第三章 パス交換
1
「大丈夫大丈夫」
「だから大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういうことじゃなくて、恥ずかしいっていってんの! ここ農家のおじちゃんが通ったりするとこなのに」
娘、
ここは広瀬家正面の庭。
来夢の父である智之と、弟の
「だからそんなん気にせんでも大丈夫だって」
父がまた戻ってきて、鉄板を抱えて来夢の前を通り過ぎた。
「まったくもう」
日本語がまるで通じず、埒が明かない。
もういいや。
来夢は諦めた。
先ほどからなにを揉めているのかというと(正確には、来夢が一人で反抗しているというだけの図であるが)智之が今朝になって突然、庭で食事をしようといい出したのだ。
父の述べる理由としては、みんなの休みが重なったことと、一昨年購入したキャンプセットが一度も使っておらず埃を被っていてこのままでは勿体ないこと、そして今日がとっても爽やかな良い天気であるから、とのことであった。
来夢としては、先ほど述べたような理由により断固として反対なのであるが、その訴えなど風にぽろぽろ流されて微塵も届くことはなく、智之は幸人と一緒にキャンプ用の野外調理器具をせっせと組み立てているのであった。
なんだかんだぼやきつつも、なんだかんだとため息をつきつつも、来夢が抗議するのを諦めたのは、父の作る料理がとても美味しいことを知っているから。
なんといっても常連客のたくさんいる、プロの料理人なのだから。
それならば文句をいわずに喜んで食べればいいではないか、などといわれそうであるが、まあこれこそが乙女心というものであろうか。
「こんにちはあ」
近所に住む来夢の幼馴染の少年、
まさか庭でこんなことをしているとは思っていなかったのだろう。
ちょっと驚いたような顔であった。
「お、こんにちはタッちゃん。ああ、ちょっと待って」
智之が呼び止めた。
え? という表情になったのは、隆之よりもむしろ来夢であった。
何故呼び止める!
ぎぎい、と錆びきった音をたてて自転車は止まった。
来夢の表情が、ちょっと硬くなった。
一瞬見つめ合う二人であったが、隆之はすぐに目をそらして、智之へと顔を向けた。
「いま時間ある?」
智之は尋ねた。
「特に予定はないですけど。家には父ちゃんがいるし」
だから母親の看病も問題はない、ということか。
「それじゃ、よければ食べてきなよ」
「えー、でも悪いなあ」
ちょっと困ったように頭を掻いた。
えーはこっちの台詞だ! と来夢は思った。
「いいからいいから。若いもんはしっかり食べて元気つけないと」
いや、そいつバスケ部でレギュラーなくらいだから、なにもしなくても充分に元気だと思うんだけど……
という来夢の心の突っ込みなど当然届くはずもなく、結局、隆之は、智之幸人親子に自転車を下ろされ、背中を押され、来夢の隣の席に座らせられてしまうのであった。
「おう」
隆之はばつが悪そうに、ぼそりと口を開いた。
来夢は「どうも」という感じに、小さく頭を下げた。なんだか不自然な態度であることなど自覚しているが、じゃあどうすればいいのかなど分からなかったし。
そもそも自然な態度など、恥ずかしくて取れわけがないだろう。こんなところで、こんな奴と。
「タッちゃんさ、お母さんの具合どうなの?」
智之が尋ねた。
「よしなさいよ、そういうこと聞くのは」
来夢たちの母である
「相変わらずです。本人もただ寝ているのが申し訳ないみたいで色々とやろうとするから、ちっともよくならないし」
隆之は、わずかに下を向いて、視線を落とした。
場が、しんとなってしまった。
ほらもう、とばかりに秋江は智之の脇腹を肘で突いた。結構強めに。
「きっと、よくなるよ」
静寂に耐えられず、真っ先に口を開いたのは来夢であった。
「もう診てくれそうな病院は、全部まわったんだよ」
隆之は少しの間を置くと、そうぼそりといった。
だから、もうどうしようもないのだ。なにも知らないくせに気休めなどをいうな。と、そういうことであろうか。
こっちはただ、励まそうとしていっただけなのに。
来夢は黙り込んだ。
面白くない気分ではあったが、話題が話題だから、ここで自分が嫌な態度などを取るわけにはいかない。服の裾を掴んで、ぐっとこらえた。
そもそもお父さんも、ここでそんな話なんかするなってんだよ。と、心の中でぶつぶつ小言を吐き散らしながら。
「隆之兄ちゃん料理したりすんのも大変だろうから、姉ちゃん手伝いにいってやれよ。かえって無茶苦茶にしちゃいそうな気もするけど、でも愛する彼氏なんだからさあ」
幸人が、にやにやした笑いを浮かべている。
「そんなんじゃねえから!」
隆之と来夢の二人は一瞬のうろたえを見せると、それをごまかすように大声を張り上げていた。
その表情やタイミングのシンクロ具合といい台詞のハモり具合といい、なんだか長年連れ添った夫婦のような、いや、それはもう漫画のようであった。
2
「
先ほどからひっきりなしに、興奮したように声を上げ続けている。ようにというより、実際に興奮を抑え切れていなかった。
抑えるつもりもない。
だってついに、この遠いアウェーの地にて、初ベンチ入りを果たしたのだから。
それだけで満足してはいけないが、このステップアップを喜び興奮してなにが悪い。
来夢たち遠征メンバーに入った
遠征の出発は、先日の朝。
仙台駅集合で、そこから新幹線に乗り、そしてサッカーの聖地国立競技場の存在するあの東京都へ。
東京駅というとてつもなく広い駅で、なんたら東北線だかいう青いラインの入った電車に乗り換えて上野駅へ、そこから常磐線で柏駅まで。
柏で前泊したわけであるが、道中、到着してからも、来夢はわくわくしっぱなしで、ずっと無駄に騒いでいた。
柏は東京から離れているし別に都会ではないよ、と事前にいわれてはいたのだが、それでも
つい夜の街を探検して門限を少しオーバーしてしまい、監督にこっ酷く怒られたが、それで収束する程度の来夢の高揚感ではなく、宿泊するホテルの中でも一人はしゃぎ続けていた。
四人部屋であったのだが、もしもその中に
と、それは昨日の話。
現在は試合の真っ只中だ。
二〇一〇年九月五日
チャレンジリーグEAST 第十三節
神原学園の今日の対戦相手は、柏レニウスである。
試合会場は、あけぼの山ほのぼの公園第二陸上広場。観客席の存在しない競技場で、地元のJリーグクラブの練習や、社会人リーグの試合などにもよく利用されている。
