第二章 天敵?

     1

 宮城県立なる高等学校。

 今年で創立七十周年を迎えた、歴史のある共学校だ。


 なお校名の由来であるなる町は、五年前にもと町との合併をしたことによりひがしまつしま市となっており現在は存在していない。

 森林と広大な田んぼとの狭間にある、のどかな雰囲気の高校である。


  誠意を持ち

  真面目に努力し

  いつも健康

  感情豊かに


 これが校訓であるが、ここ二年三組の教室では、ある意味においてはまさにその言葉を具現化するかような、そんな光景が生じていた。


 だん。

 ひろらいは、自由落下による勢いで机に激しくおでこをぶつけていた。

 それで目が覚めるどころが、そのまま寝入ってしまいそうになったが、なんとか三途の川ぎりぎりのところで踏み止まり、気力を振り絞り、顔を持ち上げ、正面をぎろりと睨んだ。


「This is the chance of your making a...」


 現在英語の授業中である。

 よしざわ先生が、配った資料に書かれている英文をすらすらと読み上げている。


 だめだ。

 先生の英語が、子守唄にしか聞こえない。

 くそ。頑張れ。

 耐えろ。

 負けるな、広瀬来夢。

 そんなんでどうする。

 戦え!

 吠えろ!


 そう自分を叱咤してみるものの、しかし気が付けばもうこっくりこっくり船を漕ぎ始めていた。

 と、いきなり身体をびくり大きく激しく震わせた。慌てたように跳ね起き周囲を見るが、なにも変わっていない。ただ先生が文法の説明をしているだけだ。


 それにしても暑い。

 暑すぎる。

 暑すぎる。

 本当に。

 だから、余計に睡魔が大暴れしてしょうがない。

 誰だ、東北の夏は快適なんていっているのは。冬は極寒、夏は猛暑で最悪だぞ。


 心の中でぐちぐちと泣き言を呟きながらも、またこっくりこっくりと始めてしまっていた。

 意識は朦朧、夢の中、混沌の渦の中。


「いかんいかん」


 来夢はぼそりと声を出してみるが、それで眠気がおさまるのなら世話はない。


 かくなる上は、最後の手段だ。


 胸ポケットに手を差し込み、メンソールのリップクリームを取り出した。

 キャップを外し、一瞬の躊躇の後、鼻のすぐ下にぐりぐりと塗りたくった。


 気合いだ気合い、気合い気合い気合い!


 どこぞのレスラー親子のような言葉を心の中で連呼するが、次の瞬間、思わず呻き声を発していた。


「うお」


 刺激が……


 どばっと涙が溢れていた。

 鼻をかむような手つきで両手で押さえ、そのまま机に突っ伏した。


 いびき。

 どうやら、そのまま眠ってしまったようである。


 隣の席のおおさわたかゆきは、特に気にした様子もない。一時限目からずっと眠たそうにしている来夢に対し、はなから完全たる無視を決め込み、授業に集中している。


 彼にしてみれば、先日、先生に指名されて回答に困っていた来夢に答えを教えてやったがためにバケツを持って廊下に立たされるわ、その来夢に逆ギレされてすねを蹴られるわ、あげくのはてには裸足で外を走らされ、もうあんなバカバカしい目にあうのは金輪際ごめんというところであろう。


「来夢、来夢ったら」


 後ろの席のむらが、来夢が完全に落ちたらしいことに気が付いたようで、小声で呼び掛けながら背中をさすってやっている。

 と、その時、授業終了を告げるチャイムが鳴った。


「よし眠気耐え切った!」


 来夢は突然がばっと勢いよく上体を起こし、勝利のガッツポーズ。


「寝てた寝てた」


 佐知子は、もう笑うしかないといった顔。


「広瀬! お前なあ、学校になにをしにきとるんじゃ。眠気を耐え忍んで楽しむとこじゃなくて、勉強するとこだぞ。生活リズムの管理くらいきちんとやれ、このバカタレ」


 吉沢先生はそういうと、教室を出ていった。


「来夢~。先生のいうのももっともだよ。大沢君も起こしてあげればいいのに」


 野村佐知子が、ペンの尻で来夢の背中をさすりながら、斜め前の大沢隆之へ声をかけた。


「嫌だよ。こいつ答え見せてあげたお礼に足を蹴っ飛ばしてくるような奴だぜ」


 そういうと大沢隆之は立ち上がり、他の男子と一緒に教室を出ていった。


「こっちだって。あんな奴に起こしてもらうくらいなら、永遠に目覚めなくてもいい。というか、あたし寝てた?」


 来夢は椅子を軽く持ち上げ回転させ、佐知子へと向き直った。


「ちょっとだけど、いびきも聞こえた」

「うええ。でもまあ、家で勉強を頑張っているからな最近。だから仕方がないのだ」


 と、一人で納得したように頷いている。


「学校で寝てるんじゃ、まったく意味ないのでは」

「厳しいな佐知子。いわれなくたって、分かってるよ。段々と、ペース配分を調整していくよ。まあ、勉強頑張ろうとしている気持ちだけは汲んでくれよ」


 と、佐知子の肩を叩いた。


「分かったけど、あたしが汲んであげてもなんの意味もない気が。なんだっけ、に通う条件が、テストで半分より上の順位を取り続けることだっけ?」

「そう。でないと、せっかく入ったのに、辞めさせられてしまう」

「いい点を取りたいだけなら、大沢君に教えてもらえばいいんじゃない? 家、近いんだから」

「やだよそんなの! 誰があいつなんかに」


 これ以上ぬかしやがると食い殺すぞ、というほどの勢いでもって、来夢は佐知子の言葉を完全拒絶した。


「そこまで嫌がるかなあ。幼い頃は仲良しだったんでしょお?」


 思わず苦笑する佐知子であった。


     2

 JRせんごく線、りくぜん駅から揺られること約一時間。ほんしおがま駅で下車。


 自分の通う高校のある陸前小野や、自宅のある鹿づまと同様に、潮のにおいの漂う駅や街であるが、ちょっとそのにおいが異なる気がするのは、単に人の行き交う量の違いから風に活気が混じっているということだろうか。


 確かに人が多い。

 特に鹿妻など陸の孤島にポツリ存在する無人駅なので、なおさら本塩竈との違いが顕著だ。


 ただまあ世間一般認識からすれば塩竈もとてつもない田舎のはずであり、この程度で人が多いと思うくらいでは、いきなり仙台などを訪れた日には気が狂うかも知れないな。と主観的にも客観的にもそう思う。


