


 その瞬間、熱海の5番が畠山へと猛然としたダッシュを見せた。


 畠山は、そのプレスにも慌てることなく冷静に、前へ出ながらボールを受けると、すぐさま前線にいるFWどうおりへと縦パスを出した。

 熱海の選手が伸ばしたその足先をかすめたが、なんとかパスが通った。


 工藤香織がゴールに背を向け、DFを背負いながらボールを受けた。


 中央目掛けて駆け上がってきた来夢へと、ボールが渡った。

 ここを抜け出せれば大きな決定機が訪れるというシーンであったが、しかし抜け出すことは出来なかった。

 相手の素早いプレスに仕掛けるかパスするか選択を迷った来夢は、その一瞬の隙を突かれて奪われてしまったのである。


 ミス連発で、これ以上は許されないと思う焦りからか、無意識のうちに相手の肩に手をかけて、倒してしまっていた。


 主審の笛の音が鳴り響いた。

 来夢のファールである。

 それにより、熱海にFKが与えられた。


「来夢、どうした?」


 キャプテンの近藤直子が近寄ってきて、来夢の頭の上に手を置いた。


「すみません」


 申し訳なさそうな、悔しそうな表情で、頭を下げた。


 さっきから、そればかりいっているな、わたし。……しっかり、しないと。気持ち。まずは気持ちだ。


 そう自分の胸をどんと叩く来夢であったが、しかしこの状態、根が深いのか、そう簡単に治るものではなく、来夢の気の抜けたプレーはまだまだ続くことになる。


 熱海のFKは、ゴール前へ低く速いボールが上がったが、工藤香織が長身を生かして頭で跳ね返した。当て損なってしまい、真上に浮かせただけになってしまったが、ちょっと慌てながらも落ちてきたところを蹴飛ばして、今度こそしっかりとクリアをした。


 前線で待ち構えるのは、神原学園キャプテン近藤直子。彼女はDFではあるが、背が低いためゴール前での守備には付かず、むしろ攻撃に備えて高い位置で構えていたのである。ちょうど彼女を目掛けるようにボールが飛んだ。


 近藤は、走り寄りながら右足を伸ばしてトラップした。

 神原学園はピンチから一転して、絶好のカウンターチャンスを得た。


 近藤は、ぐいぐいと敵陣を駆け上がっていく。

 守備に残っていた熱海の選手が、自分へと全力で迫ってきているのを確認すると、引き付けるだけ引き付けて、真横を並走する来夢へとパスを出した。


 ここを抜ければ、もう前方には相手GKしかいない。決定的な先制のチャンスだ。


 だが、せっかくパスが通ったというのに、ここで来夢に痛恨のタッチミスが出た。来夢の状態を考えれば不運というより必然であったのかも知れないが、とにかく処理にもたついているところ熱海の別の選手に詰め寄られてしまった。


「前!」


 近藤は来夢へそう叫ぶと、相手選手をかわすように前へ飛び出した。

 こうなったらDFの自分が直接決めてやる、というつもりであったのだろうが、しかし、来夢からのボールは前線へ出されることはなかった。

 ボールを持ってとまどっている間に、相手選手に完全にくっつかれてしまっていたのである。


 来夢は挟み撃ちにされる前に、ようやくアクションを起こした。

 いま自分にくっついているDFを、抜きにかかった。

 右を行くと見せて、ボールをちょんと蹴りながら左脇へ抜けて、飛び出した。

 そしてドリブル。


 ……だが、足元に違和感。

 それもそのはずで、来夢は空気を蹴っているだけであった。

 あるはずのボールが、そこになかったのだ。


 どきりとしながらも素早く振り返ると、そこに見えたのはついこれまで自分に密着していた相手選手の小さくなっていく背中であった。


 熱海の選手ほ、まだ先ほどのFKで味方のたくさん残っている神原学園ゴール前へと、大きく蹴り込んでいた。


 来夢は唖然とした表情で、それを眺めているだけであった。


「てめえ、来夢! ぼけっとしてんじゃねえ! 早く戻れ!」


 塩屋監督の怒声を受け、来夢は慌てて走り出した。

 しかし、自分を叱咤し頑張ろうとすればするほど、より酷い状態へと転落していくばかりであった。


 しっかりせねばという思いは虚しく空回り、ボールを拾えない、受けられない。

 たまに受けてもまともにキープ出来ず、数秒後には相手ボールになっている。

 パスなど試みようものなら、それは高確率で相手へのプレゼント。

 なんでもないボールが、タッチを割る。

 しまいには、なんでもないところで転んでしまい、相手選手に失笑されたり心配されたり。

 一体どこから改善していけばいいのか見当もつかない、実に酷い有様になってしまっていた。


 そんな状態に誰よりも困惑しているのは、他ならぬ来夢自身であった。

 なにが自分なのか、どんなプレーをすればいいのか、まるで分からなくなってしまっていた。


 昨日までは、せいぜいが集中力のなさを怒られる程度だった。それは家庭での悩みに落ち込んでいたためだが、しかしプレーそのものは悪くなかったはずだ。だから今日だって、スタメンに選ばれた。その、はずなのに……


 来夢自身はまるで思いもしないことであったが、実はその原因とは、浜虫久樹とのマッチアップにより実力をまざまざと見せつけられたことにあった。

 浜虫久樹という素晴らしい選手に、自信や将来への夢を激しく揺さぶられ、それがもともと不安定であった精神状態をさらに悪化させてしまっていたのだ。


 ただでさえ実力に開きがあるというのに、このような状態では浜虫久樹に意地で食らい付くことすらも出来ず、やられ放題。突破を許してしまうというよりは、来夢など最初からそこに存在していないも同然であった。

 ますます自信を失い、ますますプレーが酷くなっていく。

 このどうしようもない悪循環に、来夢はイラつき、地面を強く踏み付けた。


 だいたい、どうしてこんな凄い選手が、二部なんかにいるんだ。

 そんな、凄いのか。

 一部というのは。

 代表というのは。

 なでしこを、舐めていた。

 いまさらだけど、本当にそう思う。

 なにが、自分が日本を優勝させてやるだ。

 チャンスさえ与えられれば、そこで活躍してみせ、なでしこジャパンに選出されてみせる。そこでも絶対に活躍してみせる。自分が、なでしこジャパンを世界一に導くんだ。なんの根拠もないくせに、そんな自信を持っていたことが、たまらなく恥ずかしかった。

 いや、

 違う。

 夢は、絶対にかなう!

