第四十五章

「見て。卓君。やっぱり、あいつ、来ている。わっ、あいつと向い合っているの・・・お姉ちゃんじゃない?やっぱり、お姉ちゃんだ。あんなに逞しい感じのお姉ちゃん見るの、初めてよ」

 津田孝子は、暗黒の空に浮かぶ洋蔵を見上げている智香に驚きと逞しさを感じた。二人で会って遊んでいる時、彼女に体を摺り寄せながら甘えてきたり、ちょっとした言葉にも傷つき泣いていた智香とは、別人に見えた。

 孝子は化けものを見て、洋蔵の首を絞めた時の冷たい肌の気味の悪い嫌な感触を思い出した。もう二度とあいつの肌に触りたくないという気持ちが勝ち、怖気ついてしまう。だけど、もともと気が強くて負けず嫌いの性格から、後先のことを考えず人に喧嘩を仕掛けて行く向こう見ずな所が、彼女にはある。今の智香を目にして、私だって・・・という気持ちが強くなっていた。

 「確かに、智香だよ。智香、すごいね。智香の身辺に何か重大な変化が起こり、彼女の心を、いや体かも知れないけど変えようとしているに違いない」

 飯島卓は、そんな智香を見て、嬉しい気分になっていた。兄の一矢の後を付けて来て、智香の何かが変わろうとしている姿を見たのだか、その時からまだ十数時間しか経っていない。孝子から智香の身の回りに起こった事件は聞かされたが、智香の変化が、単にそれだけの理由ではないと卓は思っている。

 今度の事件が、智香の心にどういう影響を与え、傷付けたのか、卓にはよく分からない。ただ、智香の心と体に大きな変化が起ころうとしているのは確かだった。もともと彼は智香が普通でない存在であるのには気付いていた。今までこの思いに確信はなかったが、今、逞しい立ち姿でいる智香を見て、初めて彼女を見た時に持った印象に間違いなかった、と卓は思った。彼は自分の予感・・・この子は普通の女の子でないと思った予感が当たって、嬉しくて仕方がない。

 「どうしようか?」

 孝子は卓にいった。彼女にはどうにかしたい気持ちはあったが、なにしろ相手は宙に浮かんでいたのである。どうすることも出来なかった。

 「俺にもどうしたらいいのか、分からない」

 卓はこう答えるしかなかった。


 「何だ、何が起こっているんだ?何で、ここだけ嵐のような状態なんだ?」

 南小四郎は車から降り、大森六太郎の家まではまだ少し距離があった。一号線を曲がり、栗谷掛橋を渡り切った所から、栗谷町の空を黒い雲が覆っているのがはっきりと見えた。初めは積乱雲のような感じにみえた。雨が降り、風が吹いていたが、この時期やって来る台風とは明らかに違っていた。通称霧ヶ谷の名に恥じない異様さは、この不気味さは何だ!としか言いようがなかった。

 「おい、行くぞ」

 南警部は走り出した。

 「警部!」

 小林刑事も警部の後を追った。

 「おい、ここでは、いつもこんなことが起こるのか?」

 小四郎は追い付いてきた小林刑事に聞いた。

 「いや、見たことも聞いたことがありません」

 小四郎は小林刑事の返事に不満を持ったが、すぐには彼を怒鳴れなかった。何が起こっているんだ、と小四郎は自問したが、自然と答えは浮かんできた。この前と同じか!あれからまだ一日も経っていない・・・それ以上の言葉が浮かんで来なかった。

 南小四郎は大森の家の前まで来ると、玄関から入りと右に回り、庭に向かった。

 「何だ!」

 小四郎は目にした光景に驚愕し、白壁の前で呆然と立ち尽くしてしまった。いろいろな状況に場馴れしていたが、一歩も前に動けなかった。

 (ここは、何処なんだ?)

俺がこんな馬鹿なことを言うべきじゃないと気付き、かろうじて声に出さなかった。小四郎は訝った。その後、嫌な気分に襲われた。それは、この前砂代と孝子の部屋に入った時の異様な感じに似ていたからである。

「け、警部!」

 小林刑事の心境は南警部以上の驚きと怖さが混じっていた。自分の周りをきょろきょろ見て、何かを探している素振りをしていた。心の不安からなのか、手でポケットの中をさぐったりして落ち着かなかった。多分、今の心境を鎮めてくれる何かが欲しかったのだろう。だが、そんなものがあるはずがなかった。彼は自分ではどうしたらいいのか分からないのか、何度も南警部を見て、指示を待った。

 南警部は黒い雲の中に浮かぶ化けものを見ていた。雨は降っていたし、風も吹いていた。時々風は強くなり、その風に乗った雨は小四郎の顔に当たって来た。小四郎は時々強い雨から目を守るために、顔を手で覆ったりしていた。

 「あれは・・・あい・・・!」

 小四郎は不覚にも声に出してしまった。しかし・・・あれは・・・の次の言葉が出て来ない。何だ?俺は何を言いたいんだ?何を言おうとしたんだ?彼は自分に問い詰めたが、答えが出て来なかった。 

 少女は・・・大森六太郎の娘は、化けものの雷光を交わしながら、地上を走り回ったり、時には高く飛び上がったりしていた。しかし、小四郎は六太郎の娘はいずれ雷光の餌食になるだろうと予感した。

「動きが・・・」

 小四郎の予感はすぐに当たった。雷光が動きの鈍った彼女を捕えたのである。いや、雷光の直撃はかろうじて交わした。だが、彼女のすぐ近くを直撃した雷光は、彼女の幼い体を吹き飛ばしてしまった。

 「あっ!」

 南小四郎は叫んだが、彼はそれ以上の動きが取れなかった。とても自分が入って行ける世界ではない、と直感したからだ。俺は空に浮かび、飛び回るなんて出来ない。今、目にする光景は、とても現実の世界には見えなかった。しかし、明らかに現実の世界だった。吹く風は、彼の少なくなった髪を乱していた。雨は容赦なく彼の体を痛みつけていた。だから、俺は何とかしてあの子を助けなければいけないと自分を責めるが、明らかに臆病になっている自分に気付いている。

 智香の小さな体は敏捷に雷光を避けているように見えるが、けっしてそうではない。彼女の動きに疲れが見られる。

 「警部、あのままでは、あの子、やられてしまいますよ」

 小林刑事が今にも飛び出して行きそうな態勢でいた。

 「分かっている」

 俺は、何をびびっているんだ。小四郎は自分を鼓舞する。だが、彼の動きはない。

 「あっ!やられた」

 智香は閃光を完全に避け切れなかった。彼女は飛ばされ、白壁に強く打ち付けられた。彼女はすぐに立ち上がった。次の閃光が攻撃して来るからだ。彼女が初めて受ける現実の痛みだった。意識ははっきりしていたが、激しく打った背中が痛み、立っているのも苦しかった。

 (なぜ・・・)

 智香は、なぜ自分だけがこんな仕打ちを受けなければならないの、とまた疑問を持った。何度も、何度も・・・だ。誰も、この疑問に答えてくれないのは良く分かっていたのだが。体中の走る激しい痛みが、彼女を弱気にさせる。

 「あぁ・・・」

 智香はそれ以上動き回るのを止め、膝まずいてしまった。

 「もう・・・だめ!」

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