なお、リーグ名にEASTと付くからにはWESTも存在する。
去年まではトップリーグ同様に全国規模でのリーグ戦であったのだが、本年度より試験的に、日本を東西に分けてそれぞれで独立したリーグ戦を行なう方式に変更されたのである。
ほとんどのクラブが財政難に喘いでおり、遠征費用削減策の一つということらしい。
参加クラブは、次の通り、
[チャレンジリーグEAST]
オベレイション
[チャレンジリーグWEST]
ライナマーレ
ダイノテンプル
ガモレ
柏レニウスは、創設二十五年という歴史のある女子サッカー専門クラブチームである。
以前は毎年のように優勝争いをする強豪であったが、なでしこバブルの完全に弾けたここ十年ほどは、一部と二部を行ったり来たりしており、俗にいうエレベータークラブと化している。
「一部に上がったことの一度もないうちなんかが、決してバカにすることなんて出来ないけどね。それに、エレベーターって悪いイメージあるけど逆に考えると軽く一部に昇格する力を持っているってことだから、ちょっとでも油断したら、ぼこぼこにされる」
とは前日のミーティングの際に、来夢に説明してくれたキャプテン
油断したら酷い目にあうことなど、そもそもサッカーでは当然のことで、いちいちいわれるまでもないことではあるが、なにぶんにもこちらはベンチの身であり、どう自分を戒めようとどうなるものでもなかった。
いま出来ること、それはしっかり声を出してピッチ上の仲間を鼓舞することと、出場に備えて試合を良く見ることだ。
そして、自分自身の気持ちも高めておくこと。
そういう意味では、昨日からの初遠征による高揚感を、うまくこの場に繋げることが出来ている。
いつでも、出られる。
出て、そこで通用するのかどうかは、正直にいえば分からないが。
だって、まだ一度もこのリーグの公式戦になど出たことがないのだから。
でも、通用すると思えばこそ、監督は自分をメンバーに登録したのだろう。そう強く信じるしかない。
現在、後半二十五分。
柏 1-0 神原学園
薄黄色のユニフォームの柏レニウスに対し、神原学園は一点のリードを許している状況だ。
なお、神原学園にとってはアウェーなので、今日は白の上下、セカンドユニフォームだ。
試合展開そのものとしては、五分と五分で伯仲している。
柏のほうが選手の個人技という面では若干有利であるが、神原学園のほうが若干ながら組織力で勝っており、開始直後からずっと、押しつ押されつの拮抗した試合が続いていた。
そんな中で神原学園は先制を許してしまったのであるが、それは前半も終わろうかという時間帯、
神原学園は追いつきたい気持ちとバランスを崩したくない気持ちとの葛藤の中、追加点こそ許さないものの一点も取れないまま現在に至っている。
来夢はベンチから大声を張り上げながら試合の様子をずっと見ていたが、特に意識を向けていたのが右
別に皆川純江と犬猿の仲だからということではなく、自分が交代出場するならば彼女のポジションである右サイドに入るだろうからだ。
皆川純江は、それほど上手な選手ではない。
特に守備力に難があり、視野も狭く、言葉は悪いが「穴」と呼んでも過言過ぎることはない、そんな存在であり、柏レニウスもすぐにそれに気付いたのか、そこを完全な「穴」とすべく前半戦から徹底的に狙っていた。
練習試合ならば、皆川ザマアミロと爽快な気分になれたかも知れないが、いまの来夢にはそのような余裕はなかった。
まだ一度も出場したことがないため、自分が皆川純江以上にやれるかどうかなど分からないし、出場に備えて試合の流れを把握するのに精一杯だったからである。
自分ならこうする。
自分ならばああはしない。
ああ、
などと、分析を頭に叩き込みながら、気持ちを落ち着かせ、そして戦意を高めている中、ついにその時は来たのである。
3
「
監督が呟くように、でもはっきりと聞こえる大きな声でいった。
「え? ……あたしが?」
来夢はきょとんとした表情を浮かべ、自分の顔を指差した。
「お前、出るつもりなかったのか?」
「いえ、そんなわけでは」
試合に出るつもりでいつも練習しているに決まっている。今回の初遠征だって、試合に出て、活躍するつもりでいるに決まっている。
ただ本心、意識と無意識とがない混ぜになった部分では、出番はまだ来ないだろう、と漠然と考えていたのも事実であった。
初ベンチで、しかもリードされている状況とあっては、なおのこと。
反対に何点かリードしているような状況であれば、ひょっとしてそろそろかな、と予想して覚悟を決めることも出来たであろうが。
「早くあっためろよ! ケツでベンチあっためるのはもういいから、身体を」
「はい!」
来夢は慌てたように立ち上がった。
ジャージを脱いで白いユニフォーム姿になると、ピッチのすぐ横にてアップを開始した。
アップをしている最中、どうにも気になって仕方がなかったのが
プレーの切れるたび、ちらちらと来夢へと視線を向けてくるのだ。
離れていても、もの凄い殺気を感じる。
腹でも壊して引っ込めばいい、とでも考えているのであれば、まだ穏やかなほうかも知れない。
まあ、殺気立つその気持ちは分かる。
だって来夢が交代で入るポジションというのは……
気まずく感じるものは、ちょっとどころではなくあったが、でも来夢としてはこのアピールの場を逃すつもりはなかった。
いつか夢をかなえる、そのために。
後半三十分、神原学園に選手交代。
皆川純江 アウト
広瀬来夢 イン
皆川は、やはりというべきか来夢とは目を合わせようともしなかった。
それどころか、こちらの出した手を、ぱしんと払いのけた。
でも、そういう嫌な態度を取ってくれたこと、来夢には有り難かった。思い切り活躍して、恥をかかせてやる。これまでの復讐をしてやる。と、そういう気分になれたからだ。
ポジション争いの厳しさや負けた時の悲しさ悔しさはよく分かっているため、根がお人よしの来夢としてはそう考えでもしないと相手に同情してしまって力が発揮出来ないからだ。
夢をかなえるためには、そんな甘いことはいっていられないのだ。
なでしこジャパンを優勝に導き、日本における女子サッカーの知名度を向上させるためにも。
「やるぞ!」
来夢は両腕を振り上げて叫ぶと、小走りで位置へとついた。背が低いため、ゴール前でのCKの守備には加わらず、カウンター要員として。