 自分は、もっともっとやれるはずだ。

 いまは少し調子が悪いだけだ。


 来夢の中で、二人の自分が戦っていた。

 でも結局、この試合の中で結論を出すことは出来なかった。

 何故ならば、交代させられてしまったからだ。


 ボールと関係のないところで浜虫を倒してしまい、警告を受けたかと思ったら、それから二分後、チームが前線へと攻め上がって得点の気配が濃厚になってきたところ、来夢のパスミスにより決定的なチャンスを逃し、それどころかそこからのカウンターであっさりと失点。

 この試合の、これまでの出来を考えれば、交代させられたのもやむをえないだろう。


 本日は最終節だからもうリーグ戦はないが、もしも今日がまだリーグ戦半ばだとしたら、もう今シーズンのうちに一度も出番がないとしても誰も疑問に思う者はいないだろう。それほどに、今日の来夢の出来は最悪であった。


「気持ちの調整ミス。そんなんで出られても迷惑なんだよ」


 交代時に、みながわすみは怒った口調で来夢の顔を睨み付けた。

 皆川のそのような顔、来夢は久し振りに目にした。

 基本明るい皆川であるが、とんこつの奇跡が起こる前は、来夢に対してだけはいつもこのような表情をしていたものだが。


「すみません」


 来夢は申し訳なさそうに頭を下げた。


「悩みあるなら、後で聞くから」


 皆川は表情を崩し、笑みを浮かべると、来夢の背中を優しく叩き、ピッチへと入った。


 来夢は振り返り、その後ろ姿を見つめていた。


 もうあいさんに、聞いてもらっているんだよ。


 心の中で呟いていた。


 それで解決しないから困っているんだ。

 いや、割り切ったつもり、吹っ切れたつもりだったんだ。それなのに、試合が始まってみれば自分がこんなザマであったから、だから困っている。

 そう、自分がこんなに酷いなんて、自分でも分からなかったんだから、仕方がないじゃないか。


 心の中でそのようないいわけをしながら、来夢はベンチへと戻ってきた。


「どうもすみませんでした」


 監督やコーチへと頭を下げたが、なんの反応もなかった。

 いっそ怒鳴り付けて欲しかった。ブン殴って欲しかった。そのほうが、どれだけ気が楽だったか。

 来夢はベンチに座ると、そのままがくりとうなだれた。

 大声で叫び、暴れ出したい気持ちであったが、自分にそんな負の感情を吐き散らして他人を不快にする権利などない、と、耐えて心の中に押し殺した。


 試合は、前半三十分に来夢に代わって皆川純江が入ったことにより、神原学園全体が活性化した。

 来夢にスタメンの座を奪われたことにより、最近の彼女は相当に気合いを入れて練習をしていたのだが、その成果が、プレーにもあらわれていた。

 ただし得点は生まれず、一点ビハインドのまま試合は後半戦へ。


 皆川投入による右サイドの攻守両面での活性化はそのままに、加えて監督のハーフタイムに施した全体的な修正の効果も相乗し、残り時間十五分というところで、神原学園はついに同点に追い付いた。

 サイドを突破した皆川からの速いクロスに、たけあいが押し潰されながらも倒れ様に頭で合わせたのだ。


 相手の狼狽により、神原学園は完全に中盤を支配。

 一方的にペースを握った。


 逆転も時間の問題かと思われたが、しかし押している側に点が生まれるとは限らないのがサッカーという競技。

 後半四十二分とアディショナルタイム、熱海MFである浜虫久樹の素晴らしい個人技による二得点が決まり、そして試合はタイムアップ。


 神原学園は、3-1で敗れた。


     3

 ゴール前のサポーターへの挨拶をした後、すごすごと引き上げてくるかんばらがくえんイレブン。

 ベンチのらいは、複雑な心境でそれを見つめていた。


 自分のプレーが酷かったことは間違いない。

 でも自分だけの敗戦ではない。


 確かに先制されたのは自分のミスからで、それさえなければまた違う展開になっていたかも知れないが、残りの二失点は攻撃か守備かという意識のズレによるものでチーム全体のすり合わせの甘さによるもの。


 卑怯な考えなのかも知れないが、そうしたことにちょっとだけほっとした自分もいる。


 でも、

 なら、この涙は、

 自分の、この拭っても拭っても溢れ出てくる涙は、一体なんなのだろう。


 分からない。

 確実に分かっているのは、自分にとって最低最悪な状態でリーグ戦最終節を終えたということ。それだけだ。


     4

 カチ、カチ、と時計の針の動く音が、静まり返った部屋の中に響いている。


 ふと、時刻が気になって、その時計の針に目を向けた。

 二時十五分。

 深夜である。

 さっき時刻を確認した時は、まだ一時前だった。

 さして勉強が進んでいないのに時間だけ流れてしまったことに焦りを覚え、らいは気を入れ直した。


 これまでは電車の中と、帰宅後の三、四十分ほどしか自主勉強をしていなかった来夢であるが、ここ最近は、なにかに取り付かれたように常に机にかじりついている。

 学校の休み時間もトイレ以外ずっと。サッカー練習を終えて夜十一時に帰宅後は、このような時間まで。


 当然、学校では眠くて仕方がない。

 手をコンパスの針でつついたり、先生に頼んで後ろに立たせてもらったりして、絶対に授業の聞き漏らし書き漏らしがないように、集中して授業に臨んでいる。

 成績がよくなるかは別の話だが、どうであれやれることをやるしかなかった。


 カチ、カチ、と時計の針は動いていく。

 現在、夜の二時三十分。

 もう寝なければいけない時間だが、しかし今日はまったく自分に課したノルマを達成していない。

 もう少し、頑張らないと。


 と、赤いマーカーを握った瞬間、がくっと頭が落ちた。

 ぶるぶると顔を震わせ、自分の頬を両手で叩いた。

 頭を何度か小突いた。


 ふと、昨日の食事の時間を思い出していた。

 両親のお店のことや、自分の進路のこと、いずれそういう話し合いを真面目にやっていきたいので、まずはなにか軽いところからそうした話題へと踏み出そうと考えていた。しかしどうにも話し出しの切り口が思い浮かばずに焦れったく感じていたところ、弟のゆきひとが家計を考えることなく遠慮せずにおかわりを要求するのに腹を立てて、ついつい頭を小突いてしまったのだ。