 駅から、さらにミヤコーバスで十五分。

 停留所「かんばらがくえん前」で、ひろらいは降りた。

 なる高校の制服のままだ。右手には通学カバンを持ち、左肩には大きなスポーツバッグをかけている。


 停留所は校門の真ん前であり、その門の向こうには古びた洋館のような校舎が見えている。

 柵沿いに外周を進んで敷地の裏側へ回り込み、小さな通用門を開いて、そこから中へ入った。


 ここは、「神原学園」という女子サッカークラブチームの練習用地なのである。


 現在、午後五時二十分。自分の他にはまだ誰もいない。

 大抵は、大学生であるてるいくどうおりらが先にきて練習を始めているのだが、今日は来夢が一番乗りのようだ。


 校庭の外れに建っている部室棟へ向かう。

 塗装を何度もやり直してはいるようだが、それだけではごまかしきれないほどに老朽化した建物だ。


 扉を開いて中に入り、明かりをつける。

 まだまだ窓からは西日が差し込んでおり、明るさにさしたる変化はない。つけたのは、これから来る人のためである。


 部室は、引っ越し後の家屋ようにがらんと静まり返った、なに一つ物のない空間であった。

 ここは合併という名のもとに廃校となったところであり、期間は未定ながらもとにかく一時的に練習施設として使用しているのである。


 一番に来た者が、はるばると学校の合併先であるさき高校まで部室の合鍵を取りに行くというのも時間的に無理であり、許可をもらってそもそもの施錠自体をしていない。

 当然に物騒であり、サッカーボールやコーンなど最低限の物以外は一切置かないようにしている。専ら、着替えと屋内ミーティング用だ。


 来夢がどうしてここにいるのかというと、もちろん神原学園サッカークラブに入団したからである。


 完全に冷やかしでテストを受けたというのに。


     3

 最後のボール奪取と保持のテストで、相手の実力の前に完全に能力を封じられ、思うがままにならぬことからついには泣き出してしまったらいであるが、自分が相手を舐めていたことを詫び、ここで成長したいと監督に強く入団を希望したのである。


 まだまだとはいえ動きの質もボール捌きも悪くなく、伸びしろも多分にありそうだし、なによりも悔しさに泣きながらもボールに食らい付こうとする負けん気の強さと、自分の心の嫌な部分を告白して謝罪をしたその潔さが監督たちとしても気に入ったようで、即断で入団決定したのである。


 来夢としては、自分はそんな褒めらるような人格などではなく、単にサッカーに向き合う姿勢だけは嘘をつきたくない、というただそれだけであったのだが。


 とにかく、クラブから入団を認められたその日の夜に両親に頭を下げて、必死に勉強するからと頼み込み、学校の成績アップを条件に許可されたのだ。


 それからは毎日、電車の中では勉強、帰宅して勉強、学校の授業中は昼寝、という日々であった。


 ここは、二年前に吸収合併されて事実上の廃校となった神原学園女子高等学校の跡地である。

 学園の理事の一人が、昔からサッカークラブ「神原学園」のほうにも関わっていたため、土地の処分が決まるまでの間、練習場として使えるように計らってくれたのだ。


 いずれはどこか有料の練習場を借りるか、敷地を提供してもらえるようにスポンサー企業を中心に話を持ち掛けていくしかないだろう。

 と、主務のやまこうへいが話してくれたのだが、そういった現場の生々しい話は来夢には実に衝撃的であり、面白いものであり、また切実さに悲しくなるものであった。自身も所属していたサッカークラブの経営難による消滅を経験しているため、他人事ではないのである。


 頑張って鍛えて実力伸ばしてアピールして代表入りしてなでしこジャパンを優勝させて女子サッカーブームを起こして女子サッカー共通の問題である環境の劣悪さを改善してやるんだ、と改めて自身の胸に言葉を畳み掛け夢を強く刻み付けているところ、ぎぎと軋んだ音を立ててドアが開いた。


 うわ、嫌な奴が……


 たったいま胸深くに刻んだばかりの決意も萎えそうになるほどの、天敵が入ってきたのであった。


     4

 長く伸びた髪の毛を頭のてっぺんで縛っただけの、一切の飾り気も色気もない髪型。

 目元も口元も、眉も鼻も、共通のテーマをもって神様が造形したものと思われる。一言で片付けるならば、きつい感じ。

 らいのとは違うものだが、学校の制服姿だ。


 彼女の名前は、みながわすみ。来夢より一学年上で、高校三年生である。


 二人は目が合った。

 が、その瞬間に、皆川純江はぷいと顔をそむけてしまった。


「お疲れ様です」


 来夢は内心面白くはなかったが、自分はここの後輩だし、年下だし、と軽く頭を下げて挨拶をした。


 これから練習が始まるのにお疲れ様というのも、高校生の身としては実におかしく、一向に慣れない。仕事を持っている社会人がほとんどであるため、状況を問わず使える便利な挨拶として慣例化しているとのことだが。


 その慣例化された挨拶を受けた皆川の反応であるが、これも既に慣例化の域といっていいリアクション、まったく顔も視線も来夢へと向けることなく、ごくわずかに口を動かして呟くようにぼそぼそっとした小声を返したのである。


 彼女は自分に対して好意を持っていないどころか満々の敵意を抱いているようで、いつもこの調子である。


 本当に、毎度のことながら頭にくる。

 他の人の前では明るく振る舞うくせに。


 挨拶の場だけではない。

 練習中にしても、あからさまに意地悪な態度を取ってくるのだから。

 こちらはまだ入団したばかりだから、極力我慢しようとは思っているけど(それでも二、三回、衝突したことがある。殴り合いとまではいかないが、罵り合い、胸をどつき合ったりした)。


 陰でこっそりではなく、堂々とそういう態度を見せてくるだけまだましではあるが。


 自分へ敵意を抱いているというその理由、だいたいの想像はついている。

 たぶん、間違っていない。


 二人はそれ以上口を開くことなく、ジャージへの着替えを済ませると、外へ出た。

 来夢が校庭のトラックをジョギングし始めると、皆川は反対側へと走り出し、柵の途中に作られている小さな通用門を開いて外へ出て、公道でのジョギングを開始した。


 いつもこうだ。

 来夢と同じところを絶対に走ろうとしないのだ。皆川が先にトラックを走っているところに、後から来夢がやってきたら、やはりそそくさと外へ出ていってしまったこともあったし。


