15.ドクトルKの店にて。
その時、ヘルシュル・リルは困っていた。非常に困っていた。手持ちの軽いはずの機材がひどく重く感じられる程困っていた。
ため息をつきながら、駅のベンチに座り込む。植え込みの花が綺麗だな、と眺めながら、その反面、やっぱり困っていた。
捜索が、手詰まりになってしまったのだ。
彼が先輩であり、尊敬するプロデューサーであるゾフィー・レベカの頼みで、今回の仕事に手をつけたのは、もう一ヶ月も前だった。首府にある中央放送局を離れて、それだけの時間が経っていた。
とは言え、「まだ一ヶ月」とも言える。彼が依頼された仕事は思った以上に厄介なものだった。
「人の捜索と再会」をテーマにしたものは、TV番組としては古典的だが、いつやったとしても人気のあるものだった。再会に限らない。実際に生きてきた人間のあゆみというのものは、下手なドラマ以上に面白いものである。
したがって、この中央放送局でも無論そのテーマは手を変え品を変え繰り返し繰り返し番組として仕立ててきた。そして実際、その類の番組の視聴率はコンスタントに高いのだ。
中央放送局は、共通歴新年で番組が切り替わることが多い。そして、切り替えの合間には、特別番組が入れられる。それは、なるべくだったら、作りおいた映像の集合である方が望ましい。何せ、放送業界も、新年には交代でまとまった休暇が与えられるのだから。
そして、今度の新年切り替えの番組の目玉が、そのテーマだった。そこをゾフィーは利用したのだ。
彼女が提案したのは、「あの人は今」的なものではあったが、それをそれまでの「往年の女優」や「往年の名スポーツ選手」の様な華やかな職業のものではなかった。むしろ、引退した政治家や、その周囲に関わる人を探って、かつての名政治家の功績をしのぶ、という傾向のものだった。
無論それには、「またか」という声もあった。リルもそれは知っている。
彼の敬愛なるゾフィーは、現在政府と最も近い映像プロデューサーだった。宣伝相テルミンを友人に持ち、政府関連の番組を全て取り仕切っている。
その現在の地位の全てが、彼女の技術的実力という訳ではないのは、リルもよく知っていた。この世界において、ただ単なる技術馬鹿が渡り歩いていける訳が無い。結局は、その渡るための何か、自体が、敬愛のタネとなるのである。
彼にとってのゾフィーの魅力は、結局そこに尽きている。彼女が、局においてなりふり構わず番組を作る、その姿勢や感性がリルは好きなのであって、彼女の技術が好きという訳ではないのだ。
そしてその好きな人が、珍しく職権乱用して人捜しをするとなれば。それに協力してくれ、と言うならば。
彼は喜んでするだけなのである。
しかし、それにしても、この捜し人に関しては、さすがに彼も困り果てていた。
思わずため息をもう一つつく。やがて、しょうもない、と立ち上がり、とりあえずは今宵の宿を、とばかりに駅の改札をくぐったのである。
ところが悪い時には悪いことが重なった。その街には、ホテルどころか、「宿と食事を提供する場所」を名乗っているところがまるでなかったのだ。
とりあえず食事に寄った店で、それを言われた時、リルはさすがに頭がぐらりとした。愛とは耐えることなのね、とおどけて心の中でつぶやいてみたところで、この疲れた身体をどうしよう、という問いに答えが出るものではなかった。
しかし。
「そりゃあ隣の駅まで行けば、泊まれるホテルくらいあるけど」
学生のアルバイトらしい、ウェイトレスの少女は、自分の言った言葉に相当落胆しているらしい男に向かって、こう付け足した。リルはばっ、と顔を上げた。
「それ本当?」
「本当。ただ……」
「ただ?」
「ここの最終って、お客さんが今乗ってきた奴なんだけど……」
追い打ちを掛けるにも程がある、と彼はその場に突っ伏せた。
とりあえず腹が減ってはどうにもならない。脱力するのも僅かな間、彼はメニューから適当に選んで、少女に頼んだ。はい、少しの間お待ち下さいね、と元気の良い声で少女は言うと、さっさとカウンターの中へと入って行った。