本音をいうと攻守問わずゴール前の争いには参加したい。セットプレー時のゴール前の攻防は、サッカーの醍醐味の一つだと思うし、そこでヘディングシュートなんか決めたら最高に気持ちいいだろうと思うから。
以前に男子サッカー部の練習試合で決めたことはあるが、超弱小高校同士の対戦であったためあまり達成感はない。やはりちゃんとした試合でなければ。
身長が身長なので、諦めるしかないのだが。
などと考えても仕方ない。とにかくいまは、いまの自分に出来ることをやるだけだ。今後、もしも奇跡的に身長が伸びたならば、それに合わせたことをすればいい。
CKは柏レニウスの十番、
ぼんと音がして、山なりのボールが上がった。
神原学園の
拾った六番がこぼれを拾いシュートを打ったが、
空の下を高く高く舞うボール、来夢は落下地点を目測して、全力で走り出した。
少し離れたところを併走している
守備に残っていた柏の
照井郁美がボールを受けたのを見たその瞬間、来夢は一気にトップギア。CBの脇を抜けた。
同時に、ぼん、と斜め後ろから、ボールを蹴る音が聞こえてきた。
来た! と来夢は自分の動き出しの正しさを確信していた。
背後に風の迫る気配を感じたかと思うと、頭上を飛び越えたボールが、目の前に落ちていた。
バウンドしたボールを、走る速度をほとんど殺さずに受けてそのままドリブルに入った。
オフサイドはない。
来夢は、完全に抜け出していた。
柏の
そして来夢はゴール前で、相手GKと一対一になった。
ドリブルの速度を落とし、向かい合った。
「こっち出せ!」
後ろから、
聞こえてはいたが、来夢は無視した。
相手DFを完全に抜いた状態でパス交換など出来るはずないだろう、サッカーにはオフサイドというルールがあるのだから。ここはキープするか、仕掛けるか、その二択しかない。
そして後者を選択した。
横へ動いてGKをかわしてシュートを打とうとしたのだ。
しかし、GKのちょんと突き出された足にボールを奪われて、そのまま大きくクリアされてしまった。
残念そうに振り返った来夢は、鎌田百子と相手の位置取りを見て、自分の行動に対して愕然とした。
鎌田が相手のラインをしっかり確認しながら、サイドから回り込むようにゴール前へと切り込もうとしていたことが分かったからである。つまりは、横へパスを出してもオフサイドではなかったということを。
当然といえば当然だ。
誰がオフサイドの位置と分かっている場所に立ってパスなど要求するものか。
横に転がしていれば、鎌田が得意の瞬発力を生かして相手守備陣を追い抜いて、決めてくれたかも知れない。
せっかく照井郁美から素晴らしいパスを受けて抜け出したというのに、追い付ける決定的なチャンスを自ら潰してしまったということが分かり、来夢は、
「すみません!」
大きな声で謝った。
でも、まったく気落ちはしていなかった。
このチームでの初めての公式戦、初めてのボールタッチ、初めてのゴール前、そういったことに緊張してしまい、なにがなんだか分からなくなってしまったけれど、次はこんなミスはしない。
そう強く自分に誓った。
4
試合の展開であるが、その後はすっかり膠着した状態になっていた。お互いのサッカーそのものは、カウンターと、ポゼッション、まるで違うものであったが。
カウンター主体なのは、
神原学園は、守備にせよ攻撃にせよ、個人技や連係面において相手より劣るところを走力で補うため、後半に息切れすることが多いのが欠点である。
先に点さえ取れれば、もう少し違った試合運びも出来るのかも知れないが、今日もまた追い掛ける展開になってしまっている。
対する柏レニウスは、去年までリーグ一部にいた誇りを持って、頑なまでにポゼッションサッカーを貫いているチームである。
といっても、去年の残留争いで、あれこれあがいていじりまくったために、まだ戦術の成熟が進んでおらず、連係面に関しては相対的に神原学園有利といえた。
そして神原学園の同点ゴールは、まさにそうした柏のウィークポイントを突いたところから生まれたものであった。
それは次のように。
右サイドでボールキープする
ここで仕掛けて相手
岩間に一枚当てるのがサッカーのセオリーであるが、しかし柏の選手は誰も向かわない。誰が行くか、はっきりしていなかったのだろう。
ならば、とばかり岩間は中央へと切り込んだ。
ようやく後ろから追い上げきた柏の二十二番を、切り返してかわすと、前へと駆け上がっていた
工藤はトラップした瞬間に反転、シュートを打つが、コースに入った相手DFにブロックされてしまう。
DFに当たって浮いたそのボールに、詰め寄った佐竹愛が爪先で蹴り上げ、ゴール隅へと放り込んだ。
狙いも精度も素晴らしいものであったが、柏のGKは素早い反応を見せ、横っ飛びをしながら左手一本で弾いた。
ボールが高く跳ね上がり、落下する。
ちょうどその位置にいたのは、右サイドから駆け上がってきたばかりの来夢だけであった。
来夢は落ちてくるボールを見上げ、しっかりと視界に捉えた。
ゆっくり、ゆっくりと、回転しながら、ボールが落ちてくる。
どくん、どくんと、自分の心臓の鼓動を聞きながら、後ろへと蹴り足を上げた。
そして迷わずに、右足を振り抜いていた。
冷静というわけではなかったのに、でもすべてがスローモーションに見えていた。だというのに、何故かその結果が生じた瞬間は、まったく見えていなかった。実は見えていたのかも知れないが、まったく記憶になかった。
ボールがゴールネットに吸い込まれた、その瞬間を。
気が付けば、柏のGKやDFが倒れ込んで悔しがっていた。
仲間たちの、歓声が聞こえていた。
サポーターの、激しい太鼓の音が聞こえていた。
なにがなんなのか、これはなんの騒ぎだ、と呆然と立ち尽くす来夢であったが、ふと、ゴールラインを越えてゴールの中に転がっているボールを発見した。
ここにボールがある……
ということは……
……ということは!
思わず目を見開いていた。
そう。来夢の放った公式戦初シュートはゴールネットの上を突き刺さし、見事得点となったのである。それをまだまるで実感していないのは、決めた本人ただ一人であった。
「来夢、やったな!」
「やるじゃん!」
佐竹、
「あたし……」
ゴール……
自分が、得点……したのか……
そうか……
初、ゴール……
初ゴール!
得点、活躍、レギュラー確定、連勝、昇格、快進撃、代表、なでしこ、優勝、世界一!
