二十三章

返事がない。

誰かが、そこにいるのは分かっている。

ここは・・・二階だ。

押し潰されそうな圧迫感だ?

二人に危害を加えるに違いない敵だと分かる。破壊された窓を通して感じる威圧感は並外れている。普通の生活をしていては感じることのない殺気が伝わって来た。津田孝子は黒い侵入者から智香を守ろうと、智香の体を強く抱き、包み込もうとする。だが、この時、彼女の腕の中で、さらに智香がもがき出した。

 「あぁ・・・」

 智香は苦しそうな喘ぎ声を上げた。手首の黒い痣が痛み、見ると異常な動きをし、彼女の手首をちぎり取ろうとしているような動きは生きているようだ。それでも、彼女は現れ出た黒い影に目を向ける。智香の夢の中に現れる白虎や青龍ではない。

 (この感じ・・・はっきりと覚えている。あいつだ。私の夢の中に、私の許しもなく侵入して来たあいつだ。里中洋蔵・・・というのね?)

 しかし・・・どうして現実の世界に現れるんだ。

 智香は孝子の腕の中から放れ、何かをつかみ取りたいのか、両手を前に出し、苦しみ始めた。

 「お姉ちゃん、どうしたの?」

 智香の手には二個の淡い光を放っている白濁の球が見えた。

 「手首が・・・手首が痛い。手首がちぎれてしまいそう。痛いよう」

 智香は、それでも手に持っている球を離さなかった。彼女は苦しみの中・・・

 「誰!誰?里中洋蔵・・・という人?」

と呟いた。

 だが、震えるような鋭い声の主は智香の呟きには答えずに、

 「それだ。それだ。双竜王の珠を返してくれ。もともと俺の家にあった珠だ」

 今にも苦しみ悶えている智香に飛び掛かろうという勢いで迫って来た。

 だが、その姿が見えない。

 大森智香は珠を胸の中に隠した。

 「待って!待ちなさい、こっちに来ないで。あなたは何処にいるの?姿を現しなさい」

 津田孝子は智香を守らなければならないと思ったのか。化けものの狙いが智香なのははっきりしていた。だから、彼女は苦しがっている智香の体を覆い、さらに強く抱き締めた。智香の小さい体は、彼女の腕の中にすっぽりと納まった。

 だが、孝子の気丈な気持ちとは反対に、姿を現したのは、二メートルはあるだろうと思われる化けものだった。十歳の孝子にとても防御出来るわけがない。

 里中洋蔵の目は青黒く光り、生きているものとしての輝きが感じ取れなかった。洋蔵は智香を抱いている孝子の腕をつかむと、軽々とそのまま持ち上げた。そして、道ばたで拾ったゴミを捨てるように、窓の方に放り投げた。

「キャッ!」

悲鳴が、孝子の唯一の抵抗だった。ただ、洋蔵は孝子を余りに無造作に投げたために、孝子は窓の外に飛んで行かずに、窓際にあるベッドに着地した。彼女の体は一回二回とベッドの上をはねた。 

 孝子はすぐに体を起こし、

 「お姉ちゃん!」

と絶叫した。突然現れた得体の知れない化けものの異様な馬鹿力と雰囲気に、孝子は、ぶるっと体を震わせた。実際二メートルくらいあると思われる化けものの体が、孝子の部屋の明かりに映し出されると、この世の生きものでない化けもの以外の何者でもなかった。同じ人間に見えた。確かに。しかし、大きな体の中から噴き出ている泥水のような汗がどくどくと出ていた。

 孝子は化けものが今度は智香に照準を合わしているのに気付いた。悶え、苦しむ智香の両方の手首をつかみ、洋蔵は軽々と持ち上げた。孝子は智香も自分と同じように放り投げられると思った。洋蔵は智香の手から何かを取ろうとしていた。

 「だめ。だめ。これは・・・だめ!」

 智香は手首の痛みに耐えながら、言葉で抵抗する。

 「離せ!」

 洋蔵の手は智香の手首の黒い痣に喰い込んでいる。智香は必死に握ったものを離さないでいる。

 「双竜王の珠を離せ。言ったはずだ。俺の家のものだ」

 洋蔵は智香の体を揺すり始めた。見る限り、智香は意識を失っているようにも見える。

 智香は自分がだんだんと意識が消えて行くのが分かった。

 「お母さま」

 智香の声はかろうじて言葉になった。死んで行こうとしていた真奈香から手渡されたと思われる二つの球はまだ彼女の手の中にあったが、握っているのがもう限界だった。

 「あぁ・・・お姉ちゃん」

 孝子は悲痛な叫び声をあげた。自分には何もすることは出来ないのか。孝子は化けものの動きを見ながら考えた。彼女は、智香に起こりつつある何かを必死に理解しようとしていた。だが、彼女には、何が起こっているのか、智香に何が起こりつつあるのか、全く理解出来なかった。智香と知り合ったのは、ここに来てからだから四年経つ。それだけで、何が分かるというの。知り合う前、智香が何処にいて、どんな女の子だったのかさえ、彼女ははっきりと知らない。

 「この化けものは、誰なの?何なの、双竜王の珠って?」

 孝子は自分に問い掛けたが、一つの言葉さえ浮かんで来なかった。彼女はすぐに考えるのを止めた。とにかく、今は、智香を助けなければならないと結論を出した。

 「あっ!」

 孝子は叫んだ。

智香の右手の手から球が落ちたのである。智香は完全に気を失ってしまったのだろうか。孝子にはよく分からなかった。

孝子はこれらの状況を一瞬の内に判断した後、智香の手から落ちた珠に向かって走った。

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