注文した「今夜のおすすめ」メニューが次第に運ばれてくる。しかしその間にも、睡魔が自分を襲ってくるのをリルは感じていた。一ヶ月もふらふらとあちこちを回っていることで、身体が非常に疲れているのだ。
それでも、目の前に出された角切り肉のドミグラソース煮込みやら、野菜いっぱいのスープやら、かぼちゃ入りのパンを口に運んでいるうちに、多少は元気が出てくる。こうなったら野宿でも何でもしよう、とリルは覚悟を決めた。
ところが。
「あの……」
ウェイトレスの少女が、おずおずと声をかけた。思わず彼は口にフォークを突っ込んだまま顔を上げる。
「マスターにちょっと話したら、宿なんですけど、マスターの友達が泊めてくれるかもしれない、って言うんですけど」
「え」
言いかけて、彼は思わず口を塞いだ。食べている最中に喋ってはいけません。子供の頃の教えが心をよぎっていく。慌てて飲み込んで、そして改めて驚きの声を上げた。
「本当?」
「ええ。でもこの町のお医者さまで、何かすごく毎日忙しいひとなんですよ。だから、一日二日手伝ってくれることが条件らしいんですけど」
「行く!」
即座に彼はそう答えていた。実際、探し回る日々に多少疲れていたところだったのだ。
「……それとも、隣駅のホテルまで、燃料代だけで送る、という手もある、とマスターは言ってましたけど……」
「ううんいい、俺、そういうの好き!」
なら決まりですね、と少女はにっこりと笑った。
*
「この先の、建物なんだが」
駅前の店のマスターは、懐中電灯を手に、大荷物を抱えたリルを案内した。
夜に入るか入らないか、という時間に「終電」が来てしまう程の田舎の土地には、どうやら通りに灯りも点かないらしい。空を仰ぐと、降ってきそうに瞬きを繰り返す星が綺麗に見える反面、それ以外の周囲が、形があるのかさえさっぱり判らない程の闇に包まれている。
「ほら、あそこだ」
そう言って、マスターは前方にぽつんと立つ、古ぼけた四角い建物を指さした。
「通信はしておいたから、ここから先は、一人で行きな」
「はい。あ、どうも、本当にありがとうございます」
彼は素直に頭を下げた。困った時はお互い様、という決まり文句が交わされ、マスターは来た道を逆にたどって行った。リルはそのまま、灯りの方へと足を向けた。
四角い建物は、決して大きなものではなかった。そして、凝ったつくりのものでも無かった。内側の光からだけではよくは判らないが、白い箱、という印象が強かった。その白い、四角い箱に、焦げ茶色の窓枠が、くっきりと浮き出している。
リルは左側から回り込むと、扉を叩いた。数回大きく、モスグリーンのペンキで塗られた木の扉を叩くと、中から声がした。低い、男の声だった。
扉が開いた瞬間、彼の鼻に、知ったにおいが飛びこんできた。それは、一ヶ月前、ゾフィーが自分の傷を消毒した時のにおいと同じだった。
「あの、先程……」
「ああ、駅前の店のマスターから、話は聞いているよ。二、三日手伝ってくれるんだって?」
低い声の主は、にこやかにそう言った。いつのまにか、一日二日、が二、三日に変わっている。まあそんなものか、とリルは口の端を少しばかり上げた。
*
「いでーっ! やだーっ! 俺死ぬーっ!!!」
叫び声を上げる、大の男。その腹からどくどくと血があふれている。彼は思わずくらり、と眩暈がしそうになった。自分の傷ならともかく、人の傷というのはどうしてこうも生々しいのだろう。
「大の男ががたがた言うんじゃない! そんな傷じゃ死なん! 泣き言を言うくらいなら、作るようなことするな!」
三つの泣き言には三つの怒鳴り声。さすがに三日居ると、この医者の傾向も見えてくるというものだった。
「ほらヘルシュル! こっちを押さえて! 麻酔打つから」
「は、はい!」
これを着てて、と白衣を着ているおかげなのか何なのか、目の前で血を流している強面の男も、押さえつける自分に、それ以上の抵抗はしない。
「俺、死にたくないよぉ、ドクトル……」
「だったら減らず口を叩くな。自業自得だ」
はあ、とリルは思わず息を呑む。強面男を押さえつけた自分の目の前で、さっさとけが人の服をはさみで切り裂き、傷のやや近くに麻酔を打ち、消毒と切開と縫合を、驚くべき速さで、目の前の「ドクトル」はやってのける。
