愛しい世界に戻るため

空薇

姉妹の物語

 蝶がひらりと舞う。

 煌めく鱗粉を纏いながらひらりひらりと視界の端から端へ移動していく。

 それを、私は静かに眺めていた。


「おねえちゃん、どうしたの?」


 妹の声が聞こえてハッとする。

 今は大好きな妹の進級祝いを買いにきていたのだった。


「ん、ごめんね、ちょっとぼーっとしちゃった。いこっか?」

「うん! あ、おねえちゃんのこのズボンすてきだね、わたしすき! さきっぽだけひらひらしてるね!」

「そう? じゃあ、空藍が大きくなったらあげるよ」

「ほんとう!? おねえちゃんだいすき! やくそくだからね!」


 気がつかないうちに離してしまったらしい手をもう一度繋ぎ直して、岩手の僻地にもかろうじて存在してくれたショッピングセンターへ向かう。

 小さな足を懸命に動かして前へ進む可愛らしくて大切な妹に視線を移すと、自然を口元が緩む。

 来週から小学校四年生となる妹の空藍そらは、私に残された唯一の家族だ。

 空藍を産んですぐ母が死に、私が高校を卒業すると同時に父は失踪した。

 それ以来、親戚の誘いを断り、私がずっと面倒を見てきた。

 幸いにも私は大学に行くつもりがなかったので、職に迷うこともなく暮らせていけてる。

 ただ、空藍に寂しい思いをさせていることはわかっていたので、今日はこうして休みをとって空藍を目一杯甘やかすことにしたのだ。


「おねえちゃん、おねえちゃん、もうすぐだよ!」


 母のことを知らない、父のことは忘れさせた妹が無邪気に私に笑いかける。


『————警告。メモリーが不足しています』


「そだね、うん、そだね」


 空藍は無邪気にはしゃぐ。

 楽しみでたまらないと。

 そして、青になったばっかりの横断歩道に駆け出す。


「空藍、危ないよ、こけるよ!」

「へーきへーき! ほら、おねえちゃんもはやく!」


 その声を聞いて、私は苦笑しながら空藍のもとへ、急ぐ。


『——警告、警告、メモリーが不足しています。再生終了まで、残り2分』


 そうしたら、空藍のもとに急に、止まっていたはずの大型トラックがすごいスピードで迫ってきて、


「おねえちゃ——」

「空藍……!!」


 ぐしゃ、という小さな音の後、残るのは、首がありえない方向に曲がった私の妹。

 それに私はゆっくりと、今朝の蝶のように近づく。

 遅れて誰かの悲鳴。


『警告。再生終了まで残り30秒』


「そ、ら?」


『警告。残り5秒』


「そら、そら?」


『残り3秒』


「そら……?」


 私はあたたかい妹のからだを抱きしめる。


『残り1秒』


「そらぁ……!」


『再生終了』


 最後の瞬間、空藍はいつも、動かない。



 目が覚めると、そこには妹がいない。

 真っ暗な闇の中で存在感をあらわす、紫の蝶が映った小さなモニターと、私を拘束する金属だけがある部屋で、私は目を覚ます。

 足首と手首にあたるひんやりとした金属が不快だ。

 徹底して暗闇にすればいいものも、希望をあたえるように存在するモニターの光が嫌いだ。

 下着以外の衣服を身につけていないというのに外されないメガネが、はっきりとした視界が憎たらしい。

 私の足を地面に、腕を頭上に保つために手錠につながれた金属が疎ましい。

 でも、それよりなにより。

 この状況を作り上げ、私が泣いているのをせんべいと緑茶を堪能しながら楽しそうに見ている目の前にいる人物が不快で、嫌いで、憎たらしくて、疎ましい。


「どうだった? ねえねえ、今回も、変わらないの?」


 男か女かもわからない声で不躾に私に話しかけるこいつのことを、私は何も知らない。

 空藍が死んで横断歩道で呆然としていたら急にこの格好でこの場所にいて、それ以来ずっとここで何度も何度も何度も空藍が死んだ日を繰り返しているのだ。

素性なんてわかるわけがない。

 それに、暗すぎて顔なんて見えない。せいぜいわかるのは、毎度私が目覚めてすぐは器いっぱいにもられたせんべいを齧り、緑茶をのみながらパンタロンを履いた足をバタバタさせていることぐらいだ。

