第三十三章
砂代が部屋から出て行った後、大森智香は孝子を胸に抱いたまま目をつぶった。
(あの声は・・・)
智香は気を失う前に聞こえて来た声を思い出そうとした。確かに、聞き覚えのある声だった。
その時の周りの状況を、智香ははっきりと覚えていた。自分の向かって来る洋蔵の気が宿った稲妻の閃光に、彼女は初めて死を意識した。不思議なことに、その瞬間はゆっくりと動き、手を出せば、その閃光をこの手に掴めそうにさえ感じた。いつ、どんな時では微笑みを絶やさなかった母真奈香が、智香の脳裏をかすめた。彼女にとって、真奈香は物心ついた頃から不可思議な存在だった。今ある自分の存在すべては、真奈香によって成り立っていると彼女は思っていた。
(母真奈香があたいの運命を動かす。物事をどう考え手足の動かす方向までも指示し、あたいを人形のように操った。間違いない。あたいはその事実を認めていて、少しの抵抗もしなかった)
今、あたいの周りで起こった出来事も、ひょっとしてお母様の仕業なのか、と思ったりもした。
(何を、あたいにしなさいと言っているの?なぜ・・・。なぜ、あたいを苦しめるのです?あぁ・・・その理由を聞きたい人は、もうあたいの近くにはいない。真っ黒い体をした気味の悪い化けもの、里中洋蔵って、誰?四百余年前の怨念って、何なの?あたい・・・なんとなく知っていたような気がする。でも、はっきりと意識して考えはしなかった。お母様が手渡して下さった球。あの人、双竜王の珠って言っていたけど、何なの?俺の家のものだから、返せって?あたい、何も理解出来ない)
智香は自分の心に問い続けた。けっして返って来るはずのない問い掛けだから、智香の心はつい雄弁になってしまう。
(あの声は、お母様なの・・・もう一度声を聞かせて下さい。頭に激しい衝撃を受けた時、あたいは・・・智香は確かに声を聞きました。もし声の方がお母様なら、あたいの中でずっと生きていて下さい。そして、また・・・何度もあたいに声を聞かせて下さい、お母さま)
孝子の髪を撫でる智香の手が止まった。
孝子は、
「お姉ちゃん」
と、顔を上げた。
「大丈夫だよ。そのままじっとしていて」
智香はまた孝子の髪を撫で始めた。智香はまた目をつぶった。あの声の主に会いたかったのである。
(誰?先ほどの方ですか?)
死を受け入れようとした瞬間に聞こえた声が、また聞こえたのである。
・・・返事はなかった。
(目を開けますよ、いいですか?)
智香はゆっくりと目を開けた。目を開け切った瞬間、眩い光輝が闇を消し去った。
(あっ!)
智香は余りの眩しさに、孝子の髪を撫でていない方の手で目を覆った。誰かが、そこにいるのが感じられた。だけど、目を開けられない眩しさで、誰だか確認することが出来なかった。
「智香よ。私の智香よ。私の最後の子孫よ。あなたにやっと会えることが出来ました。こんなに喜ばしいことがあるでしょうか!」
(誰ですか?何処にいるのですか?よく見えません)
「ほっ、ほ、ほら、お前の目の前にいるではないですか」
(だめです。眩しくて、目が開けられません)
「心の目を開けなさい。そして、自分の存在を信じなさい」
(自分の存在を信じる・・・?)
智香は目を開けた。
そこは、孝子といた部屋ではなかった。また、智香がよく行き来する夢の世界でもなかった。光の眩しさは消え去っていなかったが、その眩しさの中に淡い黒の陽炎のようなものが見えた。形は人のように見えたが、はっきりしない。智香は驚き、敵とは思えなかったが、身構えた。
「ほっ。そんなに驚くことはないですよ。私はお前の味方です。そして、これからもお前の力になれると思います。あぁ、早くお前を抱き締めたい」
眩しくて目を開けていられない。智香は、
「この眩しい光り・・・何とかなりません!」
と訴えた。
「今は仕方がないのです。お前が未熟だからです。お前が人として成長した時、そうですね、その時が来れば、お前は私の姿を見ることが出来ると思います。私は、その時が来るのを願い、待っています」
聞こえて来る声は寂しそうだったが、その人の強い望みのような気持ちが伝わって来た。智香は、ふっと思い浮かんだことを口に出した。
「お母さま・・・」
「ほ、ほ、今はそんな感情にもてあそばれている時ではありません。双竜王の珠は、あいつに・・・悪鬼の手に渡ろうとしています。それに、必ず取り戻して下さい。双竜王の珠は、もちろん鏡も剣もお前が持つ運命・・・宿命なのです。この先、お前は一人で歩いて行かなければなりません。長い、長い、限りのない旅になるでしょう。お前が双竜王の珠、鏡、剣を手にした時、お前は素晴らしい力を得て、呪われた黒い宿命を終わらせることが出来るのです。だから、お前は命をかけて悪鬼と闘わなければならないのです。あいつも最後の子孫なのです。分かりますか?」