「もういい、ヘルシュル、ガーゼ!」
「はい!!」
そしてぐったりとした男をベッドに沈む込ませると、彼は慌ててガーゼをドクトルに渡した。
「いい加減、こういう稼業は止せよ? 命なんて一つしか無いだからな」
「先生には、悪いと思ってるよいつも……けど、奴らが」
「うだうだ言うな! それ以上言うと、その口これで縫いつけるぞ!」
手にしたピンセットの先には、縫合用のカーブした針があった。その小さいが鋭い先に、強面男も押し黙る。はあ、と彼は男に聞かれない様にため息をつく。看護婦も逞しく、怖いと思っていたが、どうやらこの医者は、それどころではないらしい。
「ほれ終わった。こいつはしばらくそっちの部屋に入れておけ、ヘルシュル」
「は、はい!」
この四角い箱の様な建物の中には、飾り気も何も無いが、部屋数だけはあった。「そっちの部屋」と指さされた方へ、彼は男を、乗せられたベッドごと運んでいく。そしてその部屋にあったベッドを、今度は診察室へと運んで行くのだ。その繰り返しである。
「まるで戦場だな……」
待合室には、内科の病人はまずいない。リルが滞在しているこの三日というもの、やってくるのは、ケガ人ばかりだった。しかも、そのケガと言えば、切り傷・弾丸傷……
何となく自分があの駅前の店のマスターに騙されたんじゃないか、という気がふと彼の中に湧いた。
「こらーっ!! ぼんやりしてるなヘルシュル!」
「は、はい!!」
*
けが人の集団の治療を全て終えた頃には、陽もとっぷりと暮れていた。
ある者は病室へ押し込められ、ある者はそのまま家へ帰してようやく診療室からドクトルとリル以外の誰もいなくなった。
「お…… 終わりましたね、ドクトル」
デスクの一つに思わず突っ伏せて、彼はうめいた。ひっきりなしに立ち続けでドクトルの指示一つであっちへこっちへと動かされていたので、既に足は棒の様だった。
「ああ。さすがに今日は私もこたえたよ」
白衣のボタンを外しながら、ドクトルはもふう、と息をつく。
「何か昼飯も充分に食う時間が無かったなあ」
「いつも、ああなんすか?」
「いつも、じゃあないさ。ごくたまに、だ。だけど、来る時にはああやってくる」
はあ、とリルはのっそりと身体を起こした。
「でもまあ、今回は君が居たから結構楽だったなあ。いつもだと、あの中の比較的軽そうな奴を引きずり出して、助手させるんだが」
げ、と彼は思わず息を呑んだ。あの集団から、そんなことをさせるのか。
「ま、いいさ。メシ食いに行こう。私も腹は減った。冷蔵庫にも材料は無くはないが…… 正直言って、面倒だ。駅前の店でいいな?」
はい、ともいいえ、とも言う間もなく、ドクトルは白衣を脱いで、モスグリーンの扉へと向かっていた。リルも慌ててその後に続くが、白衣を脱ぐのを忘れていたことに気付くのは、道も半ばを過ぎた頃だった。
*
「好きなだけ食えばいい。手伝ってもらったこれと言った礼もできないしな」
「……え、でも俺は泊めてもらっていた訳だし」
それに、実際この何も考える暇もない程の忙しい三日間というのは、自分の気持ちをずいぶんリフレッシュさせたことにリルは気付いていた。
「あの類のバイトの日給は、普通宿代と食事代をさっ引いても多少残るさ。だけどまあ、今回の奴らからの取り立ては、も少し後になるしなあ」
「遠慮するんじゃないよ、リル君」
カウンターの中からマスターが声を掛ける。
「ドクトルKが『超繁忙期』だってこと知っていて、君をわざわざやってしまったのは、こっちにも責任があるんだからさ。もう閉店している訳だし、好きなもの作るよ」
「……そ、それじゃ御言葉に甘えます」
実際最初にこの店にやってきた時にも、殆ど感動する程料理は美味かったのだ。
ここぞとばかりに彼は、コース料理の様にあれこれと品名を並べ、最後にはデザートのゼリーとコーヒーまでつけた。さすがにドクトルも目の前で苦笑してはいたが、決してそれは怒っているものではなかった。
「それにしても、いい食べっぷりだなあ」
「え?」
彼は顔を上げる。よく見ると、ドクトルの皿は、最初のサラダの半分しか減っていない。手には細いパスタを巻き付けたままのフォークが握られていた。