 さして力は込めていなかったし、だから殴られた本人も、両親も、単なる姉弟の軽いやりとり掛け合いと見ていたようだが、一人、殴った本人はそうは思っていなかった。

 来夢は本気で怒っていたのだから。

 弟に対してだけではない。そんな自分に対してもまた、腹を立てていた。

 自分のほうがよほど、家に迷惑をかけているというのに。

 自分のほうがよほど、家のことも考えずに好き勝手やっているというのに。

 その苛立ちを他人にぶつける卑怯な自分に、本気で腹を立てていた。


「……夢……来夢!」


 母、あきの声。

 身体を揺り動かされた。

 目をはっと見開いた。


 時計を見た。

 うつらうつらとしてしまっている間に、既に四時を過ぎていた。まだ外は真っ暗であるが、しかしもう深夜というよりは明け方だ。


「なにやってるの! 頑張り過ぎでしょ! そこまで勉強して、身体を壊したらどうするの! もうこんな時間だけど、少しでもベッドでちゃんと眠っておきなさい!」


 そう感嘆符の連打で娘を叱咤すると、母は部屋を出て、ドアを閉めた。

 来夢はそれからしばらく、ぼーっとした表情で焦点もうつろであったが、頭の中にあるもやもやが、だんだんと整理されて具体的な形状を作り上げていくとともに、寝ぼけたようなその表情が、だんだんと変化していった。

 怒りの表情へと。


 試験で上位の成績ならサッカーやっていい。

 そういったくせに。

 お店が厳しいって聞いて、色々と悩んで、じゃあせめて自分に出来ることをしようと、勉強を頑張っているのに。

 それなのに、なんで文句だけいわれないとならないんだ。


「それじゃあ、どうすればいいんだよ!」


 そう大声で叫ぶと、がりがりと頭髪を掻き回した。

 ノートを両手に掴むと、力を込めて、真ん中から引き裂いてしまった。


     5

「だからなんでもないっていってんのに、そっちがしつこいから!」


 らいは知らず大きな声で、ふもとを睨み付けていた。


「なんでもなかろうと、フモちゃんは心配だから声をかけたんだよ。礼をいうなり謝るなりしなよ」


 近くの席で話を聞いていたよこやまひさが、いてもたってもいられず口を差し挟んできた。


「うるさいな! 関係ないくせに!」


 来夢は両手で机を叩き、立ち上がった。

 煩わしさから、その場を逃げようとしたのだが、結局すぐ椅子に座り直すことになった。

 麓美香のほうが先に、泣きながら教室を飛び出してしまったからである。

 そしてそれを追い掛けて、横山久江も教室を出てしまった。


 来夢は組んだ両手をおでこに当て、うつむいていた。

 誰の顔も、見ないように。


 どうせいま、教室のみんながこっちを見ているに違いない。

 そんなみんなの向ける視線に、自分の中の罪悪感がより膨れ上がるだけだから。


 三、四時限目の間の、十五分休憩の途中。

 暗く落ち込んだような表情の来夢を心配した麓美香が声をかけてきたのだが、「なんでもないから」といっているのに、なおも美香が「なんでもなくないよ」と心配そうな顔をして、それが来夢の胸の奥にある黒い導火線に引火してしまったのである。

 勝手に他人の内心を決め付けたり、覗き込もうとするな、と。


 理不尽なことなど、よく分かっている。

 悪いのは自分だ。

 そんなこと、よく分かっている。

 美香ちゃんのいう通りだよ。

 なんでもなく、あるよ。

 だからなんだ。


 そう虚勢を張る自分に、嫌悪感を抱いていた。


 自分が、どんどん嫌な奴になっていく。

 自分のことを、どんどん嫌いになっていく。

 でも、なら、どうすればいい。


「へい広瀬、パース!」


 先ほどから仲間とはしゃいでいたたにやまようへいが、小走りに来夢のわきを駆け抜けながら、ラグビーのパスのような仕草でなにかを投げてきた。

 それを受けた来夢は、次の瞬間、ぎゃっと悲鳴を上げていた。

 それは表紙ですぐに分かる、成人男性向けの雑誌だったのである。


「見ろ! 広瀬がエロ本持ってきてるぞ!」


 谷山は楽しそうに、来夢を指差して叫んだ。

 来夢はゆっくりと席から立ち上がると、思い切り、雑誌を床に叩き付けた。

 谷山を睨み付けた。


「ふざけんな!」


 激しい口調で谷山に詰め寄ると、その瞬間、手を振り上げ、思い切り頬を張っていた。

 谷山が、なにがなんだか分からないといった表情を浮かべているうちに、今度は反対の頬が鳴った。


「おい、そんな怒ることかよ!」


 谷山は来夢を睨み、怒鳴った。

 しかし怒りに我を忘れた来夢の耳には、まったく届いていないようであった。

 なおも狂ったように喚いて、谷山の顔を殴ろうとした。

 谷山が両手でガードすると、その上から何度も何度も拳を打ち付けた。

 脛を蹴飛ばした。


「やめろ! やめろって!」

 

 近くにいたなかじゆんが来夢を羽交い締めで押さえ付けたが、しかし来夢は凄い力で手足を振り回して暴れ続けた。


「なに騒いどるんだ!」


 前のドアが開き、次の授業の担当であるかん先生が教室に入ってきた。

 神田先生は、近くに立っている女子生徒からおおよその話を聞いて理解すると、バスバスと荒い靴音を響かせて、来夢の前に立った。


「まったくこのバカたれが! 授業は自習! 広瀬、お前は職員室へ来い!」


 と、前のドアから出ていった。

 次の瞬間、ひょこ、と戻ってきて顔を覗かせて、


「あ、谷山、お前は廊下に立っとれ」


     6

 放課後の廊下、行き交う生徒達の中を、ひろらいは歩いている。

 うつむきがちの、元気をどこかに置き忘れたような足取りで。


 昼休みに、ふもとには謝った。

 別に先生に怒られたからではない。それがきっかけであることも、確かだが。


 職員室で正座させられて、暴れたことを先生にくどくどと叱られているうちに、フモちゃんに絶対に謝るつもりはないなどと意固地になっている自分がバカバカしくなってきたのだ。

 それに、ちょっと虫の居所が悪くて酷い態度をとってしまったけれども、彼女は大切な友達だから。


 美香はまったく怒ってはおらず、全然気にしてないから、と笑っていってくれた。


 気にしろよ、と都合のいいことを胸に呟く自分がいた。そもそも彼女が親切心から気にしてくれたからこそ、最低な自分が先ほどのような最低な態度を爆発させてしまったというのに。


