第七章 夢をかなえるために
1
二〇一〇年十二月十二日
全日本女子サッカー選手権大会 第二回戦
会場 塩竈市営サッカー・ラグビー場(宮城県塩竈市)
神原学園(チャレンジリーグEAST) 対 神戸SC(なでしこリーグ)
天候 曇り
時折雲間から青空が覗いてはいるものの、昨夜から今朝方まで弱い雨が降り続いていたため、芝はまだ濡れている。
現在、ピッチ上に人の姿はない。
つい先ほどまで両チームともジャージ姿でウォーミングアップをしていたが、間もなく試合が始まるため、いったん引き上げたのだ。
本日の会場は、
サッカーラグビー兼用の市営スタジアムで、ピッチの両端にはラグビー用のポールが常設している。
前回、中国地区代表である
前回の相手とは桁違いの実力を持つ、本大会優勝間違いなしといわれている強豪クラブだ。
他クラブにいる代表クラスの選手にプロ契約をちらつかせるなど強引かつ積極的な補強によって、ここ数年で力を付けてきたクラブで、攻撃の爆発力と鉄壁といえる守備力により、今年のリーグ戦ではほとんど負けを知らず、二位以下を大きく引き離して優勝を決めている。
これから行なわれる全女の二回戦にしても、常識的に考えるのであれば、神戸SCの勝利は硬いといえるだろう。
だがサッカーという競技は、あまりにも実力差があるとなかなか先制点が生まれにくいという面もある。弱い側が、自陣に引きがちになるためだ。
引いてしまえば、少なくとも簡単に崩されることはなくなる。
ほとんどを自陣でプレーすることになるため、一瞬たりとも気が抜けないが、お互い点のなかなか入らない状況に、むしろ強者の側にこそ焦りが出てあっさりとカウンターから失点してしまうことだってある。
リーグ戦ならば優勝間違いなしといった強豪クラブが、序盤戦で撃沈されることもあるのが、一発勝負の持つ恐さである。
男子の天皇杯が、毎回のようにそれを証明している。
「それでは選手の入場です。みなさん、両チームのフェアプレーを期待し、素晴らしい試合になるよう、拍手で迎えて下さい」
音楽とともに、女性の声で場内アナウンスが流れた。
選手入場である。
審判団、続いてだぼだぼユニフォームの可愛らしいエスコートキッズと手を繋いだ両チームの選手たちが、次々にピッチへと入ってきた。
神原学園は、上下とも赤のユニフォーム。
肩と胸には一本の青いライン。側面には黄色く細い二本のラインが入っている。
胸スポンサーはない。
対する神戸SCもチームカラーは赤であるが、今日はアウェー戦であるため、白のユニフォームを着用している。
胸には「とうきびかすてら」の文字。和菓子で有名な
ピッチに立った二十二人の選手たちは、列になり、お互いの健闘を願って握手を始めた。
なお、その中に広瀬来夢の姿はない。
2
今日はベンチスタートの
一週間前の試合で終盤に足をくじいてしまい、今回、出場はほぼ問題ないとは診断されたものの大事をとって先発から外れたのだ。
となれば右SH《サイドハーフ》のポジションに入るのは、来夢の入団前よりそのポジションを務めていた
前半はとにかく守備的に行きたいという
「絶対に勝つぞおお」
と、闘志を燃やしているのは、来夢も同じであった。
ベンチスタートの身ではあったが。
どうせなら先発して、いいとこ見せたかったんだけどなあ。
と、来夢がつい心の中でぼやいてしまうのは、今日はこの会場に家族が観戦に訪れる予定だからだ。
先ほどウォーミングアップの途中に、きょろきょろ見回して確認をした時にはどこにも見つけられなかったけど、もう到着しているだろうか。
いま向こうのバックスタンドを見ても、それらしい姿は見つからないから、ならばきっとこのベンチの真上、メインスタンドにいるのだろう。出場してピッチに立ったら、ちょっとだけ見ちゃおう。
来夢は首をぶんぶん振って、雑念を振り払った。
そんなことよりも、チームが勝つことのほうが遥かに大事だろ。
親だのスタメンだの、どうでもいいこと気にしている場合か。
相手が遥か格上であることを考えれば、今日はより守備的に行くという監督の考えも分かるし、だから先発を外されたことによるモチベーションの低下はない。ベンチにいるならばそこでやれること、ピッチに立ったならばそこでやれることをやるだけだ。
来夢は、目の前に広がるピッチを見回した。雲間から降り注ぐ陽光が、濡れた芝にキラキラと反射している。
そのピッチでは、ちょうど写真撮影が終わって、両チームとも円陣を組んで気持ちを高めているところだ。
