第一章 サッカー少女
1
毎年のことではあるものの、今年も実に蝉がうるさい。
本日にしても、人間ならばちょっと立ってるだけで脱水症状になりそうなこの暑さの中、ショワショワショワショワと、まあうるさいこと。
地上に出た後の寿命の短さには同情するが、そうでなければ片っ端から殺虫剤まいて追い払ってやるところだ。
ほんと集中させてくれ、集中。こんな奴らに、絶対に負けるわけにはいかないんだから。二十一人の、この男子どもになど。
少女は胸の中でぼやきながら、走っていた。
アスファルトでもないのに陽炎だ。昨日の雨の影響であろうか。
立ち上る熱気に、空気がゆらゆら揺らめいている。
上空を、すっとトンビが舞った。
地上に落ちた小さな影、それに隠れるかのように、小さな身体がすっと入り込んでいた。
少女、
彼女はそのまま速度を落とさず、ドリブルで走り続ける。
視界が暗くなった。
来夢より二十センチ近くも背の高い、二人の
囲まれたが、しかし来夢は冷静だった。
異臭、というほどでもないが、とにかくもあっと鼻を刺激してくる男の汗くささの中を、細かなステップと柔らかなボールタッチとで、すうっと抜けていた。
おーっ、とまばらなギャラリーから歓声が上がった。
完全に相手守備陣を突破して
来夢は天を仰いだ。
飛び出しを誘って、かわして決めればよかった。と、悔しがった。
「広瀬! いいぞ。その調子!」
後ろから、
なにをいってんだか。下手くそなくせに。
いまのだって、みんながしっかり上がっていれば、もっと選択肢があったんだ。走り回るくらいしかやれることないから、みんな揃ってもうバテバテじゃないかよ。
と、来夢は振り返って声のほう、ぽつりと見える高木の姿を一瞥すると、ゆっくりと、自分のポジションへと戻っていく。
額からは、汗がだらだらとたれている。
風が吹いてはいるものの、ぬるぬる湿った熱気に肌をなでられるだけで、全然涼しくないどころか不快ですらあった。
袖で額を拭うものの、次の瞬間にはもうたれている。もう一度拭うと、今度は他のところからたれている。もう、きりがない。
ショワショワショワショワ。蝉、うるさい!
暑さと、
ここは来夢たちが通う宮城県立
学校全体が、森林地帯の外れを切り開いて作った土地である。東以外の全方向にはびっしりと木々が生え、その向こうには小高い山々の連なりが見えている。
東側には畑や住宅といった眺めが広がっている。少し突き抜けると海である。このグラウンドからでは海は臨めないが、校舎の四階や屋上まで上れば見ることが出来る。
どれほどの絶景であろうとも、この熱気と湿気では、いかような感想も抱きようがないというものであるが。
「飲むか?」
給水タイムに、
「いらん、自分のある」
突っぱねた。
仮になかろうと、男子が口を付けたものなどお断りだ。そんなら熱中症で死んだほうがましだ。
2
幼い頃よりサッカーをやっており、高校の弱小【男子】サッカー部からよく助っ人を頼まれることがある。
今日もその助っ人として、試合に出ているというわけだ。この高校に女子サッカー部などはないので、わざわざ【男子】などと括る必要もないのだが。
今日は
既に試合は再開している。
また、来夢はパスカットからドリブルに入った。これで何度目だろう。
少しは学習しなよ。
と、心であざ笑いながら、上がり続ける。
しかし走りにくい。
男子のユニフォームを貸してもらっているのだが、パンツが来夢には長過ぎて、膝にかかってしまい、動きが阻害されるのだ。
腰周りも紐で縛るのに限界があって、まめに手で上げやらないと、どんどんずり下がっていくし。
そんな状態であることを誰に気づかせることもなく、ぐいぐいと右サイドを上がっていく来夢。相手の
ゴール前、矢本高校の
山田二郎が勝利し、落下するボールにどんぴしゃりと頭を合わせた。が、大きく打ち上げてしまった。
ボールは森の中、蝉の中。
小バカにするかのように、蝉の鳴き声にはこれっぽっちもの変化も見られなかった。
蝉よりもこっちが泣きそうだよ。ほんっと、こいつら下手くそだなあ。
などとボールを蹴りながら心の中で愚痴をこぼしていると、相手に激しく肩をぶつけられ、脳が揺れた。
意識が吹っ飛びかけた。
気づくと転んでいた。
来夢は上体を起こすと、ぷるぷると首を振った。
「もう!」
誰にいうでもなく、不満たっぷりに怒声を吐き出していた。
ほんと世の中っつーか男子っつーのはずるいよ。才能なんてこれっぽっちもない下手くそだって、男子というだけで、身体があんながっちりして強いんだから。
ぼやきながら、ゆっくりと立ち上がった。
身体はなんともなさそうだ。
来夢は守備に戻るため、走り出した。
不平不満を胸に溜め込みながらもここでサッカーをやっていることについて、特別な理由があるわけではない。ただ、この高校に女子サッカー部がないというだけであった。
去年までは自宅の近くにある少年少女のクラブに所属していたので、あえて高校にサッカーを求める必要などはなかったのだが、経営難によりそのクラブが今年の春に無くなってしまったのだ。
来夢はそこに、十年ほども在籍していた。そこでめきめきと実力を身に付け、宮城県代表に選ばれたこともある。
技術やセンスには自信がある。
だからこそ、男子と戦うのは嫌だった。
さっきみたいな思いをすることになるから。
他にサッカーをやれる環境がないし、男子とぶつかることで鍛えられると思うしかないと、分かってはいるのだが、それと男子と一緒に戦うのが嫌というのはまったく別の問題であった。