 「でも、なんでもないというのは本当だから」

 来夢も笑みを返しながら、そう嘘をついた。


 以前に所属サッカークラブのチームメイトであるたけあいに悩みを打ち明けたが、あの時ほど、現在の症状は軽くない。確実に悪化している。


 家庭での問題に、試合でのスランプも手伝って、現在なにが不満なのか、なににイラついているのか、それが自分でもまったく分からない状態なのだ。そんな状態で、下手に他人からあれこれと知ったふうなことをいわれたら、また自分が爆発してしまう。

 もっと、自分のことを嫌いになってしまう。

 本心では、自分のこと、みんなのこと、好きでいたいから。

 だから、来夢は美香にそう嘘をついた。


 変に構ってくるから、嘘なんかつくことになって、おかげでますます自己嫌悪になっちゃうじゃんかよ。


 そう思いかけて、ぐっと自らの胸に飲み込んだ。

 そんな負の循環から一瞬のこととはいえ抜け出せたのは、放課後の廊下を行き交う生徒たちの中に、よく知った顔を見つけたからであった。

 それは同じクラスのほしあけと、その後に続いているのはおおさわたかゆきであった。


 どうしたのだろう。

 あの二人は教室でも最低限の言葉しかかわしたことのないような、そんな仲であるはずなのに。


 職員室に用事があるとしても、方向が反対だ。

 その不自然な組み合わせに、来夢はどうにも気になってこっそりと後をつけていた。

 なんかそういうの嫌だな、と自身の行動に嫌悪の思いを抱きながらも、それでも自分を抑えることが出来なかった。

 二人は靴を履き、正面玄関より外へ出たが、来夢は見失うことを恐れて上履きのままで後を追い続けた。


 やがて二人は足を止めた。そこは校舎をぐるりと回り込んだ裏側にある、自転車置場だ。

 来夢は離れたところの物陰より、そっと様子をうかがっている。

 星野明美と大沢隆之の二人は、向かい合って立っている。


「なんだよ、話って」


 隆之の声だ。

 少し離れているが、周囲が静かであるため、小さな声でもよく聞こえた。


 来夢は、少し怪訝そうな顔をした。


 いまの台詞。それじゃあ星野明美のほうが、大沢を呼び出したということか。

 こんなところに。

 ということは……まさか……


 来夢の心臓の鼓動が、いつの間にか速くなっていた。

 少し呼吸が荒くなっていた。

 ごくり、と思わず唾を飲んだ。

 聞こえてしまったのではないかと焦ったが、二人とも気付いていないようだ。

 仮に離れていなくたって、唾を飲む音など本人以外にそうそう聞こえるわけもないのに。それだけ焦っていたのだ。


「あたしね」


 星野明美は薄く笑みを浮かべながらそういうと、もったいつけるようにそこで言葉を切った。


 静寂。

 そして、彼女は再び口を開き、自分の作り出した静寂を自分の声で破った。


「大沢君のことが、好き」


 ここにいる三名の中で誰よりも、「どん!」と心臓が跳ね上がったのは、おそらく来夢であろう。

 目を見開き、そして右手で自分の胸を押さえていた。

 星野明美のその台詞が、頭の中をいつまでも反響していた。


 来夢は、荒くなった呼吸を落ち着かせるように、大きく、二回ほど息をすると、すっと踵を返した。

 知らぬふりをして、そっとその場を立ち去った。


     7

 ひがしまつしま市民ふれあい公園陸上競技場。

 座席数がわずか百五十という、小規模の競技場だ。

 市や県のスポーツ大会でよく利用されている施設であり、かんばらがくえんも二年に一回程度だがここで試合を開催することもある。


 二〇一〇年十月二十四日、日曜日。

 現在の空模様は、曇りである。


 今朝の天気予報では、終日晴れということであったが、テレビでキャスターがそう予報を伝えている時点で既に実際の空は嵐が来そうなほどにどんよりと暗かった。しかし降られることなくなんとか持ち直して、昼前には普通程度の曇り空になった。


 天気予報が外れたことに変わりはないが、雨嵐がくるよりはよほどましである。本日はもう既に、開催を決行してしまっているのだから。


 六レーン陸上トラックの内側にある人工芝の球技用フィールドでは、大人や子供たくさんの男女が走り回り、サッカーボールを追い、蹴っている。

 赤い色のユニフォームを着た女性たちに、様々な運動着姿の小さな男の子女の子、それとその保護者たち、といった構成だ。


 ユニフォーム姿の女性は、サッカークラブ神原学園の選手たちである。今日は地域奉仕活動の一貫として、ちびっ子サッカー教室を開いているのだ。


 子供たちの群れの間を、その赤色のユニフォームが一人、細かくボールを運びながらすっすっと抜け、くるりと振り向いた。

 みながわすみであった。


「すっげー。おれ、ぜーったいそんなの出来っこない」


 一人の元気そうな男の子が飛び上がって、言葉と仕草とで感嘆の意味を表現した。

 そこまでの大袈裟な態度ではないものの、他の子たちも同じように、驚きや憧れといった感情のこもった表情で皆川を見ていた。


 皆川としてはサッカーをする上での基礎中の基礎といった技術を披露したまでだが、今日の対象者である「四歳から七歳までのサッカー初心者」にとっては、それは手品のような、心を魅了する技に見えるのであろう。


「大丈夫大丈夫。練習すれば、みんなもお姉ちゃんみたく上手に出来るようになるって」


 上手、かな?