かなり飛躍気味とはいえ喜びと夢との相乗効果による連鎖に、そして、自分がまた一歩夢へと近付いたこの気持ち良さに、全身をぶるぶるっと震わせ、そして両拳を天に突き上げ、雄叫びを上げていた。
初出場にして初ゴール、しかも貴重な同点ゴール、もういてもたってもいられず、来夢はみんなにいじられたぼさぼさ髪のまま、飛び跳ねるような勢いで監督たちのところへと走って行った。
「あたしっ、あたしやりました! 監督、
監督のもとへ来るや、両手を強制的に持ち上げさせて、ぱしんとタッチ。
そしてベンチにいる
チームが点を取ったのだ。追い付いたのだ。仲が悪いだなんだ、そんなのいまは関係ない。人類みな兄弟。いまはみんなで喜びを分かち合うべきだ。
「純江さん、決めちゃいましたよ初ゴール!」
と、来夢は両手を上げてハイタッチを促した。さあ手を伸ばしてこい。抱きついてこい。
だが皆川から伸びてきたのは、片腕一本。しかも、真っ直ぐ突き出された拳であった。
「だからなんだよ!」
鼻っ柱に容赦のない正拳突きを受けた来夢は、そのまま後ろへ吹っ飛び、尻餅をついていた。
突然の痛みとこの状況に混乱する来夢であったが、なにがなんだか分からないうちに押し倒され、馬乗りになられていた。
来夢の鼻から、つっと血が流れた。
そんな来夢の顔面を、皆川はさらに殴りつけた。
まるで言葉になっていない、狂ったような叫び声を上げながら。
監督たちが慌てて引きはがそうとするのだが、おさまる気配は一向に見えず、皆川純江はいつまでも泣き、喚き、暴れ続けていた。
5
「違う違う、そこでさっきの公式を当てはめるんだよ」
「ああ、そっかそっか。……って、なんだよ偉そうに」
むくれる
ここは
隆之は、来夢の母親である
最初は嫌がるそぶりを見せていた来夢であったが、心底からの拒絶をしなかったのは、単に試験が近いからであった。
サッカーを続けるためにもテストの成績で中位以上の成績を取る必要があり、そろそろなりふり構っていられない状況になってきた。と、そのようなわけで、自尊心が傷つくことも覚悟で家庭教師を招き入れたのである。
なお秋江としては無料でというのも忍びないようで、お駄賃を払おうとしたのであるが、隆之は初め、頑として受け取ろうとしなかった。「だったら二人の結婚費用に貯金しとこうかしら」などさらりという秋江の台詞に、「待て待てい!」とダッシュで追いかけ、ようやく受け取った。
「そのうち広瀬に食べ物でも奢るなどして、広瀬家にすべて還元してしまいたいところだが、他人に見られてデートだと勘違いされるのも……」
小声で悩む大沢隆之、十七歳の夏であった。
「えと、この公式を、ってことは、こうかな」
ぶつぶつ呟く来夢であるが、なんだかもの凄い鼻声であった。
それもそのはずで、鼻の頭がガーゼとテープで潰れているばかりでなく、鼻の穴には脱脂綿がぎっしりと詰まっているからだ。
先日、サッカーの試合中に来夢が初ゴールを決めて大はしゃぎで喜んでいたところ、チームメイトである
それから数日後、つまりは昨日のことであるが、その皆川が、キャプテンの
二人は来夢の両親に、深く頭を下げて謝罪した。
来夢は、殴られた本人である自分に対して皆川が相変わらず顔も向けようとしないことには腹が立って仕方がなかったが、小さく縮こまったその姿を見ていると、どうにも憐れに思えてしまいなにもいえなかった。
皆川が来夢を殴ってしまった理由だが、
色々と嫌なことがあってムシャクシャしていたところ、なんだか楽しそうに騒いでいる来夢を見て、無意識に手が出てしまい、その後はもう自分を止めることが出来なかったとのこと。
本当ならば、実に理不尽きわまりない。
しかし、本当のことだろう。細かな部分については本人の自尊心もあって隠しているにせよ、嘘はまったくついていないと思う。
要はやはり、ポジション争いからくるイライラなのだ。
来夢が入団するまでは、そのような態度を見せることはまったくなかったということであるし。
「ただ、あの子の性格の難しさを考えると、やっぱり起きたかってところだけどね」とは近藤直子からこっそり耳打ちされた台詞である。
「ねえ、バスケでも、やっぱりポジション争いで人間関係ギクシャクしたりする?」
来夢はふと顔を上げ、尋ねた。
「おれはないな」
隆之はペンをくるくる回しながら窓の外を見ていたが、問われ、来夢へと顔を向けると、ペンを回し続けたまま答えた。
「うわあ、自分がずっとレギュラーだからって、嫌な感じ!」
「そういうつもりでいったんじゃねえよ。でも、あるんだろうな、普通に。世の中みんなそうだろ。多分、おれたちが大人になって社会に出ても、そういうことはあるんだよ」
「まあ、それはそうだよね。それが人間だもんね。聞くまでもなかったか」
さらりとレギュラーを自慢されただけだった。
「しっかしこの家、蝉がうるさいな。ポジションなんかよりこっちのがよっぽどムカムカしてくるよ」
隆之は、田園広がる窓の外に再び視線を向けた。蝉がいるのは反対側、家の裏側のちょっと離れたところにある小さな林の付近であるため、そちらを見ても意味はないのであるが。
ミンミンゼミやアブラゼミなど、複数種類の蝉が無数におり、絶え間なく不協和音を奏でているのだから、確かに隆之のいう通り非常にうるさい。
だが、しかし、
「そっちの家だって似たようなもんでしょ。むしろ林、そっちのほうがずっと近いじゃない」
なのに、なにをいってるんだか。
6
無理な姿勢からであったためか、コントロールが乱れて、リングに当たって跳ね返った。
駆け寄って、それを拾った
ここは
男子バスケットボール部、鳴瀬高校対
鳴瀬高校の二人に挟まれて、意表を突いてのスリーポイントシュートを狙う九念高校の選手。しかし狙いは大きく外れ、バックボードの端に当たって跳ね返った。
鳴瀬の
浜田は受けた瞬間にドリブルを開始した。
九念高校の選手たちはすぐに切り替えて、全力で守備に戻り始める。
ライン際を駆け上がりながら、大沢隆之がボールを要求。剛速球のパスがきたが、なんとか受け取った。
受け取ったはいいが、ドリブルに入ろうとしたところを押され、転ばされてしまう。すぐさま起き上がり、奪い返そうと相手へ食らいつくが、そこで笛が鳴らされた。
鳴瀬高校のスローイン。隆之を転ばせた九念高校のプレーが、ファールと判定されたのだ。
隆之はファールをした相手からボールを受け取ると、ラインの外に立った。
「パス!」
と、後ろから隆之の横を抜けて駆け上がった
高柳は身体を捻って後方からのボールを起用に受け、ドリブル。上手く九念高校の選手をかわして突き進み、シュートを打とうとしたが、その瞬間、相手の強引な守備によりボールを奪い取られてしまった。
だがそこで笛が鳴った。
九念高校の選手による強引な守備がシュート妨害のファール判定になり、鳴瀬高校にフリースローが与えられた。
「隆之、お前投げろ」
主将の高柳は大沢隆之に命令すると、ボールを放り投げて渡した。
「はい」
隆之はフリースローラインに立ち、ボールを持った手を構えた。
一投目。
丁寧に投げたボールは綺麗な放物線を描き、リングに触れることなくバスケットのど真ん中に吸い込まれた。