 そんなところでいちいち襟首掴んで文句をいってもしかたがないので、来夢は黙っている。


 自分のほうが大人の対応をしていると思うことで相対的に相手を見下してストレス発散させたいところであるが、いまのところ発散どころか日々イライラの蓄積される一方である。


 来夢はジョギングを終えると、改めて部室に入って、中にあったサッカーボールを蹴りながら出てきて、そのままグラウンドに向かった。


 やがて皆川も公道ジョギングから戻り、来夢から少し離れた場所で、やはりボールを蹴り始めた。


 離れているとはいえ、元々がそれほど広くもないこの敷地の中に、たった二人きりという状況に変わりはなく、向こうさんがどう思っているかはともかく来夢としては実に居心地が悪かった。

 この練習場に一番にやってくるのはほとんどの場合、大学生である照井郁美か工藤香織なのだが、何故に今日はきていないのか。

 あんなのと二人きりだなんて、これは新手のいじめか?


 などとその大学生たち当人にまったく責任のないことで、ぐちぐちと恨みの言葉を呟いていると、


「おーっす!」


 照井郁美の抜けるような明るい声が響いた。


 ようやくきてくれたよおお。


 ほっと安堵のため息をつく来夢。皆川に聞こえるはずもないし、ちょっと大きめについてやった。


「お疲れ様でーす!」


 皆川が遠くから、まるで叫び声のような元気のよい挨拶。

 そんな皆川をじろりと一瞥してから、来夢も挨拶をした。軽蔑したようなその眼差しに、皆川はまったく気が付かなかったようだが。


     5

 てるいくが部室へ入ってから五分ほど経つと、どうおり含めバス利用組がどどっと姿を現した。


 自動車組、自転車組もやってきて、みな着替えを済ませて全員が揃ったところで、用具の準備を開始。


 そうこうしているうちにしおこう監督がやってきて、一言二言の簡単な挨拶の言葉を投げ掛けて、そして全体練習が開始された。


 時間はいつも通り、午後六時半。


 らいは改めて、みんなと一緒に軽くジョギング、ストレッチ。

 それから、ボールを使ったトレーニングメニューに入った。


 もうすっかり見慣れ、驚くことはなくなったが、みんなボール扱いが非常に上手である。

 初めてこの練習場へきた時、所詮は二部、なでしこリーガーじゃないんだし、どうせたいしたことはないだろう、とすっかり舐めきっていたのだから恥ずかしい。タイムマシンがあったら、過去に戻って自分を絞め殺したいくらいだ。


 なお、以前は二部も含めてなでしこリーグであったのだが、数年前に名称変更があり、トップリーグのみがなでしこリーグ、二部はそのなでしこを目指すということでチャレンジリーグと名付けられている。かんばらがくえんは、そのチャレンジリーグに所属しているクラブだ。


 「代表候補が何人もいるのに、でも二部なんですね」

 入団したばかりの頃、一番最初に仲良くなったたけあいに、失礼を承知でそう質問したことがある。単純に疑問であり、どうしても聞いてみたかったのだ。


 神原学園の選手は、数年前にはたけやまふくがフル代表の合宿に呼ばれたことがある。結局ベンチ入りも出来なかったが、それでも立派な代表候補だ。

 また、工藤香織、おおこんどうなおが、世代別代表として、そして佐竹愛が大学時代にユニバーシアード女子代表としてスタメンで活躍した経験を持っている。


 じゃあ何故? と、女子サッカーリーグをよく知らない来夢が、そう疑問に思うのも無理のないことであった。


 「いしのまきにあるベイスパロウってチーム知ってる? 西にしひさっていう十六くらいでフル代表になった、まだ若いけど一種生き伝説的存在の選手がいるんだけど、でも毎年のように残留争いしているよ。確かあそこ、ボランチの野本なんとかいうのもフル代表呼ばれたことある。そうそう、GKゴールキーパーもだ。まだ、なでしこジャパンなんて愛称もなかった頃だけど、バリバリの正GKだったんだよ。……女子はね、代表候補や、世代別に選ばれたことあるのなんて腐るほどいるから、あまりチームの強い弱いを計る物差しにはならないんだよね。勿論プロ契約ちらつかせて強引にかき集めまくってフル代表だらけにしちゃえばそりゃあ強いだろうけど」


 佐竹愛は、そう答えたものである。

 その話を聞いた来夢は後日、学校の友達であるむらさんに、インターネットで二部リーグや一部の弱いチームの選手について経歴を調べてもらったところ、確かに佐竹のいう通りであった。


 一般に「女子はレベルが低い」などといわれるが、代表だらけという現実を考えると、決してそんなことはないのだろうか。

 それともレベルが低いのは間違いなくて、競技人口からくる競争倍率の問題で代表への壁が男子に比べてずっと低いというだけの話なのだろうか。


 いずれにしても、県代表までにしか登ったことのない来夢としては複雑な心境であった。


 トレーニングメニューは進み、ペアになってのキック練習、三つのペアを混ぜて鳥カゴ練習、それが終わるとハーフコートをさらに二面に分けて四対四のミニゲームを二カ所で開始した。

 コート、といっても、グラウンドに石灰でラインを引いただけのものでしかないが。


 そのミニゲームが始まって、ほんの数分しか経っていないというのに、


 またかよ……。まったくもう。


 と、来夢はすっかりうんざりした気分になっていた。

 原因は、やはりというべきか皆川純江であった。


     6

 先にも述べたがみながわすみは来夢が大嫌いなようで、練習で味方チームの時には露骨に存在無視をするくせに、いざ敵になると完全に逆になり、来夢しか存在していないかのように集中攻撃を仕掛けてくる。

 ファールかどうかぎりぎりの、時には完全なファールであろうという、非常に荒っぽい乱暴なプレーで、がつりがつりと当たってくるのである。まるで一点を追う時の韓国や中国のサッカーだ。一歩間違えば格闘技だ。