 皆川は、自分でいっておきながらそう自問していた。

 そして次の瞬間、その質問自体を頭から追い払った。


 そんなことを考えている場合か。

 今日のわたしは、この子らの先生なんだぞ。


「それじゃあ、順番にボールを蹴りながら、その赤いコーンの間をジグザグに抜けてみようか。よし、じゃあ先頭の、えっと、…ちゃんから。はいっ」


 皆川は名札で名前を確認すると、ぽんと手を叩いた。

 保奈美と呼ばれた子は、指示通りにドリブルを開始した。他の子たちも、それに続く。

 男の子も女の子も、みんな下手くそ。

 蹴りたい方向へまともに蹴ることが出来ず、ころころころころと、希望と違うところへと転がり逃げるボールを追い掛けてばかり。

 でもみんな、とっても楽しそうな表情をしている。


 子供たちが純粋にボールを蹴ることを楽しんでいるのを見ているだけで、こっちまで楽しい気持ちになってくる。

 こういう気持ちを、すっかり忘れていたかも知れない。

 いや、間違いなく忘れていた。

 一時期など劣等感に気が狂いそうになり、自分のポジションを脅かそうとする存在であるひろらいを追い出すような陰湿な真似をしていたくらいなのだから。これほど純粋と程遠い行為もないだろう。


 皆川の近くでは、こんどうなおおおが、同じように子供に囲まれて基礎技術の指導をしている。


 ゴール前では、ふくがたにいなの二人が講師になってGKゴールキーパースクールを行なっている。


 この後に、みんなで輪になってパスの練習をして、最後に保護者を交えての試合を行なって、本日の日程は終了する予定だ。


 ふれあい公園の名の通り、サッカーを通して子供たちに、子供同士の触れ合いや、近代になって減少した見ず知らずの大人との触れ合い、などを経験してもらうことが、この教室の目的である。その上でサッカーを好きになってくれれば、なおよい。


 神原学園はこのように、自分たちがサッカーの試合を行なうだけでなく、しおがま市民との地域密着をはかるため、様々な奉仕活動をしている。

 先週の日曜日には、塩竈駅周辺のゴミ拾いを行なったし。リーグ戦のないこのような時期であっても、選手たちは色々と忙しいのである。


 だが、今日を境にまたしばらく、奉仕活動はお休みだ。

 ぜんじよ、全日本女子サッカー選手権大会が近付いているためである。

 男子でいう天皇杯に相当する、価値のある大会だ。


 だからこそ、皆川純江に限らず神原学園の選手たちは、童心に戻れる今日という機会を、目一杯楽しんでいるようであった。


 ただ一人、広瀬来夢を除いては。


 皆川は子供を指導しながら、ちょっと隙を見て来夢のほうにちらりと視線を向けた。

 今日も暗いし、初心者相手なのに教え方がつっけんどんだし、先ほどから気になって仕方なかったのだ。


 そのくせ実演しようにも、ガチガチでまともに出来ないくせに。

 じゃあせめて、愛嬌くらい出せよ。

 ほらまた……


 ちょうど、キックの手本を見せようとしたところらしく、あろうことか思い切りミスして空振りして、転んで尻餅をついてしまっていた。

 子供たちに笑われている。


 あのバカ、力み過ぎなんだよ。じとーっと暗くしているだけよりは、笑われたほうがよっぽどいいけど。


 ここ最近、来夢は精神的に不安定な状態が続いているようだ。

 細かいところまでは聞いてはいないが、どうやらプライベートな悩みが原因であるらしい。


 見ている限りでは、多少は乗り越えてきたように思えるけど。

 ちょっと前までは、本当に酷かったからな。

 その精神状態からきていると思われる来夢のスランプ、せめてそれくらいは話を聞いて助言してあげるなりしたいけど、あのバカ、意地を張って聞く耳を持ちゃしない。

 とはいえ、ああまでは酷くはないにしても、誰にでも精神面からのスランプに悩む時期はあるものだし、やはりこれはあいつが自分一人で解決すべき問題なのだろう。


「よし、それじゃあ、次いこうか」


 だから、皆川は踵を返し、子供たちに向き直った。

 皆川教室の次の授業は、ボールタッチについて。

 でもそれを教える前に、子供たちの前でリフティングを披露することになった。せがまれたのと、これも確かにボールタッチの技術ではあるからだ。


「それじゃ、いくよ」


 皆川は、右の爪先でボールを軽く引いて、その爪先を素早く下に回して大きく蹴り上げた。

 宙に高く上がるボール。

 額で受け、静止させた。

 ころり、と転がり落ちたボールを再び蹴り上げ、しばらくは左右の足の甲でちょんちょん浮かせていたが、大きく上げて、今度は右腿、左腿、頭上を通して背中を転がし、踵で蹴り上げて再び頭上を通し、最後に手で受けた。


「すっげー!」


 先ほどドリブルを見て無邪気に感激していた男の子が、また感嘆の声を上げた。

 皆川は、ちょっと鼻の先がむず痒くなった。

 自分の技術やサッカーセンスには、正直いって相当な劣等感を抱いているが、リフティングだけは自分でも得意だと思っているから。


「毎日練習すれば、誰でも出来るようになるよ。……あっちにいるお姉ちゃんくらいにまで上達するには、相当に頑張らなくちゃだけどね」


 と、来夢のほうを見た。彼女がリフティングをなによりも苦手にしていることを知っていて、嘘をついた。

 抱える悩みのため元気がないのは同じサッカー選手として同情するが、せっかく来てくれている子供たちに対してあまりにもなげやりな態度を取っているように思えて、ちょっと頭に来ていた。それでつい意地悪で、本人に聞こえるように嫌味をいってしまったのである。


 ばん、

 来夢が持っていたボールを思い切り芝に叩き付けた。

 先ほどの言葉が聞こえたためだろう。


 皆川は、ため息をついた。

 自分の頭を、こつんと軽く殴った。


「ごめんみんな、お姉ちゃん少しだけ用があるから、ここで待っててね。好きにボール蹴っていていいから。ちょっと、来夢……来夢!」


 皆川は誰もいないほうへと歩きながら、来夢を手招きした。

 来夢は、ぶすくれたような顔で近寄ってきた。

 二人は顔を付き合わせた。


「なんだよ、あの態度。子供のいる前で。なに考えてるんだよ」


 皆川は顔を険しくさせ、怒鳴るように囁いた。


「そっちが嫌味いうからでしょ!」


 反省の色なく、反撃する来夢。子供に聞かれても構わないと思っているのか、怒りの感情のまま、声の大きさを全然落とそうともしない。


「そんなくらいで。でも嫌味だっていいたくなるよ。サッカーがちょっと上手くいかないからってカリカリして、そんなんこっちにぶつけられても困るし、ましてや子供相手にだなんて最低だろ」