「あ、すいません……」
「いやそうじゃなくて。何となく、友達を思い出すからね。ちょっと楽しくなってしまったんだよ」
「友達、ですか? マスター?」
「俺じゃないよ!」
カウンターから声が飛んでくる。ほら違う、とドクトルも笑った。
「あいつじゃなくてね、別の友達」
「あ、別の……」
「昔一緒にわいわいと騒いだ連中なんだけど、結構今はあちこちに散らばっているんだ。当時は何やかやとあって、忙しかったなあ、とも思うけど、何ってこと無い、今でも私は忙しいじゃないか」
「はあ。その友達さんたちが、食いっぷりが良かったんすか?」
「良かったねえ。何というか。何せあの頃は……おっと、昔話に興じると、歳をどんどんとってしまう」
彼は思わず苦笑した。
「まあ私のことはいいさ。君は、ヘルシュル、何でここに来たんだい?」
「確か君、カメラとか持っていたね。映像関係の仕事か何か?」
「あ、一応、これでも放送屋す。はい」
何となく彼はそう言いながら恐縮する。
「へえ。じゃあ、もしかして、仕事で取材のためにあちこち?」
「あちこちって言うか……まあ、人捜しなんすよ」
「人捜し」
ドクトルとマスターは顔を見合わせる。
「どんな人? それは企業秘密?」
「いや、人捜しの番組なんだから、とりあえず知ってるか知らないか、に関しては、秘密も何も無いんすよ。ただもう、思いっきり手詰まりになっちゃって」
「手詰まりねえ」
ドクトルはフォークを置いて腕組みをする。
「一体どんな人物を、君、追いかけている訳?」
「うーん…… ちょっと名は言えないんすが、こういう人なんす」
リルはそう言って、ウォレットから一枚のカードを出した。それは局でビニルコーティングした、ハイランド・ゲオルギイのビデオから取り出した映像の一枚だった。ドクトルはそれを見ながら前髪をかき上げ、目を細めた。
「……ずいぶんぶれているね」
「いや、これは映像から取ったもんすから。元々その映像も、あまり大きくはなくて。やっとここまで引き延ばしたすよ」
「俺もちょっと見せて、K」
「ほら。汚すなよ、トパーズ」
そう言ってカードはドクトルの手からマスターの手へと渡される。ぴく、とマスターの眉が一瞬上がった様に、リルには見えたが、すぐに横を向いてしまったので、見間違いかもしれなかった。
「ずいぶんといいとこの坊ちゃんみたいだなあ」
「いいとこの坊ちゃんすよ。かなり。……だけど、ちょっと複雑な家庭環境に育って、途中で消息が掴めなくなってるんすよ」
「複雑な、ねえ。私は興味があるな」
「何でもかんでもお前は研究対象に見るんじゃないよ?」
「ひどいなトパーズ。今更そんなこと私がすると思っているのか?」
「今更というあたりにお前の人間性が出るんだよ。だけどリル君、確かに俺も興味あると言ってもいいかい?」
にんまりとマスターも笑う。仕方ないな、とリルはカードを戻してもらいながらつぶやいた。
「具体的なことは、ちょっと言えないすよ?」
「構わないさ。私が興味あるのは、その『いいとこの坊ちゃん』が家庭環境のせいでぐれていく過程なんだから」
「そういう所が悪趣味だって言うんだよ」
ふふん、とドクトルは笑った。それを見て彼は思わずこうつぶやいた。
「仲がいいんですね……」
「よせーっ!! こいつはただの悪友だっ!」
マスターはそう言って、頭を抱えた。
「まあああいうのは放っておいて、君の話が聞きたいなあ」
ドクトルは再び食事を再開しながら、にこやかにそう言った。はあ、とリルはうなづく。
「……まあ、とりあえず俺も、その尋ね人の足取りを追ってみたんすよ。生まれた家とか、学校とか……」
「それで?」
「何つか、実にいい子、だった訳で」
「いい子、ねえ。そういう子が失踪する訳だ」
「いや、まだその時は失踪している訳じゃないんすよ。そうすね、その地元の中等の本科を卒業して、首府の中央大学にストレートで入った後なんす」
げ、とマスターは肩をすくめた。中央大の難しさは、この地方においても、非常に有名な事実らしい。
「嘘だろ……」
「な、何か本当に頭のいい子だったんだね」
