第四章 夢を持つ資格

     1

「ボランチ、上がれ!」

「フリー、フリー!」

「後ろ!」

「おい、六番マーク!」


 澄み渡った青空の下、ピッチ上では男女の、怒号にも似た真剣な叫び声がひっきりなしに飛び交っている。

 ピッチの外からは、両監督の指示や、控え選手たちの声援が、やはりひっきりなしだ。


 女子対男子による、サッカーの試合が行なわれているのである。

 えんじ色の上下を着ているのが女子で、白の上下が男子だ。


 ここは岩手県きたかみ市にある、人工芝サッカーパークきたかみ。

 宮城県サッカー女子U18に選ばれた選手たちが、強化合宿のためにお隣りの岩手県に来ているのだ。


 最終日である今日は、午前中に軽めの戦術練習と、総仕上げである地元の男子中学生を相手にした三十分×三本の練習試合を行ない、それで合宿は終了だ。


 現在、その練習試合の最中である。


 ひろらいは紺のジャージ姿でベンチに座り、仲間と一緒に時折大きな声を飛ばして、その試合の行方を見守っている。

 行方もなにも、もう勝敗自体は決定したようなものであるが。


 現在三セット目。スコア合計は0―5。男子中学生側が大差でリードしている状況であった。


 支配する側とされる側というような圧倒的な力関係でもなかったが、性別の違いによるフィジカル能力の差と、県女子代表の顕著にうかがえる連係面の甘さ、そこを突かれてじわりじわりと押され、失点し、結局のところこのような点差となっていた。


 彼女らはほとんどが、二日前の合宿初日に初めて会った者同士であり、連係が未成熟なのはある意味で当然であろう。


 ただ、本日に至るまで監督も選手も、仲間の選手の名前をまるで覚えておらず、そういったところも連係面に劣る一因であるかも知れない。

 特に選手などは、自己をよく見せようと頑張るに精一杯で、とてもそれどころではないという心理状態であろうし。


 自分が自分が、ではなく反対に、他を知ることで、他を見ることで、溶け込むことで、自己の個性をより強く発揮出来る。それがサッカーという競技のはずなのに、そういうところが県代表と日本代表との意識の差なんだよな。だから中学生に負けるんだよ。


 日本代表に呼ばれたことなど一度もないくせに、来夢は知ったふうにそんなことを思っていた。

 漠然と思うだけでなく、実際のところ、不満であった。

 自分は頑張って、仲間の名前も特徴も、初日のうちに覚えたというのに。コミュニケーションを図ろうと、昼も夜も色々と工夫して頑張ったのに、と。


 しかしいくら準備万端と本人が強く思っていようとも、既に三人の交代枠を使い切っているため、もうこの試合、来夢の出番はないのであるが。


 一般的にテストマッチは、特に交代枠について定められていなかったり、枠の数が三より多いものである。ただ今回の場合、相手の中学生が全員で十四人しかいないため、体力ハンデがあり過ぎて練習にならならなくなってしまうのではないか、とやまざきまさしげ県代表監督の提言により三人交代制で行なうことになったのである。


 蓋を開いてみれば、男子とはいえ単なる公立中学の生徒にここまで一方的な結果。そうなると分かっていたならば、相手の人数に合わせることなく交代枠無制限を活用していたことであろうが。


 来夢が出場出来なかったのは、本日の試合だけではない。せっかく久し振りに召集された県代表であるというのに、二泊三日の合宿中に三回設けられた試合のうち、一分たりとも出場機会に恵まれることがなかった。


 自分が出ていれば勝てたのに、と自惚れるつもりなどは一切ないが、とにかくなんだか、虚しい気持ちだった。

 どうして虚しく感じるのか、その理由が自分でもよく分かっていなかった。


 試合に出場したのしないのと、そういうことでないとは思う。


 単に呼ばれたのが県代表だから、ということによる不満だろうか。

 それはまあ、なくはないだろう。


 ということは、それじゃやっぱり自惚れていたということ? 県代表ごとき、と。

 いや、決してそんなことはない……はずだ。


 それじゃあやっぱり、試合に出られなかったから?

 いや、決して、そういうことではない、と思う。分からない。自分のことながら自分の気持ちがまったく分からない。


 他の子たちはみんな、技術そのものはとても上手で、しかも小柄な自分なんかと比べて遥かにパワーもあるし、だから自分が出られないのも理由あることと納得はしている。とはいえ、今日は三セットマッチだし絶対に使われると思っていたけど。


 結局、自分に嘘をつかずに素直に考えてみるならば、やはり一番大きな要因としては、県代表に選ばれたことそのものであろうか。

 振り返ってみれば自分はなんだか、初日からこのような気分であったような気もするし。


 小中学時代は、県や市の選抜チームの常連であった来夢であるが、その後も自分は成長を続け、そして日本の二部リーグであるクラブに入り、さらにそこでゴールだって決めているというのに、それなのに、いざ召集の話が来たと思えば相変わらずの県代表。


 順調に階段を上っていると思ってわくわくしていたのは、自分だけだった。それによって、なんだか夢までの距離が遠ざってしまったような気分になった。と、そういうことかも知れない。