 どうしてそこまで敵視されているのか、おおかたの予想はついている。

 監督に適性と判断された来夢のポジションが右SHサイドハーフだからである。


 来夢としては、幼少の頃よりずっとやってきていたところなので当然といえば当然であったが、皆川純江もまた、幼少より右SHしか経験したことのない選手なのである。

 つまり、説明するまでもないとは思うが彼女にとって広瀬来夢という存在はポジション争いの障害、蹴落とすべきライバルというわけだ。


 がっ、とスライディングで足を引っ掛けられ、来夢は転びそうになった。

 スライディングというより、地面に尻をついて静止していた状態からいきなり足を突き出し蹴飛ばしてきた、というほうが正解かも知れない。

 なんとか倒れずに踏ん張って持ち直した来夢であるが、身体を起こした皆川純江にずんと渾身の力で思い切り肩を当てられ、結局、無様に転んでしまった。


 すぐ手をついて上体を起こした来夢は、皆川が当然のようにボールを持っているのを見て、頭に血が上った。

 暴力で奪いとっておきながら、なにをのうのうと、と、ついに(本日の)堪忍袋の緒が切れて、素早く立ち上がるや怒鳴り声を上げた。


「いまのちょっと酷いじゃないですか!」


 皆川の背後から、ずんずんと地響き立てるように歩み寄り、肩に手をかけた。

 睨み付けた。


 自分はまだ新参者だし、一歳差とはいえ年下だから、と、とりあえずは敬語で接しているが、そう譲歩してやるのも言葉遣いだけだ。態度や表情まで自分を押し殺そうというつもりは来夢にはさらさらなかった。


 皆川純江は、肩に置かれた手を掴んで振りほどくと、ゆっくり振り返った。


「あたし、ただボールを奪っただけなんだけど。もしかして、いままでは小学生と一緒にサッカーやってた? ぱっと見、全然違和感がないから混じっててもばれな……」


 彼女は、みなまでいうことは出来なかった。

 来夢が飛び掛かり、掴み掛かっていたのである。

 取っ組み合いになった。


「離せ!」


 皆川はそう怒鳴って勢いよく振り払った。

 だが来夢はすぐにまた手を伸ばし、今度はほっぺたの肉を掴んだ。爪が食い込むほどに。

 その痛みに激昂したか、皆川は来夢のほっぺたを掴み返し、あらん限りの力を込めて引っ張った。

 ほっぺた引っ張りがっぷり四つ。


「ふぇんぱいだかひらないけど、へらふぉうに!」


 来夢は敵から一瞬だけ手を離すと、今度は髪の毛をがっしと掴んで引っ張った。

 皆川は長い髪の毛を頭のてっぺんで縛っているため、この状況下でこれは、掴んでくれ引っ張ってくれといってるようなもの。そうしてあげなければ悪いというものであろう。


「いてて、痛いよ! 髪の毛引っ張るな、このキムチ女!」


 皆川は来夢のほっぺから手を離して、自分の髪の毛を掴んで引っ張っているその手を、指をこじあけ引きはがそうとする。


「なんでその名前知ってんだよ!」


 来夢 - きむ - キムチ。学校で、何人かの男女からそう呼ばれている。

 いわれたくない名前を呼ばれて、来夢はより力を込めて、掴み引っ張った。


「二人とも、もうやめろ! 純江、お前が悪いよ!」


 キャプテンのこんどうなおが、両者の腕を掴んで引き離し、間に割って入った。


「なんでですか。これまで甘い練習をしてたから、あんなくらいで転んでいちいち文句つけてくるんじゃないんですか?」


 皆川純江は納得いかないといった形相でキャプテンに詰め寄った。


「いや、すぐそばで見てたけどあれは乱暴過ぎるよ。それに、広瀬が小さいことなんて、ここでいう必要あるのか? だったら、あたしにも同じこといってみろよ。チビは小学生と一緒にやってろって」


 近藤直子はDFデイフエンダー、しかもCBセンターバツクというポジションでありながら、非常に背が低い。百五十、あるかないか。来夢よりも、ほんのわずかに高い程度だ。

 まだ伸びる可能性のある来夢に対して、近藤はもう二十九歳、その可能性はほとんどないだろう。


「あたしはただ……」


 皆川は憮然とした表情でそういいかけ、口を閉ざした。どうしても口元が痙攣したように歪んでしまい、それを何度も直そうとしていたようであるが、やがて諦めて近藤へ向かって小さく頭を下げた。踵を返すと、他の選手たちの中に戻っていった。


「ありがとうございました」


 来夢も近藤へと軽く頭を下げた。

 皆川に対してイライラして顔面を殴りつけてやりたくて仕方がなかったが来夢であるが、ああして叱られて小さくなってしまったのを見ていると、急に同情の気持ちが湧いてきた。


「お前は体幹をもっと鍛えろ! あんな程度で転んでるんじゃない!」

「はい!」


 近藤の突然の大声に、来夢は跳ね上がるように背を真っ直ぐ伸ばした。

 おずおずと、上目遣いにその顔を見つめる来夢。

 そーっと伸びてきた近藤の人差し指が、おでこを優しくつついた。


「ちっこい同士、一緒に頑張ってさ、世の中、見返してやろ」


 そういうと近藤はにこりと微笑んだ。


     7

 それからしばらくして、この近くにあるしおがま国際大学の女子サッカー部員がぞろぞろと訪れて、三十分二本の練習試合を行なうことになった。

 今日はそういう予定ではなかったのだが、塩竈国際大学から急遽お願いされ、引き受けたのだ。


 なんでも大学同士の練習試合が相手側の交通網障害で出来なくなってしまい、自分のところのグラウンドも今日は男子が使うために使えず、徒歩圏内にあるかんばらがくえんに試合の打診をしにきたとのことだ。


 その試合、らいは控えであったが、二本目の終盤にみながわすみに代わって出場することになった。


 入れ代わる時に皆川の顔をちらりと見たが、実に悔しそうな表情であった。

 当然だろう。

 相手に完全に対応されてなにも出来なくて一人イライラして無駄なファールも多くなっていたところ、交代を指示され、しかもその相手が来夢とあっては。


 右SH《サイドハーフ》として入った来夢であるが、得点を奪うことは出来なかった。

 とはいえFWフオワードではないのだし、個人のプレーとしては小柄な体型を逆に生かしてのそこそこの活躍は見せられたのではないかと思う。

 突破からの、バー直撃の惜しいシュートもあったし。


 ただ連係面はまだまださっぱりで、その点においても、また個人のプレーにおいても、自分でいくらでも挙げられるくらい問題点は山積みであった。帰ったら家で待っている学校の課題と同程度に。