神戸SCが先に散り、神原学園が続いた。
「勝つぞーーっ!」
不意に皆川純江が叫んだ。
「おーっ!」
隣の来夢も負けじと大声を張り上げた。
チームとして成熟しており、なおかつ選手個々の技術が非常に高い神戸SCとの対戦、当然、気合いだけで乗り越えることの出来ない、厳しい戦いになるだろう。
絶望的な状況かも知れないけれど、クジ運を悲観するのではなく、むしろプラスに捉えないと。強い相手と戦えるということを。
相手には、助っ人のブラジル人選手がおり、抑え込むのは容易なことではないだろうけれど、これだってそうだ。こんなチームと当たれることを、むしろ喜ぼう。
失うものはなにもない。
とにかく、やるだけだ。
来夢は、そう気を引き締めた。
チームとしても個人としても、勝てば快挙、もの凄い自信に繋がるし、負けたとしても全力で戦ったことそのものがやはり今後の大きな財産になるだろう。
いつか、世界と戦うため、夢をかなえるための、その礎となるような、いかなるものにも換えがたい素晴らしい財産に。
ピッチ上で、既に選手たちはそれぞれのポジションに着き、試合開始の笛を待っている。
いよいよ試合が始まるのだ。
これまで戦ってきたどこよりも、遥かに強い、そんな相手と。
二部で中位のチームにいる自分に、偉そうにあれこれ思う資格はないのかも知れないが、試合が始まってしまえば一部も二部もない。
来夢は、ぎゅっと拳を握った。
真っ黒なシャツとパンツを着てピッチに立っている女性主審が、笛を口にくわえ、手を高く上げた。
笛の音が、鳴った。
3
工藤香織は、神戸FWがプレッシャーをかけてくるのを避けて、前方へ強く大きく蹴った。
山なりに上がったボールの落下地点へ、佐竹が入り込もうとしたが、神戸の4番、
中田真澄は、頭で大きく跳ね返し、前線へと送った。
神戸の8番、シェイラがそれを受けようと俊足を飛ばした。
シェイラ・ソウザはブラジル人である。なでしこリーグでは珍しい、外国人枠の選手だ。
神原学園の右SH《サイドハーフ》である
しかし、シェイラは小柄な身体を補って余りある素晴らしい跳躍力を見せた。米田よりも一回り背が低いというのに、米田よりも頭一つ分高くまで跳躍し、ボールを受けたのだ。
着地するとほぼ同時に、遅れて落ちてくるボールを蹴り上げて、味方選手である神戸の
奪い返そうと、神原学園の
橘まといは背中を向けて、巧みに手を使って回り込ませず冷静にボールをキープ。そして、フォローのため戻ってきた神戸9番の
直本香純は受けながら身体を反転させたかと思うと、一瞬にしてトップスピードに乗っていた。
動作の早さにまるで反応出来ず、なすすべなく振り切られた米田は、背中を慌てて追い掛けて始めた。
直本香純、さすがは現役の女子代表選手である。
現在二十六歳。
スピードもスタミナも抜群で、どんな姿勢からも、どんな状況であっってもゴールを狙える得点嗅覚の非常に優れたFWである。
機を見て下がって中盤の組み立てに参加し、中盤を活性化したかと思うと、いつの間にかゴール前に上がり込んで、自らが作り出した流れから運ばれてきたボールをフィニッシュするような、そんな選手である。
外国人選手のシェイラだけでなく、この直本香純を抑えることも実に重要であるが、しかし神原学園の選手たちは、この試合にあたって特に誰を抑えろといった対策は下されていない。
全員が、等しく注意すべき相手だからである。
また、チーム戦術としても、あまり多くの対策は与えられていない。
なるべく攻撃を遅らせて、なるべく二人以上で相手を取り囲め。
自陣深くに引いてカウンターを狙え。
あとは、判断を素早く、フォローの意識を、仕掛けたらシュートで終われ、走り切れ、等など一般的な言葉が出ただけである。
さて、ボールを受けた直本香純であるが、フェイントを仕掛けて神原学園の右
神原学園のボランチである
主審の笛が鳴った。
女子サッカー、特に日本では、そう簡単にイエローカードによる警告が出るものではないのだが、しかし本日の一枚目は開始一分、早々であった。
受けたそのファールによって、神戸SCは直接FKを得た。
キッカーである
ボールは軽い山を描いて、敵味方の密集する神原学園ゴール前のニアへと飛んだ。
また神戸8番、ブラジル人選手のシェイラが素晴らしい身体能力を発揮した。飛んで来るボールを神原学園の
ボールに上手く合わせて、頭を振った。
ヘディングシュートだ!