とはいえ頼まれる都度、なんだかんだと引き受けてしまうのだけど。
そして、やるからには絶対に負けたくない。
相手チームだけではない。味方の男子にも。
そういう意味では相手のイレブンだけでなく、味方の十人も含めて、ピッチにいる二十一人全員が敵であった。
さて、来夢の属する鳴瀬高校側は、
ゴールライン付近でのごちゃごちゃとした攻防に、どっちがラインを割ったか審判がよく見ておらず、なんとなく獲得したCKであった。
キッカーである
敵味方のひしめき合うゴール前。
相対的に巨大な身体に取り囲まれて、来夢の姿は完全に埋もれてしまっている。
猛暑に、男子どもの人数、その筋肉量に、ここは亜空間ではないかと思うほどの凄まじい熱気であった。この迫力は、確かに男子でないと出せないものかも知れない。上手か下手かはまた別次元の話として。
女子としても小柄な部類に入る来夢は、このような場面ではゴール前ではなく、カウンターに備えて守備に残るのがセオリーであるが、「まさにその通りではあるが、しかしすまん、点を取れそうなのが広瀬、お前しかいないのだ」という
両校とも男子サッカー部が異常に弱く、底辺争いをしているライバル。鳴瀬高校の部員としては、絶対に矢本西にだけは負けたくないのであろう。ここに負けるようならば、もう他に勝てるところなどないのだから。
「いくぞー」
キッカーを任された本多大二郎が、頼りない声で合図をするとボールへゆっくり走り寄り、蹴った。
大きな、山なりのボールが上がった。
ファーで構えていた
そこへ走り込んだ
GKは反応出来ず。
しかしシュートは精度が悪く、ポストを直撃。
その跳ね返りに、来夢が反応していた。
前へと倒れ込みながら、地面すれすれの低空で頭を合わせた。
ゴールネットが揺れた。
来夢は首を上げ、腕立てで上体を起こし、シュートの決まったことを知ると、素早く立ち上がってガッツポーズを作った。
「広瀬~!」
「うおおお!」
男子たちが雄叫びを上げながら、こぞって抱き着いてきた。
「触んなバカ!」
振りほどこうともがくものの、押し倒されて、折り重なるように次々と上に乗っかられた。
苦しい……だから、こいつら嫌いなんだよ!
3
と、お天気の神様だか太陽の神様だかに、思わず文句をいいたくなるようなこの炎天下。
もしもこのまま夜がこずに太陽からの熱波が降り注ぎ続けていたら、本当に地面が焦げるか蒸し上がってしまうのではないだろうか。地球、終るのではないだろうか。
そこまでのこの大事態に、何故に蝉はかくも元気なのか。
それともその態度は空元気であり、我慢しているだけなのだろうか。こんなぬるい風呂に入れるけえ、などと怒り出す江戸っ子オヤジのように。
などと
単に、更衣室が空くのを待っているというだけである。
早くユニフォームを脱いで学校の制服へと着替えて下校したいのだが、他の部室全てに鍵がかかっていて、男子部員たちが着替え終わるのを待つしかなかったから。
まあ、熱波の影響も多少はあるかも知れないが。
「お、干からびたミミズ発見!」
部室棟横の水道付近で、
ちらり一瞥する来夢。
たかがミミズで、なにを嬉しそうに。
ほんとバカっつーか、子供だよな、男は。
そのミミズは、なんだろう、蝉同様に暑さを感じることなく、つい地中から外に出てきてしまったのだろうか。いや、蝉が暑さを感じてないかどうかは分からないのだけど。
しかしあれだよなあ、水道のすぐそばで息絶えるって、ちょっと間抜け過ぎだろ。
などと、本多大二郎を子供扱いしながら自身もすっかり頭の中でミミズをネタに遊んでしまう来夢であった。
「広瀬! 手を出して!」
本多大二郎の、突然の切羽詰まったような態度に、来夢は思わず両手を差し出していた。
ぽと、と、なんだかカリカリとした、細長く、赤黒い物が置かれた。
「はい、ミミズのスパゲッティ」
「あああああああ!」
来夢はけたたましい雄叫びを上げていた。
手を振るい、乗っていたひも状の物を払い飛ばした。
「本多! なにすんだ、てめえ!」
怒鳴った。
すっかり涙目であった。
あまりにびっくりしてしまって。
もしかしたら、ちょっとおしっこちびってしまったかも知れない。
「おい、どうした?」
パンツ一丁の姿で。
「そのかっこで外へ出てくんなあ!」
来夢は水道横に置かれていた大きなバケツを手に取ると、小山内たちに向かってぶちまけた。
なんなんだよ、こいつらは。
なんでこんな、デリカシーがないの、男って。
来夢はバケツを置くと、水道の蛇口を全開にし、激しい飛沫が身体にかかるのも気にせずに手を洗い始めた。愛情たっぷり本多特製スパゲッティの汚れを落とそうと。
この高校が悪いんだ。
この高校に、女子サッカー部があればよかったんだ。
生徒の半分近くが女子なのに、なんで男子サッカー部しかないんだ。おかしいじゃないか。
などとおりあるごとにその思考に陥り、一人でイライラを増大させてしまう。
もとはといえば、自分が悪いのに。
地元のクラブに所属していたものだから、高校選びにサッカーを考慮する必要性を感じていなかったのだ。
そのため、近場の、とりあえず問題なく入れそうな学力レベルの高校に入ったのはいいが、一年生の夏に地元のクラブが経営難により消滅してしまい、今日に至る、と。
でも、しっかり考えていたとしても、考えるほどにどうしようもなかったかも知れないが。