 本人が解決しなきゃならないことなんだから放っておこう、そう思っていた皆川であったが、結局、口出ししてしまった。愛さんに影響されてきたのだろうか。

 いずれであろうと、どのみち来夢はまるで聞く耳など持っていなかった。


「それさあ、どの口がいってんの? レギュラー取らそうだからって、あたしにネチネチとあたってたの誰だよ」


 聞く耳はないが、攻める口は十も百もあるようであった。


「そんな昔のこと。それはもう謝ったでしょうが! それと、お前の、いまの、その、サイッテーな、酷い態度と、なんか関係あんのかよ!」


 皆川も、すっかり頭にきてしまっていた。それを子供だというならいえ。


「ないよ! 別に。なんにも。だから自分でも困ってるんだよ。困っているのに、自分がどうすればいいのか分からないから、困ってるんだ!」

「分かった」


 皆川は、来夢の腕を掴むと、振りほどこうともがくのをぎゅっと押さえ込み、歩き出した。


「みんなも、こっち集合!」


 自身と来夢が受け持っていた子供たちを、手招きで呼び集めた。


 尾形にいなに頼んでGKグローブを借りると、それを両手にはめ、ゴール前ど真ん中に立った。

 グローブの手のひらに、拳をバスバスと打ちつけた。


「蹴ってきなよ。絶対に決まらないから」


 皆川は、そういうと来夢の顔を睨み付けた。

 来夢の表情が変化した。困惑と、バカにするなという怒り、それらが半分ずつ混じった複雑な表情に。


「ねえみんなー、このチームでねえ、いっちばんキックの得意なお姉ちゃんが蹴るから、よおく見ておくんだよ」


 皆川は、子供たちに勉強を呼びかける振りをして、来夢へプレッシャーを与えた。

 来夢は地面を踏み付け、そして、きつく、皆川の顔を睨んだ。

 そうした態度は怒りのせいもあるのだろうが、どちらかというといまにも逃げ出してしまいそうな自分を抑えるためではないだろうか。皆川には、そう思えた。


 来夢は覚悟を決めたのか、ボールを叩き付けるように置いた。

 一歩、二歩、と離れながらも、皆川から目は逸らさない。

 逸らしたその瞬間に負けだ、と恐れているかのように。


「じゃあ、いきますよ。手は、抜かないからね」


 来夢は軽く助走をつけてボールへと近寄り、そして右足の内側で蹴った。

 するする、と人工芝の上を転がった。


 結果は失敗であった。

 ぎりぎりを狙ったのはよかったが、威力が弱すぎた。横っ飛びした皆川が、手を当てて弾いたのだ。

 子供たちから拍手が起きた。


「純江、やるじゃん。にいなより優秀なんじゃない? 今度リザーブに入ってよ」

「ちょっとちょっと、やめてくださいよサヨさん!」


 いつの間にか子供たちの中に混じって見物していた福士紗代莉と尾形にいなが、軽口をいっている。


 福士の吐いたその台詞は、皆川を褒めたものというよりは、おそらく来夢をフォローするためであろう。

 しかし、皆川が素人GKである事実に変わりはなく、福士たちの言葉は来夢にとってなんの慰めにもならなかった。屈辱のためか、来夢の顔はみるみるうちに真っ赤になっていた。


「もう一回、チャンスあげるよ。あ、いや、十本勝負にしようか」


 皆川は、わざと挑発するようにいった。

 その言葉に、来夢は無言のまま、再度ボールをセットした。


 離れ、助走し、蹴った。

 止められるものなら、止めてみろ! とばかり思い切り足を振ったのであるが、しかしボールは横へとそれ、枠を大きく外れてしまった。


 三回目も、方向が反対であるが、まったく同様の結果であった。


 四回目、真正面でなおかつ弱すぎた。皆川は腰を落としてキャッチ。やはりその動作が素人GKであり、あやうく股を抜かれるところでかろうじてのキャッチであったが、むしろそれが来夢をさらにイライラとさせたようであった。


 五回目、意表をついたか再びど真ん中。しかしクロスバーの上に当たって跳ね上がった。皆川もどっしり構えたまま動じておらず、仮に枠に飛んでいたとしてもおそらくキャッチされていただろう。


 六回目、皆川の逆をつくことには成功したものの、しかしポスト直撃。


 最初に皆川がいっていた通り、ただの一度も決まらなかった。


「ほら、七回目」


 皆川は、来夢の足元へとボールを転がした。


「もう、やめよう」


 来夢は力無く、その場に座り込んでしまった。


「立て!」


 唐突な怒鳴り声に、来夢はびくりと身体を震わせた。

 皆川は、来夢にゆっくりと近寄っていった。


「なにがあったかなんて知らないけど、どのみちあたしには、なにもいえないよ。練習頑張れ、って、これくらいしか」


 たくさんの子供たちに取り囲まれて、座り込んで下を向いていた来夢であったが、皆川の顔を見上げると、次いでゆっくりと立ち上がった。折れてしまいそうなくらい、弱々しい表情で。


「だって、それ以外にないでしょ。とにかくサッカーを頑張って、サッカーでの悩みも、そうでない悩みも、なにもかも吹っ飛ばすしかないでしょ。……あたしも、付き合うから。……ね」


 皆川は、にこりと笑みを浮かべた。

 瞬時にして、来夢の目に涙が溢れていた。

 どっとこぼれて、頬を伝い落ちていた。

 泣き顔を見られるのが恥ずかしいのか、皆川の身体に強く抱き着いていた。


 嗚咽していた。

 なにか懸命に言葉を出そうとはしているのだが、詰まってしまってまるで言葉にならず、いつまでもしゃくり上げるように、来夢は泣き続けていた。


「えっと……」


 皆川も、来夢と違って感情こそ乱れてはいないものの、なんと声をかけてあげたものか分からず、震えすがりつく小さな身体を抱きしめたまま、どんよりと曇った空を見上げた。


 どんな空であろうとも、雲を突き抜ければそこには太陽が輝いている。


 誰だかの小説で読んだ記憶のある言葉を、思わず心に呟いていた。


 でも、突き抜けられなくともよいのではないか。

 雨雲の下で必死にあがくだけの存在でもよいのではないか。


 強く、そう思った。

 必死に生き、悩み泣いている少女に、それでいいんだとその純粋を肯定してあげたかったから。


 皆川はそんなことを考えながら、自分の抱えてきた様々な負の感情こそが、次々と肯定され、心身から洗い落とされていくのを感じていた。

 それを心地よいと思うのと同時に、すべてに真剣な来夢に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。だって、それで来夢はこんなに苦しんでいるのに、と。