ゴール正面で身構えていた
GKだけでなく、神原学園の選手たちは、完全に意表を突かれていた。
示し合わせの通りなのか偶然なのかは分からない。分からないが、とにかくファーのぽっかりと空いたところへ直本香純が素早く飛び込んでボールに頭を叩き付けたというのが、紛れも無い現実であった。
神戸SC先制。
敵味方、誰もがそう思っただろう。
しかし、まさにそうなろうかという寸前、横っ跳びを見せたGK福士紗代莉が、かろうじて指先で触れて、その軌道を変えていた。
ボールはポストに当たり、跳ね返った。
こぼれをねじ込もうと神戸の
再度シュートを狙おうと、その転がるボールに神戸の2番、
ボールは高く大きく飛んで、タッチラインを割った。
笛が吹かれた。
畠山の身体に、角材英美が自らの速度を殺せずに追突してしまったのだ。
特に大事はないようで、畠山はすぐに起き上がった。
神原学園のFK。GK福士紗代莉が大きく蹴った。
相手の決定的なチャンスをなんとか防ぎ、難を逃れた神原学園であったが、これはまだまだ序章の序章に過ぎなかった。その後もこの状況が好転することはなく、完全にボールを支配され、一方的に攻められ続けたのである。
神原学園は、四人のDFと二人のボランチによる、実質シックスバックといった布陣で、なんとかその猛攻に耐え続けていた。
前線の選手たちも、あたふたと守備に追われるばかりで、ほとんど自陣から出ることが出来ない。
完全なワンサイドゲームになっていた。
神原学園としては、ただ耐えるしかなかった。
ラインを押し上げて、前線からの守備が出来るのであれば少しは楽になるのだろうが、出来ないからこうしているのだ。強行しようものならば、相手のパス回しに翻弄され、チームをバラバラに崩されて、致命的な結果を招いてしまうことはほぼ確実だろう。
それは分かっていたこと。最初からのプラン通りに、このまま低い位置で耐えてチャンスが訪れるのを待つしかなかった。
神戸SCの選手たちは、誰が最初に得点するかというゲームでも楽しんでいるような、そんな緊張感のない実にリラックスした表情で、次々とシュートを打ち込んでいった。
確率論として自分たちだって負ける可能性があるのだということを、露ほどにも考えていない表情であった。
それは当然であろう。
チームとしての成熟度だけではない。個の力が、あまりにも違い過ぎるのだ。
目に見えるこの圧倒的な戦力の差。
ベンチから見ていても、ひしひしと肌で感じ、来夢は思わず身震いをしていた。
ただし、他の選手たちはいざ知らず、来夢がいま感じているその気持ち、全身を襲うぞわぞわとした感触は、絶望によるものというよりは、むしろ逆で、希望に限りなく近いものだった。
ほんと、凄い、神戸の人たち。
でも、やれるんだ、
練習することで、女でも、こんな凄いサッカーが出来るんだ。
代表そのものといって過言でない能力を持つ彼女たちに、素晴らしいチームワークや個人技を嫌というほどに見せ付けられて、以前の来夢ならば、落ち込んでいただろう。現実を突き付けられ、夢を見る資格すらも自分は失ったと思い込んで。
しかし紆余曲折を経て心身ともに立ち直った現在の来夢にとって、逆境はむしろ夢へ向かう推進力に他ならなかった。
また、弱気な自分に戻る日が来るかも知れない。
多分、来るのだろう。どうでもいいことに、またうじうじと過ごすことになる日が。
それでいいと思っている。
落ち込むならとことん落ち込んで、いつか成長に繋げればいい。
「後ろ、来てる! エミさん、クリアはっきり!」
来夢はまた大声を出した。
自分はまだこの試合、出ていないけど……出られるかは分からないけど……でも、なんだか、みんなと一緒に試合をしているような気持ちだ。
それどころじゃない。相手が実質上のなでしこジャパンだからなのか、自分も日本代表となって戦っているような、国家の威信をかけた大きな舞台で戦っているような、そんな、気持ちになっていた。
錯覚であることは分かっていたけれども、その心地よい気持ちの中に、来夢はどっぷりと自分の魂を沈めていた。
そうだ。
夢を、かなえるんだ。
夢を。
だって……
何故こんな時にこんなことが頭に浮かぶのか分からないが、ふと来夢は、数日前の出来事を回想していた。
4
「いまだけ迷惑かけるけど、絶対に恩返しをするから、だから、サッカー、続けさせてください! お願いします!」
紆余曲折を経てサッカーを大好きであることを再確認した
その改まった大袈裟な態度に父、
「お前、なにをいきなり、そんなこといってんだ?」
「だって……」
以前に、店の経営が厳しいと両親が嘆いているところを立ち聞きしてしまったことがあるのだが、それを正直に話した。
「なんだよ。聞いてたのか。まあ、その通りだ」
智之は頭を掻いた。
「だから……」
「お前がそんなこと、気にしなくていいんだよ。子供のくせに生意気な。そりゃ、こんな不景気だし、これからも厳しい状況であることに変わりはないけど、でもまあ、銀行からなんとか融資を受けられそうだし。といっても要は借金だから、これからも大変だけど……銀行がおれたちに金出してくれるみたいに、ここでおれたちが、娘に投資をしなかったら、それこそ後悔するよ」
そういって、また智之は笑った。
「そうそう。あんたはまだ高二なんだから、高校生らしく、子供らしく、勉強と運動を頑張っていればいいの」
母、
来夢は、そんな前向きの言を吐く両親の顔色を、俯きがちにうかがった。
本当はサッカーをやめる、働いて金を入れる、などと娘からいわれたほうがありがたいんじゃないか。そう思ったから。
しかし、十六年も付き合ってきたことから分かるが、両親のその表情は、間違いなく本心から語っている時のものであった。
それでもなお、来夢は泣きそうな声で、
「投資って……でも、そういうのに、なれないかもしれないんだよ。一流の、国を代表するような選手なんかに。夢、かなわないかも知れないんだよ」
「かも知れない。そんなのは時の運だ。おれがいってるのはだな、夢を追おうとしている子供を応援しなかったら、親として一生後悔する、そういうことなんだよ」
来夢の目に、涙が滲んでいた。
また、深く頭を下げた。
そんな大袈裟な態度を取らなくても、ただ一言ありがとうといえばいいだけなのに、声が詰まってまるで言葉が出てこなかったから。