 いや、それよりは少ないだろうか……


     8

 縁側に腰を下ろし、スカートから伸びた足を投げ出して、そよそよと肌をなでていくような、あたたかくくすぐったい風を浴びている。


 目の前の庭では先ほどから、二人の小さな子供が、追いかけっこしたり、ふざけ合ったりして遊んでいる。その様子を、ただなんとなく見守っている。


 男の子と、女の子。年の離れた姉であるゆきの子供である。男の子の名前はけい、女の子は

 美央のほうがお姉ちゃんで、拳一つ分身長が高くて、態度もよりしっかりしている。


 ここは宮城県宮城郡まつしま町。

 らいの住む宮城県ひがしまつしま市のすぐ隣、西に面している。


 今日は来夢一人で父方の祖父母の家を訪れている。目的は、ここで世話になっている姉夫婦の、子供の顔を見ることだ。


 どうして姉夫婦が広瀬家に厄介になっているかだが、これには小さな紆余曲折がある。


 姉の雪絵は、高校時代の同級生であるなつけいすけ君と、卒業後すぐに結婚した。

 まだその高校生時代、恵介が地元で水産物関連会社への就職が内定したその矢先、彼の父親が遠くへ異動することになってしまった。


 夫婦二人で家を構えるにもまだ高校を出たばかりで資金はマイナスの状態であり、ボロでもよいから安いアパートを、と探していたところ、義理の祖父母、つまり来夢の祖父母からの助け舟で、この家で暮らすことになったというわけである。


 おかげで生まれてくる子供にしょっちゅう会える、と当初は喜び、実際に頻繁に行き来していた来夢であったが、最近すっかり頻度も減り、ここへ来たのもお正月に家族みんなで訪れて以来であった。このままではかわいいい姪と甥に顔を忘れられてしまう。と常々気にしてはいたのだが。

 夏休みで、サッカー練習もオフで、天気もよい、とようやく思い立ち、電話で連絡をするや早速家を出て自転車を一時間ほどすっ飛ばしてやってきたのである。


 しかし子供の成長速度というのは、本当に凄い。会うたびに、大きくなっているのが分かる。

 ほんのちょっと前までは二人とも、自分一人ではろくに歩けず、ろくに言葉もしゃべれなかったというのに。


 現在、美央は五歳、恵太は四歳。

 出産日や姉の年齢から逆算をしていくと、普通に考えて高校生の時には美央がお腹にいたことになる。

 妊娠がもう少し早かったならば、ぽっこり出てくるお腹に周囲をごまかし続けることなど出来ずに、姉はきっと退学になっていたことだろう。


 退学になる、ということは、それはつまり悪いこと、なのだろうか?


 来夢はまだ、をした経験がないので、そういうことの関係することに対して無駄に色々と考え、複雑な気持ちになってしまう。

 経験がないということについて、興味がまったくないわけではないし、確かに未経験ということで自分が子供なんじゃないかというコンプレックスもあるけれど、でもだからってそんなことを気にしてあれこれ努力するようなものでもないし、そんな暇があるのならずっとサッカーボールを蹴っていたい。


 などと理屈をならべてしまうものの、とどのつまり、自分はどうにも男性への嫌悪感が強いようで、それが、このような考え方になってしまう一番の理由な気がする。


 嫌悪感といっても、子供は別だ。

 無垢で、本当にかわいい。

 特に、自分の身内ともなればなおさらだ。

 甥、姪であんなにかわいいのだから、自分の子供となれば、どれだけであるか想像もつかない。


 ……それがいつの頃から、あんな感じになってしまうのだろう。

 と、高校の男子たちの顔を思い浮かべていた。

 あの下品な冗談ばかりいっている、ガサツでデリカシーのない最低な奴ら。

 そういう連中がたまたまあの学校に集結しているだけで、世の中は違うのかも知れないけど、他を知らないのだから理解しようがない。


 甥の恵太も、いずれはああなってしまうのだろうか。

 いやいや、世の中がどうであれ、少なくとも私のかわいい甥は違う。

 あのサッカー部の男子たちや、おおさわのように憎らしい性格になどならず、純粋なまま育つはずだ。

 そうに決まっている。

 だって恵太は雪絵お姉ちゃんの子、つまりは自分と同じ血が流れているのだから。


 ただまあ、そういうことであれば、多少ひねくれ者になるかも知れないが。

 背もあまり伸びないかも知れない。

 宿題をろくにやらずにいつも先生に叱られたり……


「ねえ、来夢、あれやってみせてよ」


 姉の雪絵がすぐ後ろに立っていた。スイカや飲み物の乗ったお盆を持ちながら、軽く腿を上げてなにかを蹴り上げる仕草をした。


「ええー」


 来夢は嫌そうな顔をした。

 照れたようにではなく、心底から嫌なのだ。リフティングは得意でないから。


 しかし甥姪にせがまれ、ボールセッティグまでされてしまい、しかたなくお粗末な技を披露することにした。

 使うボールは子供用の三号球で、一般的な物よりも二周りは小さい。


 庭に降りた来夢は、ボールの前に立って足を伸ばすと、引き寄せるようにしながら爪先で蹴り上げた。

 膝丈のデニムのスカートにサンダルであったが、なかなか器用なものである。だが、腿で受け損なって早速落としてしまった。


 ほら、だからいったのに。と心でいいわけしつつ、再びチャレンジ。


 足の甲で何回か浮かせると、次いで腿へ。サンダルが邪魔なので、甲は使わず膝より上だけで上げ続けた。

 三十回も続けられずに落としてしまうのであるが、それでも美央と恵太には凄いと思うらしく、感嘆の声がしきりに上がっていた。

 それで調子に乗ったわけではないのだが、来夢もすっかり夢中になってしまい、サンダルを脱いで裸足になって、いつまでも蹴り続けていた。

 子供たちが家の中に入り、すっかり日がくれた後も。

 一人っきりで、蹴り続けていた。


 今日は日帰りの予定であったのだが、街灯もない真っ暗な農道を自転車で走れるはずもなく、五年ぶりにこの家に泊まった。


     9

「タカ!」


 はまよしの叫びに、おおさわたかゆきは対戦相手であるビブス組の手をするりとかい潜ってワンハンドパス。

 精度が酷すぎて乱暴に大きく放り投げただけになってしまったが、浜田は後ろに下がりながら万歳するようになんとかキャッチ。とにもかくにもフリーで受けた浜田は、右手で大きくボールをバウンドさせながら、ライン際を突き進んだ。


