第四十六章

「立て。立つんだ」

 大伴智香は顔を上げた。

 その人が・・・そこにいた。智香に厳しい目を向けていた。

 「あなたは、誰なの?安部安貴・・・あたいは、そんな名前の人、初めて聞く。その人が、なぜ、さっき私を助けてくれたの?それに、あの夜、あなたはなぜあそこにいたの?」

 洋蔵は、その人を・・・知っているような口ぶりだった。だが、彼女は誰だか全く知らなかった。あの夜、彼女が居間に下りて来た時にいた見知らぬ男としか分からなかった。だが、その男は、さっき安部安貴と名乗った。

 「今は、その質問に答えている余裕はない。まだ、闘いは終わっていない」

 洋蔵のような敵であるとは思えなかった。彼女はこの男に拒絶出来ない優しさを感じていた。なぜ、そんな感情を持ってしまうのか・・・智香はこの男、安部安貴に母真奈香に似た優しい言葉を期待した。しかし、返って来たのは冷たく厳しい言葉だった。

 「智香。智香よ。あいつはお前が死ぬまで闘いを挑み、宿命の決着がつくまでお前を追い、闘い続けるだろう。お前とあいつ・・・どちらかが死ななければならないのだ」

 「来い!」

 雷光は二人に照準を合わしていた。安部安貴は智香を抱き上げ、高く飛んだ。

 「キャッ!」

 また、間一髪助かった。この攻撃も何とか交わせたが、今度は分からない。智香には洋蔵から逃げ切る自信はなかった。あたいは何を迷っているの?智香が動揺し、迷った時間が多ければ多いほど、彼女の動きに隙が出来てしまう。今、この時はこの人、安部安貴に身を任せればいい。しかし、一人になった時・・・。高く飛んだ二つの体に、数秒間突風が吹いた。

 「何!」

 突風は、二人の態勢を崩してしまった。安部安貴と智香は突風に引き裂かれ、別々に落下した。

 「フン。終わりだ。二人とも、死ね」

 里中洋蔵は暗黒と化した空中で踊り狂っていた。智香は受け身らしい動きも出来なかったので、地面に体を打ち付けた。激しい痛みが、彼女の体を走っている。しかし、彼女は傷付きながらも、すぐに立ち上がった。なぜ、立ち上がるの?智香は自分を責めるのだが、

 「あたいは負けない」

 自分の気持ちとは反対の言葉が口に出て、おまけに心の奥底に小さな光り輝く塊りを感じるのだった。あの人は・・・と気遣うが、今はその余裕がない。智香は洋蔵を睨み、自分の人生を根底から崩していく敵に憎しみを抱いた。

 「ほほぉ、来るか!その目は何だ?俺が憎いか。だが、俺は宿命に従順なだけだ。来るなら、来い!」

 洋蔵は智香に誘いを掛けて来る。この時、

 「智香!」

 という声を再び聞いた。

智香は全身に大きな衝撃が走った。この声は、まさか・・・あの人ではないと思った。

智香は振り向いた。

そこには、津田孝子がいた。そして、飯島卓もいた。

なぜ、ここにいるの?と智香は思ったが、孝子にその答えを求める時間はなかった。

「あっ、こっちに来ちゃ、だめ。なぜ、来たの?」

智香は自分の置かれた今の状況を忘れ、叫んだ。洋蔵に神経を集中していないと、安貴のいう隙を作ってしまうからである。洋蔵も智香に隙が出来たのに気付いたようだった。智香に駆け寄る二人を見て、にやりと笑った。不気味な笑いに見えた。

(いけない。このままだと、みんな殺されてしまう。誰か・・・たすけて!)

誰!誰に助けを求めればいいの。

「智香!」

孝子も卓君も、智香に向かって走って来る。

洋蔵の冷たい視線が、何度も彼女の体の中を突き抜けて行く。

あいつは、本当に孝子や卓君も殺す気のようだ。誰・・・あたいが、みんなを助けるために何らかの行動を取らなければならない。でないと、みんなは、あいつに殺される。どうすればいいの?