鳴瀬高校は、これにより同点に追い付いた。
ピッチの周囲を取り囲んでいる鳴瀬の部員たちから拍手、ギャラリーである女子生徒たちからは黄色い歓声が飛んだ。
続いて二投目。
これも決めた。今度は危ないところだった。手元が少し狂い、リングの枠のちょうど真上にボールが落ちてしまったのだ。軽くバウンドし、外と内とどちらにこぼれるかというところ、運良く内側に引き込まれ、くるくる円の軌道を描きながら落ちた。
これで逆転だ。
また、周囲の部員や女子生徒たちから沸き上がる拍手や歓声。
主将の高柳が、大沢の背中を叩いた。
7
「むうう、どうせなら
バスケはよく知らないけど、ちょっと見た限り
率直な感想ではあるものの、もしも声に出したら保坂陽太の彼女である理恵に絶対に絞め殺されるだろうから黙っていたが。
二人は他の女子生徒と違って中には入らず、体育館脇の通路の窓から練習試合を見物していた。
理恵は、保坂陽太君を邪魔しちゃいけないという理由、来夢は
ちょっと見ていこうと誘ったのは、畑野理恵のほうである。
彼氏である保坂君の活躍を見るためにだ。
いまのところ、活躍の場はまだ訪れていないようであるが。
また歓声が上がった。
ブロックをかい潜って抜け出した大沢隆之が、真下から打ち上げるようにして、また得点を決めたのだ。
「陽太君のパスが起点だからね! 大沢君はおこぼれもらっただけだからね!」
と、何故だか来夢を隆之とひとくくりにしてライバル視してくる理恵。
「あたし別に大沢となんか付き合ってないんだけど……」
それに、起点もなにも最後に保坂君がボール触ったの何手前だよ。
それはともかく……大沢って、なかなか活躍してるんだな。
主力組であることは聞いて知っていたけど、でもここのサッカー部なんかは主力でもあんな酷いざまだからなあ。だから、こんなしっかりとした中での主力とは思いもしなかった。
勉強も出来るし、羨ましいな。
というか、腹立たしい。
わたしが男だったならば、少なくともスポーツでは絶対に負けない自信があるけど。
悔しいな。
「大沢くーん!」
たまたま静かになったタイミングで、一人の女子が叫び声を上げた。
来夢の聞き覚えのある声。すぐに、誰だか分かった。
同じクラスの、
「明美ちゃん、あいつのこと好きなのかな……」
そんなそぶり、教室で一回も見せたことないけど。
どうなんだろう……
「来夢、なに怖い顔してんの?」
「え、してないよ、怖い顔なんか。失礼な」
「してたしてた。ああそっかあ、アケチンに大沢君を取られそうで不安なんだろ」
「だからっ、取られるもなにも、そもそもあんなのと付き合ってないってば。なんだよあんな奴、どうでもいいよ」
と否定しているというのに、なおも理恵は含み笑いを浮かべている。
なんだかだんだん、本気で、頭にきていた……
来夢は、理恵の顔を自分のほうに向かせ、ほっぺたを掴むと、思い切り両手で引っ張った。
8
後ろの荷台には、
背負ったバッグの重みに小さな身体を持っていかれないよう、荷台の持ち手部分ではなく隆之の腰にしっかりと腕を回してしがみついている。
普段ならばそんな真似、例え万が一間違ってこいつが彼氏であるとしても、いやそうだとすればなおのこと、恥ずかしくてとても出来るものではないが、しかしいまは一大事であり、そんなことを気にしていられる状況ではなかったから。
土曜学級の帰りであるため、二人とも高校の制服姿だ。
女子らしく横座りで、などと下らないことを気にする余裕は来夢には一切なく、スカートのまま思い切り荷台に跨がっている。
二人とも真剣な表情であり、特に来夢などは、いまにも泣き出しそうなくらいであった。
9
「おい、お前のじいちゃんが大変だぞ!」
隆之にとってのことの発端は、さらに遡る。
半ドン、三時限だけの授業が終わり、自転車で帰宅の途についた隆之は、
隣の
おそらくそれほどの大事ではないとは思うのだが、自動車ならばすぐの距離なのでちょっと様子を見に行ってくる。来夢には話さなくてよい。
そういわれたものの、聞いてしまった以上は伝えないわけにはいかないではないか。もしも、仮に、ではあるが、黙っていてなにか事があったならば、自分が広瀬に恨まれてしまう。
さっそく自転車をターンさせ、学校へと引き返した。
校門前で別の道に入り、
そして隆之は、冒頭の言葉を来夢へとかけたのである。
先ほど聞かされたことをそのまま伝えたところ、やはりというべきか彼女はうろたえ始めた。
来夢はおじいちゃん子。隆之の記憶では、小学生の頃にもやはりあのような言葉をいわれて病院への置いてきぼりをくらい、ひいばあちゃんの死に目に会えなかったことがあったはずだから、だからうろたえるのは当然の反応ともいえたが。
「それ貸して」
来夢は隆之に、自転車を貸してくれるよう頼んだ。
サッカー練習のため駅へと向かっていた来夢であるが、電車を四十分以上も待つことになるはずであり、自転車のほうが早いと考えたのだろう。
「このチャリでかくて重いから、短足のお前じゃ無理だ。おれが乗せてってやる。そのほうが早い。だから道を教えろ」
こうして隆之の運転する自転車は、来夢を荷台に乗せて走り出したというわけである。
10
そこで二人を待っていたのは、衝撃の結末であった。
祖父の
花にとまった蜜蜂にちょっかい出して指を刺されたのを、祖母が勘違いして慌てふためき息子へ連絡してしまったというだけであった。
「なーんだ」
玄関でとりあえず事情を聞いて、来夢はほっと胸をなでおろした。
たったいままで不安で泣き出しそうなほどであったというのに、努力や心配が無駄になったことへの怒りの感情などはまったく沸いておらず、そんなことよりも祖父が無事であることがただ嬉しい。
隆之には、来夢の態度がそのように思えたが、まず間違いのないところであろう。
こいつはこういう奴なのだ。自分で自分のことを、自分勝手で嫌な奴だと思っているだけなのだ。
「なーーんだって、随分じゃねえか。蜂の野郎に指を刺されるとな、もう我慢出来ないくらい痛いんだぞ」
畳にあぐらをかいて自分で消毒液を塗りながら、祖父はいった。
「知っているよ。あたしも子供の頃に、刺されたことあるもん」
ああ、確かおれと遊んでいた時だ。
一緒に隠れんぼをしていて、こいつは目に止まった蜜蜂を、黄色と黒の綺麗な虫だ、とあろうことか手に掴んでしまったことがあるのだ。
「すき焼き食ってけ」
祖父の幸吉は、くしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにした。
自動車と自転車の能力差を考えれば当たり前ではあるが、来夢の父親たちもとっくに到着しており、せっかく親子三人で来てくれたんだからすき焼き会でも開くべな、と祖母たちが準備をしているところであった。さらに二人が増えても変わらないだろう、ということで、そのすき焼き会に来夢と隆之もお呼ばれすることになったのである。
隆之は、まったくの他人であることだしと再三断ったのであるが、全員が全員、東北人の頑固さというべきか決して折れず、しかも来夢までが食べていきなよなどというものだから、致し方なく受けることにした。