「ええ。ただ、確かに元々頭はいいんだけど、それ以上に、本人の努力って奴が凄かったらしいですよ。中等の時の教師の話が運良く聞けたんすが、何か痛々しいくらいに一生懸命だった、ということだったし」
「へえ」
マスターはカウンターから出てきて、丸椅子を持ち出すと、二人の横に座った。
「……おいトパーズ、そんなところに居て、ちゃんと彼の最後のゼリーとコーヒーまで出してくれるんだろうな」
「コーヒーは後で俺も呑みたいし、ゼリーはずっと冷蔵庫の中にあるよ。それより俺、その話すごく興味湧いてきたんだけど」
「は、はあ……」
「話し終わったら、三人で熱いコーヒーを呑もうな」
何に浮かれているのか良くは判らないのだが、とりあえずは、話してしまったほうがいいらしい、とリルも気付いたらしく、食事を口に放り込みながら、話を続けることにした。
「でまあ、何でそんなに一生懸命なのか、ということなんすが、その話を聞いた教師…… 結構ずっと、その彼をある学科専門で何年も教えていたって言うんすね。それが、ある時ちょっと調子悪かったことがあって、総合試験で、確か、政治経済一般が少し悪かったんすね。でも無論、その彼の悪い、だから、普通の生徒よりは格段にいいんすが」
「ちょっとそこまで来ると嫌味だねえ」
「でも当人は大真面目で、何かその結果を滅茶苦茶に引き裂いたとかどうとか。何かそれで気になったその教師が聞くと、父親に申し訳が立たない、って言うんすよ」
「父親あ?」
マスターは露骨に眉を寄せた。その下の金色の瞳が、光線の加減か、ぎらりと光った様にリルには感じられた。
「まあその父親ってのが、かなり社会的に地位のある人だと、思って下さいよ」
「でもそれはなあ…… かなりのそれは、ファザーコンプレックスじゃあないのかい?」
ドクトルは目を細める。
「かも、しれません。どうもその父親っていうのが、その彼の三つ下の妹ばかりをよく可愛がっていた様で」
「まあ父親にとって娘っていうのは可愛いものだからなあ」
「お前そんなこと判るの?」
「私が知る訳ないだろう」
「とにかく! 推測ではあるんですが、その、何もしなくても可愛がられる妹、という存在があるせいなのか、その彼は実によく努力していたそうなんすよ。けどそうしてもそうしても、何も変わらない状況、という奴に」
「次第に絶望していった?」
「―――かまでは判らないすが。ともかく、そんな風にして積み上げた成績でストレートに入った中央大なんすが、これが、何やら、入学して三ヶ月で行方が知れなくなってるんす」
「三ヶ月。家出……と言うには、もう家を離れている訳だし」
「かどわかされた、というには、ガキでもないだろうし……」
「ええ。だから、何か事件に巻き込まれたか、それとも自発的に行方をくらましたか…… とにかく、このあたりからいきなり行き詰まるんすよ。で、俺、とにかく首府の中央大の、当時同じクラスだったらしい人達をずっとここのところ、尋ね歩いてたんす」
「で、こんなとこまで」
「大変だったねえ……」
今更の様に二人はうなづいた。
「まあ別に、尋ねるのも歩くのもいいんすよ。まだ若いから。だけど、この手詰まり、って奴には…… かなり俺、疲れちゃったんすよね。情けなくも」
「いやあ、情けなくはないさ」
マスターは、丸椅子を一度くるりと回した。
「袋小路にはまった様な気分の時ってのは誰だってあるもんさ。実際そういう時ってのは、何でそんな状態にあるのかさっぱり判らなくてさ。すぐそこに出口があったとしても、それが見えないんだ」
「言うねえ、君」
「言えるだろ、K」
ドクトルは軽く眉と口元を上げた。
「でも君、ヘルシュル、この青年…… 今は青年だよね、絶対。彼を探し当てたら、どうするつもりなんだい? 君は放送屋だろう? お涙ちょうだい番組に仕立てる気かい?」
「いえ」
彼はぱっと顔を上げた。
「実際のところ、この仕事に関しては、俺にそれをわざわざ頼んだ人が、見つかっても上に報告はしなくてもいい、って言ったんすよ」
「何だいそれは」
マスターは即座に問い返した。
「口実なんす。仕事、っていうのは。本当は、その彼、を探したい人が居るんすよ。俺は、その人のためだから、と思って動いている訳すが」