 夢が遠ざかったというよりも、夢への高揚感が遠ざかった、小さくなった、といったほうが正しいだろうか。

 県代表を甘くみるつもりは毛頭ないけれど。

 やるしかないのは、分かっているけれど。

 でも……


 来夢はため息をついた。


「逆サイ逆サイ!」

「来てる!」

「いいよ!」

「行け行け行け!」


 すぐ横では相変わらずベンチの選手たちのうるさい声援。

 そんな中でしばらくの間、一人じっと黙ってうつむいていた来夢であったが、なにを思ったのか突然がばっと勢いよく顔を上げた。

 口に両手を添え、


「シュートおお!」


 試合をまともに見ていなかったくせに、適当に叫んでいた。

 ぎょっとしたのは周囲である。

 いままさに中学生男子チームが、女子代表最終ラインの連係ミスを突いてボール奪取した瞬間であったからだ。


 その叫びと同時に放たれたミドルシュートが、弾丸のような軌道と速度で女子代表のゴールネットに突き刺さった。


 静寂が訪れた。


 来夢ははっと我に返り、ぽかんと口の開いた間の抜けた表情でそのゴールを見つめていた。

 じろり、と周囲から冷たい視線の集中砲火を浴びながら。


 ほどなくして試合終了。

 そして合宿の全カリキュラム終了。


 結局、

 この合宿で得られたものって、なんだったんだろう。


     2

 ここ数日、いつ見ても常にどんよりと沈んでいる。

 深海よりも深く、暗く、冷たく、というところであろうか。


 おおさわたかゆきが、である。


 授業も、ろくに身が入っていないようであった。

 それでも先生に指されるとうろたえることもなくしっかりと答え、反対に最近猛勉強しているはずのひろらいは指名されても冷や汗たらして頭を掻くばかりといった光景は、相変わらずのものであったが。


 来夢のことはさておき、とにかく隆之の沈み具合は非常に深刻で、友達が話し掛けても上の空。

 部活も、体調不良を理由に休んでいるらしい。


 どうして隆之がそうした状態に陥っているのか、その理由は来夢には分かっている。

 分かっているどころか既に昨日、それが原因で大喧嘩をしたくらいなのだから。


 隆之の母親、さきが倒れたのだ。

 以前にも何度かそのようなことはあったが、今回は特に容体が悪いらしく、意識こそ回復してはっきりしているものの、まったく自力で起き上がることの出来ない状態とのことであった。


 「だからってそんな暗い表情してたらおばさんも喜ばないよ。元気出そうよ。あたしもお見舞いに行くから」

 昨日の放課後、来夢は校庭でそういいながら笑顔で隆之の肩を叩いたのだが、

 「なんにも知らねえで勝手なこといってんな! それと、余計な真似すんじゃねえよ!」

 と、隆之が突然怒り出したのだ。

 善意をあっさり否定され踏みにじられた気がして、来夢もまた激昂した。

 そして一瞬にして、胸倉を掴み合って怒鳴り合うような大喧嘩に発展したのである。


 勝敗はすぐについた。

 本来なら腕力で来夢がかなうはずもなかったが、もともと隆之は本気などは出していなかったのだろう。それと、介護による相当な疲労の蓄積や睡眠不足もあったのか、隆之はちょっと押されただけでみっともなくも転んでしまったのだ。


 既に脳の血管がぶっつぶっつと切れてしまっていた来夢は、手を差し延べるどころか、そばにある砂場の砂を掴んで隆之の身体に勢いよくぶちまけた。

 全身に砂を浴びた隆之は、なんだか意味不明のことを叫びながら、立ち上がり、逃げるように去っていった。

 いまにも泣き出しそうな表情で。


 「なんだよ、バーカ」

 一人残った来夢は、そう呟いたきり、しばらく呆然と突っ立っていた。

 どのくらいの時間が経ったのか、ふと我に返ると、その場に座り込んでしまった。

 そして、自分の頭をげんこつで殴った。


 落ち込んでいた。

 来夢は、自分の身勝手さを恥じていた。


 この間、祖父が倒れたと聞いたとき、自分だって相当に取り乱したじゃないか。

 なのにそれを棚に上げて、他人にはなにをかっこつけたこといってんだ。

 自分の勝手な善意が受け止められなかったくらいで、癇癪起こして怒鳴ったりして。

 何様のつもりだよ、わたしは。


 いらいら、もやもや、そうした感情のボルテージそのものはいまさっき隆之と喧嘩したときからまったく下がってはいない。しかしいま、その矛先は隆之ではなく自分に対して向けられていた。


 もう一度、頭を殴った。


     3

 と、それが昨日の夕方のことである。


 現在、時刻は夜の十時半。

 らいは、昨日のその出来事を思い出しながら、駅から自宅へと向かっていた。


 街灯のほとんどない農道は、真っ暗といっても過言ではなかったが、十何年も慣れ親しんだ道、田んぼに転落することもなく器用に端を真っ直ぐ歩いていた。


 サッカー平日練習の帰りである。

 非常に遅い時間ではあるが、普段通りだ。


 昨日の学校でのこと、喧嘩てしまったことなど、思い出したくもないのだが、そう思えば思うほどに自然と頭に浮かんできてしまい、自分でどう出来るものでもなかった。


 今日の勉強はすべて電車の中で済ませはしたが、おかげでまったくはかどらなかった。せっかく行きも帰りも車両にほとんど乗客がおらず、環境としては最高の貸し切り状態であったというのに。


