第三十二話
「何が・・・怒ったの!」
・・・智香、智香、こちらにおいで・・・
「誰・・・!」
砂代が力を入れてもドアは開かなかった。
「どいてください、私がやります」
南小四郎はドアに体当たりをした。だが、ドアはビクともしない。小四郎はもう一度やります、と砂代に退くようにいい、ドアに体当たりをした。
ガッという音がした。だが、それでもビクともしない。小四郎はさらに何回も体当たりしたが、ドアが振動することもなかった。
「何なんだ、このドアは?」
小四郎は、誰かが中からドアが開かないようにしているんじゃないか、と不快な気分になった。
「孝子、いるの?智香・・・」
砂代はドアを激しく叩いたが、中から誰の声も聞こえて来ない。
「よし、どいてください。もう一度やります」
小四郎は少し距離をおき、思いっ切りドアにぶち当たった。
「あつ、開いたわ」
砂代が、ガキッという金属音に反応した。
砂代は、最初に入るのに躊躇はあったのだが、小四郎を押し退け、中に入った。
「あっ!」
砂代は声を上げた。闇に、一瞬何かが光った気がしたが、彼女の目は闇に漂うように浮かんでいる洋蔵に気付き、立ち竦んでしまった。
「待って!退いて下さい・・・」
小四郎は手で彼女を制したが、彼女はその手を押し退けた。
砂代の動きが止まった。
「おい、どうした?あなたは下がっていて下さい」
この部屋の中でとんでもないことが起こっていたに違いない、と小四郎は予想した。砂代は彼の前にいて、動けないでいる。
小四郎は砂代の前に出た。砂代は怖いものを見た時の子供のように慄いていた。小四郎は砂代の視線の先を見たが、何もいなかった。六畳ほどの子供部屋が異常な爆発でもあったのか、破滅的な壊れ方をしているのを見て、彼は刑事らしくない動揺を見せた。この位の大きな爆発なら、この家は吹っ飛んでいるのだが、この部屋だけが跡形もなく壊れていただけなのが信じられない。それ程この部屋の壊れ方は異常で、現実の世界からはほど遠い雰囲気が、その辺りに漂っていた。
その異様な空気が漂う雰囲気にのまれたのか、砂代はまだ立ち尽くしていた。
この部屋で何かがあったのは、容易に察しすることが出来ない。だが、
(何が・・・も、なぜ・・・も、そして誰が・・・も)
部屋には不気味な冷気が漂い、小四郎の背筋の芯に突き刺さるような怖気に尋常でないものを、彼は感じていた。
南小四郎の身体は防御の体制をとった。
(敵が・・・!馬鹿な)
自分が隙をつくれば、誰かが・・・いや何かが襲って来る気配があった。だが、この瞬間迫って来る強い殺気はない。辺りには誰もいなかったのだ。実際、彼に警戒心を起こさせるのは、不気味を連想させるのは、ここに漂っている闇だけである。その闇も消えかかり、朝の陽光が部屋の中に射し込もうとしていた。
「おい、聞こえるか!」
南小四郎警部は外にいる小林刑事に声を掛けた。
「はい、警部。こっちは何も異常はありません。ただここから確認できるのは、完全にぶち破れた部屋の窓と・・・この闇は、何ですか?」
外にもこの闇の異常さは残っているらしかった。小四郎はそのことには何も答えず、
「こっちに来てくれ」
と小林刑事を呼んだ。
すぐにやって来た小林刑事に、
「とにかく、この辺りを調べてくれ」
と指示をした。
「警部、これは・・・」
小林刑事はこの部屋の印象を語ろうとするのだが、言葉にならない。調べよと命令されたからには調べなければならないが、
(何を?)