「分かりません。あなたか何をいっているのか、さっぱり分かりません」
「それが本当だと思います。お前は何も知らされないまま、この世界に一人で残されたのですから。でも、いいですか。呪われた黒い宿命はあなたの気持ちなどかまわずに、あなたを突き進ませるでしょう。悲しんではいけません。宿命を怨んではいけません。強く生きて下さい。あぁ、誰かが来ます。もっともっと話さなければならないことがたくさんあるのですが・・・あっ、もう消えなくてはなりません。また、会いましょう。智香よ、私の最後の子孫よ。お前の旅は始まったばかりです」
智香は、この声の主が消えて行こうとしているのを、肌で感じ取っていた。誰かが来ます、と言った時、智香も人の気配を感じた。それが、砂代であることも、智香には分かった。
「最後に、いいことを教えてあげましょう。智香よ、あなたの知りたい、知るべきすべてが存在する古里に行きなさい、いいえ戻りなさい。幼いあなたに宿命といっても鬱陶しく煩わしいでしょう」
「そこは・・・何処ですか?」
「志摩に行きなさい、父と母が・・・あなたの先祖の人たちが逞しく生きた志摩にすべての秘密があります」
「志摩・・・?」
「そうです。でも、今のあなたに難しいことは言いません。志摩には、あなたの先祖が残した財宝があります。どうですか、興味がありますか?双竜王の珠、鏡、剣が財宝のある場所を示してくれます。とりあえず、それに向かって進みなさい。あぁ・・・もう、また、会いましょう。智香よ、私の最後の子孫よ。お前の旅は始まったばかりなのです」
「あぁ、待って・・・」
智香は叫んだ。と同時に、それまで辺りを覆っていた眩い光りは消えた。
「お姉ちゃん!」
孝子は目を開けた。誰かの・・・人の声が聞こえたような気がしたのである。今まで、寝ていたという感じではなく、何だか夢を見ていた気分だった。彼女は智香を見て、何か特別な・・・というより、智香はまた夢を見ていたんだと思った。自分は現な気分だったが、智香のこういう時の目とかは、実に楽しそうなのである。今の智香はそうではないが、それでも自分の現な気分とは全然違っていた。
津田砂代は夫英美と今日から店を開けた方がいいのかを相談した後、子供たち二人の食事を作った。今は食べる気分ではないかも知れない。それは、砂代にもよく分かっていた。彼女の場合は、志摩ではずっと昔から家の世話をしてくれている青田ぬいが、砂代を襲ったあの恐ろしい事件の時も気を使ってくれていたので、気持ちが休まった。誰かが・・・何があっても、私があの子を支えてやらなくてはいけないと彼女は決めていた。
「智香、孝子、卵のサンドウィッチを作ったけど、食べる?少しは食べないとね」
砂代はベッドの脇にあるテーブルの上にサンドウィッチの載ったトレイを置いた。冷たいミルクティーがゆれて、カップからこぼれそうになった。
「お姉ちゃん、食べよう」
「う、うん」
智香が孝子の誘いに乗ってくれたので、砂代はほっとした。智香は思ったより元気に見えた。とりあえずは、これでいいと彼女は安堵した。彼女は智香のことも気掛かりだったが、店のこともどうしたらいいのか迷っていた。真奈香の傍に呆然と立っていた兄の姿を思い浮かべると、とても店に出られる心の状態でないのは、容易に想像できた。それに、さっきの刑事さんが言っていた、兄は病院に連れて行きましたと。
英美に相談すると、お前の兄は店の運営とか真珠の知識とかいろいろ教えてくれていた。最近になって、俺に何かあっても十分店が開けられる、とお兄さんに言われたと教えてくれた。砂代はそういった夫を逞しく思った。今、店に行く準備をしているはずである。
津田英美は、六太郎がやっていた名古屋、栄の店に行く準備をしていた。いつものように店に行って、開店の準備をしなくてはいけない。いつもなら六太郎を迎えに行って、英美の運転する車で行く。だが、今日は英美一人だった。これまで何度も開店の準備は見ていたし、やったこともある。だから、彼に戸惑いも怖さもなかった。
英美はベッドに座ったまま動こうとはしなかった。彼は手を強く握り締めていた。手の中には、双竜王の珠があった。
飯島一矢は手に双竜王の剣を握り締めていた。蒸し暑い夏の月の輝きを吸い込み、双竜王の剣は鈍く輝いている。ただ・・・この双竜王の剣をなぜ自分の手元にあるのか、一矢は知らない。
だが、一矢にも分かっていることもある。それは、俺の周りで何かが動き始めたのを、ひしひしと感じ取っていた。
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