小さな少年の君へ

星の王子さまという言葉を思いついた時、わたしは嬉しくなって何度も呟いた。

「星の王子さま」

遥か彼方、金星の火山の下で王の屋敷に住んでいて、華美な服装に身を包んでいる。

でもわたしの小さなひらめきは遠いヨーロッパの地で何十年も前の作家と同じものだった。

図書館で『星の王子さま』に出会ったときわたしは少し面食らった気持ちになって、同時にどんな本なのか読んでみようと思った。

星の王子さまはわたしの想像したのは違って服装は華美ではないし、住んでいる星も小さなものだったけれどわたしはそのお話にすっと入りこんでいった。

「そのお話は小さい頃でしかほんとうの意味が感じられないのよ」

「どういうこと?」

「おとなになると、いろんなことがあるの。純粋なこころを失くしてしまう。だからおとなには響かないのよ」

母は台所でシフォンケーキを作っていた。

卵の黄身と白身をわけて、黄身をよくかき混ぜて。

「嫌なものね」

わたしは本の世界に戻る。

星の住人のお話が続いていく。王様、大物きどりの男、酒浸りの男。

わたしは不思議な浮遊感を感じながら読み進めていく。

サン=テグジュペリの挿絵の王子はわたしの頭の中でアニメーションとなって、その澄んだ瞳で大人を見つめる。

母は白身をハンドミキサーで混ぜ合わせる。まるで機械のように同じ形の円を刻む。

昼下がりの光が窓から差し込んでいて、白いキッチンは陽光で一層輝いて見えた。

わたしは本を閉じ、母のもとに近寄る。

背の高い母は首を傾けている。手作りの花柄のエプロンは少しくすんでいる。

顔が見えない。

わたしの記憶にある母はいつも背中を向けていた。

髪はいつもごわごわとしていて、その上白髪も目立っていた。

右足で左足首をよく掻いていた。

「手伝いたい」

「まだキッチンに手が届かないでしょ。もう少し大きくなってからね」

「はあぃ」

そしてわたしはまた本に戻った。

いつでも思い出されるあの母の背中、そして星の王子さま。

もう内容はほとんど覚えていない。ただ本を読んだ後、わたしはこっそりテープに録音をしたことを覚えている。

二階の洋間で昼下がり。自分の名前と出身地と年齢と、母の名前と。

どうしても今の自分を残しておきたくて。

でもあのテープはどこかへ行ってしまった。

子供時代は簡単に奪われて、去っていく。

あの大好きだったシフォンケーキの味も。

思春期の頃、現実を語り始めた親に嫌気がさした。

わたしはやりたくもないことを誇らしげに語る大人にはなりたくなかった。

心をゆだねるように色んな本を読んで、色んな音楽を聴いたけど、あのキッチンの感覚は思い出せなかった。

ただ素朴で、いろんなものが輝いていたあの頃。

積み上げられていく経験と知恵はわたしを囲んで、いつのまにか暖かな陽光は差し込まなくなった。

「そのお話は小さい頃でしかほんとうの意味が感じられないのよ」

「おとなになると、いろんなことがあるの」

母の言葉はわたしを振りむかせる。

あの頃の母もこの喪失感を味わっていたのだろうか。

膝の上に乗る息子はもう三歳になる。

純な瞳がわたしを見上げる。


わたしは本を開き、君に本を読み聞かせる。

もうわたしは子供じゃない。

でも子供に戻りたいと思う。大人じみた大人。

障壁を破って君の世界に行きたいけれど、どうにも駄目みたいだ。

だから君に小さな贈り物をするよ。

大人のエゴかもしれないけど、差し当て人不明にしたっていいから。


小さな少年の君へ







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