第三十五章
「エアコン、入れましょうか?」
南警部は、どんなに暑くても車のエアコンをオンするのを嫌がる。だから、小林刑事は車に乗ると、すぐに窓を開け始めた。助手席の窓を見ると、南警部はもう窓を一杯に開けていた。
「今日は、特に暑いですね」
こんなお世辞を言っても少しも涼しくはならない。小林の独り言である。しかし、言わずにはいられないほど暑い日になりそうだった。南警部は黙ったまま、窓から吹き込んでくる風を体全身で受け止めていた。夏のこの時期、車に乗った時の南警部とのいつものやり取りをした後、黙っているのもそのやり取りの一つなのだが、あの忌々しい事件後気になることがあったので、
「あの子、どうするんでしょうね?」
と、小林刑事は聞いた。
この問い掛けにも、警部はいつものように無視すると思ったのだが、意外にもすぐに、
「隣りには、奴の妹がいる」
答えが返って来た。
(おっ、俺の質問に答えた)
小林刑事は驚いたが、別の質問にも答えてくれるかもしれないと思い、続けて、
「警部は、大伴六太郎を知っているんですか?」
と聞いた。
「あぁ、知っている」
南警部は意外にあっさりと認めた。
「俺が志摩の出だというのは知っているな。高校卒業以来だから、十五年・・・まあ、大体そのくらい会っていなかったということだ。こんな形での再会だ。人間の運命なんて可笑しなものだ」
小四郎は苦笑した。
「志摩を出てから、一度も会っていなかったのですか?」
「そうだ。一度もだ。俺が今までに志摩に帰ったのは二度だけだ。親父とお袋が死んだ時だ。その時もやることだけやったら、すぐに志摩を後にした」
「親友ではなかった?」
「親友だったのか、そうでなかったのか、俺にはよく分からん。俺とあいつは何度も殴り合う寸前まで喧嘩した。あぁ、実際に殴り合いになったことはないな。どこかに互いに気を許せない境界線を知っていて、最後の一歩を踏み出さなかったのかな。ただ、志摩にいた間で、一番長く俺の近くにいたのは、あいつだ。まぁ、そういうことだ」
小四郎は急に話すのを止めた。小林刑事は、あっと小さくつぶやき、警部を見た。しゃべり過ぎたという顔をしていた。また、しゃべらなくなるのか、と小林は思った。
案の定、南警部は考え込んでしまった。こうなると、今度は警部がしゃべり出すのを待つしかなかった。
「もう一つ加えるなら・・・」
南小四郎は口を動かしたが、後は言葉に出さなかった。独り言のようにしゃべっていたが、ちゃんと小林という男が運転しているのは知っていたから、後の言葉は出さなかった。俺はあいつの妹砂代が好きだった。口が動いているのには気付いたが、何を言おうとしているのか、小林刑事には全く聞き取れなかった。南小四郎の額から汗が流れて、細い首をつたい、白いシャツの中に入って行った。一杯に開いた窓から吹き込んで来る風は、小四郎には何に役にも立たなかった。
南小四郎が一番知りたかったのは、大森六太郎が高校を卒業してから何をやっていたか、である。いや、そうじゃない。あいつが、どのような人生環境のなかにいたかだ。そこが、俺は知りたい。小四郎は、署で奴について大まかな報告を受けていた。
あいつと会わなくなって長いが、いろいろあったようだった。あいつも、そして砂代も。俺なんかよりもずっと恵まれている環境にいると小四郎は思っていた。実際そうだったのだが、人が生きて行く中では何が起こるか分からない。生きている途中であれこれ考えると、体全体が恐怖心の塊りになってしまい、生きて行くのか嫌になるに違いない。
人が占いに興味を持ち信じてしまうのも分かるような気が、小四郎にはした。六太郎の父、大伴喜久雄が自殺したとは知らなかった。妻のつね代を殺してからの覚悟の自殺だったようだ。
南小四郎は高校生の時あいつの家によく遊びに行ったが、その時喜久雄を何度か見かけたが、とても自殺するような弱々しい風貌ではなかった。眼光が鋭く、話す声にも威厳が感じられた。昔からの網元で人の信頼も厚く、志摩でも実力者の一人だった。
小四郎が知っているのは、喜久雄が志摩に三店の真珠店を持っていた頃で、おそらく実業家としていくつかの夢もあったのかも知れない。倒産ということのようだが、金か・・・と彼は顔を歪めた。
