16.「オマエなんか失敗すればいいんだ」
工場のサイレンが鳴る。
くすんだ青の帽子を取って、おさまりの悪い金髪をかき回しながら、リタリットは凝った肩を煩そうに上下させる。
「あれ何、今日もお前の相棒休み?」
油やほこりにまみれた手を、洗い場で流している男がその様子を見て言う。
「ああ」
「いー加減来ないと、上の連中もうるさいぜ? そりゃまあ、休暇届は出てるだろうが……」
「判ってるよ。ゆっとく」
そう言って、リタリットは腰のポケットに入れたタオルを首に掛けて、洗い場で顔を流す。そばにあった安物の石鹸で泡を思い切り立てて、一気に顔につけ、それをまた、勢いよく出した水で流す。髪から水が滴り落ちる。ぶるん、と首を振る。水滴が跳ねる。
だらだらと起こした顔の上を流れる水の感触は、何かを思い起こさせる。
呑まないか、という同僚の誘いを止めとくよ、と軽くかわし、彼はタオルで顔を拭くと、それを首に掛けたまま、部屋へと足を進めた。まだ水滴はその髪の端からぽたぽたと流れている。
町の中を縦横に走るトロリーに乗り込んで、コインを入り口の代金箱に放り込む。ことん、と音がしてコインが吸い込まれていく。
疲れているから空いた席に座り込んでいたら、二つか三つの停車場を過ぎたところで、荷物と子供を抱きかかえた華奢な女性が入ってきた。
既に車中は混み合っていた。どう見てもこの時間帯、工場にしろ何処にしろ、帰路につく労働者ばかりで、自分が疲れているというのにそんな女性に席を空ける者はいなかった。
彼は困ったな、と聞こえない程度の声でつぶやいた。母親らしい女は子供を右手に抱えたまま、左手に荷物をぶら下げて、細い脚で、ぐらぐらと揺れる車内で必死でバランスを崩さないようにしていた。
と。
「あ」
思わず彼は両手を出していた。重みが、次の瞬間、その上にかかり、反射的に目を細める。結構食料品というものが重いのだ。
女の下げていた袋の持ち手が、重みに耐えかねて、切れたのだ。女ははっと気付いて、リタリットの方を見る。その視線はひどく複雑なものだった。
どうしましょう、と何するの、が入り交じっている。
しかし、何するの、ではまずい。
とっさに彼は荷物を抱えたまま、立ち上がった。そして女の抱いている子供の頭を撫でて、ば~と顔を歪めてみせる。子供はきゃはははは、と笑う。母親はあっけに取られてそっちに視線を寄せる。
そしてその時を狙った様に、彼は母親を自分の座っていた席に座らせ、その膝に荷物を置いた。切れた持ち手をきゅ、と鮮やかな手つきで結ぶ。
「あ、あの……」
母親は何かを言おうとする。だがリタリットは聞かないふりをする。そしてさっさと出口の方へ向かうと、次の停車場で降りた。
念のために言っておくが、そこが目的の停車場ではない。
またやっちまったなあ、と降りたあとで彼はふう、とため息をつく。どうしてこうも、ああいうものに弱いのか、自分自身でも説明がつかないのだ。
次のトロリーを意味も無く彼は待つ。オレ一体何やってるんだろーな、と小さくつぶやく。
BPはまだ戻って来ない。
*
「帰る?」
とその時BPは言った。正直言って、彼には相棒の言葉の意味がよく判らなかった。
「そ。オレ帰る。オマエ一人で計画に参加でも何でもして」
泊めてもらっていたヘッド達の部屋で、計画についてのミーティングから戻ってきた時、目の前の相棒は、確かに荷をまとめていた。荷と言ったところで決して多くは無い。リュックサック一つにまとまる程度だ。
「いー加減帰らないと、仕事無くなるしさあ」
「それはそうだけど……」
BPは扉の前で、次にどう動いたらいいのか迷った。明らかに、この相棒は、何かに怒っているのだ。だがその怒りが何に向けられているのか、彼にはよく判らなかった。
確かに自分は、「赤」の設定した「総統暗殺計画」に参加することを口にした。その成功するかどうか、が問われない計画への参加に、この相棒がひどく反対していることも知っていた。だが、かと言って、いきなりこういう行動に出るとは思ってもみなかった。
