第三十六章

さっき、ランを樟の根元に埋めて来た所だった。

智香が帰って来ると、卓がいた。

「大丈夫か?」

智香は、

「うん。外が・・・ちょっと変なの、雨かな!」

と頷いた後、首を傾げた。智香は元気のように見えた。孝子も卓も言葉には出さないが、智香に何が起こり、どうなったのか知らない。そして、あの状況で、どのようにして智香が助かったのか少なくとも孝子は目にしていなかった。ただ卓は兄一矢が智香のもとに飛んで行き、抱き上げた後、二人して何処かに消えたのだけは、はっきりと目にしていた。何処に・・・と闇の中に目をやったが見つけられなかった。それに、突然現れた二人の大男の存在が不可解そのものであった。

「誰・・・というより、何なんだ?」

と思うが、答えが浮かぶ筈がない。


「家に行って見る」

今はもう誰もいない家になってしまった。そんな家に帰ってどうなるものではない。智香にも、それはよく分かっていた。ただ・・・母真奈香の匂いを嗅ぎたかったのである。無償に甘い香りのする母の匂いを。

「お姉ちゃん、孝子も行く。また、あの化けものが現れたら、どうするの?」

津田孝子は智香の腕を強く引っ張った。今でもあいつに飛び掛かった時の冷たい肌の感触がぞっとして気持ち悪い、彼女の全身にはその感覚がはっきりと残っている。また、あいつに会うのは嫌だと思った。だから、自分がこんな気持ちだから、智香をあいつに絶対会したくないとも思った。

智香の腕をつかんだ時、孝子は、おやっと思った。会うごとに智香の腕をつかんだり、抱き付いたりして遊んでいた。そんなとき彼女を強くつかめばつかむほど壊れてしまいそうな弱々しい腕や体だった。だけど、今この瞬間の智香は違い、逞しい限りの腕の張りがあった。変・・・いつものお姉ちゃんじゃない、と彼女は思った。

「ごめん、今は・・・少しだけ、一人になりたいの」

智香は孝子の手首を握り、自分の腕から優しく離した。

孝子は飯島卓に助けを求めた。

卓は兄一矢がいつの間にか目の前から消えてしまい、どうしたものか迷ってしまった。学校は夏休みに入ったから、あと一時間ばかりで朝になるが、慌てて家に帰り、学校に行く準備をする必要はなかった。今は何よりも智香が気掛かりだった。このままここに残り、智香の傍にいて、励まし続けた方がいいのか、卓は迷った。

卓は兄一矢がどうしたのか気になっていた。家に帰ったのか?それとも・・・卓にそれ以上の答えは出せなかった。智香が化けものが放った稲妻にやられようとしていた時、一矢が智香を助けた。助けたという言葉がぴったりの状況だった。もし一矢が助けなかったら、智香は間違いなく稲妻の餌食になっていた。

あれは・・・あの時の兄貴は、俺の兄貴じゃない。そりゃ、ちょっと変わった所のある兄貴だが、あの時の兄貴は、変・・・というより自分とは別の存在、人間に見えた。結局、彼は智香の傍にいることにした。

「ねぇ、卓君。何を考えているの?智香に一人で行かない方がいい、と言ってよ」

 卓は孝子にお腹を突かれ、浅い眠りから目が覚めた気分だった。

 「うっ!」

 まだ十歳の女の子の力にしては強過ぎるひじ打ちだ。卓は孝子の性格も体格も承知しているが、ふいを食らうと強烈さが増す。

「分かった。分かったよ」

卓は答えたが、智香を見ると、彼女の真剣な面持ちに何も言えなくなった。智香がなぜ一人になりたがっているのか、理解出来ないでもなかった。孝子から智香に何が起こったのか聞いた。詳しくは聞き返さない。十歳の女の子の説明で十分だった。

卓は池内美和の家に連絡したが、誰もいないようだった。美和が母と二人だけで暮らしているのは、本人から聞いて知っていた。明るく話していたから、滅入った気分はないように見えた。美和はいつも家にいるのは知っていた。それが、今日は連絡してもいなかった。こんなことがあったからかも知れないが、卓は場違いな心配をし、想像を広げてしまう。そうかといって、今どうこう出来るわけではなかった。本当に余計な心配だった。

「いいさ。一人で行くといい。その代り、何かあったら、すぐに大声を出すこと。いいね」

卓は智香に約束させた。卓とて心配だった。あんなことがあったからである。数時間前まで異様な世界にいた。現実ではあり得ない化けものが智香の前に現れ、そこへ大男が二人突然現れ、智香を守るように闘いを始めた。智香が普通の女の子とはどこかが違うと、彼は以前から感じていた。だが、こういう形で正体を現すとは全く想像出来なかった。

どうやら智香自身も少なからずの戸惑いがあるようだった。その表情から、彼女の戸惑いがうかがえる。普通なら、これまでの智香なら心が萎え、立ち上がる勇気さえ奮い立たせられなかったと思う。

それが、今は自分の力で立ち上がり進んで行こうとしている。何がじゃなくて、誰かがでもなくて、そういう運命、いや宿命の中を歩んで行こうとしているような気がした。

「美和ちゃんは?」

智香は美和がいないのが気になっているようだった。

卓は、

「今連絡したけど、いなかった。また知らせておくよ」

と笑って、言った。

「そう・・・きっと来てくれるね」

智香は顔をゆがめ、怪訝な表情をした。

「どうした?」

卓は気になり、聞いた。

「あっ・・・あたいに何かがあったら・・・!」

智香は返事に窮した。何かが・・・見えるようだったが、彼女の脳裏にはっきりしない映像が浮かんでいた。


大森智香は裏木戸からではなく、表・・・玄関の方に回った。彼女は一人で家の外に出ることがほとんどなかった。必ず誰かしらと一緒だった。母真奈香と外に出るのは毎日の朝の散歩のほかに、一年に二三回買い物や映画とか行ったりした。真奈香が、良い舞台を見せて上げるといわれ、名古屋の御園座に連れて行かれたことも何度かある。智香の傍には必ず母真奈香がいた。だけど、これからは誰もいない。

「ただいま!」

智香はささやくように言った。彼女は深く息を吸った。家の奥から真奈香の声が返って来るよう気がした。

しかし、家の中から誰の声も聞こえて来なかった。今までに感じたことのない寂しさに、彼女の体が包まれた。時間に流されながら、このまま家の中に入って行っていいのか迷ったが、彼女の気持ちが萎えることはなかった。家の奥からひんやりとした空気が、彼女に攻め寄せて来る。父である六太郎、母真奈香、そして智香と三人で住んでいる時はそうでもなかったが、今この家を訪ねて来た人のように玄関から入ると、この家が物凄く大きく見えた。

現実の世界には、もう母真奈香はいない事実を認めるしかなかったし、彼女は理解し始めていた。

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