 相手が一斉に守備に引き始めるその波に乗って、隆之も駆け上がった。


 浜田は、ガードとセンターの二人が詰め寄ってくるのに気付いたが、ドリブルに一心不乱で気が付いていないふり、引き付けて、中央にいるさかようへ投げた。


 しかし保坂へと届く寸前、ビブス組のたけなかあきらにさっと間に入られて、奪われてしまった。


 すぐさまドリブルに入る竹中であるが、その瞬間、隆之がボールを手で弾いて奪い返していた。多少強引ではあったが、運よく相手の身体に接触することなくファールは取られなかった。

 隆之は、保坂へとパスを出すそぶりを見せつつ、急遽反転、フェイントで一気に二人を抜き、ネットの下に入り込んだ。きっと見上げ、シュートを放った。

 ボールに左手をしっかりと添えて構え、丁寧に狙ったのだが、しかし大きく外してしまった。後ろから背中を押され、バランスを崩してしまったためである。


「よし、終了だ!」


 主将のたかやなぎが、壁の時計を見て叫んだ。


「いま、大田に押されましたよ。ファールですよね」


 隆之は納得いかず、高柳先輩に詰め寄った。


「あ、そうだった? まあ練習でそんなムキになるなよ。フリースロー決めたとしても、届かないだろ」


 確かに。ビブス組に、七点差で負けているのだから。

 ただ隆之は、届くの届かないのと、そのようなつもりでいったわけではないのだが。


 もう部活練習の終了時間で、ここで揉めても他の部員に迷惑がかかるから、追求は諦めた。


「よし、帰るか大沢。ラーメンでも食ってこうぜ」


 大田浩一が、筋肉質の身体を気持ち悪いくらいぴたり隆之へと寄せてきた。お互い汗だくだというのに。


「ラーメン屋なんかあったっけ?」


 こんな辺鄙なとこ、ラーメン屋どころか、他の飲食店も娯楽施設も、なに一つとしてないだろう。学校近辺どころか駅周辺にすら、なにもないところなのだから。


「いや、最近この裏にこの時間、屋台が出てるんだよ。ターゲット労働者だと思うけど。工場建設してるからな。でも結構帰りにみんな寄ってるぜ。塩だけだけど悪くないよ」

「そうなんだ。でも今日は早く帰って飯を作らないといかんから、また今度にするよ。それよりお前さあ、最後突き飛ばしてくんじゃねえよ。せっかく入ったと思ったのに」

「この前、お前だって押してきただろが」

「バカか大田。あれはお前が突っ込んでくるから、避けそこなって手が当たっただけだろ」

「悪いの全部おれかよ」

「ああ。天保の大飢饉もナチスの大虐殺も、世界恐慌も日ソ冷戦も、全部お前が悪い」

「逆にすげえな。おれ、神じゃん」


 などと軽口を飛ばし合いながら体育館を出たところで、なんたる偶然か、ひろらいとばったり遭遇してしまう大沢隆之であった。


 彼女は学校のジャージズボンに、白い半袖シャツという姿で、腕にはサッカーボールを抱えている。


「何故、お前がこんなところに」


 こいつ、部活には入っていないはずだが……

 以前はたまに男子の練習に混ぜてもらっていたが、現在はどこか遠くのサッカークラブに入って電車で通っている、と広瀬のお母さんはいってたはずだ。


「今日、練習ない日だから、ここで自主練」


 広瀬来夢もいきなりの遭遇に慌てたのか、ちょっと居心地悪そうな顔で、答えた。


「そうか。まあ、赤点取らない程度にせいぜい頑張れや」


 いつものことだが、間がもたないと脊髄反射的に嫌味が出てしまう隆之であった。

 そしていつものことながら、すねを蹴飛ばされたのであった。


「大沢、お前さ、広瀬のこと、好きなんだろ」


 広瀬来夢が去った後、大田がニヤニヤ笑みを浮かべながら、隆之の脇腹をつついた。


「まあ、嫌いでは……ない。からかうと面白いしな」


 学校の教師たちが、面白半分で大沢隆之と広瀬来夢をくっつけようとしている。クラスが一緒で席が隣同士なのもそのせいだ。などという噂を聞いたことがある。


 広瀬はそれが気に入らず、必死に抵抗をしているようであるが、自分にはそういう気持ちはまったくない。広瀬を好きとか嫌いとかのことではなく、そういう周囲の画策への反発心はない、影響は受けない、ということだ。

 好きなら好きだし、嫌いなら嫌い。ただそれだけのことだ。

 他人のいうことに人生のいちいちを左右されていては、それこそ面白くないというものだ。


 ……それで、実際のところ広瀬に対して自分はどう思っているのだろうか。


 考えるまでもない。

 大田にいった通り。それだけだ。


     10

 田園に囲まれた退屈な眺めの中を、ひたすら自転車で走っている。


 おおさわたかゆき、夏休みの部活練習を終えて現在下校中である。


 途中、酪農家の敷地そばを通る際に、強烈な牛のにおいが漂い、もうもうと鳴き声が届いてくるのだが、それが最大唯一のイベントというくらい本当になにもない道だ。

 先ほどのおおの話しによれば、この道にラーメン屋の屋台が来るようになったらしいが、しかしそれは学校から反対の方向だ。


 退屈な道のりとはいっても、海のほうへ向かってたったの二十分程度だから、楽といえば楽であるが。

 大田など、ゆるい坂とはいえ三十五分間も登り続けなければならないのだから。その分登校時は下り坂であるものの、ジグザグで見通しの悪い道で常にブレーキをかけ続けなくてはならないため全然そのメリットを享受出来ないようであるし。まあそれはザマアミロな話だが。


 隆之は、この道での登下校中によくひろらいと遭遇する。家が近くであるためだ。


 当人は普通にしているつもりなのかも知れないが、小さな身体の短い足でちんたら漕いでいるため、必然的に追い抜かすことになる。するとそこにカチンとくるのか、ムキになってペダルを踏んで回して抜き返そうとしてくるからまったくもってうざったい。