「ちょっと待てよ」
「どけよ」
扉の前で、BPは出口を塞ぐ。リタリットはぐい、と彼の目の前に迫る。
「オレは帰るんだからな? オマエにぐだぐだ言われたく無い」
「帰るのはお前の自由だよ? だけど何で今いきなり」
「言ったじゃんか。仕事がフイになる」
「それはでも、あそこに居るための方便ということで」
「そんなコトは判ってるよ」
じゃあ何故、とBPは問い返したかった。だが問い返す前に、相棒の手が、彼の胸ぐらを掴んでいた。そして、それをいきなり前に突き飛ばした。
ばん、と不意の行動に、BPは背中を扉にしたたかぶつけてしまい、思わずせき込んだ。
「ったく…… 何怒ってるんだよ」
「オレは怒ってない」
「その行動の何処が怒ってないって言うんだよ?!」
BPは激しい口調で問い返した。
「言いたいことがあるならちゃんと言えよ!」
「気にくわないんだよ!」
「何がだよ!」
「あいつらが、だよ!」
気にくわない。それはリタリットが動く時のひどく簡単で、そして、大事な基準だということは、BPも良く知っていた。それはあくまで直感的なものである時もあるし、単純に虫が好かない、とか言うものであることも多かった。だけど大概は、それはいい方に転んだのだ。
だが。
BPは内心つぶやく。だったらどうして、お前、目を逸らすんだよ、と。
いつだって、この相棒の真っ直ぐで単純な言葉は、自分の方を見て吐かれたはずだった。
「……だけど、それだけじゃ、今回は」
「今回もクソもあるかよ? オマエあっちからもこっちからもいい様に使われるだけってことじゃねえの? オマエが失敗して捕まっても、無謀な計画に参加したバカが悪いってことにされておしまいだぜえ?」
「だから何だって、俺が失敗する、って決めつけるんだよ」
「お前が失敗するからだよ」
「俺は失敗しない」
「だったらお前、あのヘラを、偉大なる総統閣下さまさまを殺せる、って言うのかよ? オマエの中にずっと居るあの顔を。あの顔したオマエの元相棒を、その手で、殺せるって言うのかよ? オレは認めないね。オマエは奴を殺せない。殺さないよ。そして失敗するんだ。失敗しちまえ」
「お前それは……」
「オマエなんか、失敗すればいいんだ」
そう言って、リタリットは彼を突き飛ばして、部屋から出て行った。
ああ、そうだよな。
BPは思う。
失敗するということは、彼が自分の相棒を殺せないということだった。それが記憶を無くしても、それが自分自身にとって、大切な者だったとしたら、それは絶対に。
そしてそれが、自分だったらどうするんだ、とリタリットは彼に問いかけていたのだ。あれから、ずっと。話す訳でもなく、触れる訳でもなく。だけどずっと、その行動で、瞳で、彼にずっと訴えていたのだ。
ヘラを殺すな、という意味ではない。相棒という名を付けた相手を殺さないでくれ、と。
自分を、見捨てないでくれ、と。
判ってはいるのだ。彼もまた。だが、何らかの形で、自分の中で、どうしても確かめたいことがあるのだ。それは誰かに言われたからどうする、という類のものではないのだ。身勝手だとは思う。だが、その身勝手を、どうしてもこの件についてだけは、通したかった。
相棒は馬鹿に見せることはあっても、馬鹿ではない。BPは長いつきあいの中で知っていた。リタリットは、相手が自分を馬鹿扱いしたい時には、そうさせてやるためにそんな態度を取るのだ。素顔は、その下にいつも隠れている。
触れる服の下の体温、泣き出しそうな顔、抱きしめる手の強さ、強烈な欲望、そんなものを自分一人にだけ向けて、他のものには用が無い。
端から見れば重荷になりそうな性格だが、どうも自分にとってはそうではないことを彼は知っていた。そのくらいされた方が自分のぼんやりとした性格に向いていることを。
あの総統ヘラが、自分の相棒だったとしたなら。BPは思う。やっぱりそういう性格だったというのだろうか? 彼は首を横に振る。