「女性?」
「いい女ですよ?」
にっこりとリルは笑った。
「ああ、好きなんだね」
「ええ」
ドクトルの問いに、彼は大きくうなづく。
「あんなに動揺したあのひとを見たのは初めてでしたから、どうしても探してやりたくて」
「って、じゃあ、その女性の恋人だったとか何とか、っていうんじゃ」
「いや、それだけは、無いそうです」
「それだけは、ね」
何だかな、とマスターは再び肩をすくめた。
「それじゃあ、ヘルシュル、もしも、その人物が、現在はその自分の過去を覚えていなかったら、どうする?」
「え?」
思いもかけないドクトルの質問に、一瞬何を言われているのかリルは判らなくなった。
「それは?」
「例えば、その行方不明になった時に、何か事件に巻き込まれて、記憶を無くしてしまって、それで親元にも連絡もできなくなったとか」
「ああ、それもありますよね」
「そのまま新しい生活をずっと続けてきたとしたら、―――もう何年経っているのかな? この彼がいなくなってから」
「つまりさ、リル君、そういう場合、無理に過去を突き付けるのはどうかな、とこいつは言っている訳だけど」
「ああ……」
リルはようやく判った、という様に大きくうなづいた。
「ええ、無論本人らしいと思う人だったら、対応はかなり慎重に行こうと思ってます。その頼んだ人も、もし自分や自分の回りの人のことを忘れている様だったら、それはそれでいい、と言ってましたから」
「ふうん。それは確かにいい女だな」
そしてドクトルはちら、とマスターの方を向く。視線が交差する。マスターはうなづき、立ち上がるとカウンターの中へと入って行った。
やがてコーヒーの香りが店内に漂い、マスターはトレイの上に、大きなカップに入ったコーヒーと、ミルクと砂糖を業務用の入れ物のまま持ってきた。リルはそれを受け取ると、どちらもやや多めに入れた。
「本当に、いい食いっぶりだったよなあ」
マスターは何も入れないコーヒーをすすりながらつぶやく。ああ、とドクトルもうなづく。
「そのいい食いっぷりだった奴なんだけど、何かちょっとこの彼氏に似ていた様な気がするんだけどね」
思わずリルは立ち上がっていた。
*
それじゃ、とリルは見送る二人に窓越しに手を上げた。
朝日の差し込む車中は、この街に来た時と同じ様に空いていた。
窓の外をしばらくぼんやりと眺めていると、彼の視界には、色の薄いマスターの髪を下からかき上げるドクトルの姿が映った。その手を避けるとも避けないともつかない、マスターの首の動きに、彼はふと顔が赤らむのを感じた。全くその様な気配は前日の食事の時には無かったというのに。
列車が動き出したのを見計らって、彼はポケットからメモを取り出した。そこには昨日話した「友人」の居場所を記してある。
「これだけは覚えておいてくれ、ヘルシュル」
ドクトルはいきなりの展開に唖然としていたリルに向かって言った。
「私は彼がそうであるとか無いとかは断言できない。あくまで似てる、と思っただけだからね。ただ、私達の知っている彼は、決して思い出したい過去を持っている訳じゃあない」
それは、と彼は問い返した。
「それが何であるか、は私達にも判らない」
「それに、思い出さない方が幸せってことも、充分あるんたぜ?」
判ってます、と彼はうなづいた。そうなったら仕方が無い。相手には、あくまでそのことは話さずにコンタクトを取るしかないのだ。ドクトルとマスターは、あくまで自分達から伝言があるから、と手紙をつけてくれた。それに何が書かれているかはリルには判らないが、会う口実にはなるだろう。
実際、リルにしたところで、このハイランド・ゲオルギイがもしも自分の記憶を無くしていた場合、いっそ忘れたままだった方がいいのではないか、と思わない訳ではなかった。何せ、自分が調べてきたこの青年の足取りは、どうにも重すぎたのだ。
リルがこの町に来る前に、訪ねたのは、ハイランドの大学時代のクラスメートの一人だった。当時の名簿を頼りに、一人一人当たっていたのだ。