 利用出来る道が複数あるならば、違う道を選択するところだ。まあ、そうなったところで二人でたまたま同じ道を選んでしまいそうな気もするが。


 運良く登下校時に出くわさなくとも、家がすぐ近所であるため、結局のところちょくちょくと顔を合わせてしまうのだが。


 子供の頃は、外で出会うとそのまま遊んでいた。すっかり泥まみれになって、一緒にお風呂に入ったこともある。

 ばったり顔を合わせるだけでも気恥ずかしくてしょうがない現在の自分としては、幼かったとはいえよくそんなことが出来たものだと思う。まあ、異性の幼なじみに対する心の機微など、そんなものだろうとも思うが。


 昔は「らいむちゃん」だったのが、いつからだろう。おれがあいつを苗字で呼ぶようになったの。

 そういや、あいつもいつの間にか「大沢」だよな。ターくんターくんいって、どこへでもついてきたくせにな。


 などと、さもいま思いついたことであるかのように、心に呟く隆之であったが、なにせ退屈なこの通学路、その問い掛けの言葉を頭に浮かべたのはかれこれもう百回、いやニ百回は軽く超えるであろうか。


 うっすら潮のにおいの漂う、広大な田園地帯の中に、ぽつり、ぽつりと一軒家が点在している。その中の一つが大沢家、ごく一般的な二階建て家屋だ。

 両親が結婚してすぐに建てた家。

 築三十年以上を経過しており、ろくにリフォームをしておらず見た目にもガタだらけだ。


 家の脇に、無造作に自転車をとめた。

 以前にエサをあげたことのある白い野良犬が尻尾を振りながら近付いてきたが、「今日はなんもねえんだよ。自分で野鳥でも狩れ」と追い払いながら、玄関へ。


「ただいま」


 と家に上がり、居間へと入ったが、そこに母の姿はなかった。

 部屋は寝床にしている六畳間とも繋がっているが、そこを見ても誰もいない。


「母ちゃん?」


 大きな声で呼んだ。


「はいよ」


 まるで待ち構えていたかのように、すぐさま声が返ってきた。台所のほうからだ。

 足早に台所へ行くと、母、さきが包丁を持って立っていた。

 刻んだ野菜がボールの中に入っている。


「おう、おかえり」


 咲子はそういうと、手にしていた包丁をまな板の上に置いた。


「なに……やってんだよ」


 隆之の声は、少し震えていた。


「なにって、料理だよ」

「やめろってば」


 隆之は咲子にさっと近寄り、肩を掴んでぐるり反転させると、背中を押して流しから遠ざけた。


「これくらいはしないとさ」

「今日はおれが作る日だろ! 余計なことすんな!」


 咲子は内蔵系の病気で、リンパ異常による倦怠感により動くのも辛いはずなのだ。

 綺麗な血液も作られなくなってきており、去年からは、二週間に一度の透析が必要な、そんな身体である。


 必然的に食事は出前か自炊。

 金銭的問題により基本は自炊で、父と隆之が日替わりで担当している。


 父は現在一週間の出張のため明後日まで不在であり、今週の料理当番は隆之一人だ。

 咲子がどうしてもやりたいとせがむので、昨日だけは、ごくごく簡単に出来る料理を任せたが、通常は掃除炊事いかなる家事も許してはいない。


 だというのに……


 隆之は、拳をぎゅっと握った。


「なんだよ、母ちゃんの料理好きだっていってたくせに」

「それはそうなんだけど、とにかく状況をわきまえろっての。……あのさ、テーブルの上に置いてあった回覧板は?」

「出してきた」


 咲子のあっけらかんとした答えに、隆之の顔から血の気がさっと引いていた。


「なにしてんだよ! おれが帰ったら出すからっていっといただろ!」


 腹立たしさに、思わず声を荒らげていた。


「まったく動かないでいたら、それこそ不健康になっちゃうよ」


 咲子は、ちょっといじけたような、つまらなそうな表情を作った。


「いま現在とてつもなく不健康なんだよ! 病気が治るまでの間なんだから、そんくらいの辛抱はしょうがないだろ」


 落ち着いた口調には戻ったものの、隆之の顔にも明らかに不満げな表情が浮かんでいた。


「っていわれ続けて、何年だい」


 咲子はまだ面白くなさそうに呟いている。


「病人のくせに贅沢なことばかりいうな。みんな少しずつ我慢してんだよ」

「それだよ。そういう、あんたたちに我慢を強いるってのが嫌だから、申し訳ないから、だから自分で出来ることくらいやろうとしてんだろ」

「ふざけんなよ! 母ちゃんが大切だから、絶対に、よくなって欲しいから、おれも、父ちゃんも、よろこんで我慢してんだよ。だから母ちゃんだって、喜んで横になって身体を休めろ。おれの時間を気にしてるんなら、なんだったら部活辞めたって時間を作るようにするから」


 そういうと、隆之はまな板の前に立ち、包丁を手に取った。


「部活は辞めちゃダメだよ! 勉強に、部活に、高校生活はしっかり堪能して、思い出一杯作っとかないと一生後悔するんだよ。それと、恋愛。あんた、来夢ちゃんとはどこまでいってるんだい?」

「うお、あぶねえ、包丁落とすとこだった! なんもないよ、あいつとは! 変なこというな!」

「そう? いい子だと思うけどねえ」

「まあ、悪くは、ないよ。別に」


 けれど、恋愛感情になるかは別だ。

 そもそもあいつ、なにを考えているのかまったく分からんし。

 すぐに蹴飛ばしてくるし。

 まあそれは、おれがなんかいうからなのではあるが。


 などと心に呟きながら、隆之は人参の輪切りをはじめた。産業革命時代の蒸気と歯車のピストン機械のように、がっちゃんごんごんとなんとも無器用なリズムで。


 輪切りの厚さは、完全にバラバラであった。

 気にしない。

 料理など、美味しく食えればいいのだから。


 うおん、と外でいきなり犬が吠えた。

 さっきの野良犬だろう。


     11

「お、上手になってきたじゃんかよ。くそ、悔しいな。なんか腹立つ」


 おおはそういいながらも笑って、らいのプレーを褒めた。

 かまももと大和田美紀の、守備練習の相手を務めていた来夢であるが、フェイントとリフティングとで二人の間にするりと入り込み、綺麗に突破したのである。


「ありがとうこざいます」


 褒められたことに、とりあえず素直に礼をいう来夢であるが、しかし彼女としては、技術力の向上というよりは、ようやくここの雰囲気に慣れて自分の能力を発揮出来るようになっただけだと考えている。