ああそうだ。彼はつぶやく。
違うことを証明したくて行くのだ、と。そう言えば良かった、と彼はつぶやいた。
*
結局なかなか次のトロリーが来ないことに苛立って、リタリットは次の次の停車場が一番近い自分の部屋まで歩いてしまった。無論その横を、やがてトロリーが追い越してしまったのは言うまでもない。
こんなことは幾度かあった。だけどそのたびに、横には相棒が居たから、家路はそう長いものには感じなかった。疲れて話すことも無い時でも、何となく、居るだけで良かったのだ。
しかし、何故自分がBPに対してそう思ってしまうのか、判らない様な所が彼にはあった。直感だと言ってしまえば、それで終わる。直感だった。直感に過ぎない。
最初にあの房で、マーチ・ラビットとやり合っているのを見た時に、何も考えること無く、欲しいと思った。その自分の感情には、従うべきだ、とリタリットはその時思った。間違っていなかった、と後になってからはずっと思っている。
何が自分をそうさせるのかは判らない。だが、背中を押すのだ。何か、が。
それが自分の失った記憶から来るものなのかも判らない。おそらくはそうだろう、ということは認めている。
ではその失った記憶は、どうして。
あの「赤」の代表ウトホフトは、失った過去がBPの背中を押すのだ、という意味のことを言っていた。そうだとしたら、自分が自分の直感でBPを欲しいと思ったと同じ様に、自分は相棒が総統ヘラと対峙したい、と思ったということは認めなくてはならない。認めるべきなのだ。
だが、嫌なのだ。それだけなのだ。
BPが、自分の手の中から居なくなるのが、どうしても、嫌なのだ。
ふう、とため息をつきながら、リタリットはアパートに入る。
疲れと、堂々巡りの考えが、ずっと身体から離れなかった。そんな時には、さっさと食事をしてさっさと眠ってしまうしかない。眠れば、それでも朝が来る。次の朝が来て、また工場にでも出向けば、何も考えずに仕事をしていられる。
そんなことを考えながら、自分達の部屋のある三階の廊下にたどり着いた時だった。あれ、と彼は思わずつぶやいた。誰かが自分達の部屋の前に座り込んでいる。ポケットに手を突っ込む。その中には相変わらず何かしら入っている。敵だとしたら、すぐに攻撃ができる様に。
「アンタ…… うちに何の用?」
座り込んでいるのは、何やら大きな荷物を横に置いた男だった。しかし反応が無い。おい、とリタリットは大声を出した。よく通る声が、廊下中に響く。はっ、と男は顔を上げた。そして次の瞬間、ひどくびっくりした様に、目を大きく開けた。
「……何だよ寝てたんかよ…… 人騒がせな。何の様だよ。オレ眠いのよ。ウチに用件あるならさっさと言いやがれなんだよ」
「あ、あんた、リタリットさんだよね」
慌てて男は立ち上がる。その拍子に、荷物がバランスを崩して倒れる。妙にぼこぼこした袋だなあ、と見ていた彼はその中身が金属系のものであることに気付いた。
「そうだけど?」
「俺、ヘルシュル・リルって言います。あんたの友達から、伝言を預かってきたから」
「友達?」
そう聞くと、彼は扉を開けた。それ一つで信用した訳ではない。だが、廊下でする話ではない。ただでさえ自分の声は大気を震わすのだ。雨が近い日など、耳が敏感な仲間の一人はお前の声は響きすぎるんだちょっと黙れ、とよく言われたものだった。
*
「いいんですか?」
いいから、と言って、リタリットはリルを部屋の中に連れ込んで後ろ手に鍵を閉めた。
「そのヘンに座ってよ。誰? オレの友達って。たくさん居るから、わかんないのよ」
「あ、実はこれを。ドクトルKと、ムイシン駅前の店のマスター……えーと、そうそう、トパーズって呼んでた……」
「ドクトルと、トパーズ?」
彼は差し出された封筒を奪い取り、びりびりとその封を切った。中には薄い紙が一枚入っていた。そして横目に相手の姿を見ながら、その文面にざっと目を走らせた。
「……ふうん、人を探してるんだ」
「え?」
