第三十七章

いつ、何処にいても、真奈香は智香の心に語り掛けてくれていた。いつも気がつけば、傍にいてくれた。それが、今真奈香の存在か、彼女の心に全く認識されなくなっていた。

 別の世界に行ってしまった母真奈香から手渡された双竜王の珠って、何なの?智香には手掛かりとなる一つの言葉さえ浮かんで来なかった。真奈香は何も語ることなく逝ってしまった。あぁ・・・それも、今はもうあたいの手の中にはない。一つは孝子の庭に消えたまま。もう一つは里中洋蔵の手に奪われた。あの人・・・里中洋蔵・・・誰なの?何か知らないけど、あたいには馬鹿でかい化けものしか見えなかった。四百余年前・・・とか言っていたけど、何があったの?あぁ・・・全く知らない人じゃないのと思う。でも・・・でも、ずっとあたいの心の中に存在し生きていた人のような気がした。

 大伴智香はゆっくりと家の中を歩いている。母の姿を見つけようと、彼女はさ迷っていた。

 (誰もいない。誰もいない。この家には、この家にはもう誰もいない。誰かいて!返事をして!そして、何が起こったのか、教えて!)

智香は急に立ち止った。居間の前だった。誰かが・・・あたいの名を、何かが・・・あたいを呼んでいる気配が感じられたのである。彼女は居間の中に入った。

「誰?誰か、あたいを呼んだ?何でもいいから、誰でもいいから返事をして」

智香はそこにいるかさえ分からない誰かに声を掛けた。彼女は二度三度と声を掛けた。その声は無意識に大きくなっていき、誰もいないであろう家の中に吸い込まれていく。

誰も返事をしてくれない。お母様・・・お母様はもう・・・いない。本当なのですね。じゃ、お父様は・・・何処にいるの?お父様は何処かに生きているんじゃないの?お父様、お父様・・・お父様は何処へいってしまったの?智香は父の記憶を呼び起こそうとするが、消えてしまう。

智香は、家の中を気が狂ったように、父の姿を求めて探し回った。この部屋は誰の部屋で何があるのか、彼女は何もかも知っていた。ここは、お父様のお部屋。ここは、お母様のお部屋。そして・・・この部屋は、二階の一番突き当りにある部屋。母真奈香が絶対に入ってはいけないと言われていた部屋だった。母は絶対だった。だから、気にはなっていたけど、そのドアの取手に手を掛けることはなかった。ただ、もし私に何かが起こったら、その時は私の部屋に入ってもいいと言っていたのを思い出した。智香は、何かが起こったら、に首を傾げたが、それ以上の聞き返しはしなかった。

智香は母の部屋に入った。いつの間にか母のベッドに入り込み、母に寄り添い、寝入ることはなくなっていた。本当は今も、十二歳になった今も、母に寄り添い、抱かれて眠りたかったが、母はそれを許してはくれなかった。彼女は真奈香の肌が柔らかくて優しい感触が好きだった。智香はベッドに飛び込んだ。もう一度あの感触を思い出したくて・・・でも、何もなかった。ただシーツの冷たい感触だけが残っていた。そこには、彼女だけが知る快さがあるはずだったのに。

智香は一階に下りると、

「あっ!」

と、言葉を呑み込んだ。浴室の中から明かりが漏れていたのである。誰かが、風呂の明かりを点けたのかな、と彼女は動揺した。誰かが、いる・・・。

智香は浴室の戸を開けた。誰もいなかった。風呂が明るく見えたのは、暑い夏の陽光が窓から射し込んでいて、浴室に灯りが点いているような明るさになっていたからである。

智香の体を浴室のしっとりとした冷気が覆った。今、彼女の体を温めてくれる人は誰一人としていなかった。彼女は自分の体を抱き締めた。

「あぁ・・・だめ」

真奈香の柔らかい肌の感触と温かさは、もう彼女は直にかんじることはない。

(やはり、誰もいないんだ。この家には、あたい以外誰もいないんだ)

あの部屋は?お母様のお部屋は?入ってはいけないと、きつく言われていた。でも、お母様に何かあったら、入っていいとおっしゃっていた。何かあったら・・・と言っていたけど?お母様は、この時が来るのを分かっていたのかしら?今止める人は誰もいない。あの部屋には、お母様の秘密がある・・・?そんな気が、彼女にはした。お母様があたいに伝えたかった何かが、あの部屋にはあるに違いない。洋蔵のいう四百余年前の何かが・・・?いざとなると、好奇心と怖さが交互に、彼女を襲って来た。

「わぁ!」

智香は叫び声を上げた。今の彼女には迷いは全くなかった。母真奈香の秘密を知るかもしれない怖さだけがあった。

とにかく智香は真奈香の部屋に行って見ようと決めた。階段の四五段上がった所で、彼女は手首に激しい痛みを感じた。

「うっ!何・・・この痛み!」

智香はうずくまった。今までにない激しい痛みだった。と、微かに覚えのある気配に気づいた。

「誰?まさか・・・」

智香は自分の周りに、気を配った。

「ふふ・・・そのまさかだ」

小さな笑い声だったが、よく通る低い声が、智香の耳に食い込んできた。

「洋蔵・・・」

智香は叫んだ。

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