overture

わたしは麦畑をとぼとぼと歩く。

トンボが空をチラチラと動き、カラカラと鳴って木の葉が落ちていく。

ママが昔演奏した2つのアラベスク。

パパが言った。

「パパはママの演奏に一目ぼれしたんだ」

一目ぼれ。

「付き合い始めて言ったよ。君の才能を少し分けてほしいって」

才能。

神社の前を通る。

わたしは天に手を伸ばし、舞台役者のように儚げな表情をする。

夢は無残に散り、クシャクシャのまま踏みつぶされた。

「何をしているの?」

女の子がわたしのスカートの裾を引っ張っている。

「あなたは?迷子?」

女の子はかぶりを振る。

「質問に答えて」

わたしは少し恥ずかしくなって顔をそむける。

「別に。ただ歩いていただけ」

女の子はきょろきょろとあたりを見渡す。

「あなたは迷子?」

「違う。ピアノコンクールの帰りで近道をしてるの!」

「まあ、ピアノを習っているの?」

少女は小さな手を合わせてはきはきとした声で言う。

「今日はわたしのお誕生日会なの。ねえ演奏してくださらない?」

わたしは頭を掻く。もうピアノを弾くのはごめんだ。

「ええと、わたしはもう……」

「ご招待するわ」

少女はわたしの腕を掴み走り出した。

「え、ちょっと……」

こういった時嫌だと手を振り払えないのがわたし。

美徳だよってママとパパは言ってくれるけど、本当なのかな。

麦畑はすぐに途絶え、見事な屋敷が姿を現した。

それは『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラの屋敷のように、草原の中で異彩を放っていた。門をくぐりドアをノックする。

華美なドレスに身を包んだ貴婦人が扇子をもって姿を現した。

屋内からは甘い匂いが漂っている。お菓子でも作っているんだろうか。

「この方をご招待してもよろしくて?お母さま。彼女はピアノが弾けるのよ」

「まあ、素晴らしい。どうぞ入って頂戴な」

わたしは言われるがままに屋敷の中に入る。

カイゼル髭を生やした紳士が談笑をしている。

メイドがせわしなく料理を運び、子供は親の静止を聞かずに階段を駆け上がっていく。

「夢のようね」

「いいえ、違うわ」

少女はわたしの手を取って言う。

「あなたは人生を楽しむ権利があるの」

少女はスカートをもってお辞儀をすると他の子供たちのところに向かった。


グラスに注がれたのは黄色い液体。シャンパン?それともシャンメリー?

一家の当主であろう男性が壇上に立ち、短い挨拶を行う。

「今日は娘の誕生日パーティーにお越しくださりありがとうございます。今年で八歳。早いものです」

パチパチと拍手が起こる。壇上には少女がいた。わたしにウインクしてくる。

「さて乾杯をしたいと思いますが、実はピアニストがあいにくの風邪であり、ピアノの音色を聴くことはできません」

「いえ、ピアニストはあそこにいるわ」

少女はわたしを指差す。皆の視線がすっと集まる。

「いえ、わたしは……」

「おお、頼もしい。ではあの可愛らしいピアニストと我が娘エマの祝福を願って」

乾杯がなされる。エマは笑顔でわたしの方へ駆け寄る。

「わたし、嫌だ」

「そんなこと言わないで。あなたには才能があるのよ」

「才能?」

わたしは少女の視点に合わせて腰を曲げる。

「わたしに才能があるのだとしたら、なぜわたしは誰にも評価されないの?なぜ審査員は首をふるばかりなの?」

「ねえ、ピアノを弾いて」

エマは青い瞳でわたしを見上げる。

「わたしの話を聴いて」

「弾いて」

スポットライトが当たる。

わたしはいつのまにかピアノチェアに座っていた。

紳士や貴族は皆いなくなっており、エマだけがわたしとともにピアノチェアに腰を下ろしている。

埃っぽい廊下、質の悪いガラスの窓。

暖炉の火は小さく、足元は冷たい。

「聴こえる?」

単純なドの音をエマは鳴らす。

白く細い指は波をなでるように軽く沈んで浮き上がる。

伏し目がちな目は小さな瞬きをして、口元はいたずらっこのように緩んでいる。

「音を、わたしを楽しませて」

高音をいくつか鳴らしてメロディーを作っていく。

ママと鳴らしたあの音。

祖父の家の広い廊下に置かれていたピアノは古いもので、ママは大事そうにそれを開けて。

「弾いてみる?」

その言葉がわたしの人生を大きく変えた。

それからただ夢を追ってきたけれど、どうだったんだろう。

わたしは楽しかったのかな。

ママが弾いたあの2つのアラベスク。

祖父の家で聴いた音色。

「弾きたい」

わたしの声は夜の屋敷に小さく響く。

エマが笑う。

鍵盤の上を指がはね、軽やかに着地し、そして次のステップを踏み出す。

拍手喝采のためではなくて、ただ一人の少女のために。

月光が窓を貫いて光と影をつくる。わたしは光に当たることはできないけれど。

「弾こう」

まるで夢想のように、淡い夕焼けは世界を赤く染め上げて。

わたしは麦畑をまた歩き出した。









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旅の途中【短編集】 キツノ @giradoga

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