「でも残念だね、オレ、アンタの探している様な黒髪黒目の男なんて知らないよ」
作り置きのテーブルのそばの椅子に掛けながら、リルは目を丸くする。黒髪黒目には用は無い。そうか、とリルはとっさに判断する。
「そうすか、残念だなあ。ふう、これじゃまた、手ぶらで首府まで戻らないといけない……」
「首府の人かい? アンタ」
「ええ。仕事で、人捜してるんですが、何かいまいち上手くいかなくて」
「へえ。それは大変だ」
リタリットの愛想が突然険悪なものから無関心に変わる。無関心になった時、それは人当たりのいいものと一見見えるものへと変化する。茶でもどぉ、と言って、既に手はやかんを掴んでいたりする。
「すいません。実はずっとあんたを待ってて、持ってきた食事なかなか食えなかったんすよ。ここで開いていいすかね」
「食事まだなのかよ? それはひでえ」
誰のせいだ、という言葉はそこでは故意的に無視される。
リルはがさがさ、とかちかち、という音を両方させながら、大きなバッグから「食事」の包みを取り出す。それは朝方、マスターが持たせてくれたチキンサンドの箱だった。ずいぶんな量がある様な気がしたが、好意は素直に受け取るリルとしては、とりあえずそのまま開いてみる。
「うまそーじゃん。でも冷えてんな。温めてやるから、オレにもくんない?」
「え? ああ、いいすよ。俺も多いと思ってたんす」
サンキュ、とつぶやくと、リタリットは作りつけのレンジの中にそれを放り込み、数分で出した。
「あ、でもちょっと菜っぱがふにゃらんになってしまったかな」
「でも肉は暖かい方が俺も好きす」
「トバーズか? これ」
「ええ。持たせてくれて」
「奴がそうするのは珍しいんだ。ふうん」
感心した様にうなづいて、リタリットはばらばらのカップに茶を入れると、どん、と相手の前に置いた。そして温かいサンドを掴むと、口に放り込む。
「何だよじろじろ見て」
「いや、食欲旺盛だなあと思って」
「オレ今さっき仕事から帰ってきたばかりなのよ……寄り道もせず健全にね。腹減ってるのはとーぜんでしょ」
「まあそうすね」
「けどさぁ、何でそんな奴、探してんの?」
リタリットは指についたチキンのたれをなめながら訊ねる。リルはその時やっとドクトルが手紙にそう書いた訳が判った。下手に嘘はつかなくていい様に、自分の問いたいことを、対象だけ逸らさせてくれたのだ。リタリットが尋ね人を「黒髪黒目」だから気にしている、というのはすぐにリルにも見て取れた。
「俺の、好きな人が探してる人なんすよ」
「好きなひと。へー」
リタリットは目を丸くする。
「尊敬してるんですよ。だけど、それだけじゃない」
「オンナ?」
「まあそうすね」
リルはにっこりと笑う。間違いじゃない。
「そのひとが、昔知っていた人だって言うんすよ。ただ、そのひとを水晶街の騒乱の時に、見失ってしまった、って言うんす。で、自分には言いたいことがそのひとに対してあるから、どうしても探し出したいんだ、って」
「水晶街の騒乱…… っていつだっけ」
「今年830年ですよね。もう八年くらい前じゃなかったですかね」
「八年……」
「俺なんかは、まだガキでしたねえ。中等に入るかどうかくらいすか。あんたは、……学生くらい?」
「知らないよオレは。働いてたし」
間違いではない。八年前。リタリットは頭の中から記憶を引っぱり出す。自分の記憶は、そのあたりから始まっているのだ、と。
八年前、ライで、雪の上に数名と一緒に転がされた時から、自分の記憶は始まっているのだ、と。その時一緒だったのは、誰だったろう。ぼんやりとしている。
その前の記憶と言えば。
思わず目をつぶって頭を振る。
「どうかしたんですか?」
「……何でもねーよ」
そう言ってリタリットは大きな口を開けてサンドイッチに噛みついた。
「それで、その八年前にそのアンタの女が見失った奴、なの?」
「はい。でも俺の、じゃないすよ」
「でもそうしたいんだろ?」
「したいすよ。でも無理すよ」
「何で」