そもそも女子サッカー部のある高校など実に数少なく、この近辺だと遥々と仙台の方にまで通わなければならないからだ。
自分でこの高校に女子サッカー部を立ち上げるということも考えたが、現実的にまずは同好会的な規模から始めなければならないだろうし、創設者として色々と煩わしい物事にもかかわらなければならないだろう。
そんな暇があるならば、ひたすら練習をしていたい。
夢をかなえるために。
来夢の夢、それは自分がサッカー女子日本代表いわゆるなでしこジャパンに入り、活躍し、五輪やW杯で優勝し、一気に女子サッカーの知名度を上げること。
日本のメディアをどんどん盛り上げて、行く末はなでしこリーグをJリーグのように完全プロ化させ、海外とのチャンピオンズリーグなどを行なったり、高校は高校で男子の冬の国立みたいなもので観客を熱狂させる。
小さな女の子が気軽にサッカーに取り組める施設なども作ってあげたい。
考えただけでわくわくする。
でもまだ夢のまた夢だ。
それを現実にするためには、もっともっと練習して、そして早くどこか組織に所属して、また代表に呼ばれるようにならなくては。
二年前の春に、宮城県U14代表として県外チームと試合をしたことがあるが、県ごときのレベルで呼ばれたり呼ばれなかったりするようで、どうやって国を代表する選手になどなれるものか。
来年のW杯はさすがに無理だろうけど、次のW杯には、必ず出てやる。
練習して練習して、絶対に、夢をかなえてみせるんだ。
「行くぞ国立……世界……必ず」
ぼそぼそ声ながらも、思いが無意識に口をついて飛び出していた。
「そうなんだ。じゃ、漢方でしっかり精力つけてね」
背後から小山内浩二の声、と同時に襟首になにかを放り込まれた。
にゅるり、という粘液質で不快な感触に、来夢は悲鳴を上げ、飛び上がっていた。
4
いまのように季節が夏ならば、明るいため感覚的にはまだマシだが、冬などはまだ星座がうじゃうじゃ空を徘徊している身の切れるような極寒の中を起こされるのだから子供たちにはたまったものではない。
両親は自営業で飲食店を経営しており、二人の子供たちもその生活リズムに付き合わされているのである。
子供の頃からだからすっかり慣れっこになってはいるものの、理屈で考えると、やっぱり
子供というまだ学校に通う身分が、なんでそんな徹底的に親優先の生活をしなければならないのだと。
開き直れば朝の早起きは確かに健康的だし、その時間を利用してジョギングなどの自主トレが出来ているわけではあるが、しかし我慢ならないのが水曜日だ。
お店が休みだからって、夫婦揃って思い切り遅くまで寝ようとするのだ。
これは本当に腹立たしい。
こちらまで付き合わされて遅刻しそうにはなるし、平日の真ん中だけそんなでペースが乱れて風邪でもひいたらどう責任取ってくれるんだ。
普段は子供に、自分たちの生活リズムを押し付けて無駄に早く起こすくせに。日曜日であろうと早く起こすくせに。
と、理屈上での不満がたまりにたまっていたので、その水曜日である本日、出来心でぐっすり寝ている両親を普段通りの早い時間に叩き起こしてやった。「せっかくの人様の休みを邪魔すんな」と父が理不尽極まりないことをいってくれたりしたが、知ったことか。
現在朝の五時五十分。
食事中である。
丸いテーブルの上には、ご飯、焼き魚、味噌汁、焼きのり、鶏の唐揚げ、ひじきと大豆の煮付け、レンコンのはさみ揚げ、肉じゃが、などなどがところ狭しと並んでいる。
テーブルを囲んでいるのは、来夢と両親、それと弟の四人である。
無用心といってしまえばそれまでだが、窓は大きく開け放たれている。
目の前には、どこまでも畑が広がっている。
家のすぐ前の道を、ごとごとごとごと、と音を立てて、麦藁帽子の老人が乗るトラクターが通っていく。
「どうも」
老人が、こちらを向いて、帽子を取った。
「おはようございます」
父の
あと百年の時が経ようともほとんど変化ないのでは、と思ってしまうような牧歌的な風景である。
それとはまるで対極の、都会的でおしゃれな眺めが、部屋の片隅、テレビの中に映っていた。
仙台駅近くにある高級ブティック。
高級店のはずなのに、女の子たちが安い安いと有難がって飛びついている。
一体この女性たちは、金持ちなのか貧乏人なのか。
そもそも、仙台ってどういうところなのかよく分からない。来夢にはまったく縁がないから。
訪れたことがあるのは、県代表に選ばれた時くらいか。
でも、その時にしても、市の外れの外れだったので、うちとさして変わらないくらいの田舎だったしな。
テレビでの様子から想像するに、中心部はきっともの凄い都会なのだろう。自動車も信じられないくらいにたくさん通っていて。地下鉄なんかも通っていて。絶対にタヌキなんか出ないのだろう。
でも仙台なんてまだまだ甘い。
大都会といえば、そう、東京だ。
日本で、比類するものがないくらいの大都会。行ったことないから分からないけど、多分。
でも、いつか自分はそこへ行くだろう。
東京にはあの、サッカーの聖地である国立競技場があるのだから。
そこでいつの日かわたくし広瀬来夢は、アメリカだかドイツだかイングランドだかの強豪国を相手にスーパーゴールを決めて、なでしこを世界一に導き、一躍時の人となるのだ。
「くっだらね」
弟の
夢を小バカにされた来夢はあからさまに不機嫌そうな顔を作り、肉じゃがを奪ってやるか焼き魚を奪ってやるか目を走らせて思案していたが、しかしどうやら幸人は、来夢の夢でなく、テレビ番組について批判をしていたようであった。
