第十九章
「そうですか、良く分かりました。大丈夫ですよ。私はあなたを責めはしません。その子を、智香さんと言われましたね、今度のことに巻き込みたくないと思われたんですね」
津田砂代は微かに頷いた。不思議な生き物でも見るような目で、彼女は目の前の男にひきつけられていた。その刑事は顔だけじゃなく、体全体から受ける印象は神経質そうだった。確かに目は鋭く、見続けられると怖くなってしまう。でも、この人、本当は優しい人に違いない・・・と彼女は何となく思った。
南小四郎は、この人に見続けられることに堪えられず、目を逸らした。いつもの自分なら、こんなことは言わない、と小四郎は苦笑した。
小林刑事が南警部を睨んでいた。彼はいつもと違う警部に気付いたのだろう。何か言えば・・・どうしたんですか、何を馬鹿なことを言っているんですか、と小林刑事は言いたそうだった。
小四郎は顔をゆがめた。
小林刑事は、我々は・・・と言葉に出しかけた時、南警部と目が合い、一瞬にして言いかけた言葉を呑み込んだ。
俺は間違ったことを言おうとしたのか。いや、そんなことはない、と小四郎は自分に言い聞かせた。だが、ここに来たのは事件の真相を調べるために来たはずだと彼は認めた。そして、今は何も言わずに、黙っていた方が良さそうだ、と自分を納得させた。
「ところで・・・その智香さんは、今、何処に・・・?」
小四郎は砂代に優しい目を作り、いった。自分では結構そうした表情を作ったつもりだったが、彼にはそんな表情をした記憶がなかった。
「娘の部屋に、一緒にいます」
「会えますか?」
南小四郎は、この瞬間刑事の目になっているな、と思った。
十二歳の少女が今どんなに傷ついているのか、小四郎に分からぬはずがなかった。今は・・・いや、これからもずっと会うことがない娘の恭子は、十歳だった。変わらぬ年頃だ。俺には良く分かっていると自分言い聞かせた。そして、彼は自分を半ば強制的に納得さ、満足した。
それでも、小四郎はその子に、六太郎の子に今聞く必要があった。砂代の話が本当なら・・・本当なのだろう。大森六太郎の娘、智香は、小四郎たちの知らない何かを間違いなく知っているはずだからである。
(無理かな・・・)
南警部は、なぜか弱気になる。自分の娘なら、俺なら恭子を今はそっとしておいてくれ、と怒鳴り散らすに違いない、と小四郎は思う。その気持ちが、彼をさらに弱気にさせる。
「今は・・・」
砂代は首を二三回横に振り、仕切りに話し掛けて来る刑事を見つめた。その子を守ろうとする懸命な目だった。
この人は、あの子に何を聞くというの?あの子は、確かに何かを見ているかもしれない。でも、今のあの子に何が話せるというの?私の父が母を殺した時と同じだ。あの時、私は十七歳だった。あの子より、智香より五つも歳がいっていたけど、ただ心が動揺しっ放しで、訳の分からないことばかり聞いて来る刑事に、何を話したが全然覚えていない。
智香は十二歳なったばかりなのよ。あの時、私には兄がいた。兄が、私を守ってくれた。でも、この子を守ってやる人は誰もいない。そうよ。私が守ってやるしかない。砂代は心に重々しい痛みを感じた。あの時自分の身体にのしかかった来た痛みを、今あの子も、この痛みを感じて、苦しんでいるかもしれない。
「あの子・・・今の智香の気持ちを考えると、もう少しだけでもそっとしておいてやりたいのですが・・・」
砂代は南警部を見つめ、懇願した。こんな時に。この自分の願いが聞き遂げられるとは思っていない。でも、彼女としては、智香のためにもそうしてやりたかった。彼女は目の前の刑事から目を逸らす気はなかった。
(この人・・・)
砂代は目の前の男の人に、なぜか心が和むような暖かさを感じた。しかし、の感覚はすぐに消えた。それだけだった。今はそれ以上自分の心の動きを振り返る気にはなれなかった。