無理に礼の言葉を発しようものなら、顔をくしゃくしゃにしてしゃくり上げるだけの、両親に大爆笑されそうな見るも情けない姿をさらすだけになりそうで。
嗚咽の声が漏れるのを必死にこらえるのに、精一杯であった。
来夢は、こぼれ落ちる涙とともに、自分の身体や心にまだ綿のようにまとわりついていた色々なもやもやが、少しずつ洗い流されていくのを感じていた。
5
いまはとにかく、両親に甘えていいんだ。
そして、なにも考えずガムシャラにサッカーや勉強をやる。
夢をかなえるために精一杯頑張り、自分が懸命に生きた、未来へと繋がる証を残すために。
いや、夢は、絶対にかなう。いまはそれを、強く信じる。
「
だから、ベンチであろうと関係ない、必死に、戦っている仲間を応援するだけだ。
もし出場したのならば、それこそガムシャラに相手にぶつかり、自分を試すだけだ。
やれることを、全力でやるだけだ。
その先に、なにかがある。
絶対。
「集中集中!」
そんな来夢の声掛けの効果も、きっと何割かはあったのであろう。
序盤から劣勢に次ぐ劣勢で相手の猛攻にさらされ続けた
「神戸の選手も焦ってくるだろう。粘れば粘るほど、向こうはイライラして、こっちのカウンターチャンスは生まれやすくなる。数は多くはないかも知れないけど、少ないチャンスを大事にして、しっかり狙っていこう」
そんな監督の指示を受けて、選手たちはピッチに送り出された。
そして、残り四十五分の戦いが始まった。
6
後半開始とともに、
ボランチの照井郁美を引っ込め、小向佐美江を同じ位置に入れた。
戦術的な変更ではない。
単に、一番疲労していそうな者を変えただけだ。
照井は、まだ十代という若さにものをいわせて、縦横無尽に走り回っていたからだ。
決意新たに望んだ後半戦であるが、しかし状況としては前半戦と比べてなにひとつ変わるところはなかった。
神戸SCがボールを支配し、神原学園が自陣深くまで引いてなんとか跳ね返す。
セカンドボールを拾った神戸SCが、また神原学園の陣地へ切り込み、と、その繰り返しであった。
しかし、そのような攻防の中で、神原学園に一つのチャンスが生まれた。
波状攻撃をなんとかクリアしたそのボールが、大きく飛んで、前線で張っていた
「いけー!」
絶好のカウンターチャンスに、ベンチの
いわれなくともこんな好機はまたとない、工藤香織は味方が自陣に引き過ぎて誰も攻め上がれそうにないこと判断するや、踵を返し、ボールを大きく転がして、それを追うように全力で走り出した。
だが、工藤は足の速い選手ではない。
反対に、神戸SCの俊足DFである
ペナルティエリアが近付いてきた、というところで、追い付き肩を並べた角材英美が、おそらくファール覚悟で思い切り肩を当てた。
似たような体格の二人であるが、内部に詰まった筋肉量が違うのであろうか。工藤はよろけ、足をもつれさせ、転んでいた。
しかし主審の笛は吹かれなかった。
神原学園のスタッフ、選手、サポーター、方々から落胆の声が上がった。
ボールは神戸SCの
「チャンス作れてるよ! 繰り返してこう!」
来夢は叫びながら何度も手を叩いた。
だがそれ以降、神原学園にチャンスらしいチャンスは生まれなかった。防戦一方で気を抜けば失点であり、前への意識など持ちようがなかったのである。
反対に神戸SCは、狭い中を次々と人とボールが動き、チャンスを生み出し続ける。しかし神原学園の頑張りと運不運もあり、そのチャンスは得点という結果には結び付かず、時間ばかりが過ぎていく。
後半十五分。
神戸SCは選手交代を行なった。
一気に三枚替えだ。
小形直美は
三人とも、攻撃的な選手である。
右側の一点集中で、強引に相手ゴールをこじ開けようというつもりのようであった。
もちろんそこに神原学園の意識が集中すれば、おのずと反対側の守りが薄くなるだろう。
それだけではない。神戸SCはやや前掛かりになった。
CBが異様なまでにラインを高く取り、守備の選手までが積極的な攻撃参加を始めた。
攻撃の厚みが格段に増し、神戸SCの得点は時間の問題と思われた。
あえて神原学園に良いように解釈するならば、「相手は焦っている」というところであろうか。
このどうしようもない状況には監督としても、その良き解釈の前提で采配を振るうしかないというところであろう。
「やっぱりこのへんが、勝負のしどころか」
「ナオ、準備しとけ」
「はい」
監督に声を掛けられ、
「……それと来夢、お前……出たいか?」
監督は、来夢の顔を見詰めた。
「出たいです」
来夢は、即答していた。
「それじゃ、準備しろ」
「はい!」
大きな声で返事をすると、勢いよく立ち上がった。
「やってやれ、来夢」
バシッ、と鈍い大きな音。
皆川純江が、来夢のお尻を思い切り叩いたのだ。
「あいたっ! なにすんだよ純江ちゃん!」
「あたしの分まで、エネルギーを入れてやったんだよ。張り切り過ぎて途中でガス欠にならないように」
そう。来夢が出るならば、それで交代枠を使い切ることになるため、皆川の出番はないのだ。
二人はお互いに微笑むと、がっちりと握手をかわした。
来夢はジャージを脱ぎ、佐藤直子とともにアップを始めた。
真っ赤な上下。思えば来夢にとって初めてであった。ファーストユニフォームを着て、ホームで試合を行なうのは。
先発の座を勝ち取った後の試合では、九月十二日がホームであったが、県代表に召集されて
だから、清掃活動やサッカー教室の時くらいしか、このユニフォームを着たことがない。
大和田美紀、米田繁子 アウト
佐藤直子、広瀬来夢 イン
両サイドをそれぞれ交代することになった。
大和田美紀に代わって左に入るのは佐藤直子。
彼女はFWの選手だが、前のポジションならどこでもこなす器用さがあるということと、やはり、点を取りにいきたいという監督の考えであろう。
米田繁子に代わって来夢、これはもともとが右サイドハーフは来夢のポジションだからだ。
来夢の足の状態が懸念されていたということと、最初は守備的に入りたいという監督の考えで、DFである米田がその位置を務めていたのを、いよいよ攻撃的にスイッチを入れようということであった。
「お疲れ様」
「あと、任せたよ、来夢、ナオ」
二人の交代選手は、汗だくで息を切らせて戻ってきた大和田美紀と米田繁子とハイタッチをすると、ピッチに入った。
来夢は入るなり腕を全力で振るって、自分のポジションへと走り出した。
やるぞ!