「そういう人なんす。誰かに頼ろうって人でもないし」
「そうじゃなくて、アンタが好きかどうかっての」
「そりゃあ好きすよ。だけど、それとは別」
「何か別なんだよ」
「って…… 何、怒ってるんす?」
リルは問い返した。リタリットははっとしてごめん、とつぶやいた。
「や、謝られても…… でも、そりゃ、そうできたら、一番いいですよ。好きは好きなんす。でも俺は、彼女が自由であることが一番好きだし」
「彼女が自由?」
「俺が好きな、そのひとは、俺が今の職場に入る前から、自分のその職場での地位のために、一人で戦っていた様な人すから。自力で掴んだその地位は彼女にとって、ひどく大切なもので、俺はそれを掴む過程の彼女の姿に、何かひどく、やられてしまったみたいなんすよ」
「それで、触れもせず? ジュンジョーだね」
「大人だって言って欲しいなあ」
「オトナ、ねえ」
彼は床に視線を落とす。
「そういうのがオトナ、だったら、オレは間違いなくガキだよな」
「そうなんすか?」
「そうなんすよ!」
くくく、とリタリットは笑う。えーと、とリルはつぶやく。
「……えー、話戻していいすか?」
「ああ? ああ」
拍子抜けした様な表情で、リタリットは目の前の相手を見た。どうにもいつもとタイミングが違うのだ。
「その八年前に見失った人物、それが、ウチの…… 俺、TV屋なんす。こう見えても。まだ駆け出しだけど。その映像整理してた時に、彼女がその人の過去の映像を偶然見つけたんすよ」
「映像。TV屋…… アンタ放送局の人間なんだ」
「はい。まあ、一応。でも、今探してるのは、職権乱用です」
そしてリルはにやり、と笑った。なるほど、とリタリットもそれに返す。
「じゃあ、その誰かさんは、そんな、TVの映像で偶然見つかっちゃう様な奴なんだ」
「ええ。でも映像の主役ではないすよ。脇にちらちらと映っていた程度で。でも回数が割とあったから」
「何それ、じゃあTV俳優とかそういう奴? 脇役さんとか」
「いえ、そういう人じゃないです。で、まあ、俺は、その映像のほうの人物の過去を洗って行ったんすよ。彼女の言う人物は、何か、呼び名以外、何も判らない人だったから」
「呼び名以外、ねえ」
彼は苦笑する。だいたい自分のこの「リタリット」という名にしたところで呼び名に過ぎないのだ。本当の名はずっと失われたままだ。
「で、その映像の中の人の故郷まで行って、色々探ってもきたんすよね。家庭が複雑だったとか」
「へえ。最近オレもそんな奴の話を聞いたよ」
「それは奇遇すね」
奇遇もクソもあるかよ、と聞こえない程度の声でリタリットはつぶやき、茶をあおった。リルは目を細める。
「で、どんな家庭の何とやらなんだ?」
「そうすね。まず、ずいぶんといい家庭なんすよ。家柄って言うか、父親の職業が。詳しくは言えないんすが、会社社長よりもっと偉いような」
「いーとこの坊ちゃんって奴かい?」
「そうすね。いいとこの。しかもそこの長男で、頭はいいし、結構運動能力も優れていたようすね。持久力はともかく、実にすばしっこかったらしいす。これは初等学校の先生に聞いたんすがね」
「へーえ」
「で、中等学校ではもういつもトップ。並ぶ者なし、って感じで」
「イヤな奴だねー」
「って周囲ももしかしたら思ってたらしいすね。本人は落ちた、とちょっとした点数を嘆いても、それは周囲からしたら大したことじゃない」
「自分しか見えてねーんだよ、そうゆう奴は」
「かもしれませんね。でもまあ、それは同情の余地あるかもしれませんよ」
「何で」
「だから、その良い成績、文武両道の優秀生徒で居る理由ってのが、『父親に認められたい』だとしたら」
「ファザ・コン」
「ドクトルもそう言いましたよ。でも、まあそれはそれとして、切ないもんじゃないですか?」
「何でだよ」
「その子……まあ当時は『その子』すよね。妹が一人居たんすが、父親は、その妹ばかり可愛がる訳すよ。男親は娘を可愛がるってのが普通の様だけど……」
「そうゆうの、よく聞くよな」