 来夢が自宅に到着したのは、いつもと変わらず十一時少し前であった。


「ただいま」


 ぼそりと呟くように口を開き、靴を脱ぎ、家に上がり込んだ来夢は、なんだかいつも通りではない気配を感じていた。

 なにが違うのか、その理由はすぐに分かった。廊下の向こう、居間から明かりが漏れているのだ。


 どうしたのだろう。

 飲食店経営で朝の早い両親は、この時間もうとっくに布団の中にいるはずなのに。

 弟のゆきひとだって、そのリズムに付き合わされてそれが習慣になっているから、起きているはずがないのに。


「いや、ミスマフーズさんまで手を引くといってくるとは思わなかったよなあ。あおさん、後継者育ててるってはりきってたのに」


 父、ともゆきの声が漏れ、聞こえてきた。


「不景気だものね。うちなんかと、これまでよく取引してくれたと思うよ」


 母、あきのさみしげな声。


「うちなんか、っていうなよ」

「ごめん」


 なんの話をしているのだろうか。そう疑問に思ったが、少し耳をそばだてているうちに、すぐにどのようなことを話しているのかが分かった。


 それは来夢に大きな衝撃を与えるものであると同時に、これまでなにも考えずに生きてきた自分の幼さを、おおいに反省させるきっかけとなるものであった。


 両親の店の経営は不景気によって近年ずっと厳しいものであったのだが、それが回復するどころかさらに厳しい状況に追い込まれた、と、そのような話をしているのだ。


「それとは別に、お客さんの数も過疎化で減ってきているし。ただでさえ少ないお客さんの取り合いなのに、あの大型のフードコートが出来てから一層減っちまったし。やばいなあ、このままじゃ」


 智之はため息をついた。


 来夢は、音を立てず壁に背を向け寄り掛かった。

 ぎゅっと拳を握り締めていた。

 身体が震えていた。

 呼吸が荒くなっていた。


 お店の経営だ、不景気だ、そんなこと、これまで考えたこともなかった。

 それなりに繁盛しているものとばかり、決め付けていた。

 だって、漁港で会うトクさんやさんなど、常連のお客さんがいることだって知っていたし。

 恥ずかしくて面と向かって伝えたことはないけど、お父さんの作る料理、最高に美味しいし。

 お金がないお金がない、と冗談っぽくお母さんもいっていたけど、でも、わたしがなにか欲しがれば文句いわずに買ってくれたし、いまだってサッカーに通わせてくれている。

 だから……


 来夢は両親に気付かれないようにその場を離れると、そっと二階へと上っていった。


     4

「どうした?」


 みながわすみが、不思議そうな表情で小首を傾げている。


「あ、すみません」


 らいは軽く頭を下げた。


 ここはかんばらがくえん女子高等学校跡地のグラウンド。

 サッカーの練習中である。


 現在は夜の七時半。

 当然ながら日は完全に暮れており、校舎の三階ベランダ部分に備え付けられた四基のライトが、練習する選手たちの姿を薄暗く浮かび上がらせている。


 皆川の不思議そうな顔の理由は、パス交換の練習でなんということのない簡単なパスを来夢が受け損なったためであろう。

 先ほども来夢はキャプテンのこんどうなおに「集中しろ!」と怒鳴られたばかりだし、昨日も昨日で、ミニゲームの最中に反対方向に攻め上がってしまうという、うっかりどころではないミスをしてしまい、監督に激怒されていた。


「どうか、したの?」

「いえ、別に。すみません」


 来夢はまた、謝った。


 確かにここ最近、集中力に欠けている。それは自分でも分かっている。

 その理由も、考えるまでもなくよく分かっている。

 自分などがお金をかけてサッカーをやっていてもいいのだろうか。そのような身分ではないのではないだろうか。そう悩んでいるのである。


 うちは、貧乏なのに。

 両親のお店が、経営破綻するかも知れないくらい貧乏なのに。

 ここに通ってサッカーをするにあたって、月々の会費や、電車代もかかるというのに。


 むしろすっぱりと辞めてしまって、その時間をアルバイトにでもあてて家にお金を入れるようにしたほうがいいのではないだろうか。

 そもそも学校、通えるのだろうか。

 卒業、出来るのだろうか。


 と、そういった経済面の心配に加え、先日のおおさわたかゆきとの大喧嘩。


 さらには、病魔に蝕まれていく大沢さきへの不安。小さい頃からよくしてもらっている、大切な人なのに。なんにもしてあげることが出来ない。


 そんなこんなの出来事によって、頭の中がすっかりぐちゃぐちゃ。まったく感情の整理が出来ていないまま、時だけが流れている状況なのである。


「それじゃいくよっ、来夢。今度はちゃんと返しなよ」


 皆川純江はそういうと、来夢へと、ちょこんと弱々しくボールを転がした。

 来夢は右足で止め、蹴り返した。


「お、上手い上手い」


 皆川は足で受けると、小さく拍手をした。


「なんですかそれ、こんなパスくらいで、もう! あったまくんな」

「こんなパスも受け損なっていたの誰だよ」


 皆川は、思わず苦笑いを浮かべた。


 彼女の来夢への態度であるが、この通り、以前と比べてすっかりと軟化していた。

 これまで取り続けてきた態度が態度だったため、いきなり明るく朗らかに来夢と接することなどは出来なかったが、オーラが目視出来そうなほどの異常な敵対感情は、もう完全にどこかへと飛んでしまったようで、まったく感じられなかった。