クラスの人数は三十五人。結構な数だった。事前に連絡して、ハイランドのことを覚えているかどうか、ということを聞いた上で有望な情報を持っている者だけを当たったのだが、それでも十人がところ、「覚えてる」「フォートがあるよ」という答えが来たので、彼はそれに直接次々にと当たっていたのだ。
そしてその最後の一人の証言が、リルをずいぶんと落ち込ませたのだ。それで一気に疲れが出た。終電の時間もホテルの有無も調べる気力が無いほど、疲れが頭の先から足のかかとまで澱んでいた。
「妙な奴だったよ」
とその「クラスメート」は言った。
見たところ三十をいくつか越えていただろうか。地方の都市の建設関係の会社の設計部門に勤務しているらしい。年末には出来上がるだろう首府のスタジアムの話題をざっと流して、その下請けに自分の会社が入っているということを何故か誇らしげに語っていた。
「ハイランド・ゲオルギイなら確かに覚えているよ」
喫茶室一つない会社の応対のスペースで、紙コップのコーヒーを前に、クラスメートの男は腕組みをしながら、そう目的の話題を切り出した。
「けど俺はそう好きじゃあなかったな」
「そうなんすか?」
彼は意外そうに問い返した。
「まあねえ。だってさ、俺なんて、あそこに五浪してやっと入ったんだよ? しかも、実業出てるから、資格試験受けて入ったクチだし。それなのに、いい家の出で、いい学校出て、なおかつストレートに入るんじゃ、何か……なあ、って感じじゃないかい?」
「自分は、中等の予科から実業の専科に移ったクチっすから……」
「へえ。まあそれならマトモな方だね。俺はそういう奴の方が好きよ。でもまあ、実際、奴とちゃんと話した、ってことは残念ながら無いんだよ、俺も」
「そう…… すか」
「悪いな。ただ、フォートは結構あるよ。ほら、持ってきた。遠路はるばるの客先には、ちゃんと対応しろ、っていうのが家の会社のモットーでね」
へへへ、と男はそう言いながら、隠し持っていたフォートブックを取り出した。新入生歓迎行事なのだろう、2Dのフォートの中には、紙吹雪が舞っていた。
「ほら、その真ん中で踊りまくっているのが、ハイランドだよ」
「え」
リルは目を丸くした。フォートの真ん中には、それまでの映像で見たお坊ちゃまな格好の少年は何処にもいなかった。わざわざ皺だらけにしたような、軽い素材のぺらぺらしたシャツをきつそうに着て、胸元もはだけたまま、足を大きく上げて踊り狂う青年の姿だった。
「こ、れっすか?」
「そう、これ。他にも色々あるよ。あっちにもこっちにも居る」
実際そうだった。クラスメートの男の持ってきたフォートには、至るところにその姿があった。
踊っているだけではない。それまでの映像の中にありがちな、何処か後ろに一歩引いている様な部分は無く、必ずと言っていい程、フォートの真ん中で目立っていた。
「な、何か明るいですね」
「おおっ。明るかったよ奴は。まあでも今考えるとカラ元気って感じだったがなあ。だってさ、所詮たった三ヶ月かそこら、クラスメートだっただけなんだよ? それも、中等や実業じゃないぜ? 大学だよ? クラスなんて言ったところで、毎日そのメンツが集まる訳じゃあないんだよ」
「そうなんですか……」
「そういうものさ。でも奴はその中では目立ってたからさ。その経歴も、だいたい一番年下ってこともあったし…… 人懐こかったから、女子にも可愛がられていたなあ」
「は、はあ」
「何かそういうの、ってこっちから見たら、すげえ腹立つけどさ。でもまあ、奴には奴で色々あったんだろーなあ」
「と、思うんすが…… 三ヶ月?」
「実質、奴が学校に出てきたのはそんくらいさ。その後は、居るのか居ないのか判らない状態」
それは他の話を聞いた皆が口を揃えたことだった。目立つ、も可愛い、も一応耳にはしている。ただフォートまで揃えてくれたのは、この男が初めてだった。
「写真…… お借りしていいすか?」
「ああいいよ。後でちゃんと送り返してくれるならさ。別にいつも取りだしては見てるって訳じゃないし」
「それで、三ヶ月って」
「ああそうそう。三ヶ月くらいまで、そんなまあ、大学に来るにはがさつな格好で来ては授業も適当に受けてたんだけど、そのあたりから、ぷっつりと姿を消すんだ」
