第三十八章

「ふふっ」

あいつがいる。この近くにいる。何処なの?

智香の手首を、誰かがもぎ取ろうとしている。なぜ、あたいはこんな苦しみに耐えなければならないの?誰も答えてくれない。智香は必死に耐えるしかない。

「誰かが、あたいの手首を・・・」

痛みは増し、ぐいぐいと手首を締め付け、もぎ取られてしまいそうだ。自分を苦しめる敵は、自分の体の中に住み着いているような気がした。逃げたくても逃げられない・・・これが宿命なの。

「痛いか!苦しいか!苦しめ。苦しめ。お前の先祖が、俺の先祖にやった残酷な仕打ちの報いだ。俺の先祖の怨念だ。はっはっ」

余りの苦痛に顔をゆがめ、階段に倒れてしまった智香。彼女は苦痛に負けまいと目を開け、

「お前は、何処にいるの?出て来て!」

里中洋蔵の姿を探し求める。

「ここだ。ここだ。何処を見ている。こっちだ」

智香の体はふわりと宙に浮かんだ。彼女は少し驚いたが、すぐに浮かんだ自分の状態を観察し始めた。これは、あいつの仕業。そう考えると、気持ちが落ち着いた。だが、彼女は気にいらなかった。自分の身体があいつの意のままに動かされているのである、許せない、絶対に許せないと思った。彼女の体はそのまま外へと移動し、庭に出た。

外の様子は、智香が家の中に入る時とは、全く変わってしまっていた。空には黒い雲が生き物のように踊り狂っていた。風がいくつもの大きな渦巻きをつくり、荒れ狂っている。雨は風に乗り、その自然の中を自由奔放に走るジェットコースターを楽しんでいる。その雨が、彼女の体に容赦なくぶち当たって来る。まるで、鋭い針と同じだった。

「キャッ!」

智香は宙に浮いていられなくなり、庭に落ちた。

「チッ!」

智香は気にいらない。洋蔵が彼女への術を解いたようだった。浮いていた高さはそれほど高くはなく、庭も芝生だったので体に怪我はなかった。手首の痛みはまだ続いている。智香は洋蔵の姿を探した。右に左に、荒れ狂う黒い空を。

「何処を見ている。ここだ。ここだ」

あたいには、あいつが見えない。

「何処?」

智香は、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。そして、動く彼女の視線が、空中の一点でぴたりと止まった。

 荒れ狂う空に飛び散った黒や灰色、赤などの粒子が集まり、人間の形を描き出すのに、それほど時間は掛からなかった。人間の形になって行く過程を見ながら、智香は、この人は人間じゃない、やはり化けものだ。この世界に住むべきではない、と彼女は思った。

吐き気を催したくなるほど不気味な人間の形になった洋蔵には、生き生きした生命力が溢れていた。彼女は洋蔵の生命力に一瞬押し潰されそうになるが、気力を持って立ち続け、睨み返した。

 だけど・・・本当は怖い。智香は心底怖かった。自分が独りぽっちという気持ちが、その恐怖心をさらに大きくしていた。だって、智香はまだ十二歳の女の子なんだから。

 「怖いか?俺が、そんなに怖いか?」

 洋蔵は智香の心の中を覗き込んでいた。彼女がどんなに気丈に振舞っても、洋蔵には誤魔化せないようだ。

 里中洋蔵は智香を見下した目で睨み、笑い顔を見せている。


 津田英美が紀宝堂本店に着いた時には、栄店の開店の準備はすっかり終わっていた。英美は、今日社長は急な出張で来ない旨を社員たちに伝えた。これまでもこんなことはあったから、みんなは変に勘ぐることはないと思うが、事件が知れ渡るのは時間の問題だった。

 その時、どうすればいいんだろう、と英美は心配した。俺に何が出来る?俺に真珠の何が分かる?社長について四年近くになるが、何を学んだ?いろいろ考えると、彼は不安と怖さで目の前が真っ暗になってしまう。店は閉めなくてはならなくなってしまうのだろうか?それに・・・彼の目が暗く重々しい輝きに変わった。目の焦点が合わない鈍い輝きは、何処を見ているのか・・・。

津田英美はこの四年の間、大森六太郎に従って、何度も三重県の志摩地方に行った。初めの内は、ここで待っていろと言われれば、一歩も動かずにそこにいた。しかし、一二年経つと、待っている時間を持て余すようになった。

 ある時、英美は六太郎の後をつけて行ったことがあった。その時だった。英美の前にあいつが現れたのは。彼の体の震えは、あいつがいる間止まらなかった。

 「津田さん」

 英美はぴくりと肩を震わした。彼は一瞬言葉を失った。あいつかとびくついてしまった。彼は振り返った。

 「どう、どうされたんですか?」

 栄店の店長、垂井だった。

 「いや、何でもないです」

 英美は平然を装った。そのつもりだったが、自分の唇が震えているのに気付いた。顔の感じも、ひやっとしていて冷たい。

 「でも・・・」

 垂井店長は英美を睨み、明らかにいつもと違うと気付いている。

 「ホ、ホテルの方に行ってきます」

 と彼は垂井に告げた。ちょうど、この時、彼のジャケットの内ポケットに入れていた双竜王の珠の変化に気付いた。強い熱さではないが、人肌にちくりと刺す熱さを珠から感じた。彼は手で触れてみた。確かに熱かった。彼は気になり、店の外に出ると、双竜王の珠を取り出した。

 双竜王の珠は微かに光っていた。夏の強い陽射しに下でも、美しい輝きをしていた。この球は自分の力で光るんだ。それに、熱い。この球は生きているのか!何だ!何か起ころうとしているのか!正友は怖くなり、慌てて双竜王の珠を内ポケットに仕舞い込んだ。


 飯島卓は孝子の部屋にいた。窓が割れ、壁の所々が剥がれていた。修理は必要かも知れない。しかし、人が住めないほど壊れてはいなかった。卓は孝子にかっこいいことを言ってしまったが、智香が心配でじっとしていられなかった。現実の世界が、名古屋の蒸し暑い夏が、どうしてあのような暗黒の別世界に変わってしまったのか。夢を見ているというより、悪夢を見てうなされている気分だった。そこにいた男は正に化けものだった。その化けものの凄さ、醜さを、卓はじかに見たのである。それが出て来るかも知れない所に、智香を一人で行かせたのである。心配でないはずがない。

 孝子は卓を食い入るような目で見ている。彼女は卓も智香を心配しているのを、彼の落ち着かない動きから読み取っていた。卓の、行こうと言ってくれるのを待っている。彼女はそのように仕向けている。

 「行ってみよう。ねぇ」

 孝子は卓を責め立てる。卓が行こうと言うまで、彼から離れないようだ。

卓も孝子の気持ちがよく分かっている。

 「行くか。行った方がいいかもね。俺も気になって仕方がないんだ」

 卓は振り返り、孝子に笑って見せた。

 「行こう」

 孝子は卓の後を追った。

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