 自惚れでいっているわけでもなんでもない。

 一ヶ月や二ヶ月程度で、そんな急速に技術が伸びるはずもないと思うだけだ。自惚れなどは、入団テストの時点で散々に打ち砕かれている。


 でもそう考えるのであれば、あの入団テストは本来ならばもっともっと上手に出来るはずだったということだろうか。現在のような気持ちで、落ち着いてプレーすることが出来ていたならば。


 タイムスリップして過去に戻ってテストを受け直してみない限り、分かるはずもないことであるが。

 確実に分かっているのは、いまだに試合に使ってもらえていないということ。

 それどころかサブにも入っていないということ。

 入団して月日が浅いし、自分はまだ若年だし、だから仕方がないのだろうけど。

 男子のJリーグだって、毎年のように高卒の選手が入ってくるけれど、十代のうちに試合に出て主力として活躍する選手なんてほんの一握りだろうし。


 来夢が二〇一〇年七月初頭にかんばらがくえんに入団してから約二ヶ月、リーグ戦はこれまでの間に二試合が消化されている。


 七月四日 第11節 ホーム VIDAヴイーダ品川戦、


 八月二十一日 第12節 アウェー オベレイションかち戦。


 間隔が空いているのは、夏季のための中断期間があったからだ。


 ホームゲームは、ボールパーソンをやらされたため間近にて観戦することが出来た。

 アウェーゲームである十勝へは自腹を切って行こうかと思ったものの、調べてみたところ行き来するだけで財布から何万円も飛んでしまうため、即断念。しおがまに残って、非遠征組同士で普段通り練習をしていた。少し寂しいものはあったが、みながわすみがいないのがとてつもなく快適であった。


 いつか試合に出る時に備えて、ホームゲームではしっかりと試合を見て、神原学園がどんなサッカーをやるのかを目に焼き付け頭に叩き込み、ノートにまとめて研究するなどの熱心さを見せる来夢であるが、本心としてはそんなことはどうでもよくて、とにかく早く試合に出たいというその一心でその小さな身体ははち切れそうなくらいに一杯だった。


 でもそこまで焦るのは我侭、贅沢というものかも知れない。

 冷静に考えれば、この一年以上どこのクラブにも所属しておらず未来を夢見ていただけの頃に比べれば、あきらかに大きな前進をしているのだから。


 とにかく、まずは試合に出ることだ。

 そこでさらに経験を積んで、活躍して、神原学園を一部に上げる。


 まだ試合に出たこともないから、リーグのレベルやらなにやらそういう勝手はまったく分からない。もしかしたら一部昇格なんて夢見ることすら失笑ものの、神原学園はそんなチームなのかも知れない。来夢自身は、ここの選手はとても上手だと思っているが、相対的な問題として。

 ただし、仮に神原学園がその程度のチームであるとしても、自分が成長しさえすれば、他クラブからの引き抜きということでステップアップ出来るかも知れない。


 ここの選手やスタッフとはかなり仲良くなってきているから(一人を除いて)申し訳ない思いはあるけれど、でもそんな甘いことをいっていられない。

 むしろ、ここから自分が羽ばたいて、なでしこジャパンに選出されて、そこで大活躍して、国内での女子サッカーを活性化させることこそが、恩返しだ。


 待っていろ。

 いつか行くぞ国立!


「なにが国立だって?」


 大和田があからさまに怪訝そうな表情を浮かべている。


「あ、なんでも、ないです」


 なにをどこまで、喋ってしまったのだろう。

 恥ずかしいな。


「はい、チェンジ!」


 やますずコーチが手を叩き、叫んだ。


 二対一守備練習の、相手を入れ替えるのだ。

 攻撃役の来夢は、隣へとずれた。


 本当はそこ飛ばして、もう一つ隣へ行きたかったけど。

 だってこの組……あいつがいるんだもの。


 と、始める前からげんなり気分だ。


 仕方がないといった表情で来夢は、てるいくと皆川純江のペアと、向かい合った。


 来夢は、この皆川純江が大嫌いなのである。

 ポジションの被る来夢を潰そうとしているのか、執拗に嫌な態度を取ってくるからだ。

 普段の態度は無視の一筋だし、逆に練習が始まれば殺す気かというくらい思いっ切りぶつかってくるし、こっちがなんかいえばだんまりで、口を開いたかと思えばネチネチとした言葉を吐き続けるし。


 ほんと嫌だ、こいつ。

 親にどう育てられれば、こんなのが育つんだろう。


「始め!」


 山野コーチが、また手を叩いた。


 やるしかないか。


 来夢は諦めた。


 皆川だって同じ人類。いつかは分かりあえる。

 ……って、それは絶対にないか。


「じゃ、お願いします」


 来夢は、照井と皆川の出方をうかがおうとボールを軽く踏み付けた。

 だが二人も同じように考えているのか動き出す気配がなかったため、ならば、と自分から動いた。

 ボールを足の裏で右へ軽く転がすと、一気に仕掛けていた。

 切り返して、左へと。

 まず皆川純江、こちらから攻略だ。


 脇から抜きにかかると同時に、軽く肩を当ててやった。足を伸ばしてこられないように、バランスを崩してやろうと考えたのだ。

 だが、思い切りよろけたのは来夢のほうであった。肩を当てたその瞬間に、恐ろしいまでの力で激しくぶつけ返されたのだ。いや、やり返したというよりは、皆川のほうこそ最初から来夢の身体を吹っ飛ばすつもりでいたのだろう。


 来夢の身体は勢いあまってもんどり打って、顔から地面に叩き付けられた。

 逆えびぞりになって、背骨への激痛に悲鳴を上げた。


「ちょっと来夢、大丈夫? シャチホコみたいなカッコになってたけど」


 照井が心配しつつも、ちょっと笑ってしまっている。

 口元を手で隠してはいるが、目元がどう見ても緩んでいた。


「……はい」


 来夢は苦痛の表情を浮かべたまま、すぐに上体を起こした。

 背中や顔だけでなく右腕にも熱い痛みを感じ、見てみると、皮が擦りむけて真っ赤になっていた。


 こいつ……いつかぶん殴ってやる!


 来夢はきっと顔を上げて、皆川純江を睨み付けた。

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