「分かりました」
と言った後、小四郎は小林刑事を睨んだ。俺が言ったことに、口出すかもしれないと思ったからである。
(黙れ。何も言うな)
小四郎は声には出さずに、口だけを動かした。
小林刑事は不愉快だった。少しでも早く何があったのか、聞き出した方がいいんじゃないですか、と言いたかったが、彼は黙って、警部から目を逸らした。不快だった。
「少しだけ、ほんの少しだけ時間を置きます」
小四郎は自分も同じくらいの年頃の女の子がいます、と言いかけたが、声には出さずに唇を動かしただけだった。
「有難う御座います」
と砂代は頭を下げた。
南小四郎は玄関から出ようとした時、聞き忘れたことを一つ思い出した。
「あと、ひとつ聞き忘れたことがあります。救急に知らせて来たのは、ご主人ですか?」
小四郎は砂代と話している間中、ほとんど話さなかった英美を睨んだ。
英美の顔色が変わった。急に狼狽し出した。
「何・・・」
と戸惑う英美をかばうように
「いいえ、主人は寝ていました」
砂代は口をはさんだ。
「そうですか」
小四郎は英美から視線を外さなかった。彼はもう少し英美を揺さぶって見たかったが、
「それでは・・・その時、あなたが隣りへ行った時、つまりお兄さんの家に行ったときです。誰か、この辺りでは見ない人を見ませんでしたか?怪しい見慣れない人物を、です」
と砂代に聞いた。
「いいえ」
とだけ、砂代は答えた。
「そうですか」
と言った後、小四郎は何かを考える表情をしたが、
「やはり、六太郎の娘しか知らない誰かが、もう一人いたのか」
と独り言をいった。
大森智香は、今、夢の中にいた。
彼女の夢の中に、以前から母真奈香は時々現れていた。だから、智香は全然驚かない。
これまでも、智香の夢の中で真奈香と一緒に楽しい時間を過ごすことがあった。でも、よく思い出してみると、真奈香は娘の夢の中にただ遊びに来るだけではなく、彼女に大切なことを教えに来ていた。今日は、真奈香は一緒に遊びに行かなかったけど、昨日はいつも遊ぶ川原に行った。その時の続きが、夢の中に現れた。
「ねぇ、智香。見ていてごらん」
と言って、真奈香は、すっかり朝の爽やかな空気に満ち溢れている空を指差した。彼女の細く白い指は、太陽の輝きの中に入り、眩しく光かった。彼女の手は空飛ぶ一羽の白い鳩を捕えた。彼女は人差し指を横に差し出した。
白い鳩は空中を気持ち良さそうに旋回しながら、こっちに向かって飛んで来た。そして、真奈香の白い指に止まった。白い鳩は、その後真奈香に、クルークルーと話し掛け、仕切りに何かを訴えているように見えた。
真奈香は、ホホッ、と微笑んだ。
智香は、
「お母様、白い鳩さんは何と言っているんですか?」
と聞いた。智香は真奈香がどんな動物や生きているものたち、時には仲間からはぐれた一凛の菫の花にさえ、涙を涙を流しながら話しているのを、小さい頃に見ていた。というより、母には、それが当然だと認識していた。
真奈香は、智香の問い掛けには答えずに、両方の手で鳩を包み込むと、白いティッシュペーパーに変えてしまった。
智香は、いつの日だったか忘れてしまったけれど、真奈香が白いティッシュペーパーを使って鳩を作り、空に放してやったのを思い出した。智香に白いティッシュペーパーでいろいろな生きものの作り方を教えてくれたのは、池内美和だった。どうして美和がそのような方法を知っていたのか知らない。
真奈香は目の前でいろいろな不可思議な現象を起こし、やって見せてくれた。だから、真奈香と美和の方法とは全く別ものだという認識が少しはあった。真奈香と美和がおなじようなことを出来ても、智香には全然不思議なことではなかった。
(でも・・・へん?)
智香は首をちょっとひねる。
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