心の中で叫んだ。
7
夢のスタートライン。
そんな言葉が、ふと浮かんでいた。
それをついに、切ったのだと。
これまで順調なステップアップをしてきていたと思っていたくせに、つまり、とっくに夢へのスタートラインなど切っていると思っていたはずなのにおかしな話だけど。
でも、それでいいのかも知れない。
人生というのは、常にスタートの連続で。
常に、夢のスタートラインに立って、わくわくと、心を踊らせる。
その連続で。
とはいうものの、今日は一体なんのスタートライン?
ああ、分かった。
世界だ。
今日の対戦相手は、日本代表が何人もいる凄いクラブだものな。
監督は勝負に出て、
つまり、神戸SCが圧倒的に攻め、
変化がないどころか、相手の攻撃がより激しさを増してさえいた。
先ほどまで守備の選手である
来夢自身も、充分に理解している。
もちろん自分なりに必死の守備はするが、だからといって下がり過ぎるつもりはなかった。
自分に求められている仕事は、カウンターのチャンスを作ること、それと決定機に絡むことだから。
右
とにかく点を取らなければ、サッカーという競技は勝てないのだから。
また、ペナルティエリア付近で神戸SCが突破侵入を図ったが、
直本香純は外に開くと、ライン際を自慢の高速ドリブルで突き進んだ。
だが、次の瞬間、よろけて転びそうになった。
直本香純へと走り寄った来夢が、スライディングでボールを押し出してタッチラインに逃げたのだ。
「来夢、ありがと」
流れを切ってくれたことに、小向佐美江は来夢に礼の声を掛けた。
神戸SCのスローイン。
直本香純はボールを拾い上げると、
橘まといは、両手でキャッチ。
来夢はその隙に、ちょっとだけよそ見をした。目を細め、メインスタンドの客席に視線を向けた。
観客が少ないため、それはすぐに見付かった。
父、母、弟、わざわざ塩竈まで応援に来てくれている、家族の姿が。
それだけではなかった。
そこには、来夢が予想もしていなかった人物の姿もあった。
一緒に、来てたんだ。
来て……くれたんだ。
「どこ見てんだ来夢!」
8
「すみません!」
もう客席など見ない。
最後の最後まで集中だ。
神戸SCのスローインは、
既に神戸SCの前線は、何人もの選手が攻め上がっており、その中の一人である
神原学園の
高崎涼子から、シェイラ、
神原学園守備陣の寄せがあとほんの少しでも甘かったならば、シュートは間違いなく決まっていただろう。
しっかりと枠を捉えた、なおかつ威力のあるシュートであったが、コースが限られていたため、反応したGK
「みんな、よく集中出来てるよ!」
福士はそう叫びながら起き上がり、ボールを強く大きく蹴った。
神原学園の右サイドを来夢が全力で走って、足先でトラップをした。
と、そこへすかさず、神戸SCの選手がプレスをかけてきた。
来夢は二人を避けようとしたが、かわし切れず高井遼子と接触。軽く肩が触れただけ、傍目からはそうとしか見えない程度のものであったが、しかし来夢は大きくよろけ、前へつんのめるように転んでいた。
お互い正当なプレーでぶつかり合っただけで、笛はない。
簡単にボールを奪われた来夢は、素早く起き上がると、急いで守備に戻るため走り出した。
体幹が……まったく違う。
来夢は、自分が軽く転ばされたことに、悔しさもあったが、むしろ感動をこそ覚えていた。
こんな凄い選手たちと試合をしているんだ、という喜びを。
とっても、かなわない。
どう挑む?
相手のフィジカルが凄いことなんて、試合前から分かっていたことだろう?
そんな相手に勝つには、どうすればいい?