来夢としては、ここまで自転車で連れてきてくれた借りを一秒でも早く清算してしまいたい、というところかも知れないが。
隆之は電話を借りて、自宅にかけた。
今日は土曜日で父が家にいる日であり、母の介護を代わってもらえないかお願いするためだ。
料理当番だというのに料理をしないどころかよそ様の家ですき焼きご馳走になるなど非常に申し訳ない気持ちではあったが、電話に出た父は「せっかくなんだから遠慮なくご馳走になって、楽しんでこい」と快く了解してくれた。
その言葉に甘えて、来夢の親族たちの行為を遠慮なく受けることにした。
バスケ部のみんなとお店で食事をしたことは何度もあるが、このように家庭の料理を大人数で味わったことなど、隆之には初めての体験であった。
来夢の家族親族たちは、みな暖かかった。
隆之にとって、こうした場や行為に慣れていないということによる緊張こそあったが、それを差し引いてもこの雰囲気に思わずどっぷりつかりたくなるくらいに。
しかしあまり遅いと家にいる父に迷惑がかかるし、日が落ちてしまうと明かりのまったくない漆黒の闇の中を通って帰らねばならず、それはすなわちここに泊めてもらうしかないということを意味するため、夕方、五時半前には帰宅の途に着くことにした。
11
二時間近くも
行きの道をあまりにも飛ばし過ぎたため、疲労がまったく回復していないのだ。
自分の身だけならいざ知らず、
いや、過去形ではなく、それらは現在も背後に存在している。
「お前は自動車で帰ればいいんだから、付き合うことないだろが」
愚痴をこぼしながら、
「だって一人にさせちゃ悪いから……」
「重荷が増えただけだ!」
「そんな重くないよ! これでも四十……あ、いや、秘密」
「どうでもいい。つうか、せめてスポーツバッグくらい運んでもらえばよかっただろ」
「ああそっか。それは思いつかなかった。というか、なんだよこの程度で、男のくせに! 体力ないなあ」
「じゃ、お前が代われ! いや、無理か、代わらんでいいけど、とりあえずちょっと休ませろ」
道程も半ばに差し掛かった辺りで、隆之は道の端に自転車を止めた。
荷台から来夢が降りるのを待たずに、とっとと自分一人小さな土手を滑って、草をベッドに大の字になった。
「制服が青臭くなっちゃうよ」
来夢は、そういいながらも自らも土手を降りて隆之の隣に並び、草の上に腰を降ろした。
真っ赤に揺らめく巨大な夕陽が、森の上に浮いている。
幼い頃は、よく二人で自転車に乗って、夕陽を目差してどこまでも追い掛けたものである。
当然ながら太陽が逃げる速度のほうが遥かに早く、毎度のように途中で引き返すしかなくなるのだが。
いつだったか、太陽を深追いし過ぎて辺りがすっかり真っ暗になって帰れなくなってしまったこともあった。
探しにきてくれた隆之の父親によって保護されたのだが、あの時は二人して散々に叱られた。
ふーっ、と隆之はため息だか、単なる長い息だかを吐いた。
ちょっと気持ちが落ちついたから、だろうか。自分のことながら、よく分からない。
広瀬祖父宅から自転車でずっと通ってきたこの道路は、さも田舎の農道という感じで、周囲には殺風景きわまりない一面の田園風景が広がっているばかり。ではあるが、この近辺だけは特別で、一帯が盆地のように窪んでおり、その中にはちょっとした森林、そしてその森林からうねうねと伸びている小川がこの道路を横切るように流れている。
砂漠のオアシスとまではいかないが、心理的に同じような効果をもたらす場所なのかも知れない。
「ここ、ほんと綺麗だよね。あたしも、一人でこの道を通る時に、ここで休んだこと何回かあるよ」
「よくこんな遠くまで来るな。暇だな、お前」
「
「ふーん」
「小六から中一にかけての頃かなあ。地元のサッカークラブの土曜練習が終わると、すぐに自転車を飛ばしてね。あの頃は自分の身体も自転車ももっと小さかったから、片道二時間はかかっていたかなあ。いまより体力もなかったけど、精神的な体力みたいなものは、なんていうかこう、無限にある感じてさあ」
聞いてもいないことまで、ぺらぺらと喋る広瀬。
珍しいな。
子供の頃は、いつもこんなだったけど。
どうでもいいことを楽しげに、笑顔で、いつまでも。
「すっごい可愛いでしょ、あたしの姪も甥も」
「まあ、そうだな。似てなくてよかったな」
「すぐそういう嫌味をいうんだからな。似てるでしょうが」
「どこが? 別に嫌味じゃなくて、どこが似てるよ? お姉さん似だぞ、二人とも」
「だからあ、姉ちゃんとあたしは似てるでしょ」
「ああ……まあ、そうだな」
「やっと負けを認めたか」
来夢はふふんと鼻で笑った。
「おい、なんの勝負だよ」
こんなどうでもいいことを、こんなにたくさん喋ったのなんて、果たして何年ぶりであろうか。
たくさんどころか広瀬とはここ数年、普通の会話などしたことがなかったのではないか。クラスメイトであるが故に避けられない必要最低限の会話くらいしか。
さらさらと、小川のせせらぎが聞こえている。
真っ赤な夕陽が反射して、揺らめく川からきらきらと光の粒子がこぼれている。
向こうの森林では、蝉が鳴いている。
どこにいようとも同じアブラゼミでありミンミンゼミでありヒグラシであるというのに、自宅そばの林とは違ってこっちの蝉はなんだか素敵な演奏家であるかのように、隆之には思われた。
「ま、とにかく今日はあれだよな、なにごともなくてよかったよな」
そのせい、ということでもないのだろうが、隆之が珍しく嫌味のない前向きな言葉を来夢へとかけていた。
「うん」
珍しく、来夢も素直に頷いていた。
「今日は、ありがとね」
「礼をいわれることなんか、なにもしてないって。結局なんにもなかったんだし、ご馳走にはなっちまうし、それにお前、今日サッカー練習があったんだろ。こっちこそごめんな」
その言葉に、来夢はびくりと身体を震わせて飛び上がっていた。
「おおおおお、すっかり忘れてたあ! 練習、無断でサボっちゃった。さっき電話しとけばよかった! ……こうなったら、その分筋トレするぞ! あたしが自転車漕ぐ。サドル下げてよ」
来夢はそういうが早いか、四つん這いで草掻き分けるように土手を上り始めた。
「えー、本気かよ。なんて無謀な」
文句をいいつつも隆之は後を追って、自転車のシートクランプを緩めてサドルの高さを一番低くまで落としてやった。
早速、来夢はサドルに跨がった。
フレーム自体がかなり大きいため、なんとも不釣り合いで不恰好であった。
「後ろ、乗ってよ」
来夢は急かした。
「どれだけの速度で漕げるのか分からないし、下手したら日が暮れちゃうから、早くっ」
「知らんぞ。筋肉痛で、明日サッカーどこじゃなくなっても。荷物だけ運んでくれれば、走って帰るよ」
「大丈夫だって。女子とはいえサッカー選手の脚力を舐めんな」
「分かった。そんじゃ、乗るぞ」
隆之は来夢のスポーツバッグを背負うと、荷台に跨がった。
ずっしりとした重みを受けぐらり揺れる来夢であるが、強がって、
「よっし、漕ぐぞーっ!」
元気な叫び声を上げた。
「いけーー!」
荷台の隆之も付き合って、前方を指差して叫んだ。