それはそうか。来夢が無意識にぺらぺらと思いを語っていたというのならばともかく、心の中で思っていただけなのだから。
番組ではもうブティック紹介は終わり、色々な恋愛アイテムを紹介して、これで恋の運命急上昇、などとやっている。それについて、幸人は文句をいっていたのだ。
確かにくだらん。来夢は納得した。
ほんとテレビ番組って、恋愛恋愛うるさいよな。CDの曲にしても、そんなのばかりだし。人間はもっと色々なことに生きているのに、どうしてなんでもかんでも恋愛に結び付けるかな。
とはいうものの……こいつがいうかね、そういうことを。
来夢はにっと笑みを浮かべると、
「お前は、彼女とはどうなってんだよ」
幸人にさっと密着し、脇腹にずんずんと肘鉄を入れた。
最近、毎日のようにクラスの女子と一緒に帰っている、と近所のおばちゃんたちの話に聞いたことがあるのだ。中三のくせに生意気な、とも思うが、まあ健全なことだ。
「そんなんじゃねえよ!」
といいながら幸人はむせた。
なにか食べ物が気管に入ったようだ。
「照れるな照れるな。かわりにおかずよこせ。唐揚げでいいや、そのでっかいの」
「意味わかんねえぞ。それより姉ちゃんこそ彼氏とどうなんだよ」
「そんなんじゃないよ!」
大声を張り上げたかと思うと、むせ、ぶほっと吐き出していた。
「うわ、ひじき飛ばした! 汚ねえ!」
「飛ばさせるようなこと、いうからだよ」
自分のことはすっかり棚にあげる来夢であった。
でも本当に、奴はそんなのではないのだ。
決して彼氏などという生き物では。
単に幼なじみの腐れ縁男が、ご近所に約一匹存在しているというだけの話なのだ。
だからおかずを奪う権利は、こっちにこそあるぞお。
と、二人が揉み合い唐揚げの奪い合いで大騒ぎをしているうちに、父が黙ってテレビのチャンネルを変えてしまった。
まったくの偶然であったが、実に、来夢を魅了するような内容の番組が映った。
そしてそれは、今後の運命を大きく変えることになるものであった。
情報バラエティのローカルな話題として、
貧しい環境にも負けずにひたすら頑張る選手たち、というような紹介の仕方で。
なんでも現在チャレンジリーグ所属で、なでしこリーグをめざしているとか。
塩竈市ならば隣の隣だし、時間かかるけど電車で行かれなくもないところだな。
「いいなー」
来夢の顔はすっかりと、玩具やお菓子を前に物欲しそうにしている幼児のようになっていた。
チャレンジリーグというのがよく分からないけれど、とにかく本格的に取り組んでいる女子サッカークラブが遠くないところにあるということに魅力を覚えた。
地元のクラブがなくなってからは、自主練や男子の練習に混ぜてもらうことくらいしか出来なかったから、まともなサッカーに餓えていたのだ。
「ダメ。成績ただでさえ良くないってのに。進級出来なかったらどうすんの」
先読みしたか、母の
「分かってるよ。いってみただけだよ!」
全然分かってなどいなかったが、とりあえず来夢はポーズで怒ってみせ、頬っぺたを膨らませてみせた。
まあ、母親のいうことも一理はある。
進級が出来なかったら一大事だ。
一年遅れて卒業しても、もうろくな就職先がなくて、両親の店を継ぐしか選択肢がなくなってしまう。それだけは絶対に避けたい。この若さで人生を決定付けられるなんて嫌だ。
っと、そんなん気にするのはあとあと。それよりテレビだサッカーだ。
「
ぼそりと呟いた。
テレビで紹介している、その女子サッカークラブの名前である。
聞いたことがある。確か、塩竈市にある高校だ。
それじゃこれって、高校の部活ってこと?
だとすると、やっぱりそこの生徒じゃないとダメなのかな。
「おはようございまーす」
窓の外から、ひょろりとした体型の少年が顔をのぞかせた。
両腕には、大きなカゴを抱えている。
顔立ちを見れば来夢と同じくらいの年齢であろうか。ただし身長は二十五センチほども高い。
しゃれっけのないぼさぼさ髪の少年、この近所に住んでいる
「お、お、姉ちゃん、来たぞ彼氏!」
幸人が楽しげな顔で、来夢の脇腹をつついた。
「だから違うっつってんだろ! てめえ、久々にプロレスやるか?」
そういうと来夢は、弟の脇腹をつつき返した。あえて隆之の姿を目に入れないように、身体を捻りながら。
「おはようタッちゃん」
母の秋江は少年へ笑顔で挨拶を返すと、訪問者の前で下らない争いをしている来夢と幸人の頭をぶん殴った。
「おはようございます」
大沢隆之は、改めてまた挨拶の言葉を発すると、ちらりと一瞬だけ来夢に視線を向け、すぐ秋江へと戻した。
「この前のお礼にって、母ちゃんが持ってけって」
カゴにはいくつかの夏の野菜と、ビニール袋で密閉した漬け物のようなものが入っている。
「あら、そんなのいいのに、もう」
「いえいえ。どうぞ受け取って下さい。おれが母ちゃんに怒られる。それじゃ」
カゴを床に置くと、隆之は踵を返した。が、すぐにまた反転し、
「あ、そうそう、広瀬。これ、教室に落ちてたから」
胸ポケットからなにやら紙切れを取り出すと、カゴの中に入れ、今度こそ去っていった。
「あっ」
来夢は嫌な予感を覚え、立ち上がってカゴへと近寄ろうとしたが、それより離れた場所から猛然たるダッシュを見せる秋江に一瞬にして抜かされていた。
なんだこのストライカーみたいな瞬発力!