 なおも嗚咽の声を上げ続ける小柄な少女を抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。


     8

 空は快晴。

 しかし木々に邪魔され眺めは最悪だ。

 隣の敷地の持ち主が植樹をする十年ほど前までは、かなり見晴らしがよかったのだが。


 その敷地は広大で、いくらでも木を植える場所などあるというのに、おおさわ家の前にだけ自然のカーテンだ。

 その敷地の持ち主とおおさわ栄吉が、お互い若い頃に様々なご近所問題で相当にやり合って以来の犬猿の仲であるため、きっとそれが原因でピンポイント攻撃を受けたのであろう。というのが近所住人の共通見解である。


「おかげで夏は蝉がうるさくてかなわんわ。よそ様の土地のことだから、木を植えるななんて文句はいえないけど」


 おおさわさきは布団に横たわりながら、少し葉の落ちて寂しくなった木々を眺めている。


「そうだね。でも、もうすっかり静かになったよね」


 ひろらいは、咲子のすぐ横で、正座をちょっと崩したようにして腰を下ろしている。


 もう十月だから、蝉の声が静かなのは当然だ。

 九月の終わりの終わり頃までは、地上に出るタイミングを計算違いしてしまったのか、もしくは運命の相手と巡り会うために寿命の突きかけている中をド根性で生き抜いたのか分からないけれども、たまに鳴き声を聞くことはあったが。


 蝉といえば、来夢にとって思い出されるのが今年の夏だ。

 サッカー部の男子に混じって、蝉の凄まじいまでのうざったさと戦いながら、汗水たらして練習試合をやったりしていた。まあ蝉より男子たちのほうが、よほどうざったかったわけだけれども。


 あの頃にはまだ、かんばらがくえんなどというサッカークラブがあることを知らなかった。名前は聞いたことはあったが、確かどこかにそういう女子高があるよなという記憶だけであり、廃校になっていたことすら知らなかった。


 ほんの数ヶ月前のことだというのに、それから随分と月日が流れた気がする。


 あの頃はまだ、おばさんも自分で立って歩くことが出来た。

 重たそうな、カゴ一杯に入った野菜を持ってきてくれたこともあったのに。


 と、蝉から始まって、なんだかしんみりとしてしまう来夢であった。


 来夢は最近、時間さえとれれば大沢家に咲子のお見舞いに来ている。土日は必ず。平日でもサッカー練習がない日であれば。

 勉強もしないとならないから、それほど長時間はいられないけれど。


 おばさんは寝たきりで退屈しているだろうし、頻繁に訪問して話相手になることでなんとか元気づけ、身動き取れないでいる自分自身を責めたりすることのないように励ましてあげたいと思っている。


 その後も他愛のない会話を続けていたのだが、突然、すっと襖が開いた。

 おおさわたかゆきの顔が、そこにあった。

 来夢は、微かではあったがびくりと身体を震わせた。


 あれ以来ずっと、頭の中をぐるぐると廻っていた、記憶。

 校舎裏で、ほしあけが大沢へ告白したこと。いま大沢の顔を見た瞬間に、その映像や会話の内容が、鮮明に思い出されていた。


「あ、あの」


 ここにいればいずれ大沢が帰ってくることなど、分かっていたことだというのに、一体自分はどういうつもりでいたのかなどすっかり忘れて、つい反射的に腰を浮かせ、逃げ出そうとしていた。

 それも不自然、となんとか踏み止まったものの、まだ襖が空いて隆之の顔を見てわずか数秒だというのに、この静寂が辛くて耐えられなかった。


「来夢ちゃん、ありがとうね。おばちゃんの話し相手になってくれて。隆之の部屋で、適当にくつろいでよ」


 その声掛けナイスタイミング!

 しかしよりによって大沢の部屋とはなんたること。

 これは天国か、はたまた地獄か。


「はい」


 もう帰りますから。悩むくらいなら、そういえばいいだけなのに、何故だか来夢は、素直に咲子の言葉に従ってしまっていた。


 でも、それは半分、自分の意志でもあったのかも知れない。

 はっきりとさせたい。無意識に、そんなことを思っているのかも知れない。


 ……いやいや、決してそんなことはない。

 そんなこと自分は思ってやしない。

 興味ない。

 なんだ、こんな奴!

 大沢隆之! 嫌味ばっかりの最低男!

 ひょろひょろ野郎!

 誰と付き合おうが知ったことか!


 頭の中で隆之のことを、貧弱なボキャブラリーを駆使して罵倒しながらも、なんだかんだと二階の彼の部屋へと入り込んでいた。


 飲み物でも持ってくから先に行っとれ、ということで、ただ一人で、味気ない、汗くさい、男の空間の真ん中に、ぽつりと。


 くつろいでよ、とおばさんにいわれたものの、高校生男子の部屋などとても一般的な女子がくつろげるような場所ではないのだが。

 ましてや、いまは……


「お前、よくお見舞いに来てくれるよな。母ちゃん、いつも喜んでるよ。あ、砂糖なんかは自分で入れろよ」


 ぎちぎちと階段の軋む音が聞こえ、隆之が部屋に入ってきた。

 床に、コーヒーカップの乗ったトレイを置いた。


「ありがとう」


 なんだよ、こないだまで勝手にお見舞いなんかくんなとか怒ってたくせにさ。

 それに、床に直接置くか? そういうの。


 素直な礼の言葉と裏腹に、心の中ではぶつぶつと小言を吐き続けていた。自分をごまかすかのように。


「サッカー、ちゃんと続けてんのか?」


 うわ、完全上から目線だ、こいつ。


 でも、

 別に不快には思わなかった。

 それはなんだか、不思議な気持ちだった。

 ここ最近の自分ならば、そんなことをいわれたら間違いなく不機嫌になっていたであろうからだ。


「やってるよ、真面目に!」


 でも、だからこそ来夢はわざと、唇を尖らせて不満げな顔を作って見せた。

 舐められてたまるか! などと心の中で自分でもよく分からない抵抗をしながら。


 その後、特に会話も続かず、無言のまま一分ほどが過ぎた。


「バスケ……好きなんだよね」


 部屋に張ってあるポスターやら、サイン入りユニフォームやら、机の上の写真立ての写真やらを見ながら、そう質問すると同時に、バカか自分は、と思っていた。そんなことを、わざわざ聞いてどうする。バスケ部だぞ、こいつは。好きに決まっているだろう。

 それだけ無言に耐えられなかったということなのであるが。


「あのなあ、それお前にサッカー好きなんだよねって聞いてるのと同じだぞ」

「だよね」


 と自分の髪の毛をいじる来夢。


 ん?