ぎいっ……ぎいっ、と二人を乗せた自転車が動き出した。
大きな太陽が、森の向こう山の向こうに沈みかけている。
ゆらゆら揺れ差し込む真っ赤な日差しが逆光となり、溶けるような空気の中、二人のシルエットを幻想的に浮かび上がらせていた。
12
果たして
全身の節々や筋肉を襲う痛みに、本当にサッカーどころではなかった。
ふくらはぎも。足の裏も。腿の裏、腰も、肩も。
一体自転車とはかくまでハードな乗り物であったか。
そんな体調のままで行う本日の練習は、まさに地獄の渦中にいるかのような辛いものであった。
昨日無断で練習を休んだことについては、事情を話したところすぐに理解してもらえたものの、だからといって今日の練習で手を抜かせてもらえるわけではなかった。
少し休もうものならば、すかさず監督やコーチの容赦ない怒号が飛んだ。
そもそも重荷を背負った自転車を二時間も漕いだのは完全に本人の自由意思であり、そこに情状酌量出来る余地などあるはずもなかった。
ダッシュにラダー、そして負荷トレーニングに体幹、と運の悪いことに今日はフィジカルメニュー主体であった。
こなすのが精一杯で、必死に頑張っているのに、それでも「気を抜くな!」と
ボロボロの肉体にムチを打ってみんなに食らい付き、ようやくフィジカルメニュー終了、ボールを使ったメニューに入ったことでほっと安堵のため息をつく来夢であった。
これらのメニューだって筋トレ同様にハードなことに違いはないが、延々黙々と肉体を虐めるだけに比べれば精神的にはかなり楽であるから。
「
来夢にいつも冷徹な感じに接してくる彼女。それはあくまで来夢にのみであり、他の者に対してはこの通り、なんとも幼く明るいキャラクターで接している。
みんなと仲良くしているところを見せつけて、自分に疎外感を与えて追い払おうとしているのだろうか。あまりの態度の違いに、最初はそう考えていた来夢であったが、最近は、これが奴の地なのだと思うようになってきていた。
ニコニコ顔の猫撫で声で目上に甘えているのも皆川。
来夢を敵視して異常に激しく当たってくるのも皆川なのだ。
二面性がある、というわけではない。
計算して演じているわけでもない。
もしも計算しての態度であるのならば、みんなのいるところで来夢に酷く当たったりすることはないだろう。
つまり、来夢に陰湿ないじめを行うことで自分が周囲に嫌われようとも、別に構わないということだ。
構わないというより、そもそもなにも考えていない。嫌いな人間にはきつく当たって、甘えたほうが得と思えば甘える、ただそれだけのことかも知れない。
要するに、情緒など知性が五歳児以下なのだ。
皆川のそのような性格が理解出来たところで、来夢にとって、それでどうなるものでもなかったが。
彼女が来夢を大嫌いであることは、もう明白たる事実なのだから。
先日の来夢への暴行事件で、彼女が
それからしばらくの間は来夢に対して、冷たい態度は相変わらずとはいえ比較的大人しくはなっていたのだが、しかし日を経るにつれて、また段々と以前の皆川純江が戻ってきていた。
そして今日は、久し振りに大喧嘩をしたのであった。
経緯等についてはこれから触れるが、とにかくすべてが過ぎてみれば、あのとき喧嘩をしてよかった、と、後に今日を振り返って、来夢はそう思うのであった。
さて、ではその喧嘩について、ことの発端から説明する。
ボールを投げた相手の手元へ蹴り返す練習で、次々と組が入れ替わって、来夢と皆川がペアになったのだが、その時に皆川が勝手にさらに一つ隣にズレて、
「
「ダーメ」
この
何故ならば郁美が快く要求を飲んでいれば、来夢と皆川が触れ合うこと自体がなく、喧嘩が発生しなかったからだ。
罪深き照井郁美。……あ、いやいや、郁美さんに責任はないか。そう、悪いのは皆川、すべてこの女だ。二百パーセント皆川が悪い。いや三百パーセント。ちょっとまけても二百九十八パーセント。
などと冗談で思えるようになったのは後の話で、この時の来夢は本当に心底からうんざりしていた。
毎日毎日の、皆川純江の嫌味な態度に。
ペアを組んだ以上は仕方ない。心の中でため息をつき、諦めて彼女を相手にキックの練習を始める来夢であったが、郁美のダメの一言から大喧嘩に発展するまでに、三十秒とかからなかった。
まず皆川がボールを投げたのであるが(それは実に、ふて腐れた表情で)、来夢の蹴り返しをちょっときついと感じたらしく気に食わなかったようで、次には明らかに力を込めて投げつけてきたのだ。
まともに蹴り返せるはずもなく、ボールは来夢のすねに当たって転がった。
「いまのちょっと厳しいですよ」
来夢はむっとした顔をしながらもボールを追い掛けて拾い、投げて戻したのであるが、皆川はまたもや同じような勢いで投げてきた。
もしや、という心の準備もあり、そしてその予感はは適中したものの、至近距離からの球速のあるボールに足を当てるのが精一杯。しかしなんたる偶然か……ボールは明後日の方向に飛ぶならまだしも、真っ直ぐ皆川の顔面をぶち抜いてしまったのであった。
「すみません!」
来夢は歩み寄りながら、目を見開いていた。
皆川の鼻からどろりと赤いものが出ていたのだ。
これまでの、そしてたったいまの、皆川自身の言動を考えれば、それは明らかに自業自得というものであろうが、しかし来夢としては毛頭そんなつもりで蹴ったわけではなかった。だからその鼻血を見て、本心から焦って、うろたえてしまった。
しかし、
「ごめ……」
来夢が謝ろうと口を開きかけた瞬間、ばちんと音がして、その小さな身体は後ろへ退け反っていた。
「わざと狙って当てたんでしょ!」
皆川はそう思い込み、決め付け、仕返しに顔面へぶつけ返したのだ。
その理不尽さと、心配する気持ちを仇で返されたことに来夢が激昂、ブツッと切れ、応戦を始めた。
怒鳴り罵り合いながら、お互いの顔面や身体に全力でボールをぶつけ合う大戦争に発展したというわけである。
それからわずか数分後、二人は罰を受け、グラウンドを走らされていた。
山野美鈴コーチの提案により、お互いの片足を縛って二人三脚で。
これなら少しは仲良くなるのでは、という周囲の願いであるが、結局かなわなかった。
来夢が、擦れ合う皆川のガサガサした足の肌を、毛が生えてるんじゃないかとからかったことで、また始まってしまったのである。
地面をごろごろ転がりながら髪の毛を引っ張り合ったり、首を絞め合う怪獣大戦争が。
13
「はーい、ラーメン三つ。熱いからね」
柔道でもやっていそうな大柄な男の店員が、次々とカウンターにどんぶりの乗ったトレイを置いていった。
客はカウンターにはこの三人、出口側から皆川、佐竹、来夢、あとはテーブル席にカップルと思われる二十歳くらいの男女がいるだけである。
ここはJR
「博多で有名な店なんだよね、ここ。単にラーメンって頼むととんこつが出てくるんだ。あたし福岡だから、よく食べにきてる。二人とも遠慮しないで食べなよ、奢りだから」
佐竹がここに二人を連れてきた理由であるが、なんのことはない。二人の仲の悪さを見るにみかねて、姉さんとしてはついついいてもたってもいられずにお節介を焼いてしまったというだけである。