調べ、何を探すのかさえ分からない。仕方がないので、部屋の中をうろつき始めた。
南小四郎は、この異様な雰囲気の原因を探ろうと、注意深く目を配った。少女の一人、ベッドの上に倒れていた。気を失ってはいないようだ。砂代の娘か、六太郎の娘か、彼には見分けがつかなかった。そこで、名前は呼ばずに、
「大丈夫か?」
と声を掛けた。
顔を上げ、小四郎を見た。砂代の持つ独特の気の強さが見られたので、この子が孝子だと分かった。
孝子は一度だけ頷いた。まだはっきりと意識がもどっていないように見えた、彼女の目は薄闇の外を呆然と見つめる智香を捕えていた。小四郎の立つ位置からは見えない。二三歩窓際に寄ると、ベランダの隅に立っている少女がいた。小林刑事も、その姿を確認する。
智香に、小林刑事が近付いて行った。
「何があった?」
智香の返事はなかった。
「おい!」
小林刑事の声が飛ぶ。まだ若く短気な小林刑事は相手が子供であっても容赦しない。彼を全く無視している少女に、
「おい、いい加減にしろ!」
と怒鳴った。
智香はかろうじて立っていた。朦朧としている。
(誰・・・?誰なの・・・)
(・・・)
津田砂代は孝子に気付き、
「孝子!」
と叫び声をあげ、孝子に走り寄り、抱き寄せた。
孝子は母砂代に気付き、弱々しく微笑んだ。
「どうしたの、何があったの?」
砂代は傍にいる小四郎をちらっと見上げた。
孝子は大きな声で責め立てられている智香に手を伸ばした。智香はまだ窓際に立っていたから、手を伸ばしたくらいでは届く距離にはいない。彼女は怒鳴る若い刑事を涙目でにらみ、
「止めて。止めて。お姉ちゃんは・・・」
と懇願した。孝子は、これ以上智香が責められ苦しんでいるのを見るのに耐えられなかったのである。彼女は、智香がどんなに恐ろしい化けものと闘い、打ちのめさせられたか見ていたのである。
「止めて、お願いだから」
孝子はもう一度声を振り絞った。彼女の声は、小林刑事の声を掻き消した。たが、その時、これまで耐え続けていた智香は気を失った。
大森智香が目覚めたのは、それから一時間くらいしてからである。階段を上がったすぐに四畳半くらいの広さの部屋があり、そこは孝子と智香がいつも遊ぶ秘密の部屋であった。智香が泊まった時には、いつも抱き合うように寝たベッドが置いてあった。
今、智香は一人で寝ていた。孝子はベッドに座り、智香を心配そうに見ていた。その傍に砂代が立ち、孝子と同じように心配顔で智香を覗き込んでいた。
目を開けた智香に、
「お姉ちゃん」
といった。いつも気丈な孝子が怯えた目をして、智香を見ている。
智香は、こんな孝子を見るのは初めてだった。彼女は微笑んだ。今、彼女が出来る精一杯の仕種だった。
「ごめんね」
智香は謝った。
彼女の脳裏をすっと一筋の風が吹き抜けた。彼女自身、何が起こっていたのか、まだよく理解出来ていなかったのである。しかし、自分の何かが原因で、何かが起こった、いや起こりつつあるのは、おぼろ気に理解していた。
智香は孝子を抱き寄せ、髪の毛を撫でた。孝子の髪は淡い茶色で、柔らかい。撫でると気持ち良かった。耳を覆うくらいのショートカットは、孝子の丸い顔によく似合っていた。
津田孝子は心地良い感覚に浸っていた。このままずっと抱かれていたいと思った。彼女は今智香を妹として甘えたい気分になっていた。今までは、どちらかと言うと大人しい智香に、自分が姉のような気持ちで接していた。彼女はそれを少しも可笑しなこととは思っていなかった。気の強い孝子には何の不都合も不快さもなかったし、無理な振舞いでもなかった。
それが、今、反対の状態になっていた。このまま、少しの間この心地良い気持ちのままでいたいと孝子は思った。
「孝子」
砂代が声を掛けた。
孝子は母砂代の声に素直に反応した。母が何を言いたいのか、彼女には分かった。
砂代は今二人を引き離すのは可哀そうだとおもったようだ。今は智香を一人にした方がいいと決断し、孝子に部屋から出るように目でうながした。
智香は叔母砂代のそんな気づかいを察し、
「あっ、伯母様、いいんです。しばらく一緒にいたいから」
と砂代に気持ちを込め、訴えた。彼女には考えることが、いや考えなければならないことがたくさんあった。だが、今は何から考えていいのかさえ、心の整理がつかなかった。
今、この瞬間、智香は一人だけになるのが堪らなく怖かった。孝子がいなくなったら、もう自分の傍には誰もいないという強い孤独感が襲って来るに違いない。
「そう・・・そうね。孝子、いいのね」
砂代は孝子を見て、この子も一緒にいたいんだと理解した。
「今日から夏休みだから、ゆっくりしていればいい。じゃ、何か食べたくなったら、言ってね。すぐに作るから。それから、それから・・・智香、智香、お兄さんの店の方は内の人がやると思うから、心配しないでね」
砂代は部屋から出た時、智香に余計なことを言った気がしたが、智香の表情が変わらなかったのを見て、砂代は安堵した。店のことは、いずれあの子も気にかけると思う。兄が私たちを呼んだのも、このためだったのかも知れない。兄にはこんなことが起こる予感があったのかも・・・。彼女は英美を無理にでも連れて来て良かったと思った。
(あの子が何を見たのか?)
砂代には分からない。尋常でない光景を目にしたのは間違いない。この先、兄と真奈香さんの名前を聞くだけで、目の前で見た恐ろしい光景を思い出すに違いない。もうすこし傍にいて、何があったのか聞きたかった。でも、今は私の気持ちよりも、あの子の心を休めてあげなくてはいけない
砂代の心も慄いていた。十七歳の時に彼女自身に起こった志摩での恐ろしく奇怪な事件が、彼女の脳裏にはっきりと蘇って来たのである。あの子は十二歳という年齢で・・・分からない。
(どうしたらいいの・・・)
私と同じような経験をしたことになる。想像しただけで、砂代は恐ろしくなった。
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