 軟化の中で特に目立つ変化としては、他の者たちよりだいぶ遅れること彼女も来夢を下の名前で呼ぶようになったことであろうか。


 段々と、ではない。これらの変化は、あのラーメン屋での一件以来、突然であった。

 翌日から、がらりと変わったのである。

 たけあいが二人を強引に博多ラーメンの店に連れていったことにより起こった、クラブ史上最大級のその快挙は、「とんこつの奇跡」として、神原学園内で記念日として認定されるそうである。おおが勝手に決めたことなので、オフになったり練習量が軽減されるなどの特典はなに一つないらしいが。


     5

 記念日だろうがなんだろうが、正直、らいにはどうでもいいことであったが、そんな神通力があるのならば神様たけ様に次なる奇跡を起こしてもらおうか。と、練習後、たけあいに相談を持ち掛けた。


 現在悩んでいること、つまりはサッカーを続けるか否かということと、幼なじみとの喧嘩についてを、正直に打ち明けたのだ。

 自分一人でうじうじ考えていても仕方がないと思って。

 どうせ誰かに話すのなら、神様に相談したほうがいい。


「知らんわ」


 鼻の大きな神様の第一声は、実に簡素で、なおかつ役立たないものであった。


「そんな無情に突っぱねなくても」


 お節介焼きとか、自分でいってたくせに。


「だってさ、冷静に考えてみなよ。ここでサッカーを続けるかどうかってのは、お金と時間と環境、それぞれについての価値観、なにが自分にとってより重たいのかっていう心の天秤の問題でしょ。じゃあ、部外者にはどうしようもないでしょうが」


 佐竹愛はそういうと自分の大きな鼻をなでた。


「まあ、そうですね」


 自分にとってなにがより重いか、か。

 確かに、それは間違いない。


「お金のことがそんな気になるっていうなら、それをどう工面するかを考え出すか、または会費を取られないところに移籍するしかない。この辺だと、いしのまきベイスパロウくらいしかないよ。あそこ凄まじく弱いけど一応一部所属だから、簡単にはいかないと思うけどね」

「はい」


 移籍は考えたことはある。

 でもそうするにはまだまだだ実力と実績が足りないし、それに……


 このことを考えると、来夢はより落ち込んでしまう。

 以前は移籍について、将来の代表入りのためのステップアップとして捉えていた。

 それが現在では、サッカーを続ける費用がないから、などということを理由にそんなことを考えなくてはならないなどどは。

 そんなみすぼらしい思いをしてまで、サッカーというのはかじりつかなければならないものか?


「あ、あとね、幼なじみの男の子、おおわら君?」

おおさわです」

「その君との一件は、それは考えるだけ無駄だね。だってさあ、来夢は自分になにが出来るのかを悩んでるんじゃなくて、単に自分が面白くないっていう気分の問題、っていうそれだけのことでしょうが。そんなもんはね、時間が解決するよ。普通に生きていれば当然出くわす他の色々な辛いことに押し出されて、記憶は残るけど感情は平常におさまってる」

「はあ」

「あたしも、ヘビークレーム対応やってからしばらく仕事行くの辛くてしかたなかったけど、彼氏に振られたらそのショックで仕事の辛い記憶なんかコロッと忘れてどうでもよく……って余計なこといわすな! だから来夢はね、とりあえずサッカーのことだけ、真剣に考えていればいい。家のお金のことも心配かも知れないけど、でも、あと一年半で高校も卒業だろ?

「はい」

「だからご両親にはもうちょっとだけ頑張っていただいて、来夢は来夢でしっかり練習して、もちろん勉強もして、もっとサッカー上手になって、活躍して、それからどうするか考えてもいいんじゃない? もしかしたら、ここが一部にでも上がれれば、待遇だってよくなるかも知れないしね。だからとにかく頑張って。夢、あるんでしょ?」


 さすがはお節介焼きと自分でいっているだけあって、最初に冷たく突っぱねたわりには、他人の人生について襟首掴まえててでも熱く熱く語る佐竹愛であった。


「はい」


 来夢は頷いた。

 いわれてみれば、佐竹のその言葉はいちいちもっともであり、確かに、悩むようなことではなかったのかも知れない。

 とはいうものの、そう思っただけで心の底からすっきり出来るのなら世話はない。

 結局のところまだまだ、来夢の心のもやもやは晴れそうもなかった。


 本当に、時間が解決することだろうか。

 なにか別の大変なことが起きれば押し出されて忘れる、などと佐竹はいっていたが、自分は、もしもそうなったらパニック起こして死ぬ。多分。押し出されることなどなく、キャパオーバーで。

 まあ、死んで面倒なことから永遠に解放されるというのなら、それも悪くない。


     6

「アカライジャー!

 アオライジャー!

 ミドライジャー!

 キライジャー!

 モモライジャー!


 我らの地球、その平和を守る五人の勇者たち

 見よ、駆け抜ける正義の閃光

 その名は、雷神戦隊ゴライジャー!