「消す」
「と言っても、たま~に姿は見るんだよ。何せ一度覚えさせられてしまったからさ、女子が別に聞いてもいないのに言う訳さ。『クレペル君~ハイランド君をさっき寮の近くの銀杏並木のとこで見たんだけど、今日はこっち来たの?』って感じでさ」
女の声音をまねしながら「クレペル君」は言う。
「でも、見たと言った女も、結局見ただけで、それ以上じゃないんだ。別に声をかけたって訳でもないし」
「と言うことは、失踪してからも、首府には居たってことすよね」
「と言うことかな。……えーと、そうそう、最後に見たって聞いたのは、奴が消えてから二年してからだよ。だから、俺達が三年に何とか進級できた頃かな」
「二年間、ずっと首府に居たってことすか?」
「居続けたかどうか、は判らないけどさ。……でもその年って、何か首府もごたついてたじゃないの。水晶街の騒乱とかあったしさ」
「目撃されたんすか?」
「運悪く、その時ちょうど田舎に帰ってたのよ! 残念だね」
「残念、ってことは、結構学生の間では、そういう動きがあったってことすか?」
「クレペル君」は紙コップのコーヒーをぐっとあおった。
「学生は、だいたいいつもそんなものだよ? 学生だからさ。そのちょっと前には、他の都市で、先生達が騒乱起こしそうになってとっつかまってる」
「その学校の中で、騒乱の派閥に入ってしまったってことは」
「可能性としてはあるね」
あっさりと答えた。
「実際、学校っていうのは、そういう騒乱の温床となっている場合が多い。これはもう、伝統のようなものだね。ま、俺はそういうの好かないから、何かありそうだとこーやって田舎に逃げてきたりしていたけど。急進的な奴は、それこそ地下に潜ったりしていたな。だから奴に関しても、そういう噂が立ったことがある。ただ、奴のオヤジがオヤジだろ?」
「ゲオルギイ前首相……」
「そう。あの歴代の首相閣下の中でも、特に在職年数が長いし、しかも一応対外的にも穏健路線でずっと帝都政府との間を保ってきた人だろ? そういう奴の息子が地下活動に走った、ってのは、たとえ噂でもちょっとな、って感じがあったんじゃないかな」
「地下活動に通じる様な人がいましたか?」
「いや、それは俺には判らない」
男は首を横に振った。
「ただ、水晶街の時に、ずいぶんと多くの学生も検挙されてるんだ。その中に混じったのかな、とも思ったけど」
「けど?」
「けど君、考えてみろよ。もしも奴が、本当にそういう地下活動に加わっていたとして、それで捕まったとしても、首相閣下の息子と判れば、少なくとも政治犯扱いにされると思う?」
あ、とリルは声を立て、ぶるぶると首を横に振った。
「捕まったら、確実にオヤジの元に送り返されるだろ? こうやって君らが探すことも無い。なのに今こうだってことは」
そこで手詰まりになってしまうのである。
「だから、本当に何かつまらん理由で何処かへ行ってしまったか、何かの事件に巻き込まれて死んでしまったか、そうじゃなかったら、本当に地下活動に加わってて、捕まらずに動いてる、っていうのが俺の意見だなあ」
意見を聞いた訳ではなかった。だが確かに男の言うことには、彼もうなづけたのである。
おごってもらったコーヒーの礼と、フォートを返す先の住所を聞くと、そのまま駅へとリルは向かったのだが、その時には気分はずいぶんと重くなっていた。
その話は、ゾフィーの言う「バーミリオン」の行動とも時間的にもだぶる訳だし、何か関係があると言えばありそうなのである。
だが結局、全てがその「水晶街」から手詰まりになるのだ。
ゾフィーが言う「バーミリオン」がハイランドとしたら、その「時々姿を現す」期間にその名前で行動する様になったとも考えられなくはない。だったら、それは一体、何処で、どうして。
紹介してくれたドクトルとマスターの「友人」はその謎を解いてくれるのだろうか。少なくとも、自分は解く鍵を見つけだせるのだろうか。
進む列車の震動に身を任せながら、リルは期待と不安の血中濃度が一気に上がるのを感じていた。
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