これは、課題だ。
小柄で貧弱な自分が、上を目指すために避けて通れない。
でも、だいたい、分かっている。
なにをすればいいのか。
伊達に小学生の頃から常にクラスの整列時に最前列をやっていない。前へならえの時に腰に手を当てるだけの恥ずかしいポジションをやっていない。
代表クラスの選手に、真っ向勝負を挑む必要などはないのだ。ただ、自分らしさを生かせばいい。
来夢はぐるりとピッチを見渡した。
戦うため、改めて、全体の状況を視野に入れた。
戦局そのものに、まったく変化はない。
神戸SCは、前線でパスを回し続けている。
神原学園は、それをなかなか奪えず、翻弄され続けている。
下手に飛び込んだり深追いすると、崩されて、一瞬にして仕留められてしまう。
粘り強く戦うしかない。そんな、状況であった。
だが、粘り強くと言葉では簡単にいえても、それすらも次第に難しくなってきていた。
これまでもなんとか神戸の決定打を許さずに押さえてきたが、それには運も相当にあったし、なにより神原学園の選手たちが懸命に走っていた。
しかし後半戦も終盤に差し掛かり、足が止まってきていたのだ。
そして、神戸SCの側も、今回初対戦である神原学園を相手にすることに慣れてきたのか、パス回しの速度や正確性が前半戦と比べて著しく向上してきていた。
そんな中、油断をしたというわけではないのだろうが、ついに神原学園に致命的なミスが出てしまった。
新沼明美と小向佐美江がマークの受け渡しに失敗し、ゴール前で神戸のFW小形直美がフリーになる状況を作ってしまったのである。
仮にも強豪と呼ばれるチームがそのチャンスを見逃すはずがなかった。
西山万理は、すかさずパスを出す。
小形直美へ、そのパスが通った。
いや、通ったかに見えたが、まさに間一髪という刹那のタイミングで、駆け戻ってきていた来夢がスライディングでパスカットを見せ、失点確実という未来を変えた。
滑りながら起き上がり、前方に一人張っている工藤を目掛けて大きく蹴った。
気合いとジムで鍛えた筋力に運が味方して、精度の高いボールが上がった。
工藤の手前で落ちて、転がった。
急いで駆け戻って、そのボールを拾った工藤であるが、味方がみんな引いていて遠く、相手DF二人に寄せられて前を向くに向けず、という孤軍奮闘の状態で、結局、囲まれ奪われてしまった。
ボールを送った本人である来夢は、ちょっと落胆した。
せめてもう少し前でキープしてくれれば色々と攻め手もあるのだろうけど、でもそこに文句をいっても仕方がない。神戸SCの選手たちが凄すぎるのだから。
途中出場の自分たちがその分汗をかいて走り回って、頑張ればいいだけ。
そう気を強く持ち直した。
自陣でボールを奪った神戸SCであるが、やみくもに大きくは蹴らず、後方からしっかり素早くパスを繋いで、再び神原学園陣内に入り込んできた。
神戸SCの20番、FWの小形直美へ繋がる寸前、畠山志保が素早く身体を入れて、ボールを奪っていた。
小形直美は、ここで奪い返せれば決定的なチャンスだとばかり強引に畠山の背後から手や足を延ばした。
二人はもつれて転んだ。
笛が鳴った。
神戸SC、小形直美のファールだ。
「志保さん!」
走りながら、来夢は叫んだ。
畠山は立ち上がるなりすぐにボールを置き、声のするほう、来夢へとパスを出した。
しかしその素早いリスタートも神戸SCにとっては想定済みなのであろう。まるで慌てる気配はなく冷静であり、来夢がボールを受けた瞬間には、既に一人が猛然とプレスを掛け、走り寄っていた。それは、ブラジル人選手のシェイラであった。
来夢はその早く適確なプレスに一瞬慌てたが、すぐに気を強く持ち直した。
だが、気を強く持った来夢の、次に取った行動は、遥か実力が上の相手に真っ向勝負を仕掛けることではなく、畠山へと戻すことであった。ちょっと小細工をして、あえて自信なさげに。
再びボールを受けた畠山は、真横へとドリブルしながらパスコースを作ると、左サイド前方を走る佐藤直子へと送った。
佐藤直子は足の回転を加速させ、神戸SCの
だが、迫水の身体を密着させてのしつこいマークに、佐藤はボールキープで精一杯。
「ナオ、こっち!」
左SBの
佐藤はヒールで背後へ蹴って、ボールを渡した。
受けた鎌田は、そのまま佐藤を追い越して駆け抜ける。オーバーラップ、四バックを採用するチームの基本中の基本とされる攻め方だ。
鎌田は相手のボランチ
相手の実力を考えると抜き切るのは難しいということと、ゴール前に、味方である
そして神原学園は、この試合で初めての、決定的なチャンスを作ったのである。
9
タイミング、精度、速度、すべてが完璧なヘディングシュートであったが、それが決まらなかったのは
ボールに対する工藤のインパクトの瞬間に、冷静にボールの飛ぶ方向を見極め、倒れ込みながらキャッチしたのである。
GK山登真琴は吠えるような叫び声をあげると、DFの
そこからまた神戸SCは細かなパスを繋いで、あっという間に本日の主戦場である
神戸SC
ゴールから少し離れたところに密集する神戸SCの選手たちへと、山なりのボールが飛んだ。
瞬間的に判断して全力で飛び出したGK
大きく弾き返した。
ボールを追って神原学園
畠山のほうがわずかに早かったが、しかしトラップにもたついた一瞬の間に、橘まといと高崎涼子の二人に囲まれてしまっていた。