 (ドドーン!)」


 ナレーションの叫びとともに背後で爆発、地球の平和を守る五人の勇者たちが極悪帝グーバの手下たちと戦いを開始した。

 日曜朝、七時四十八分。


「おーおー、こういうのに夢中になってる中学生がいるだけで、充分に我らの地球は平和だ」


 らいは寝ぼけまなこをこすりこすり、大きなあくびをしながらのみっともない顔で、居間に入ってきた。

 竜巻にでも巻き込まれたかのようにねじれ上がった自分の寝癖頭を、ばりばりと掻いた。


「別に夢中になってはいないよ」


 弟、ゆきひとはソファーの前、カーペットに直接腰を降ろして、朝も早くからポテトチップスをつまんでいる。


「嘘だあ。毎週かかさず見てるじゃんかよ」

「話が飛ぶからかかさず見ているだけで、夢中になっているわけではない」


 幸人は、あくまで否定をする。


「わけの分からないことを」


 夢中になってればこそじゃねえか。来夢は心の中で呟いたが、そんな話をいつまでも続けていたところで仕方ないので口には出さなかった。


「そうだ、姉ちゃん、おおさわのおばさんのお見舞いには行ったの? 行くっていってたろ」


 テレビから視線そらさず、幸人は尋ねた。ゴライジャー五人の搭乗するメカが、リュウジンオーに雷鳴合体するバンクシーンの最中だ。


「行かなかった。あいつに話したら、余計なことすんなって怒るんだもん。服掴みあって喧嘩しちゃったよ」

「あいつって?」

「だから大沢だよ」

「大沢の誰?」

「だからっ! ……大沢、たかゆきだよ」


 わざといわせてるんじゃないだろうな。

 と思ったが、ちょっと天然気味の弟だし、本気でボケてるのだろう。


「ああ、隆之兄ちゃんね。どうしたんだろうね。おれは昨日、行ってきちゃった。お母さんと一緒に」

「え、抜け駆けかよ。ずるいな。それで、怒ったりされなかった? 大沢……隆之に」

「うん。だって、いなかったから。おばさんとおじさんしか。そもそも、なんで怒るの?」

「そっか。あたしも行ってこよっかな。やっぱり不義理だもんな」


 近所の大沢家とは、隆之と来夢とが幼少期に仲良くなったことがきっかけで、家族ぐるみの付き合いが始まり、これまで継続をしてきた。

 隆之と来夢のべったりとした関係は、性別が違うということもあり、お互い思春期に入ったことにより終わってしまった。

 しかし、家同士が疎遠になったわけではないし、なんといっても来夢にとってさきは、これまで自分によくしてくれたおばさんなのである。


 幸人たちがお見舞いに行って特に問題なかったのだから、先日の件は、やっぱり隆之がひねくれて他人の好意に腹を立てて勝手なことをいっていただけなのだ。

 いまの来夢には、そのようになる心境もある程度は理解出来るので、もう隆之に文句をいうつもりなどはさらさらなかったが。


「うん、行ってきなよ。だって姉ちゃんにとって、義理のお母さんだもんな」

「はああ? 適当なこと抜かしてっとコブラツイストかけて泣かすよ久し振りに。……お前こそ、例の彼女とはどうなんだよ。その後、ちっとも話を聞かないけど」


 来夢は、幸人の手にしているポテトチップスの袋に右手を突っ込むと、ごっそりと掴み取り、逆の手で一枚つまんで口に放り込んだ。


「だから彼女ってわけじゃ! ……まあその、ひょっとして、もしかしたら……そうなのかも、知れない、けど」


 幸人はほんの少しうつむいた。

 来夢は、ちょっとだけ目を細め口元を緩めた。


「そっか。ま、うまくやれよ。なんかあったら姉ちゃん相談に乗ってやるから」


 ぽん、と頭を叩いた。

 これまでの人生で一度も恋愛経験なんかないけど、まあ、だからこそ出来るアドバイスもあるかも知れない。ないかも知れない。


     7

 おおさわ宅は、とりたてて特徴のないごくごく平凡な造りの、二階建ての一軒家である。

 あえて特徴をあげろというのならば、見た目に酷くボロということくらいであろうか。見た目だけではなく実際にその通りなのであるが。


 この家の完成に合わせるように、おおさわえいきちさき夫婦は結婚をした。


 その後、なかなか子宝に恵まれなかったが、十数年の年月を経てようやく長男たかゆきが誕生。


 それからさらに時は流れて十七年であるから、かれこれ築三十年は過ぎている。

 ボロが出るのも当然であろう。


 栄吉は、暮らすのに不便になってきたら別の住居に移ればいいなどといって、これまでまともなリフォームを行ったことが一度もない。せいぜい和室の障子を張り替えたり、蛇口のパッキンを取り替えたりしたくらいのものである。