「でも、もしその娘が、その父親の子供ではないとしたら?」
え、とリタリットは思わず問い返していた。
「俺の調べたところによると、その頃、やっぱり噂が立ってましてね、その娘ってのが、母親の浮気相手との子供だって言うんですよ」
「……よく言ってることが、判らないな」
「計算が、合わないんすよ。その父親、ってのは首府に詰め切りになる職業だと思って下さいね。だけど、その母親ってのは、首府からちょっと離れたとこにずーっと住んでるす。何でかは俺も判らないです。仲が良くなかったのかもしれない。だけど、その母親が、その息子が三つの時に、妊娠した」
「……帰ってくることくらいあるだろ」
「ところが、それに関しては、公式記録が、全て証言してくれてしまうんすよ。絶対に自宅には戻っていないって。ではその時にできた子供は誰の子か。答えは簡単じゃないすか」
「……ってことは、その父親、ってのは、娘が自分の娘じゃないってこと、知ってたって訳じゃないか?」
「そうですよ。だからそう言ってたんす」
「じゃ何で、その娘の方を可愛がるんだ? 普通は、そういう時は、息子の方を可愛がるんじゃないか? 自分の跡継ぎだし、血を継いでいるし」
「その父親が実力主義の人だった、ってのは確かにあります」
「けどそれはアタマで考える部分だろ? こっちは? こっちはどうなんだよ?」
リタリットは手を開いて自分の胸を押さえる。
「普通は、本当の息子の方を可愛がるもんじゃないかよ?」
「……その辺は、俺にも判りません。けど、何で、リタリットさん、あんたがそんなに怒るんすか? そんな、人の話なのに」
「知るかよ」
ぷい、とリタリットは視線をテーブルに落とす。
「オレだってそんなこと判らねーんだから。それで、そいつ、その後どうしたの? 中等を卒業して。中央大に入って、どうしたの?」
え、とリルは持ち上げかけたカップを危うく取り落としそうになる。
「……ああ、中央大に入ってからすね。そう、その人は、三ヶ月でその大学で行方不明になるんすよ。たった三ヶ月」
「もったいない」
「全くすよ。そうそう、そのクラスメートだった人に、会ってきたんすが、自分達が、苦労して入ったところでそんなストレートに入って、すぐに抜けてしまうなんて、ずるい、って言う意味のこと言ってましたけど」
「ずるい、ねえ」
リタリットは皮肉気に笑った。
「だけど、結果だぜ? そいつの実力が、それしか無かった。もしくは、そこまでした努力が、そいつの思う以上に、そのアタマのいいガキがしていたかもしれないんだよ? そんな、事情が一人一人あるのに、一くくりにされてたまるかっていうの」
「ずいぶんと肩を持つんすね」
「一方的な見方ってのが嫌いなだけだよ。で?」
「ああ。それで終わり」
「終わり」
「……って言うか、それから二年ほど、そのキャンパスのあちこちで目撃されては居るんすが、水晶街の騒乱をきっかけに全く姿が消えるんすよ」
「じゃあ、きっと騒乱に検挙されて、どっかに捕まったか、地下活動でもしてるんだろ。珍しくもない」
「でも捕まってるはずは無いんすよ」
「何で。何でそんなことが言える?」
「だって、その彼の父親ってのは、この星系で一番の権力者だったから」
部屋の中の空気が、凍り付いた。リタリットは、何故自分が次の言葉を見つけられないのか、よく判らなかった。
「俺が探しているのは、ハイランド・ゲオルギイという人物す」
「……変な…… 名前だ……」
「そして、彼女、中央放送局のゾフィー・レベカが探している男というのは、『ヴァーミリオン』と呼ばれていた男です」
「ヴァーミリオン……『朱』?」
リタリットは、口を思わず塞いだ。「朱」は、あのウトホフトが口にした名だ。あの「赤」の代表が、昔こんな組織の人間として、育てた男の通称だ。
何で、それがここで出てくるのだ、と彼は頭の中が混乱するのを覚えた。
「その人を知ってます? 今、どうしてるか、知ってます?」
「……知らない」