「やっぱり! なに来夢、この点数は!」
頭を小突かれた。
そう、紙切れは学校の小テストの答案であった。
「なんでこのタイミングで持ってくんだよ! わざとだろ! クソ大沢、ドアホ!」
外に向かって、来夢は怒鳴っていた。
「女の子がそんな下品な言葉使ってんじゃない!」
また小突かれた。
来夢は頭を押さえ、よろめいた。さっきと寸分変わらず同じところを殴られたので、結構痛かったのだ。
なんて最悪な朝だ。
そういう日なんだ。
きっと昼も夜も最悪な、今日は最低の一日になるに違いない。
大沢め。
5
「
「は、はい! 寝てません決して寝ておりません!」
「だったら課題の二つ目、答えてみろ」
数学の
「えっと」
前髪を意味なくいじりはじめる来夢。
全身から、どっと汗が吹き出していた。
すっかり居眠りをして船を漕いでいたものだからなにがなんだか分からない、というのも間違いのない事実であるが、そもそも課題などやってきていなかったから。
昨夜、真面目に勉強するつもりになったのはいいが、まず最初に取りかった復習の最中に眠くなってしまい、そのまま布団に入って寝てしまったのである。
「広瀬、おい、広瀬」
隣の席からささやくような声が聞こえる。
来夢いわくご近所で幼なじみの腐れ縁であるところの隆之であるが、なんと二人はこの高校でもクラスが一緒で、席も隣同士なのであった。
といっても、さすがにここまでは偶然でもなんでもなく、運命と勘違いして二人が付き合い始めたら面白かろう、と先生方が裏で仕組んだ作られた腐れ縁であるらしい、ともっぱらの噂であるが。
そんな手に誰が乗るか、こんな男と。
恋愛対象なんかに絶対になってたまるか。口もききたくないわい。
と、常々思う来夢ではあるが、しかしながらこの場においては背に腹は代えられぬ。先生にばれないようこっそりと、隆之からノートを受け取るのであった。
「……と、なり……えっと、その、第四象限である、から、ええと、sinθ<0となり、つ、つまり、sinθ=-2√2/3」
いきなり舞台に上げられた素人役者の方がよほどマシと思えるほどのたどたどしさで、来夢は隆之のノートを読み上げた。
「正解」
との声に、来夢はほっと安堵のため息。
以前にも、この先生の授業で課題をやらなかったのがばれて、特製の宿題をどっさりと出されたことがあったのだ。
「借りは返す」
武士のような台詞を発すると、床すれすれの低い位置で手を伸ばして隆之にノートを返した。
「課題やってきてないからって、でも答えられるだろ、こんくらい。黒板に問題だって出てんだぞ」
ノートを受け取りながら、隆之は嫌味の毒針をちくりと来夢へと刺した。
「分かってるよ! 頭ん中で計算してただけだよ。だから別にノート見せてくれなくてもよかったんだ!」
「バカかお前! でかい声でいうなよ!」
と、隆之は慌て、ささやくような小さな声で
「ほー、広瀬、お前、大沢に答え教えてもらったのか?」
ふと視界が暗くなったかと思うと山崎先生の巨体が目の前にそびえたち、ニコニコと楽しそうな顔で二人を見下ろしていた。
それから一分後、広瀬来夢と大沢隆之は、それぞれバケツを持って廊下に立たされていた。
「借りは返す、って、このことか?」
大沢はぶすっとした顔で呟くと、空いている左手の小指で、耳の穴をほじった。
山崎先生はいつも雷を落とす際、笑いながら顔を寄せて突然凄まじい声で叫ぶのだ。そのため、まだ耳に違和感が残っているのだろう。
「ごめん」
来夢にしては、珍しく素直に謝っていた。
しかし、
「なるほど、授業受けなくて済むようにってことだな。きっちりと、のしまで付けて返してくれて、まあ律儀なこった」
「だから謝ってんでしょうが、もう! 死ねえ!」
来夢はバケツを持ったまま真横へ向くと、隆之のすねを蹴飛ばした。
「いてくそ、なにすんだお前、広瀬、このキムチ女が!」
「キムチ女っていうな!」
らいむ - 来夢 - きむ - キムチ
このような連想からきているようで、クラスの男子女子の何人かが勝手にそう呼んでくるのであるが、まさかこいつにまでいわれるとは。
ばん、と勢いよく教室のドアが開いた。
「うるさいぞお前らは!
6
太陽がじりりじりりと照り付けている。
風に乗って届いてくる潮のにおいが、次第に強さを増してきた。
あと、少しだ。
一定のリズムで、左右の住居の眺めがどんどん後ろに流れていく。
住宅街を抜けた瞬間、突如飛び込んできた眩しい光に目を細めていた。
視界が一気に開いた。
目の前には、どこまでも続く青い海が、視野一杯に広がっていた。
今日は快晴、天からの陽光にきらきらと水面が輝いている。
毎日のジョギングで、最高の気分になる瞬間であった。
今日は自制出来たけれど、たまについ奇声を発してしまうことがある。それくらい、気持ちが良いのだ。
都会ではお金や電気をたくさん使って、イルミネーションだかなんだかやっているらしいけど、そんなことしなくても綺麗で素晴らしい眺めなんて、こうしていくらでもあるのに無駄なことしているよな。と本気で思う。
来夢は足を止めることなく、右に折れて、海沿いの車道の端を走り続ける。
ガードレール越しに下を覗き見れば、小さな漁港で漁業関係者があくせくと働いている。
ずらり、と無数の漁船が並んでおり、その向こうには地球の丸みが分かるくらいに広大な海。
「こんにちは、トクさん! いい天気だね!」
来夢はその場で高く腿を上げて足踏みをしながら、大きく右手を振って漁師の一人へと叫んだ。
飲食店を経営している両親の仕事の関係で、漁業関係に何人か知った顔がいるのだ。
「おうサッカー少女! 日課のマラソンか?」
初老の漁師は、壁上にいる来夢を見上げた。
「そんなところ」
そう、といわないのはマラソンではないからだ。一介の高校生がそんな長い距離を毎日走ってたまるか。
「いい天気すぎてもよお、かえって魚がとれないんだけど、まあサッカーの練習するんなら気持ちいいべ」
