第四十三章
大伴智香は、ガクッと体に強い衝撃を受け、ふらついた。洋蔵の鼻を吐く異様な臭いや見たことのない振る舞いに、彼女は微かに覚えがあった。あれは・・・思い出した、その瞬間、彼女の背筋に冷気が走った。以前・・・自分も何か意味の分からない言葉をしきりに呟いていた。それがどういう時で、どういう状況だったのか覚えていない。そして、その後、何が起こったのか、彼女に記憶はない。ただ、今は過去の自分の言葉や動作を思い出し、何かが起こるのか、何も起こらないのか分からなかったが、真似るしかなかった。確か・・・智香は目を閉じ、すぐに目を開けた。
智香は身構えた。まだ痛みが続いている手首を前に出した。
あの時・・・もう少しで母の元へ帰れる時が近付いて来ていた雪の降る寒い京都の夜・・・智香の脳裏にその映像が蘇っては消えを繰り返していた。
まだ、完成されていないようだ。里中洋蔵は不敵な笑いを見せた。彼は手で手刀を作り、縦横と四回ずつ十字を切ると、その手を黒い雲が踊り狂う大空に差し上げた。
その次の瞬間、雷光が彼の手に走った。いや、この状況下にあるすべての自然が、彼の手の中に吸い込まれていったといった方がいい。
智香は両手で目を覆った。
「来る!」
彼女は直感した。
次の瞬間、智香は雷光を避けようと闇の中に飛んでいた。
智香は十メートルばかり飛び、庭の木立の中に着地したもののバランスを崩し、倒れてしまった。咄嗟の反応だった。危険は察知したが、彼女は意識して飛んだのではなかった。自分がいた場所が気になり、振り返った。彼女の立っていた所は、雷光が直撃して大きな穴が開き、白い煙が立っていた。庭の中ほどにある池の水は大きく波打っていて、その水が岸に乗り上げていた。池の大きさに比べ、雷光の威力が余りにも大きかったためだろう。
智香は、助かったと安堵した。
かろうじて助かったといって良かった。実際彼女は闇の中を飛びながら、背後に雷光の衝撃波を直に感じていたのである。もし闇に飛び上がるのが数万分の一秒遅れていたなら、彼女は雷光の刃をもろに食らっていたに違いない。
「まだだ!」
洋蔵は宿命の相手に休息の瞬間を与えなかった。黒い雲が踊り狂っていた空は、いつの間にか、あの暗黒の世界に変わっていた。その空間に不気味に光る雷光はいくつもの閃光を見せ、智香に向かって攻撃を仕掛けて来た。
「なぜ・・・なぜ・・・」
智香は上体を屈め、第一の閃光をかわした。彼女にほっとする瞬間もなく、次の閃光が彼女に襲い掛かる。
「どうして・・・どうして、あたいは闘わなければならないの?」
智香は自分の命を狙って来る男の攻撃をかわしながら、自分に問い掛けた。答えてくれるものなどいないのも、彼女には知っていた。
「誰か、助けて!」
誰も助けてくれないのも、智香にはよく分かっていた。彼女は今の自分の境遇に悩みながら、彼女は生きようとしていた。だが、
「あぁ・・・うっ」
集中力が切れてしまうと、隙が出来る。その時こそ、洋蔵の思うつぼだった。智香の左腕を閃光が掠った。
赤い血が、彼女の顔に飛んだ。智香は右手で顔を拭った。
「血・・・赤い血。あたいの血!」
呪われた怨念って、何なの?陰陽道の呪術って、あたいは知らない。あなたはあの一年でちゃんと教わったじゃないの?ああ・・・あたいは、あんたとは違う。絶対に違う。生まれた宿命を怨め、憎めと洋蔵はいった。
「あぁ、あたいは怨んでやる。憎んでやる。あたいが生まれたことを」
智香は叫んだ。その後、彼女は立っていられなくなり、座り込んでしまった。腕の傷が深かったのではない。もう傷口から血は出ていなかった。
「どうして向かって来ない。何を迷っている。闘っている時の迷いは、どんな闘いにおいても負けを意味する。さらにいうと、俺に対する迷いは、死を意味する」
智香はまだ顔を上げない。
洋蔵は語気を強めていう。
「いいか、死だ」
洋蔵の怒りが雷光に伝わり、一閃、鋭い光りが智香を攻撃した。
「分かっている。そんなこと、分かっている。だから・・・」
智香はかろうじて閃光をかわした。今の彼女には、洋蔵の攻撃をかわすのが精一杯だった。洋蔵に攻撃出来ないの・・・あたいには、出来る。だったら、あたいは何を躊躇しているの?
(だけど、だけど、あんたの言う宿命が、どんなに恐ろしい宿命であっても、呪われた怨念であっても、あたいは素直に従うつもり。あんたが、そのように生きて来たように。あんたの行こうとしているその先は何が待っているのか知らない。でも、あたいの先には、未来には、お母様とお父様の真実の姿が待っているに違いないと思うから。ただ、それだけの理由から。これから・・・違う。もう入り込んでいる世界は、あたいの想像を遥かに超えているのかも知れない。あたいは夢と希望を持って、突き進んで行く。でも、今は目の前に恐ろしい敵に、同じ宿命の下に生まれた敵に打ち勝たなければならない)
智香の呼吸は乱れていた。洋蔵の攻撃の激しさもあった。それ以上に、彼女が心に焚いていた多くの疑問が、彼女の呼吸の乱れに呼応して心と体のバランスを崩してしまっていた。智香は突き進むしかなかった。身震いが止まらない。
雷光は相変わらず鋭く光っていたが、彼女に襲い掛かっては来なかった。洋蔵の次の攻撃の命令まで、大きな力を蓄えているように思えた。暗黒の空に雷光が光る度、雲の動きが激しく波打ち、その異様さがくっきりと見えた。この星をも飲みつくしてしまう巨大な生き物に見えた。
「来ないのか?来ないのなら、こっちからやる!」
瞬間、全ての雷光が消えた。次の雷光が光るまで、これまでよりも少し時間があった。
「終わりだ!」
洋蔵の声が重く、濁った。
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