夕凪
渚と俺はこの町の数少ない高校生だった。
リアス式海岸に囲まれた町の人口は少ない。最近はどこもそうらしいが子供がはしゃぐ姿より年配の方がベンチに座ってゆっくりと喋っている姿のほうがよく見かける。
「こんなだから人が永住しないんだよ」
海岸沿いの国道には歩道はなくて俺達は一列になって坂になっている車道の隅を歩く。
渚の短い黒髪は汗でべたついていて、そのくせ制服は綺麗に乾いていた。
「陸上はどう?」
俺は聞いた。
「どうって……いつも通り。下級生になっただけだよ。高校になってもただ走るだけ」
「そうか」
俺は一昔前のドラマの高校生みたいに鞄を肩にかける。
落陽が世界を朱く染めあげる。渚はガードレールを越えて、海藻が散らばった砂浜にすとんと着地した。
ガードレールを越えた俺は小さな道幅を片足ずつ出しながら歩いていく。
「海で遊ばない?」
渚はお尻を砂に下ろし、靴を脱ぎながら言った。
「泳ぐのか?」
「ううん。違う」
靴下を脱ぐ。足にくっきりと色の境界が出来ている。
「ただはしゃぐだけ」
そう言って微笑を浮かべる。
二重になりたいとぐずっていた瞼も、団子鼻も、俺は全然気にならない。
波はありきたりな表現だけど寄せては返し、ささやかな音楽を作り出す。
「靴脱ぎなよ」
渚はスカートを持ち上げて波に足をつける。海水は日焼けした足を境に分岐して、すぐに合流する。
俺は靴を脱ぎ、ズボンの裾を何度か折る。ふと見ると渚は海岸に沿って歩き出していた。
「ちょっと待って」
全然距離は離れていないのに俺は慌てて、靴下を靴にしまわずに渚を追う。
砂は生暖かくて、その上湿っている。足に砂がこびりついていく感触がわかる。
波は渚がつけた足跡をすぐに消してしまっている。潮風はお世辞にもいい匂いとは言えないものだ。
片一方がオレンジ色に染められた渚は僕を後ろに従えて、足元の海水をじっと眺め言う。
「この町から出たあとの事、考えたことある?」
「大学のことか」
「うん」
俺は頭の後ろで腕を組む。
「大阪に行って、一人暮らしかな。あそこじゃ色んなものが買えるし、どんなとこだって行ける。……まあでも高校生になったばかりだぜ」
「そうだけど……」
「まあ、早く大学生になりたいなぁ。この辺鄙なところから出てさ」
渚は立ち止まって振り返る。
その顔は怒っているようで、恥ずかしがっているようだった。
ウミネコが名前の通りの甘えるような声を出して飛んでいる。夕日は海に半分沈んでいて、空には淡い境界線が形作られていた。
「波かけていい?」
「駄目だろ」
「いいから」
渚は少し海水をすくって俺に投げかける。海水は空中で力を失って俺のズボンにしみ込んだ。
「……」
俺が黙って濡れたズボンに視線を下ろしていると、渚が覗き込むように歩み寄ってきた。
「怒ってる?」
「……ここで仕返しをするべきか迷ってる」
渚は上品に小さく笑う。
「優しいんだね。本当に」
ズボンを膝まで捲し上げて、俺は砂浜に座る。渚は小さな貝殻を手のひらに並べている。手には砂粒がつき、指と指の間で小さな摩擦音が聞こえる。
「グリーンフラッシュって知ってる?」
「なんだそれ」
「太陽が沈む前に一瞬緑に輝くの。見えたらとても幸運なんだって」
俺達の前の太陽は赤い光を放ったまま消えていく。
暗くなる世界の中で俺達は何故か海を見続けている。
車道を通る車のエンジン音が近づいては遠くなっていく。
潮風の匂いと渚の柔らかな香りが混ざって、知らずのうちに鼓動が早まっていた。
「夕焼けって今を一瞬昔にするんだね」
「誰の名言だよ」
「わたしの」
渚は体育座りの太ももに顔をうずめる。
夕焼けのせいで気づいていなかった頬の紅潮が、わかった。
「三年なんてあっという間だね」
砂だらけの渚の左手が砂浜の上に置かれる。
「ああ」
俺はざらざらとしたその手を右手で覆いかぶせる。
「年をとるなんていやだね」
「おばはんかよ」
渚は顔を上げて少し笑う。
俺も、笑う。
空は一層暗みを帯びている。
渚の顔には黒いヴェールがかかってよく見えない。
でもいつまでもこうしていたいと本気で思ったんだ。
ただその手を握りしめながら、月が宙にのぼって沈んでしまっても。
波が一定のリズムで寄せて返す、その音を背景にしながら。
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