「ありがとうございます。でも、お金、払いますから。七百五十円ですよね」
来夢は、自分のバッグから財布を取り出そうとした。
「いいのいいの、そんなの。あたしが誘ったんだから! ……本当は今月、金欠なんだけど……しかたがない。博多女はどんと構えて、だ」
佐竹愛は前半部分は威勢よく、後半部分は聞き取れないよう小さくもごもごいうと、笑いながら特徴的な自身の大きな鼻を、人差し指で掻いた。
「それじゃあ先輩、遠慮なくご馳走になりまあす」
皆川純江は両手を合わせて明るい感じにいうと、箸を割り、食べ始めた。
ただ顔の表情は、その声ほどは明るくなく、むしろちょっと不機嫌そうでもあった。おそらく実際にその通りで、おそらくそれは来夢と一緒ということが原因であろう。
「じゃ、わたしも。いただきます」
来夢も箸を割った。
「あ、これ美味しいですね。あたしとんこつって初めて食べました」
軽く一口食べただけであったが、麺に絡むスープがとっても濃厚で本当に美味しかった。
「そうだろそうだろ。美味しいだろ」
「はい。……でも、ラーメン奢ってくれるためだけにきたんじゃないんですよね」
この面子を考えれば。
「うーん」
と、佐竹は首をちょっと傾け、両手を自分の肩に当て、揉んだ。悩んだとき困ったときの癖であろうか。
「あのさあ。それじゃあ単刀直入にずっぱりいっちゃうね。……純江に、なんだけど」
「あたしに、ですか?」
皆川純江は箸を置いた。
「うん。あのさあ、なんというか、その……練習するしか、ないと思うんだよね」
「なんの、話ですか?」
口調を変えず尋ねる皆川であるが、周囲の空気の密度がどろどろと濃くなってきているような気がしたのは来夢の思い過ごしであろうか。
「なんのって、だから、来夢とのことだよ」
「意味がまったく分かんない」
皆川は、あえてかどうかは分からないが自らの表情を少し険しく変化させた。
「何度も聞き返さないと通じない話の、どこが単刀直入なんですか?」
「あ、えっと、ずっぱりいうねえ、君い。とにかくその、練習するしかないってのは、練習して実力を付けろとはいってなくて。あ、いや、もちろん練習ってのは実力付けるためにするもんだけど、あたしがここでいってんのは練習して自信を付けろってことをいいたいわけで」
「だからあ、なんのことですか?」
皆川の声の調子が、どんどん下がっていく。
結局のところ、皆川にも分かっているのだ。佐竹がなにをいおうとしているのか。少なくとも、これがどのような種類の話題であるのか。
横で聞いている来夢も、まるで自分のことのように緊張してしまっていた。
いや、自分だって部外者ではないどころか思い切り当事者だ。だって皆川と自分との問題を、佐竹は話しているのだから。
「純江はさあ、なんでああやっていつも来夢につらく当たんの?」
話の切り出し方は思い切りしくじったかも知れないけど、ようやく今度こそ単刀直入に質問し、今日の本題へと踏み込むことが出来た佐竹。
「軟弱なのを鍛えてあげてるだけです」
即答だ。
聞き出すまでにかかった時間の、百二十分の一もかからなかった。
「軟弱? それって、お前のほうじゃない?」
人を睨みつけてくるような皆川の表情にちょっとカチンときたか、佐竹も思わず厳しい言葉を投げてしまっていた。
「どこがですか! あたしの、なにが?」
「だから、自覚あるだろ、来夢を追い落とそうとしてることだよ。とことん練習を頑張ってポジション渡さないってことなら別にいいんだけど、違うだろ。まあ、画鋲を靴に仕掛けたり服を刻んだり、いかにも女って感じのいじめはしてないけどさ」
しかし、無視したりなど陰湿なことに変わりはない。
「そんなことは……ええ、そうですよ。それの、なにが悪いんですか? みんなで、あたしのことを陰でそんな風にぐちぐちといってるんですか?」
「別に、陰でそんな話はしていないよ。とはいえ、あえて口に出すまでもないだけで、おんなじようなこと思ってるだろうけどね。あたしはさ、お節介な性格だから、こうして踏み入っちゃったけど」
「それじゃあ、どうすればいいんですか? あたしが
「いや、そうじゃなくて!」
「そういってるんですよ。層が薄いところだからあたしが右サイドで出られているだけで、でも結局、そこ穴だもん。この前だって相手に徹底的に狙われてたの感じたし。広瀬さんが慣れてくれば穴は埋まる。だから……だからあたしっ!」
皆川の声がだんだんと大きく、語気荒くなっていったかと思うと、ついに彼女は泣き出してしまった。
大声を上げて、顔をくしゃくしゃに歪め、涙をぼろぼろとこぼしながら。
テーブル席のカップルが、目を丸くしてその様子を見ている。
「あたしだって、辞めたくない! せっかくレギュラーになれたのに、簡単に手放したくない!」
皆川純江はカウンターに突っ伏して、嗚咽の声を漏らし続けた。
「いや、参ったね」
と、助け舟を求めるように来夢のほうを向く佐竹であったが、
「なんであんたまで泣いてんの!」
そう、来夢は込み上げるものをぐっとこらえるような表情で、目を潤ませていたのである。
上を向くのだが、しかしこらえ切ることが出来ず、涙がつっと頬を伝い落ちた。
「だって……だって……」
来夢は、指で涙を拭った。
だって、仕方ないじゃないか。
皆川純江がどれだけサッカーを好きなのか、知ってしまったから。
ポジション争いに、どれだけ不安、焦りを感じていたことか。その気持ちは、来夢にもよく分かっていた。そんなこととっくに分かっていたはずなのに、いや、分かっていたからこそ、自分とはまったく性格の異なる皆川に対してすっかり感情移入をしてしまい、来夢は大声を上げ、泣き出していたのである。
「え、あたし演技なのに、なに貰い泣きしてんの? バカじゃないの」
皆川はむくっと顔を上げ、澄ましたような表情で佐竹越しに来夢の泣き顔を一瞥した。
「でもまあ、ぶちまけて少しすっきりしたあ」
そういって大きく伸びをすると、皆川はラーメンの残りを女子と思えない凄い勢いで食べ始めたのであった。
来夢は、目をこすり、鼻をぐずぐずさせながら、その様子を見ていた。
あの流した涙に、真剣な表情に、そしていまも残っている泣き腫らした目元、それが演技であるなど絶対に嘘だ。
こういった、他人の視線をのらくらかわして自分の素を見せまいとするやりかたが皆川純江の、自分を壊さずに世の中を生きる方法なんだ。情緒五歳児のくせに。いや、だからこそだろうか。
不器用なパス交換しか出来ない。
そういう意味では、わたしと似ているのかも知れない。
来夢はそう思っていた。
そして、袖で涙をごしごしこすって拭い去ると、皆川に続けとばかりの勢いで残りを食べ始めたのであった。
「おかわり!」
皆川は、汁まで飲み干した空の器を、どんと置いた。
「あたしも!」
遅れて来夢も器を差し出した。
「おい……」
佐竹愛の顔が青ざめた。
「演技無しで泣きたいのはこっちだ……」
財布の残金を確認すると、ながーいため息をついた。
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