 待てよ……

 じゃあ大沢、そんなにバスケ好きじゃないんじゃないか。

 だって、わたしと同じくらいって。

 家庭の悩みがあろうとも、サッカーが本当に好きならばガムシャラに突っ走るべきだろう。

 それを躊躇うということは、そこまでの情熱はない。そういうことではないか。

 自分にとって、サッカーとはその程度のもの。

 いや……違う……

 違う。

 そういうことではなくて。


 もう一人の自分が、自分に反論していた。

 そういうことではないのは間違いないのだが、うまく説明する言葉が思い付かない。


 なんといえばいいのだろうか。

 まあ、いいか。

 面倒くさい。

 こんなところで、そんなこと真剣に考えても、なんにもならないのに。

 ほんとサッカーについてだと、つい無駄に、真面目に考えてしまうよな。


 あ……

 それ、それだよ!


 もう一人の自分が嬉しそうに叫んでいだ。


 考えてしまうということは、やっぱり好きだからだろ!

 ああ、そうか。

 そうだよな。

 言葉で説明するのは難しいけど、

 自分が誰よりもサッカーをするのが好きなことに、間違いはない。

 そうであればこそ、こんなにも辛いのだから。


「ごめん、大沢のバスケへの情熱を疑ってた。辛さは愛だ」


 と、来夢は妙な言葉で自分を納得させた。

 サッカーへの思いの強さを再確認して、ちょっとだけ元気が出た。


「変な奴だな。おかしな顔してなんだか考え込んでたと思ったら」

「おかしな顔なんてしてないよ! ……あのさ、話、変わるけど……」

「なんだよ?」


 隆之はコーヒーを一口すすった。

 配分を間違ったのか、うえっ、という苦そうな顔になった。


 ええっ、わたしもそれ飲むの? っと、そんなことどうでもいい。


「えっと、その……明美ちゃんと……どうなの?」


 うわお、失敗した! 来夢は心の中で、両手で頭を抱えて絶叫していた。

 さりげなく問おうと不意に思い立ったはいいが、さりげなくどころかとてつもなく不自然なタイミングで切り出してしまった。


「明美ちゃん?」

「だからっ、星野だよ。星野明美ちゃん」

「ああ。……どうって?」


 隆之は、ちょっと訝しげな表情を作ると、探るような視線を来夢に向けた。


「だ、だから、その、えっと」


 来夢が、組んだ両手を腿の間でこねて、もじもじとした態度をしていると、


「告白された」


 隆之は、渋々といったような表情をしながらも、あっさりと答えていた。


「そう仕向けたのは、お前ってことか?」

「違うよ! そんなこと。あたしは、ただ、明美ちゃんがあんたに気があるのかなーって思ったので、なんとなく聞いてみただけで。へええ、告白されたんだあ。そうなんだあ。へええ、おめでとさあん」


 と、大袈裟にすっとぼけてみせ、なおかつさほど関心のない素振りをしてみせた。

 だって、あまり食いついても恥ずかしいし、それに正直に話したりなどしたら、気になってこっそりと尾行したことがバレてしまうではないか。


「それで、どうだったの?」


 でも結局、食いついた。


「なんでお前に教える必要がある?」

「それは、そうだけど……」


 でも、さあ、

 と、また指をこねくり、もじもじとしていると、


「断った」


 隆之は、そうきっぱりといった。


 その瞬間、来夢の全身から力が抜けた。

 ふう、と知らずため息のようなものが出ていた。


「付き合っちゃえばいいじゃない」


 正直、自分がなにを考えているのか自分でもまるで分かっておらず、ただただなんだか恥ずかしい気持ちでいることだけは自覚しており、だからそんな自分を悟られないように、ごまかすように、そのようにいってのけた。

 ああそうだな、などといわれたら、自分がどうなってしまうか分からなかったが。


「なにいってんだよ、お前は」


 来夢の予想通りというか期待通りの反応であった。


「いいじゃん。他人の恋愛話は乙女のエネルギーじゃ」

「乙女にはな」

「乙女でしょが!」

「はいはい」

「むかつくな。くそ。……ねえ、大沢って……女子と……付き合ったことあるの?」


 会話の流れから、ついそんな質問が口をついて出てしまったが、その瞬間、自分でもしまったと思っていた。


 その問いに、隆之は無言であった。

 だんまりを決め込んでいるというより、なにか考えているようであった。


 やっぱり、この話は聞かなかったことにしよう! と思ったくせに来夢は、


「どうなの?」


 口は、まったく正反対の言葉を発していた。


 隆之は、ようやく重たそうな口を開いた。


「ちょっとだけ」


 短い言葉ではあったが、来夢に衝撃を与えるには充分過ぎるものだった。

 七秒ほどの間、まるで呆けたように、無表情、無言状態であったが、八秒後、突然に掴み掛からんばかりの勢いで隆之へと顔を寄せた。


「あたし知らないっ! いつ、どこの誰と?」

「……中三の頃。かどみか子と」


 隆之は、小さく口を開いて小さな声で答えた。


「えぇーっ、ミカちゃんと?」


 中二の時に来夢と同じクラスだった子だ。

 大沢は、自分の記憶に間違いなければ、中一と中三の時に、彼女と同じクラスだっただろうか。


 三人が同時に同じクラスになったことなどなかったから、そんなことになっていたなんて、全然知らなかった。

 確かミカちゃんは女子バスケ部。そうか、そういう接点か……


「それで、ミカちゃんとは……」

「いや、だからちょっとだけっていったろ。ほんっとに、ちょっとだけだから。どちらからともなく、なんとなく始まって。帰り道を送っていく程度で、ほとんど会話らしい会話もしないまま、すぐに自然消滅。それだけ。って、なんでおれが弁解じみた態度とらなきゃいけないんだよ! おれなんか悪いことしたかよ!」


 居心地の悪さをごまかすように、隆之は声を荒らげた。


 来夢は挙動不審気味に、視線をきょろきょろとさせていたのだが、やがて視線が定まるとともに、表情にも少しずつ落ち着きが戻っていった。


「いまなんて、いった?」


 来夢は、尋ねた。


「なにがだよ」

「なんにもなく、あっという間に、自然消滅?」

「だから、そういったろっ」


 ぶっきらぼうに隆之が答えるのと、来夢が吹き出すのはほぼ同時だった。


「一緒にいて、ほんっとつまんなかったんだろうねえ」


 来夢は爆笑した。

 憮然とした表情の隆之をまるで気にすることもなく、腹を抱えて、子供のようにげらげらと、いつまでも笑い続けていた。

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