第四十一章

意識がすごい速さで消えて行くのが、智香には分かった。自分の意志や心の抵抗では止められない。不思議なことに、彼女は怖いという気持ちは消えていた。死ぬという直感が、それを消し去ったのかも知れない。いつの間にか体の震えが止まり、彼女は息苦しいなか、顔を曲げ、洋蔵を見つめた。彼女の目は、この世の人とは思えない形相をしている洋蔵を透き通った素直な目で捕えていた。

消えて行く意識の中、彼女の耳には誰かの声が聞こえて来た。聞き慣れたあの声で、優しくて、彼女の体中には快い声だった。

「智香。智香。私の智香よ。どうしたのですか?今は闘いに負ける時ではありませんよ。さぁ、力を抜いて。そうよ、すべてを自然に任せるのよ。心を閉じてはいけません。あなたには、この世界でまだやらなくてはならないことがあるのですよ」

その声に、智香は素直に従った。不思議と疑問も反抗心も抱かなかった。遠い、遠い昔に聞いてことがある声だったから。そして、この時、彼女は心に喜びを少しだけど感じたから。

「お前・・・」

智香の体はゆっくりと浮き上がった。洋蔵は驚きも智香の首を絞めている手を一瞬ゆるめた。だが、絞めた腕は離さない。

洋蔵の体も彼女と一緒に浮かび上がった。洋蔵が一瞬腕の力を弛めた時、智香の意識はおぼろげに回復していた。その程度で十分だった。

浮き上がって行く二人の体が止まった。その時、智香の体は絞められている首を支点に振れ始めた。そして、その振り幅は次第に大きくなっていった。振りの回数が増えていくにつれて、洋蔵は強い殺気を感じた。

「誰だ!こいつか!」

気付いて時には遅かった。智香の足は十字に組まれ、洋蔵の腹に食い込んだ。

「ギャッ!」

洋蔵は苦痛に満ちた叫び声を上げた。彼は智香の首を絞めていた腕を離し、地面に落下した。

「クウッ!」

里中洋蔵の形相から余裕が消えた。彼はまだ小娘の力が十分開花したと認めてはいなかった。未熟というその読みは多分間違っていなかっただろう。だが、彼は小娘に対してけっして気を許していたわけではない。

敵との距離を測り、少々人間臭い手だが、確実に殺す方法として首を絞めた。柔い肌だった。細く幼い首だった。たとえ、小娘が突然何かを仕掛けて来たとしても、洋蔵には難なくかわす自信があった。

それが、この様だった。俺に油断があったのか?

そうだ!

(俺には隙があった。それだけのことだ)

洋蔵は自分に言い聞かせ、強引に納得させた。

「キィィ!」

洋蔵の人一倍強い自尊心が傷付けられたのは間違いない。彼は黄色い歯をむき出し、智香を睨んだ。

里中洋蔵の操る自然現象がまた変化し始めた。風がうなりを立て、震えている。雨が、その風に乗って、智香の柔らかい肌に容赦なく突き刺さる。

鋭い痛みが体を走る。智香は痛みに耐えられずに顔を歪め、その場に倒れてしまいそうになる。

智香は気丈に耐える。このまま倒れた方が、一層気持ちが楽になるんじゃないの、とも思ったりもする。

でも、智香は洋蔵という化けものと対峙したままだった。不思議なことだが、彼女の周りから音が消えた。何の音も、智香の耳には聞こえて来なかった。風の、ゴォーという不快な音が消えていた。雨の耳障りな、何かに当たって跳ねる音も聞こえて来なかった。静かだった。ここだけが別世界みたいに静寂に覆われていた。

「驚いたな。少しずつだが、お前の眠っている力が目覚めて来ているようだ。お前の力が、どれほどのものか分からないが、いずれ俺に匹敵する存在になるのは目に見えている。ふん、俺はお前を怖いとも恐ろしい存在だとも思わない。俺はお前を倒し、双竜王の珠を取り戻せばいい。先祖の怨念を果たせればいい。お前が目覚める自然な時間の流れを待つ気はない。そんな退屈な時間は、俺には必要ない。俺が今すぐお前を目覚めさせてやる。俺の家系は陰陽道の呪術の流れの中にある。お前も・・・いや、お前もそれに近い呪術の流れの中にいるのは間違いないのだ」

大伴智香は素直な気持ちで洋蔵の言葉を聞いていた。


「わっ、見て!外の様子がおかしいよ。空・・・真っ暗よ。雨が降っている、しかも大粒。風が、結構強い。台風みたい。今日の天気予報、こんなこと、言っていなかった。言っていたのかな?」

津田孝子は玄関を開けると、外の様子の変化の異様さに立ち止ってしまった。

「何だ、これは!」

飯島卓も、これ以上の言葉が出ない。

「いけない。急ごう!智香が心配だ」

卓はあれこれ呑気に考えるのは止めた。智香に何かが起こっていると思った。

「うん。また、あの化けもの、出たのかな?」

「間違いない」

「だったら・・・」

孝子はまたあの化けものの顔を見なければならないのか、と思うと、ぞっとした。智香を救おうと化けものに飛び掛かり、後ろから首を絞めた時の、あいつの皮膚の感触が蘇って来た。だけど、あの時は智香を心配する気持ちの方が強かったから、気味の悪さや怖さはそれほどでもなかった。

「智香のためだ。孝子・・・かんばれ!」

孝子は自分の気持ちを高揚させた。

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