 実際のところ、しっかりとしたリフォームにかけられるだけの金の余裕もなかったのであるが。


 金はないけれど、親子三人、明るく楽しい家庭ではあった。


「それがいまではねえ」


 咲子はぼそりと呟きながら、笑みを浮かべてみせた。

 わざと楽しげな顔を作っているようにも見えた。

 それは運命や神様に対する皮肉であるのか、それとも単に退屈だからであるのか、自分のことながら自分でも分かってはいなかったが。


 ただ、退屈であること自体は間違いのない事実。

 当然だ。連日、布団の中でただ横になっているだけの身なのであるから。


 動いて最低限の家事くらいはしたいのだけれども、身体がいうことをきかず、自力で立ち上がることすら出来ない状態なのだ。

 せいぜい必死に頑張って、腕を上げたり、首を回したりが出来る程度だ。


「おい、トイレ大丈夫か?」


 がたがたと、たてつけの悪くなっている襖が開いて、夫である栄吉が顔を覗かせた。


「ありがとう。大丈夫だよ」


 大丈夫、なはずだ。

 五体の感覚が日に日に麻痺してきていることを自覚しており、それがたまらなく不安ではあったが、しかしまだ尿意を感じる機能まで衰えてはいないと思っている。


 もしもそこまで病状が進んでしまったならば、自分の手をどうにか動かせるうちに、刃物で自らの命を絶つかも知れない。

 そうするかどうかは分からないけど、そうするかどうかを迷うことは間違いないだろう。


 夫、栄吉は床擦れしないよう咲子の姿勢を変えた。

 上半身を抱き起こし、背後にバックレストを置いた。


 障子、そしてガラス窓を全開にした。

 せっかく窓を開けたところで、隣の敷地の小さな林に邪魔されて眺めもへったくれもないが、閉めっぱなしよりは気持ちが良いだろう。


 栄吉が五分ほど妻の手足をマッサージし、家事に戻ろうとした時である。


「こんにちはあ」


 すぐそばから、少女の高い声が聞こえてきた。


     8

 声の主は、ひろらいであった。

 両手にかごを抱え、敷地と林との間の細い未舗装路に立っている。


「お、来夢ちゃん、久しぶり」


 おおさわ栄吉は縁側に出ると、片手を上げて挨拶をした。


「お邪魔しても、いい?」


 来夢は軽く会釈を済ませ、尋ねた。


「いいよ。タカ坊はまだ帰ってきてないけど、そんでよければ上がってきなよ」

「はい。じゃあこれ、お見舞いの果物」


 来夢は、抱えていたかごを栄吉に差し出した。


「おう、どうもありがとね。昨日もゆきひと君がお母さんと一緒に来てくれたし、なんかなあ、申し訳ないね。でも遠慮なく頂くとして、それじゃさっそく切ってくるかなっと」


 わざとらしい大声を上げながら、栄吉は襖を開けて、部屋を出ていった。

 おそらく妻を暗い気持ちにさせないため、常にこのように振る舞っているのだろう。来夢はそう思っていた。


 和室の縁側で、靴を脱いで部屋に入った来夢は、さきの横に腰を下ろした。


「おばさん、具合どう?」

「悪くないよ。ちょっといまね、力が入らなくて自分で起き上がれなくなっちゃってるけど」

「早くよくなるといいね」


 その言葉は、純粋に本心からのものだった。

 来夢の両親は共働きでほとんど家におらず、幼少の頃は咲子によく遊んでもらった。そういった恩というよりは、一緒に過ごした時期が非常に長いために必然的に発生する家族に近い情というものがあるのだ。


「そうだね。ありがとう」


 それきりお互いの口が閉じた。

 十数秒後、


「あ、あの今日っ学校でねっ」


 慌てたように口を開いて話し始めたのは、来夢であった。

 無言でいることにより、なんとも湿っぽい雰囲気になってしまうような気がして。

 それがとても悪いことのような気がして、自分のサッカーのことや先ほど見た野良犬の話など、無理矢理に話題を作って喋り続けた。


 それから十分ほども経った頃である。


「ただいまー」


 玄関のほうから、ガラリと戸の開く音とたかゆきの声が聞こえてきた。

 来夢はびくりと肩を震わせると、なんとも気まずそうな表情になった。


「お、タカ坊、来夢ちゃん来てるぞ」


 栄吉の声だ。

 それを受けてかどうかは分からないが、どすどすと荒っぽく床を歩く音がして、そして襖が開いた。


 大沢隆之と、来夢の目が合った。

 隆之の顔は、あきらかに怒っているようであった。

 目も、口元も。その立ち尽くす姿からも、来夢にはそう受け取れた。


「ちょっと来い!」


 来夢へさっと寄ると、彼女の手を強く掴んだ。

 そのまま来夢を引っ張り立ち上がらせ、手を引いて階段へ。

 痛い痛いと振りほどこうとするのも聞かず、強引に二階へと上って行く。


 連れてこられたのは、隆之の部屋であった。

 子供の頃に、何百回となく遊びにきたことのある部屋だ。

 おもちゃなどはもうすっかりなくなって、床にはバスケットボールやダンベル、壁にはNBA選手のポスターなどが貼られている。


 来夢は改めて隆之の手を振りほどこうと強く引っ張ったところ、すっぽ抜け、くるんと身体が一回転してしまった。隆之が掴む力を緩めていたからだ。


 二人は向き合った。

 来夢は隆之の顔を睨みつけていた。くるり一回転で、ちょっと恥ずかしかったけれど。


「あたしだっておばさんにお世話になってんだから、お見舞いにきたくらいでそんな怒ること…」

「ごめん!」


 隆之は大きな声を上げ、深く頭を下げた。

 予期せぬ反応に、なにがなんだか分からず、来夢はきょとんとした表情になってしまっていた。


「おれ、どうしたらいいのか、分からなくって。だからっ……」


 隆之の怒っているような表情そのものは、先ほどからまったく変化はない。でもどうやらそれは単に本人の不器用さ故に、素直に申し訳なさそうな顔が出来ないといった、ただそれだけのようであった。