畠山は、フォローに戻ってきた工藤香織の存在に気付いていないかに見えたが、相手の意表を突いてヒールでパスを出していた。
工藤はそれを受けるが、すぐさま彼女自身もぴたりとマークがついて、後ろへ戻すしかなかった。
来夢が、そのボールを受けた。
攻撃のためマッチアップする来夢からかなり離れた位置にいた神戸SCのシェイラであったが、しかし来夢が気付くと既に彼女に密着されていた。
シェイラ・ソウザ、まだ二十代前半ということだが、この素晴らしい読み。身体能力だけでなくセンスも秀でており、まさに助っ人外国人の名にふさわしい選手であった。
こうして来夢とシェイラの二人は再び、至近距離にて対峙することになった。
ちらりと斜め後方にいる畠山に視線を向けた来夢は、向き直ったその瞬間に、今度は真っ向勝負を仕掛けていた。
左、右、と軽く揺さぶって、シェイラを抜き去ったのである。
先ほど畠山にあえて自信なさげに戻したことそれ自体が、大きなフェイクとして機能したのだ。
二部クラブの小柄な無名選手が、強豪クラブの助っ人外国人を見事に抜き去ったことに、観客席から歓声と拍手が起きた。
来夢は走りながら、頭が真っ白になりそうな、なんともも名状しようのないこそばゆさを全身に感じていた。
嬉しさ、が一番近い感情であろうか。初めてゴールを決めた時のような、あの時に少し似た、そんな嬉しさだ。
いまみたいなプレーは、もうこの相手には通用しないだろうけど、
きっと、ただの偶然だろうけど、
でも、世界レベルの選手と戦って、通じるプレーが出来たこと、それに魂が震えたこと、この嬉しさ、それは本当だ。間違いはない。
サッカーやっていてよかった。
続けていてよかった。
あの家に生まれてよかった。
お父さん、お母さんの子でよかった。
そして、次に脳裏に浮かんだのは、
出会えて、本当によかった。
これまで言葉に出すのは勿論のこと、心の中ですら照れてそんな台詞思うことすら出来なかったのにな……と、来夢はなんだか可笑しくなった。
一人完全に抜け出して、ぽっかり広大なスペースを走る来夢は、斜めからゴールへと向かっていった。
そして、ペナルティエリアに侵入した。
GK山登真琴は飛び出さずに、シュートコースを塞ぐ位置に立って、腰を低くどっしりと構えている。
シュートを打とうにも、角度がなさ過ぎる。切り返すか、と来夢が瞬時に判断をしていると、背後から声。
「こっち!」
その声に反応した来夢は、戻すようにボールを転がしていた。
転がるそのボールに、佐竹愛が走り込んでいた。
DFに腕を引っ張られてバランスを崩しながらも、来夢からのボールへと突進して、そして豪快に蹴り込んだ。
GK山登真琴が懸命に横っ跳び飛びをしたが、わずかに届かなかった。手の先をするりとかすめて、ボールがゴールネットに突き刺さった。
ころりころりとボールが転がり、止まった。
スタジアムが静まり返った。
来夢はその静寂の中、呆然と突っ立っていた。
もしかして、先制?
喜んでいいのか、悪いのか、周囲をきょろきょろと見回した。
しかし……
来夢に、そして神原学園に、喜びの瞬間は訪れなかった。
10
副審の旗。それはオフサイドの判定であることを示していた。
「おい! 違う! オンサイドオンサイド!」
「わたし、見て出しました。絶対にオフサイドじゃありません」
来夢も女性主審に抗議した。
本当はよく見てなんかいなかったけど、感覚的に間違いないはずだ。
「ちょっとお姉ちゃん、どこ見とったん?」
そして、説得力を得て自信満面に戻って来た。
オフサイドの判定は覆らず。
「切り替え切り替え! 落ち込むことないよ! こうやってチャンス作れてるんだから、しっかり守備からやってこう!」
神原学園のキャプテン
しかし、その後も相変わらず神戸SCペースで試合は進んだ。
だが時折、神原学園もカウンターで相手ゴール前まで攻め上がることが出来るようになってきた。
神戸SCが格下相手に一向に点が取れず、焦って前掛かりになっているためだ。
神原学園の中で、特に攻守献身的に動いているのは、
どちらも後半途中からの出場であるため、他の選手の何倍も走ってもらわないと困るのだが、現在のところ、二人とも監督の期待した以上の役割をこなすことが出来ている、といえるであろう。
後半二十九分、神原学園は
近藤は
神戸SCの選手が慌てて追い始めたが、もう遅い。
近藤は前を向いて、ドリブルを開始していた。
ちらりと横を見る。
その視線の先には相手DFと、さらに向こうには並走する来夢の姿。
まるでリーグ戦最終節の、熱海エスターテレディース戦の再現であった。
あの時、近藤は来夢に、決定機に繋がるようなパスを出したのだが、受けた来夢がうろたえてしまってなにも出来ず、潰され、奪われてしまった。
でもいまの来夢ならば、なにも心配はない。
そう思ったのか、近藤は、前方へと来夢を走らせるパスを出していた。
相手のラインを気にしながら走っていた来夢であったが、近藤からパスの出そうな気配を感じ取ると、一気にフルスロットル。途中出場の理を生かしたもの凄いスピードで、相手守備陣を抜け出して、ボールへと追い付いていた。
完全に抜け出した来夢の姿に、観客席がどっと沸いた。
オフサイドはない。