「そうだね。いつもほんとありがとうね、場所使わせてもらって」
「なに、ボール置くくらいなら、いくらでもあるからよ」
木村徳二の所有している物置の片隅に、サッカーボールやその他の練習道具を置かせてもらっているのだ。
「うん。そんじゃ、またね」
と、来夢はその場足踏みをやめて、走り出した。
そのまま海沿いに一キロほど進み、くるりと反転し、来た道をそのまま引き返す。
よほどの悪天候であったり時間に余裕がない場合以外の、来夢のジョギング基本ルートである。
先ほどの漁港のところまで戻ると、ガードレールの切れ目から、コンクリートの階段を駆け下りた。
漁師たちのうじゃうじゃといる中を走るのは迷惑なので、速足で間を抜けていく。
白いTシャツに赤いショートパンツ、しかも女性という、このような場にはかなり違和感のある姿であったが、特に誰も気にする様子もない。毎日のことに、もう慣れっこになっているのだ。
挨拶してくる者もいるくらいだ。
木村徳二所有の物置から、漁港の外れにあるコンクリートで囲まれた空間まで道具一式を運ぶと、いよいよ本格トレーニングの開始である。
まずはリフティングから。
踏み付けたボールを爪先で引いた瞬間に、素早く爪先を下に滑らせて蹴り上げる。
そのまま、ちょんちょん、と足の甲で細かく蹴り上げ続ける。
右足だけ、左足だけ、そして右、左、右、左、と交互に。次いで高く蹴り上げて、右腿で受けて左腿へ、
と、ここで一回落としてしまった。
また爪先で蹴り上げ、左腿、右腿、そして頭。
と、この調子で五分ほども行なって全身がほぐれると、今度はコーンを細かく並べてドリブルの練習に入った。
小さくドリブルをしながら、ジグザグに抜けていく。
緩急をつけたり、蹴り方を変えてみたり、目の前に相手のいることを想定しながら。
続いて壁打ちだ。
これは、硬い壁に向かってボールを蹴って、跳ね返りを落とさずに蹴り続けるというもの。語弊はあるかも知れないが、テニスでいうスカッシュに近い。
ボールを受ける練習にもなるし、相手の嫌がるところへボレーで正確にシュートを打ち込む練習にもなり、ある意味リフティングより重要だと来夢は思っている。
この壁打ちの技術に来夢は自信を持っており、反対にリフティングは不得意であるため、なおのことそう思ってしまうのかも知れない。
確かにこの壁打ちに関しては、自信を持つのも頷けるくらいに上手であった。ボールの落下地点に入り込み、様々な姿勢から次のボールを打ち出す様はまるで曲芸のように見事なものだ。
五十回ほども蹴り続け、終了。
靴と靴下を脱いで裸足になると、道具一式を置いたまま、短い階段を下りて砂浜に出た。
漁港ではあるが、小さな砂浜があるのだ。満潮時には完全に隠れてしまう、小さなものであるが。もう少し先まで行けば、立派な海水浴場があり、砂浜も広くなるのだが、日課にするにはちょっと遠すぎる。
じゅっ
実際に音がしたわけではないのだが、砂浜に降り立った瞬間、頭の中にそんな音が聞こえた。
思いのほか砂が熱く焼けていたのだ。
おおお、と悲鳴を上げながら、サツマイモがすぐに焼き上がりそうな熱砂の上を走り抜け、壁の下の日陰へと飛び込み、ほっと一息。
そこでやり始めたのは、砂浜ダッシュである。
二十メートルほどの距離を全力で走り、全力で戻る。それをひたすら繰り返した。
足の裏や腿などの筋肉を鍛えるのに非常に効果的であり、また、海の近くに住む者の特権ともいえる、苦しいけれど気持ちのよいトレーニング方法であった。
インターバルを入れつつ、何セットか行なうと、また、もとの場所へと熱砂に悲鳴を上げつつ駆け戻って、今度は裸足のままでボールトレーニングを再開。
ここで来夢が普段どのようなトレーニングをしているかなど、知っている者はいないが、今日の来夢は、普段と比べて実に気合いが入っていた。
それは、ある思いが頭にあったからであった。
昨日、朝のテレビを見てからずっと考えていたこと、
ただうらやましがっているだけでは、
もやもやと考えているだけでは、
決して前には進まないから。
だから。
夢を、かなえるために。
7
今日も天気は快晴。
澄み渡るように青く広がった、空のキャンバスの中に、もこもことした綿のような雲が浮かんでいる。
そうした爽やかな背景がミスマッチ極まりないと思えてくるような、まるで幽霊屋敷のごとく古びた洋風校舎の学校に、いま、
その校門から、柵の外周に沿って反対側に回り込んだ校庭側、そこからずっと中の様子を観察していた。
グラウンドの中には、紺のジャージ姿の女性が二十人ほどおり、大きな声を掛け合いながらサッカーボールを蹴っている。
「これが神原学園のサッカー部か
「なんかみんな、がっちりしてて高校生に見えないよなあ
「お、あの人結構上手い!」
柵に顔を押し付けながら、しきりに独り言を連発している。
ここは宮城県
来夢は一人でここまで、電車に乗ってやって来たのである。
「お、トラップ凡ミス。ははは」
「そんなに面白い?」
背後から突然の声に、来夢はぎゃっと叫んで飛び上がっていた。
身を縮こませながらそーっと振り向くと、そこに立っているのはグラウンドにいるのと同じ色のジャージを着ている女性であった。
髪は短く逆立てて、後ろは刈り込んであって、なんだか漫画に出てくる美形男性みたいだ。
「あ、あ、えっと、ごめんなさい! そういう意味じゃないんです! ……そう、緊張しちゃってて、あたし、どう声かけたらいいのか分かんなくって!」
ぺこぺこぺこぺこと、深く大きく素早く何度も頭を下げ続けた。失礼なことと受け取られた自覚が多分にあったものだから。
「あの、何日か前にテレビで紹介されていたの見て、どんなのかなって思って、友達にそのこと話したら、とと友達、
と、なおも早口でまくしたてている来夢であったが、伸びてくる女性の人差し指が、そっとその口に触れ、ストップをかけた。
「分かった。こっちおいで」