「これは仕事の話じゃないんす。あくまで、俺の好きな女性の」
「確かにオレも『朱』って奴の話は聞いたことがある。だけど、そいつが今どうしてるか、なんてオレは知らない。だいたい何でオレに聞くんだ? オレに何か関係あるって言うのか?」
無いですね、とリルは目を伏せた。
「すみません、俺の仕事が上手く行かないからって、何か八つ当たりしたみたいで」
「あ……」
いきなり気が抜けるのをリタリットは感じる。
リルはリタリットが火を点けられた様になったら、とにかくすぐに退け、とドクトルに言われていた。つまりはそういうことか、とリルは納得する。
「……こっちこそ…… くそ、何だってオレまでこんな興奮しないといけないんだ……」
「それは、知性の神の思し召しでしょ」
「違うよ、理性の神だよ……」
つぶやく様に、リタリットは言った。
「すみません。ホント。でもドクトルとマスターがあんたなら知ってるかも、と言ったんで、ついむきになったんすよ」
「……あ? ああ……」
「俺、食事済ませたら首府に戻ります」
「いいのか? 報告は」
「居なかったものは、仕方ないでしょう?」
ごめん、とリタリットは頭を下げた。そうしながらまた眠気が迫っているのを彼は感じた。
*
泊まって行ってもいいのに、という眠そうなリタリットの声を丁重に断ると、リルは慌てて駅行きのトロリーに乗り込んだ。急がなくては。
上手く行けば、ここから夜出る、首府行きの夜行列車に乗り込むことができる。できるだけ早く、リルは首府へ、ゾフィーの元へ舞い戻りたかった。
そして切符を手にすると、飲み物のパックを一つ買ってバッグに突っ込み、通信端末の回線を開いた。今の時間が彼女にそのまま通じるかどうかは判らなかった。だが、通じて欲しかった。自分の感じた、確信とも言えるものを、早く、彼女に伝えたかったのだ。
数回、呼び出し音が耳に飛び込む。時間帯的に、あのテルミン宣伝相との打ち合わせをしている可能性はあった。
だが、ぷ、という音とともに、彼女の声が耳に飛び込んできた。リルはふっ、と目の前が明るくなった様な気がした。
「レベカさん! 俺っす。リルす」
『何? 今うち合わせ中なのよ。定時報告だったら後にして……』
「定時報告じゃないす。報告、なんす」
途端に、耳にかん、という音が飛び込んできた。どうやら端末を落としたらしい。
『あ、ああ…… ごめんなさい』
「でも、打ち合わせ中なら」
『彼は知ってるわ。待ってもらう。で!』
「間違いない、と思うんす」
彼はかいつまんで、リタリットと会った時の様子を話した。
『それで、君がそのリタリット君をハイランド・ゲオルギイで、ヴァーミリオンだっていう決め手は?』
「一つは顔。そりゃ、あの映像とはやや違いますよ。だけど、大学のクラスメートが持っていたフォートとは同じす」
『どういう意味?』
「お坊ちゃまは、大学でたがが外れてしまったってことすよ。良くも悪くも。で、次が、声。声質が、ゲオルギイ前首相に似てるんす。あの妙な響きかたとか。で、決定的だったのが、……無意識…… じゃないかな、と俺は思うんすが」
『無意識?』
「リタリット君は、記憶を無くしてる、って彼の友達が言ってました。ちょうど時期的には、八年前、水晶街の騒乱と時期は合うんす。じゃあその時何があったのか、失踪してからその二年、時々キャンバスに姿は見せていたらしい彼は何をしていたのか、それは俺には判らないすが」
『だけど?』
「彼は、別の人間から、ヴァーミリオンのことは、聞いている様な口振りでした」
『何それ。じゃあその時のことは彼は覚えていなくても、知ってるってこと?』
「ということになります。でもやっぱり記憶は変な様です。確かに忘れていると思うんすよ。だいたいドクトル…… あ、彼の友人が医者らしいんですが、その医者も、そう断言してました。ただ」
『じれったいわね』
「俺が中央大なんて言葉出さないうちに、彼はハイランド君の中等卒業後の進路を言ってしまったんすよ」
『……』