 おそらく、先日の件を謝っているのだろう。

 学校で、お見舞いの話をしたら怒り出した、あの時のことを。


「そんなに、悪いの? おばさんの状態って」


 そんな、正常な気持ちでいられなくなるくらいに。


 来夢の問いに、隆之は頷いた。


「ガンみたいに余命宣告は受けていないけど、とにかくこのままなら、身体がどんどん弱っていくだけだ」


 そしていずれは……

 という思いにか、隆之はきゅっと唇を結んだ。


 そのもどかしそうな、悲しそうな表情を見ているうち、来夢の目にじわりと涙が滲んでいた。


 それを見た隆之の顔から、張り詰めていたものが少し和らいだようであった。


「ほんと優しいよな、お前は。他人の親のことだってのに。一見ひねくれてるくせに」

「そういうのじゃないよ!」


 瞳を潤ませながら、とっさにそう返したものの、なにがそういうのじゃないのか自分でも分からなかった。


「おばさん、あたしにだってよくしてくれたんだから、他人なんかじゃない。もしなんかあったら、あたしだって悲しいんだよ」


 後付けで、涙の理由を作り出した。


「それと、ひねくれているのはそっちでしょ! そんな、すっかり心が参っちゃってる時くらい、素直に人の好意は受けなさいよ」

「悪かった」


 隆之はゆっくりと床に腰を下ろし、背を丸め、なんだか頼りなく縮まってしまった。


「素直なとこも、あるじゃん。また口ごたえするかと思ったら」


 なんだか拍子抜けしてしまい、唇を尖らせてもごもご早口で呟きながら、来夢も隆之の隣に腰を下ろした。

 隣に座ってみたはいいが、泣きそうな顔をしている隆之を、どう慰めてあげればいいのか、かける言葉が分からなかった。

 そのまま、二人は無言であった。


 いま隆之がなにを考えているのか。

 来夢には分からない。

 分かっているのは自分のこと。いま酷く自己嫌悪に陥っているということであった。


 おばさんがそれほど酷い状態だというのに、先日からの隆之とのいがみ合いが解決して、気持ちのすっとした自分がおり、こんな時にそんなことで充足を感じている自分に怒りや罪悪感を覚えていたのである。


 でも、早く病気が治るといいなと本心から思っているという、それは、間違いのないことなんだから……

 と、誰も責めてなどいないというのに、来夢は心の中で必死に弁解の言葉を吐き続けていた。

 自分の心に嘘など付けるはずもなく、そのような弁解など無意味だというのに。


     9

 着ていたものをすべて脱いで洗濯機に放り込み、浴室のドアの取っ手に手をかけたところで、とと、と後ろに下がり、つい姿見に自分の全身を映してみた。


 全裸の自分の、擦り傷だらけの足をじっと見つめた。正しくは、筋肉のつき方を。

 視線を移動させて、ふくらはぎから、腿、そしてお腹、胸、肩、腕、首。


 ちょっとは、筋肉ついてきたかな。


 心の中で呟いた。

 まだ十六歳で身体も出来上がっておらず、あまりウエイトトレーニングはしないようにやまコーチにいわれている。骨肉の成長に悪影響を与える可能性があるためだ。

 しかし、分かってはいるもののついつい来夢は大人の選手たちと一緒に自分を虐めてしまっていた。

 かんばらがくえんの協賛会社が経営するスポーツジムを、一週間に一度、無料で使用することが出来るのだが、少し器具を使用するくらい構わないだろうと始めつつ、気付けばかなり本格的にやりこんでしまっていた。


 鍛え続けた効果がようやく出てきたのか、見た目にも全身が引き締まってきた気がする。


 身を屈ませて足首に軽く手を添えると、すーっと下から撫で上げていった。

 微かに肉の凹凸を皮膚の向こう側に感じる。以前はこんな感触はなかった。やはり、確実に筋肉はついている。


 次いで腹筋を撫でてみた。

 女子の身である以上うっすら脂肪は乗ってしまっているけど、やはりその奥に、しっかり割れたもののあるのを感じる。まだそれほど、大したものでもないけれど。


 肩や腕の筋肉、ここはさっぱり以前と変わらない。骨の上に脂肪が乗っているような軟弱な感じだ。

 ちょっと力を入れてみるものの、筋はぴくりとも動かない。

 胸の筋肉は、以前と比べれば、少しはついてきているようだが。

 でも……


「上半身に、もっともっと欲しいよなあ」


 体格に勝る相手と試合でまともにやり合うには、上半身の筋肉は大切だ。

 堂々ぶつかり合わずに小柄故の俊敏さを生かせば良い、というそれはもっともな考えであるが、そうするためにも最低限しっかりとした肉体が必要になってくる。

 チャレンジリーグではフィジカルの弱さから悪戦苦闘をしている来夢であるが、日本人とまともに戦えないようで外国と戦えるわけがない。


 将来、来夢の背が大きく伸びて逞しく成長しないとも限らないが、現状では、自分は小粒中の小粒であることを認識して、ならばどうすれば良いのかと考えながら日々の練習に取り組んでいくしかない。