女性はニッと笑みを見せると、来夢の手を掴み、小さな門から中へ、そして仲間たちのいる場所へと引っ張っていった。
8
「誰? その子」
当然といえば当然の、疑問の声であった。
「ネットの告知を見たんだってさ」
「へえ。随分ちっこいけど、スクール? 選手?」
ちょっと老けた感じに見える顔の女性が、ぐいと一歩前に出て、質問してきた。
「なんかよく分からないけど、選手、です」
本当によく分からなかったが、
そんなことよりも、小さいといわれたことが不満だった。確かに自分は、女子の中でも小さいけれど。身長が百五十しかないのだから。
目の前に立つその女性は、反対にやたらと背が高く、百七十は優にあるだろう。
でも初対面の相手に向かって、随分ちっこいだなんて、普通いうか? このデリカシーのなさ、うちの高校の男子と変わらないよ。
「選手希望なんだ」
背の高い、老け顔の女性は、来夢の胸中などまったく気にしたふうもない。
「はい。……でも、やっぱり、ここの生徒じゃないとダメなんですか?」
おずおずと、うつむきがちに尋ねた。
心の中では、なんだよお笑いコンビのケン太コン野のケン太みたいな顔しているくせに、とすっかり敵対心満々であったが。
来夢は友達の野村さんに、入団資格についてそのような記載がないかを確かめてもらったのが、見つけられなかったとのこと。それならばここの事務局に電話で直接確かめればいいだけの話だが、そこまでまったく気がまわらずに、とにかく行ってみようと電車に乗ってしまったというわけである。
「ここの、生徒って?」
「
来夢は、グラウンドの反対側に見えている古びた洋館のような校舎を指差した。
ぷっ、
と、取り囲んでいた選手たちの一人が吹き出した。
それにつられたのか、他のみんなも笑い出していた。
「ねえ、あたしが十代のピチピチ女子高生に見えんの? もしそうだったら嬉しいなあ」
ケン太コン野のケン太が、自分の顔を指差した。
「あ、あの……」
見えない、なんていえない。
いえないけど、見えない。
どう若く見ても三十歳だ。老け顔といっても、みんな高校生なのかなと思っていたからであって、もし三十歳だというのならば、それは適正だ。
他の選手たちも、一人二人幼い顔がいるが、後はみんな二十代に見える。
ということは、少なくとも現役の高校生では、ないということか。
それはさておき、みんながいつまでも楽しそうに笑い続けるので、来夢はなんだか段々と腹が立ってきていた。
いや、先ほどのチビ呼ばわりによって充分にそういう状態に達してはいたのだけれど、自分は部外者で勝手もまったく分からないし、こうして押しかけて相手に迷惑もかけているし、と苛立つ気持ちを抑えていたのである。でも、いくらなんでも笑いすぎだ。
「この学校は吸収合併されちゃってて事実上の廃校。もう存在していないんだよ」
と、ケン太。
「そうなんですか。……でもこっち、そんなの知らないんだからしょうがないじゃないですか。いちいち笑わないで下さいよ!」
来夢はようやくそれだけいった。溜め込んだ不満の、十五パーセントも言葉には出来ていなかったが。
「悪い悪い。でね、現在はクラブにその名前が残っているだけ。もともと、名前を借りていただけみたいなとこもあったし、もううちは神原学園とはまったく繋がりはないんだよ。出身者は、あたしを含めて何人かはいるけど。上の人間も、名前変えるきっかけがないからそのままなだけ。借りてた先が潰れたから、このままで問題ないっちゃないからね。もし一部に上がれれば、それを機会に変えたりすんのかも知れないけど」
との説明に、まだ苛立ちはおさまらなかったけれども、とりあえずここは女子高のサッカー部ではないのだということは分かった。
と、その時であった。
「おい、お前らなにやってんだ。練習しろ!」
突然、男の野太い声がびりびりと鼓膜を震わせた。
近付いてくるのは、服の上からでもいかにもアスリートといったオーラが伝わってくる背の高い、がっちり筋肉質な男であった。年は四十くらいであろうか。
男は来夢を遥か眼下に見下ろし、ようやくその存在に気が付いたといったような疑問の声を発した。
「ん? なんで小学生がここにいる? 誰の弟だ?」
「高校生です! それと、あたし女子です!」
思わず来夢は大きな声を出し、抗議をしていた。
「ネットの選手募集の告知見たんですって」
最初に来夢が出会った、髪の短い女性が説明をした。
「ああそうなの? しかしなあ、坊主、入団テストはユースからのセレクションと一緒にやるから、一月か二月にしか……あ、悪い、お嬢ちゃんお嬢ちゃん。そんな睨むなよ」
「別に睨んではいません」
分からないけど。鏡ないし。
しかし、それじゃあどうしてそういう告知を出したままにするんだ? とその杜撰さにも不満を覚えたが、口には出さなかった。
「でも、面白いじゃありませんか。うち、人材が少ないのは間違いないんだし」
ケン太、と来夢が勝手に思っているだけの、背の高い、三十くらいの、多分絶対ポジションはGKに決まっている女性。その言葉に、男は腕を組み、ちょこっと考え込んだ。
「それじゃあ、特別に、テスト受けてみるか?」
と、いわれたものの、既に来夢には入団を希望する意思はなくなっていた。
こっちがろくに調べず、なにも知らない状態で来たというのも悪いかも知れないけど、でも、それを差っ引いてもあまりに失礼な態度の数々ではないか。こんなとこ、誰が入りたいと思うか。
でも、
だからこそ、
「はい。お願いします」
来夢は、テストを受けてみることにした。
こんなおばちゃんどもよりも、自分の能力が下のはずがない。
個人技を磨くことにしか興味なくて、女子サッカーなどはなでしこジャパンくらいしか知らないからよくは分からないのだけど、このクラブはなでしこリーグですらないって話じゃないか。
テストで良い評価点を叩き出した上で、引き止めるのを振り払ってここを立ち去ろうと思っていた。
「あのお、悪いんですけどお、みなさんレベルが低そうなんで、自分の成長には繋がりそうに思えないから。それじゃあ失敬」、と。