智香は二人に向かって、走った。体の節々が痛くて、うまくは知れない。

(誰か・・・お願い・・・)

智香は足を引きずり、走った。孝子も卓君も、あたいが一人で行ったのが心配になって、来てくれたんだ。有難う。でも、ここに来ちゃ、だめ。早くここから逃げて。来てくれたのは嬉しいけど、やっぱり来ちゃだめ。殺されてしまうよ。

(お願い、お願い。みんなを助けて。白虎、青龍・・・何処にいるの?)

誰も返事をしてくれない。智香の目には涙がにじみ、孝子と卓の姿がぼやけて見えた。

智香は目を思いっきり拭いた。黒いものが、彼女の目の前を過った。彼女の嫌いな手首の黒い痣だった。痛みの度合いは少しも変わっていなかった。

智香は洋蔵の姿を捕えた。洋蔵の目が弱い獲物を狙う野獣のように光っているのに気付いた。

「あっ!」

智香は小さな土のくぼみに足をとられ、倒れた。彼女は顔を地面にぶつけ、泥だらけになった。彼女は顔についた泥を掃わずに、そのまま顔を上げた。

「だめ!あたいから離れて!」

二人には、智香の声が聞こえないのか。風が、雨が、彼女の声を消し去っていた。孝子と卓が、智香に数十センチの近くに来た。まさに、その瞬間、暗黒の空で主人の次の指示を待っていた雷光が三人に向かって走った。閃光は一瞬だった。


飯島一矢は学校にいた。昨日で一学期は終わり、夏休みに入っていた。彼は本館の四階にある図書室で、ある項目を調べていた。

あの時、いや俺は時々、なぜ印を結んでいたのか?この、なぜについて、ここでは調べることが出来ない。じゃ、これは何なのか・・・なのである。十三歳ころ、歴史の教科書では二行ばかりの文章で載っていた。しかし、今はそれ以上のことを知っている。俺だけじゃない。あの化けものも同じことをやっていた。あいつは・・・

誰なんだ?一矢は昨日から、このことばかり考えていた。

陰陽師・・・何なんだ?確かに、あの一年で俺は陰陽師について学んだ。あの子と同じに喜一方眼に剣術を修練した

一矢はまず百科事典で調べた。

(この程度か!なんで、俺が・・・)

一矢は陰陽師の項を読み終わると、分厚い百科事典を勢い強く閉じた。パタッと大きな音が図書館の中に響き渡った。ここに書いてある以上の事柄を、俺は学び、知った。だが、それが何になる?それが、俺に必要なのか?一矢は不愉快だった。司書の女性は、一矢を睨み付けた。他に五六人の女生徒がいたが、彼女たちは、キャッと叫び声を上げ、音のした方を見た。

一矢は司書の女性にも女生徒にも見向きもせずに、図書室から出て行った。彼が出て行った後、

「何、あの人?」

と互いに顔を見合わせ、怒っているというより呆れた顔をしていた。しかし、それ以上彼女たちの間で話題になるようなことはなかった。


その瞬間、もう一方の閃光・・・白い塊が三人の身体を覆うように覆い尽くしたのだった。


大伴智香の目に映る光景の中で、あらゆるものがゆっくりと動いていた。彼女はその白い塊りに強く抱き締められた感じだった。もうどうなってもいい、と彼女は思った。お母様のこと、お父様のこと、もう何も知らなくてもいい。四百余年前に何が起こったなんて、私には関係ない。この洋蔵という人、誰なの・・・智香は目をつぶった。母真奈香の姿が、彼女の脳裏を何度もかすめ、その内鮮明になって来た。彼女は気付いていないが、彼女の心の中には、小さな光り輝く塊りはまだしっかりと留まっていたのである。

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