第三十四章

「店に行って来る。孝子は・・・いや、智香さんは・・・どう?」

津田英美は、居間のソファに疲れたという表情をして座っている妻に声を掛けた。

「あっ、あなた、すいません。お願いします。こんなことが起こるなんて・・・」

砂代は今の自分の気持ちを夫に伝えるのに、これだけのことしか言えなかった。事件が起こる前、砂代が六太郎の家の裏木戸から駆け付けようとしていた時、英美を見掛けた。彼女はその時の夫が、何かに怯えているように見えたのを覚えている。あんなに怯えた英美の姿

を、彼女は今まで見たことがなかった。気にはなっていたが、今はその疑問を言葉に出せなかった。

英美は今から家を出ようとした時、自分に向けられている視線が気になった。明らかに背後からだった。そこには彼を見つめる妻の怪訝な目に気付いた。

「どうした?」

英美の声は震えていた。彼は手で唇を押さえた。砂代の返事はなかった。二三秒静寂の時間があった。英美はそう聞いた自分の振舞いに戸惑い、

「いや、何でもない。じゃ、行くから」

と言って、妻に背中を向けた。

いつもなら砂代は玄関まで見送りに来る。だが、今日はそんな気分というか余裕がないようだった。車に乗った時、英美はカーナビのデジタル表示の時計を見た。午前の九時十五分だった。こんなに遅い時間に車を出すことはない。当日の商談の打ち合わせや栄本店までの時間を考えると、英美は大森六太郎を六時半には迎えに行くようにしていた。

英美は栄店の店長に、今日は遅れる旨を連絡しておいた。栄店に着く頃には、店長は店を開けているはずである。

車庫から車を出そうとして、英美は慌ててブレーキを踏んだ。いつものように六太郎を迎えに行こうとハンドルを右に切ろうとしたのである。

「今日は、いいんだ。もう・・・迎えに行かなくてもいいんだ」

英美は自分を納得させようとして、声に出した。国道一号線に出る手前で車を止めた。栄店には遅れると連絡したが、名古屋駅前のホテルに着く頃には十二時を回っている。こっちも連絡しておいた方がいい。せっかくテナントとして入ったホテルだから、ちょっとしたミスも許されない。それは、六太郎からも何度も言われていたことだった。

国道一号線をしばらく走り、国道二十三号線に乗り換える。なぜ、この道なのか、英美には分からない。大森六太郎は、このような道を選択していた。今日から改めて違う道を走らせる気はなかった。

名古屋市内に入るまでに、国道二十三号線を走っていて、なだらかな起伏がある。その中に五六秒だが海が見える所がある。英美は、その時バックミラーに映った六太郎の表情が忘れられない。長い間会っていない人・・・いや、あの目は懐かしい思い出の景気でも見ているような目と表情の暗さが浮かんでいた。その思い出は、六太郎にはけっして楽しいものでないような気が、英美にはした。

これからどうなるのか、英美には分からなかった。大森六太郎は死んだわけではない。妻の砂代の話では、ここ当分人前には出られる状態ではないとのことだった。彼にははっきりしていることがあった。今の全てを捨てて、何処かへ逃げられるか?英美は首を振る。俺は何処にも逃げられない・・・あいつからも逃げられない、と彼は心を震わす。

「・・・」

英美は今も何処からかあいつが見ているような気がしたので、バックミラーに目をやった。だが、誰も映ってはいなかった。

英美は安堵し、深い吐息を吐いた。彼は気になっていた、孝子と智香がいた部屋で。あいつが・・・いた。あの嫌な感じ・・・不気味な闇の雰囲気が辺り一面にうようよ漂っていたのを、彼は肌で感じていたし、闇は消えかかっていたのだか、まだあいつの闇は残っているように感じ取れた。あいつなのか?あいつは・・・いたのか?闇の中に浮かぶ何かが消えようとしていた。彼にはその姿をはっきりと確認出来なかった。


大森智香は机やベッドなどの無残な破片しかのこっていない孝子の部屋にいた。

「ランが・・・」

言葉がこれ以上続かない。ランのことを考えると悲しみで、彼女は声が出ない。

(あたいを助けようとしたランが、この中の何処かにいる。あたいは、ランをこの手にもう一度抱きたい。きっと、きっと何処かにいるはず。何かが残っているはず。ランは、あたいが見つけるのを待っているに違いない)

智香は目を凝らし、ランの姿を・・・燃えカスを探し始めた。どんな小さな破片、燃えて灰になった小片でもいい。

(あたいが蘇らせてあげる。ラン、ラン、聞こえる?)


「おい、行くぞ」

南小四郎警部の声に、小林刑事は素早く反応した。飲みかけの百円の紙カップのコーヒーを、彼は自分のデスクに置いた。小林の置き方が荒っぽかったので、まだ半分ほど残っていたコーヒーがこぼれてしまった。彼は、あっと思ったが、気にしている時間はない。

幸い重要な書類はなかった。被害としては、デスクの上コーヒーの地図を描いてしまっただけだった。出る前に、一度だけ振り向き、署に帰って来る頃には乾いているだろうと彼は予想した。そして、署に帰って来た時には、こげ茶色の世界地図らしき絵が描かれているのも予想した。俺のデスクを掃除してくれるものなんて、捜査本部にいるわけがないのである。だから、濡れた雑巾で、デスクを拭いている自分の哀れな姿をちょっと想像してしまった。

小林刑事は急いで南警部の後を追った。

「何処へですか?」

車に乗ると、小林刑事は聞いた。

「智香という大森六太郎の一人娘に会いに行く。少しは落ち着いただろう」

小林刑事は一言口を挟もうとしたが、余計なことは言わずに、車を出した。自分の意見を言ったところで、南警部が答える筈がない。そのことを、小林刑事は知っていた。

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