「おれは
と、黒一点中年男。
「
とりあえず、来夢も名乗り、お辞儀をした。
「おれと、あと二人、コーチとキャプテンで審査するから」
男、塩屋浩二は二人を紹介した。
コーチの
それと、チームキャプテンの
二人はそれぞれ、来夢へ自己紹介をした。
その近藤直子に対し、来夢は複雑な思いを抱いていた。
身長が、来夢とほとんど変わらないのだ。
なんだよ。みんなして私のことをチビ呼ばわりしておいて、自分のとこだって似たようなのがいて、しかもそれがキャプテンやってんじゃんかよ。
……でも、なれるんだ。
キャプテンに。
それはつまり、活躍しているってことだろう。しかもディフェンダー、
でもさ、他の選手たちがだらしないだけかも知れないよな。
まあとにかく、テストだテスト。
来夢は胸中から、蓄積された不満やら近藤直子へのちょっとした憧れやらといった気持ちを追い出した。
良い成績出した上で、入団拒否してやるんだから、しっかりテストに集中しなければ。
こうして、選手たちが練習を中断して見物する中、(来夢にとっては偽りの)入団テストが開始された。
9
内容は実に単純なものであった。
まずは短距離ダッシュ。
二十メートルと五十メートル、それぞれのタイムを二回ずつ計った。来夢としては、普段からこなしているトレーニングメニューである砂浜ダッシュの成果を見せられたのではないかと思う。
普段のセレクションなどでは二千メートル走があるとのことだが、今回それは計測しなかった。
サッカーをやっていれば、それなりの持久力はあって当然だし、しばらく休ませてからでないと次からの実技を正確に判断することが出来なくなってしまう。
ふらりとやってきた一人の入団希望者にそこまで割いてあげられる時間はない。このテストでは、きらりと光るものがあるかないかさえ分かればそれでいいのだ。との監督の判断で。
続いて、並べたコーンをドリブルしながらジグザグに走り抜けるテスト。
これも、幼少より毎日のように練習しているものであるからして、平均点以上は出せたのではないか、と自負。
続いてシュート。
止まった状態を五本、ボレーを五本。
十本中の一本だけ枠のすぐ横へと外してしまったが、後はすべて決めた。
止まったボールを外してしまったのはマイナスかも知れないけど、ボレーは失敗なしだから、とりあえずチャラでしょ、と自己採点。壁打ち練習の成果をそれなりに発揮出来たと思うけれど、どうせなら壁打ちそのものならよかったのに。
そして最後が、ボールの保持力と奪取力とを見るテストだ。
これには相手が必要である。塩屋監督に指名され、
「
ここへ来て最初に出会った短髪の女性が、来夢へと近寄り正面に立った。
「
二十歳少し過ぎたくらいだろうか。ゆるくウエーブのかかった柔らかそうな髪が肩までかかっている、中背の女性だ。ポジションは
「広瀬来夢です」
先ほど全員の前で名乗っているが、つい二人につられてまた名を名乗っていた。
八つの赤いコーンを並べて作ったサークルの中に、三人は立った。佐竹愛が、右足で軽くボールを踏み付けている。
テスト内容は、単純な一対二でのボールの奪い合いだ。
来夢が持ち、二人はそれを奪う。
また、二人が取られないようにキープしたりパスしたりするのを、来夢が奪う。
それにより、来夢の保持力と奪取力を判断する。
ただ、それだけのものだ。
始まる前、来夢は心の中でほくそ笑んでいた。
こういうのは、足元だけじゃなく、身体の入れ方なども重要。自分は男子と練習したりして、こういうのに充分に揉まれて、慣れている。体幹だって、自己流だけどここ一年くらい真面目に鍛えているし。
弾き飛ばして、奪ってやる。奪ったら、もうボールにかすれさせもしない。どうせこの二人だって、このチビって舐めてるんだろうから、大恥をかかせてやる。
だが……
始まってみると、簡単に弾き飛ばされたのはむしろ来夢のほうであった。
後日になって知ったことであるが、このようなクラブにおいて男子選手との定期的な練習がカリキュラムとして組み込まれていることは珍しくなく、この神原学園も同様であった。つまりは、来夢の考えているような優位性などは、どこにもなかったのである。
そもそも、しっかりとした器具や練習でこれまで身体を作り上げてきた成人女性に対して、小柄でしかもまだ身体も出来上がっていない来夢が勝てるはずもなかった。
そして彼女らは、足元の技術にしても来夢の想像を遥かに越えるほど上手であった。
仮に来夢に彼女らほどのフィジカルがあったとしても、それでも奪うことは容易ではなかっただろう。
まだ始まって三分も経っていないというのに、もう来夢の体力は限界に達しかけていた。動くたびに肉体が悲鳴を上げていた。
気力を振り絞ってなんとか奪おうとするのだが、ただいたずらに体力を消耗していくばかりであった。
これじゃあキープ力のテストにならない、と、半ばお情け的にボールをよこしてくれるのであるが、ものの数秒でまた取り戻されてれてしまう。
来夢は肩で、大きく呼吸をしていた。それでもろくに酸素が身体に入ってこない。
苦しいけれど、休むことなく身体を動かし続けた。相手へ、挑み続けた。
絶対的な能力差があることは、もう分かっていた。
自分は井の中の蛙だったのだと。
でも、それを認めていない自分がいた。
半ば意地で、ボールを追い続けた。
気付くと視界が滲んでいた。
大雨の、車の中から濡れた窓を見ているかのように。
腕でまぶたを拭った。
しかし次の瞬間、もう視界は滲んでいた。
来夢は泣いていたのである。
大量の、悔し涙を流していたのである。
泣いていない!
と、もう一人の自分が、それを否定していた。
来夢は歯を食いしばり、二人を睨みつけるように、またボールヘと身体を突っ込ませていった。
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