「だから、無意識じゃないすかね。それに、言葉」
『言葉?』
「あんなに、上流階級のクセをアクセントに残しちゃいけないと思うんすよ」
リルは苦笑する。
「あれが決定打す。アクセントは無意識だから。俺、前に局アナちゃんから聞いたことがあるんすけど、どんだけ方言って、直そうとしても、言葉に掛けるアクセントとかは、無意識に育った環境のものが出てしまうって言うんすよ。彼が隠す気だったら、隠してるでしょうね。でも彼は隠す気が無い。というか、隠そうという意識すら無かったす。もしくは、それが上流階級アクセントということを、忘れている」
端末の向こう側に、沈黙があった。リルはその向こう側に、ばたばたと駆け寄る足音を聞いた。
「それじゃ、これからすぐに戻ります」
リルは短くそう言って、通信を切った。
*
その場にへたり込んでしまったゾフィーに、テルミンは駆け寄った。掴んだままの端末は、既に切れている。スイッチを切ると、テルミンは彼女を自分の方へ向けさせ、肩を持つと揺さぶった。
「ゾフィー! おいちょっと!」
「あ……? あ、あたし、どうしてた?」
「急に見えなくなるから、倒れたかと思った……」
「倒れない、わよ…… こんなことくらいで……」
「だけど、ひどい顔色だ」
テルミンは首を横に振る。
「大丈夫よ、だってもう年末も近いのよ? とにかくいい加減段取りを決めないと、セットを作る方も、発注出せないわ」
「そう…… だね」
額に湧いてくる冷や汗をぬぐいながらそう言う彼女に、テルミンは上手い言葉が返せなかった。
「大丈夫よ。ただ、一つ、次の行動が決まってしまったのよ」
「え? それは……」
「見つかったのよ、彼」
「彼…… というと、あの」
「そう、あの、彼よ」
ここには周囲の目がある。固有名詞は二人の口からは決して出なかった。
「ちょっと手貸して、テルミン。立つから」
「気を付けて」
「ナジャレス! スタジアムの図面貸してちょうだい!」
彼女は立ち上がりながら声を張り上げる。そして図面を持ってたアシスタントの青年から大丈夫ですか、と問われる。
「何、ちょっと足ひねったぶんよ。後で湿布でもしとけば大丈夫」
そして図面をざっとテーブルの上に乗せる。強いな、とテルミンは思った。先日の醜態が嘘の様だ。覚悟を決めると、こうも強いのだろうか、と彼は思った。
そういう意味では、自分か覚悟もへったくれもないな、とテルミンは思う。あの夜から、ずっと頭の中で、複雑な感情が渦を巻いていた。
ヘラもケンネルも、自分達の関係のことは決して口にしない。官邸で出会う時も、ある一定の線は守っている様に見える。時には言葉でふざけ合うこともある。だがどう見ても、この二人にそんな関係がある様にき見えない。
自分が見たのが何か夢か幻だったのかもしれない、と彼は時々思う。思いたいのだ。
しかし、そう思うには、あの光景は生々しすぎた。そして、二人のどちらにも、その事実があるのかどうかを問いただすこともできない。
そもそも「総統閣下」が誰を愛人に持とうが、そんなことは「総統閣下」の勝手なのだ。それがこの星系でテルミンがヘラに送った地位なのだから。
「テルミン」
ゾフィーの声に、不意にテルミンは我に戻った。
「どう思う?」
「え?」
「やだ、あなたがぼんやりしてどうするのよ。この図面からすると、こっちとあっちに、二つ放送用ブースがあるじゃない。どっちをメインにして、どっちをサブにした方がいいかしら」
「それは君達に任せるよ」
「任せられて嬉しいわ。だけど、傾向として、総統閣下はどちら側からの方が映りがいいのか、って問題もあるのよ?」
「うーん…… どっちかなあ……あれ、真ん中のこの小さい奴は?」
「あ? これは違うわよ。ここにはカメラは置けないはずよ。機材置き場になってるんじゃないかしら」
「ふうん」
テルミンはそううなづくだけだった。
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