だが、金がない・・・そんな家ではないはずだが・・・南小四郎はその頃の記憶を呼び戻そうとした。
そうなってしまったのは、何時ごろからなのか?小四郎には全く興味がないし好奇心も沸かないから分からないが、高速道路が整備され、鳥羽までのJR線と近鉄線の志摩への本数が増え、より多くの観光客を志摩に運ぶようになると、それまでに比べ比較的容易に行ける観光地になった。そう望んだのだから、それでいいのだが、そうなると人間ってやつは飽きて来る。観光客は平均化され、減ることはあっても倍増することは何か特別なことをやらない限り維持し続けるのは大変な忍耐が必要となる。そして、その特別なことは、そう易々と思い浮かばない。
ホテルや旅館は裏側で何度も経営者が変わっていた。海産物の店や真珠の店も例外ではなかった。その中に、大伴喜久雄の店があったということだ。要は、そういう時代があっという間に通り過ぎただけのことである。
誰も時代の流れを止めることなんて出来ない。時が激しく動き出したのが、六太郎が二十一歳、砂代が十七歳の時だった。その時には、小四郎はもう志摩にはいなかった。
その後のことははっきりしない。ただ想像するに、六太郎が相当苦労して現在に至っただろうということである。名古屋に真珠をメインにした貴金属店を二店持ち、来年の春には関西のホテルにテナントとして入り込むのに成功したようだった。
あいつは・・・これからだった。無念だったのだろうか?何もかもが消え去った無念さから、現実は見えなくなってしまったのか?だが・・・と小四郎は思う。このようなことは、別に驚き同情するような出来事ではない。こんな例は世の中いくらでも転がっている。
南小四郎の脳裏には苦悩する六太郎の姿がぼんやりと浮かんでくる。しかし、その六太郎に動きを与えることが出来ない。今は分からんことの方が多すぎると彼は考える。
「小林君」
「はい」
南小四郎は今自分が本音を言おうとしているのに気付いた。止めようとすれば止められたが、小四郎は、
「一度・・・そうだな、一度は志摩に行かなくてはならないかも知れないな」
と気持ちの高揚を抑えられずに、自分を納得させるかのように小さく頷いた。
小林刑事は南警部を一瞥しだが、すぐに目を逸らした。こんなに精神がぐらついている警部を見るのは、初めてだった。南警部はフロントガラスの画面に映る遠くの空に目を奪われていた。
「警部。今時珍しいですね。絵に描いたような入道雲ですよ。しかも、これでもかと言うくらい異常に黒い。一雨来るかも知れませんね。でも、ちょっと変ですね。見た所そんな雲でもないような気もするんですが?」
南小四郎も、それが気になっていた。不気味な黒い雲は突然生まれ、生きもののように成長していった。不安というよりは、このままあの黒い生きものの中に吸い込まれていきそうで、ぶるっ、と小四郎の体は震えた。
「急ごう」
南小四郎はこう言ったきり黙ってしまった。これまでに経験したことのない恐怖が、あの真っ黒い入道雲の下で待っているような気が、小四郎にはした。
大森智香は両手で何かを包み込み、ゆっくりと歩いていた。みんなといつも遊んでいた河原に向かっていた。彼女の手の中には、ランの小さな破片があった。彼女の親指の爪くらいの小さなものだった。でも、間違いなくランの叫びか聞こえる破片だった。
(ラン、ラン、あたいの最初の友達、ラン。きっと、きっと・・・)
後の言葉が続かない。彼女はランの破片を、河原の堤防にある樟の根元に埋め込むつもりでいた。一度死んでしまったたんぽぽは、今は新しい声明を得て、黄色い花を咲かせていた。
良かったね、と智香は声を掛けた。
「ラン、このたんぽぽさんのように、新しい命を得て・・・生まれ変わって、あたいの所へやって来て」
智香は両手を口元に持って来て、言った。
「聞こえる・・・聞こえるの・・・」
この時、智香はこの辺り全体が急に暗くなるのに気付いた。
「何なの?雨が・・・いやそうじゃない」
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