来夢はボールを大きく転がすと、それを追うように走り続ける。
芝の海原を完全独走。
目の前には、GKが一人いるだけだ。
先ほども来夢はこのような突破を見せたが、あの時はサイドで、ゴールへ切り込んでシュートを打とうにも角度がなさ過ぎた。しかし今度はゴール真正面だ。
ついに神原学園にとって、この試合で最高の、決定的なシーンが生まれた。
残り時間が十五分くらいしかないことを考えれば、また、ここまで無失点に抑えた頑張りや実力を考えれば、ここで自分が得点を決めれば、そのまま神原学園が逃げ切れる可能性も充分にあるはずだ。
だから……
来夢は走った。
後ろから誰が追ってきているかなどまったく気にせず、ただ前だけを見て、走った。
下手な連係など試みずに、とにかく自分で決めてやる。
ゴールが近付いてくる。
どんどん、大きくなってくる。
反対に、ゴール前に構えるGKの姿がどんどん小さく見えてきた。
いける。
来夢は確信し、走り続けた。
絶対に、ここで決めてやる。
そして、勝つんだ。
まぐれで強豪チームに勝っただけ。それでもいい。
どう思おうと事実は一つ。その事実がチームを、そして自分を、さらなる高みに押し上げることになるのだから。
来夢は、一瞬のうちに脳裏に未来を思い描いていた。
一時期の落ち込んでいた時には想像することすら出来なかった、
代表のユニフォームを着て活躍する自分、
金メダルや、優勝カップを掲げて喜んでいる自分、
そして……
次の瞬間、視界が回っていた。
小さなビデオカメラを思い切り放り投げた映像のように。
ごとごとごとご、と鈍い音が上がり、なにがなんだか分からないうちに、意識が吹っ飛びかけていた。
かろうじて意識をつなぎ止めたのは、足をねじ切られるような凄まじいまでの激痛であった。
気付くと来夢はゴールの中で、ネットを見上げていた。
右足を襲う激痛の中、自分になにが起きたのか理解していた。
GKと一対一になった来夢であったが、少しコントロールのミスが出て、ボールタッチが大きくなってしまったのだ。
すかさず走り寄り、屈んで捕球しようとするGKに、来夢は速度を殺せずにぶつかり、乗り上げてしまったのだ。
最初にぶつかった時と、転がり落ちた時に、右足首を捻ってしまったのだ。第一回戦で軽く痛め、まだ完全に回復していなかった右足を。
捻ったことは分かるが、なにが、どうなってしまったのか。
来夢はかつて感じたことのないあまりにも凄まじい激痛に、悲鳴を上げ、バタバタとのたうちまわった。
両手で激しく地面を叩き、芝に爪を立て、掻きむしった。
GK山登真琴はそれを無視して、プレーを継続。ボールを前線へと大きく蹴った。
「おい、プレー切って! レフェリー! 怪我!」
狂ったようにばたばた転がり続ける来夢の姿を間近で見ている近藤直子が、慌て、叫んだ。
近藤だけではない。神原学園の他の選手たちも、動揺を隠せない様子であった。
しかし神戸SCの選手たちは、相手の少ないこのチャンスにプレーを止めることなく、また審判も止めさせることもなく。反対にカウンターを受けることになってしまった神原学園は、ついに失点をしてしまったのであった。
高崎涼子からのスルーパスに反応して抜け出した直本香純が、GK福士紗代莉の飛び出しをかわして、そのままゴールまでドリブルで運び込んだのだ。
現金なもので、格下相手に点が取れずにブーイングが起きかけていた神戸SCのサポーターたちが、歓喜に大爆発した。
顔を苦痛に歪ませて涙を流しながら、地面をばんばん叩いてのたうちまわっている来夢の姿に、神戸SCのGK山登真琴はいまようやく気が付いたかのように、担架を要請した。
11
ドクターは来夢の靴下を脱がせて足首を手に取ると、ほとんど診ることもなく、すぐさま大きくバツ印を作った。
試合続行不可能。そのまま病院に運ばれることになった。
試合再開。
厳しい状況に追い込まれた神原学園であるが、現在の一点差のままであれば、運よく一点を返すだけで、延長戦、そこから逆転する可能性だってある。とにかく一点返すことだ。相手を崩して得点などは無理でも、粘ってさえいれば、カウンター、セットプレー、PK、なんだって点は入るのだ。
と、点差を広げられないために変わらず守備重視で戦うことを指示した
PKで失点したのは、神原学園のほうであった。
ペナルティエリア内で、
神原学園 0-2 神戸SC
神原学園GK
もう攻めるしかない状況に追い込まれてしまったわけであるが、しかし、すっかり攻めも守りもちぐはぐになってしまった神原学園に、先制で息を吹き返した強豪クラブに対抗するすべなどなにも残されてはいなかった。
それから間もなく、シェイラに豪快なミドルシュートを決められ三点目を失った。
次いで、近藤が直本香純を引っ掛けて転ばせてしまったという判定により、またもやPKで失点。
その際、直本香純のシミュレーションであり自分は触れてもいなかったと頑なに主張し続けた近藤が、二枚目のイエローカードを受けて退場。
それに猛抗議をした塩屋浩二監督が退席。
選手が二人少なくなった神原学園は、さらに失点を重ね続けた。
12
結局、最初に得点が動いてから試合終了までのわずか十四分の間に、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます