第二十二章

「お姉ちゃん」

津田孝子は智香を抱き締めた。孝子は智香より二つ年下だったが、体格は孝子の方が大きく、孝子が抱き寄せると智香の体が彼女の腕の中にすっぽり納まった。体格ばかりではなく気性の面でも、孝子は人一倍負けず嫌いで、卓はどっちが年上なのか分からないよ、と揶揄ったりしていた。

 大森智香は孝子の胸に顔を摺り寄せ、泣いた。

(なぜ・・・泣くの?)

張り詰めていた感情が切れた瞬間だった。智香の記憶にある限り、こんなことは初めてであった。堤防を歩いている時、蜥蜴がニョロニョロと出て来て、一瞬智香の目と合った。この時足元にあった小石を蛇に投げたことがあった。母真奈香は、

「何をするんです!私たちと同じ世界に生きているんですよ、慈しまなくてはいけません」

と、怒ったことがあった。この時でも、智香は泣かなかった。

不思議と声を出して泣かなかった。

 智香も孝子も一人っ子だったから、いつも本当の姉妹のような気持ちでいた。家が隣同士ということもあり、何度もお互いの家で泊まりあったりした。そんな時、智香は孝子の腕の中で寝てしまったことが何度もあった。

 智香が十歳を過ぎた頃から、真奈香は智香を突き放すような態度を取り始めた。なぜだか、智香には分からない。夜、真奈香のもとへ枕を持って来ることを許さないようになっていた。一人で寝る寂しさや怖さは、孝子によって救われた。眠ると必ず現れる化けものたちは、彼女の友達でもあったが、それは飽くまでも彼女の夢の中でのことだったのだ。

 孝子の体は母真奈香とは全然違う肌の感触だったが、十分一人寝の寂しさの代用品として役に立った。

智香は孝子の胸に、何度も体を摺り寄せた。孝子の肌は、つるんつるん、としていて気持ちよく、智香はそんな孝子に強い憧れを抱いていた。智香の両方の手首にある黒い痣が原因だったのかもしれない。長く見つめていると、智香の大嫌いな蛇に見えて来て、時々だが、彼女の手首を締め付けて来た。今が、そうだ。生きているように見える。

 《・・・うっ!》

 今、手首をちぎり取られてしまいそうな激しい痛みがある。何で、こんな時に私を苦しめるの?

(誰か、助けて!)

もう彼女の声に応えてくれる人はいなかった。孝子の胸は真奈香にない優しい温かみがあった。いつもならこのまま眠ってしまうんだろうけど、今日はとてもそんな気持ちにはなれなかった。手首の黒い痣は、孝子にも行っていない秘密だった。この堪え難い痛みも、その原因だが、やはり母真奈香の死が智香の心に闇を作り、苦しめていたのかも知れない。

 「お母さま!」

 と智香は助けを求め、母に叫びたいが、声が出ない。だって、母はもうこっちいないのだから。激しい痛みは、智香が何かをやろうとすると、彼女の手首を襲った。

痛みに、彼女は顔をゆがめる。さらに、手首の痛みが激しくなる。彼女は孝子の体に一層摺り寄った。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 津田孝子は二つ年上の甘えん坊の智香を、もう一度強く抱き締めた。

 さっき母砂代から、智香の家であった出来事を聞いて、彼女はびっくりした。あんなに動揺している母砂代を見るのは、孝子は初めてだった。それにしても、砂代は隠し事のしない親だった。大体、何から何まで子供に話す母親なんて、孝子は学校の友達から聞いたことがない。隠し事がないのは嬉しんだけど、時々子供のことをよく考えて言うなり行動してほしいと言いたくなる。

 なぜお母さんがそんな性格なのか、孝子には分からない。嫌いじゃないけど、子供としては少し疲れる。

 「これは、秘密よ」

 と言っても、内心、だめだろうなと思ってしまう。だから、この頃孝子は、しゃべっていいのか決めてから砂代に話すことにしていた。

 今度のことは知らない方が良かったというより、何も起こらなかった方が良かったと孝子は本当にそう思っている。砂代が言っていることでもう少し良く分からない所もあったが、お姉ちゃんにとんでもないことが起こったんだと思った。孝子は自分に起こった出来事のように動揺してしまっている。不断から気の強い所を見せている孝子だったが、聞いた後しばらく体の震えが止まらなかった。砂代に気を失いながらも抱かれている智香を見た時、起こったこと、伯母さんが死んだのは本当だと思うしかなかった。

 (本当だとすると・・・そうじゃないわ、本当に悲しくて怖いことが起こったんだ。だからこそ、お母さんはあんなに慌てていたし、お姉ちゃんもこうして私の腕の中で苦しんで震えている。泣いているおねぇちゃんを見るの、初めて・・・)

 今、孝子には智香をどう慰めていいのか、言葉が浮かんで来なかった。孝子が一度も体験してない恐ろしい出来事なのである。というより、智香の方が苦しく恐ろしいに違いない。彼女はただ智香を抱き締めるしかなかった。


 まだ明け切っていない闇の中に、一部分だけ明るい空間があった。パトカーの赤いシグナルがぐるりぐるり回り、この世のものでない奇妙な光りの濃淡を作り、ここは異様な世界だと言わんとしていた。

 カチッカチッ

と窓ガラスを叩く音がする。誰かが、窓を開けようとしているようだった。孝子は、夜は必ず窓を閉め、鍵を掛けるという母との約束を守っていて良かったと思う。また、母の素直な自分を褒め、そんな自分にほっとする。

 (が・・・!)

つぎの瞬間、窓ガラスが激しく揺れ、割れたと。窓全体が黒い影によって壊されてしまった。壊れた窓の外に立つ黒い影は、馬鹿でかい体をした化けものに見えた。

 「誰?誰?」

 孝子は叫ぶ。

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