 ウエイトトレーニングが解禁されれば、実費を負担してでも本格的な肉体改造に取り組みたいところだ。

 それには高校卒業して働くなどして、家庭に負担をかけずに自分の力だけでサッカーが出来るようになっていないといけない。


 でもそれまで、サッカーを続けていられるだろうか。

 お店が厳しい状態って、一体どれくらい酷い状態なんだろう。赤字、なのだろうか。家でちょっと節約してみてもどうしようもないくらいに。


 両親の飲食店が厳しい経営状態であることをこっそり聞いてしまってから、ことあるごとにそのことを考えてしまう。


 来夢は首を横に振った。

 本当に厳しい状態であるならば、親だって黙っていることはないだろう。子供の進学やら、色々なことに関わってくる問題なのだから。

 まだなにもいわれてないのだから、きっと大丈夫だ。


 それより、えっと、なんだっけ、そう、筋トレ。

 二の腕を曲げて、力こぶを作ろうとした。

 ほんの僅かすらも盛り上がらない。

 ジムであれだけ鍛えているのだから、少しくらいぽこっと出てもいいのに! せめてぴくりとくらい動いて欲しい。


「悔しいな。こぶ出ろ! 出ろ!」


 ムキになって、全裸のまま姿見の前で腕に力を入れ続けていると、ばんと突然ドアが開いた。


「姉ちゃん、遊んでないで早く入れよ!」


 弟のゆきひとであった。

 テレビの予定でも狂うのか、ちょっと怒った顔をしている。


「あああ開けるなバカっ!」


 来夢はすっかりひっくり返った悲鳴のような叫びを上げ、前屈みになって、あたふたと身体のあれやこれやを隠すように両手を動かした。


「たいしたもんじゃねえだろ」


 バタン。

 ドアが閉まった。


 静寂。

 過ぎ去った嵐、というか自分が巻き起こした嵐に、しばらくぽかんと間の抜けた表情の来夢であったが、やがて急速に、怒り、というか屈辱感が込み上げてきた。


 あいつにも、子供と思われてるんだ。


「なんだよ、ゴライジャーかかさず見てるくせに」


 二歳年下のくせに。

 お前だって子供じゃないかよ。

 バーカ。

 長風呂してやる。そっちの予定なんか知るか。


 ふう、とため息をつくと、ようやく浴室へ入った。


 そもそも、なんで鏡なんか見てたんだっけ。

 そうだ、筋肉がついたか確認してたんだ。

 夢をかなえるために、いつか世界と戦うために。


 身体を洗い、洗髪し、浴槽のお湯に浸かった来夢は、またため息をついた。


 今日これで何回目だろう。最近、ため息ばかりだ。

 夢を見れば見るほど、うまくいかない自分を思い知らされて。

 そして、家が貧しいことを知ってしまって、罪悪感を覚えながらサッカーを続けているこの現状に。


 自分、なにになりたいのだろう。

 サッカー選手?

 でも、もうなっているといえばなっているんだよな。なでしこリーグの公式ページなんかでも、わたしの名前、ちゃんと出ているらしいものな。


 サッカーでご飯食べていかれれば、それでいいのだろうか。

 代表になって女子サッカーの知名度を上げて、女子サッカーをもっともっと人気スポーツにする、という夢は前々から強く持っているけれど、最近、その気持ちにどことなく漠然としたものがあるように感じていた。

 考えてもその理由が分からなかったのだが、いま不意に理由が分かった。主体がないのだ。つまり、世の中をどうしたいのか、どんな世の中になればいいのか、そういう夢はあっても、自分自身がどうなっていたいのかという願望がその中にない。


 有名人にでもなって、タレント活動でもしたいのか? いや、そんなことにあまり興味はない。

 ならば、なにになりたいのだろう。

 サッカーを続けながら、どんな自分になりたいのだろう。

 なにもないのに、これまで主体性のない夢だけを見ていたのか。

 自分自身の人生を、充実させてもいないくせに。


 いや、充実はしている、

 ……だろうか? 果たして。


 たった一度きりの人生、充実した毎日を送っているだろうか?

 そもそも……自分に、夢を見て、夢を追う、そんな資格、あるのだろうか。


 バシャッ

 水しぶきが跳ね上がった。

 風呂のお湯を両手で叩いたのだ。


「峰の白葉が、海に舞い」


 浴槽の手摺りに両手をかけると、身を後ろに倒すように沈め、水滴したたる天井を見上げて、何故だか突然に大声で高校の校歌を歌い始めていた。

 一番と二番が終わると、三番はよく覚えていないので鼻歌で済ませ、続いて君が代を、やはり大きな声で歌い始めた。


 国立のピッチに立つ自分を想像出来るか。

 それにより、夢を持つ資格を計ろうとしているのであろうか。


 そんな疑問を心に唱えていた。

 何故ならば、どうして自分が湯船に浸かりながら君が代など歌っているのか、自分でもさっぱり理由が分からなかったからである。

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