 

「ねね、妹ちゃんを生かす方法は思いついた? ねえねえ」


 こいつは私が返答するまでこうすることをやめない。

 もう、それは思い知っていた。


「諦めたよそんなの。何度救っても、結局時間オーバーでここに強制送還。しかも私が空藍を庇えば空藍は私が強制送還される前にバラバラの肉片になる。こんなの、やってらんない」


 こう返すのももう何度目か覚えていない。

 この次は、あいつにこう返されるんだ。「ふうん、じゃ、次ね。蝶に乗っていってらっしゃい」って。

 そうして私はまだあの愛しい世界に旅立てる。

 ——のに。


「ふうん、じゃあ、気がついてなかったんだ」


 いつもと違う答えが返ってきて、戸惑う。


「メモリー不足って、聞こえなかった?」


 決して私に近づくことのなかった奴が、せんべいかたてにこちらに近づいてくる。


「メモリー不足。つまり、もうやり直せないから、あれが最後だったんだ。つまり、あそこで君が妹ちゃんを救っていれば、そこは現実になった」

「……は? 何言って……」


 モニターの妖しい光で顕になったこの世で一番嫌いな人物の顔は、私にそっくりだった。


「だってここは現実じゃないもん。空藍がいない。だから研究を繰り返して新しい世界を作る方法も、過去に戻る方法も編み出したのにさあ」


 残念だよ、と言いながらやつは私の拘束具の鍵を外す。


「君は、最後の最後で失敗したんだ。メモリーが不足した状態で予測されていない行動を起こせばバグが発生することぐらい分かんない? わかるよねえ、だってお前は私なんだから!」


 目の前の人物が何を言っているかわからない。けど、よく見ればこいつがきているのは私が気に入っていて、空藍が素敵だねって言ってくれた、パンタロン。

 食べているせんべいは、岩手の特産品で、私も空藍も大好きだった南部せんべい。


「あ、あ、」


 思考が鈍る。私がこいつなら、こいつがいう通り、私はこいつがいうことに、気がついていた……?

 なら、空藍を殺したのは、私……?


「なのにお前は空藍をみすてたんだ! わかっていてね。ああ、どうしようもいよほんとう。あの父親の血を引いているだけあるね。空藍はそうじゃないからあんなに愛せたのに、お前はそのラストチャンスを逃したんだ」


 もう何も考えられない。一瞬空藍が父親の血を引いていないと聞こえた気がするが、それを正しく認識するだけの気力と能力が、私にはなかった。


「ああ、ごめん知らなかったんだっけ? 空藍は母さんが外で作った子供だよ。それに耐えられなくてあの父親は家を出たんだ。空藍に呪いの言葉を吐いてね。はー、空藍の防衛本能がきちんと働いてあんな奴を忘れるきっかけになったから結果的に良かったかもしれないけど、本当信じられない」

 私を縛り付けていた枷が全て外れる。


「もうさ、どこにでもいってよ」


 何も考えられなくなった私は、その言葉に大人しく従う。

 前に進んで、目の前に現れた仰々しい鉄の扉を開く。


『感知しました』


 聞き慣れた声が何かを感知したと告げる。その直後、アラームの音と、肺のあたりに激しい痛み。

 息ができなくなって、私はその場に倒れ込む。


『感知しました。感知しました。感知しました——』


 そして鳴り止まない無機質な声とアラームの音。

 そのたびに激しい痛みが走る。直接血が流れ出ているのは肺のあたりからだけなのに、全身が痛かった。

 苦しくて苦しくて目を閉じようとすると、涙で歪んだ視界の端に、いつもの蝶がはっきりと現れる。

 優雅に鱗粉を纏っていつもどおり蝶は舞う。


 ああ、そうか。ここは——。

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愛しい世界に戻るため 空薇 @Cca-utau-39

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