第十八章
「知っているんですか、大森六太郎を?」
小林刑事が聞いてきた。
「あぁ」
とだけ、南小四郎警部は無愛想に答えた。
小四郎は大森六太郎がいなくなった大きな居間を改めて見回した。
「奴の家か」
俺のようなぐうたらな刑事が住めるような家ではない。小四郎はそう思わないではいられなかった。
南小四郎警部はすぐに事件現場となった居間に向かった。
現場の状況は何があったかは、はっきりしていた。この家の主の大森六太郎は血のついたペーパーナイフを持ち、彼の足元には女が死んでいた。彼の妻、真奈香である。それ以外の事実は、今の所、ここにはない。
そう、ここにはない、と小四郎は自分に言い聞かせた。
だが、ここには最低でもあと一人居たことになる。いや、居たはずである。多分、
(その男は・・・?)
男といっていい。ここで起こった全てではないにしても、何かを見ているのは間違いない。ひょっとして、ここで起こった最初から最後まで見ていたかも知れないのである。
南警部は、ふう、と長い吐息を吐き、居間の中を捜索していた谷口刑事を呼んだ。
「救急に知らせて来た人物が、誰だか判明していますか?」
「いいえ、まだ判明していません。この先に公園があります。そこにある公衆電話から、救急に連絡してきたようです」
恐ろしく静かな住宅街だ、それに、この時間だから、誰も見ていない可能性がある。しかも、こういう雰囲気の場所だから、余り期待しない方がいいかもしれないと小四郎は自問し、目を閉じた。
そして、突然、小四郎は何かに背中を刺されたような、苦痛な目を見開き、
「この家に住んでいるのは二人夫婦二人だけですか?」
と、彼は敬語を使って、聞いた。
「ひとり、十二歳の女の子がいます」
小四郎は、その少女が自分の近くにいないのが分かっているのに、居間を見回し、
「何処に、その子は・・・今何処にいるんですか?」
と、いったので、谷口刑事は、
「隣りの家にいるようです。隣りには、大森六太郎の妹、砂代が住んでいます。結婚して、津田という姓に変わっていますが」
南小四郎は首を二三度振った。
「砂代・・・そうか。あの人も、ここ名古屋に出て来ていたのか」
どうして名古屋に出て来ているのか、彼は気になった。しかし、今これ以上の言葉が続けられなかった。あの砂代が、すぐそこにいると思うだけで、彼の心は動揺していた。このまま砂代の名前を出せば、彼は、とんでもないことを聞いてしまいそうだった。そこで、
「その、何だ・・・六太郎の十二歳の娘はどうしている?」
と、今度ははっきりと谷口刑事に向かって、いった。
「さっき確かめて来ました。今も、隣りにいるようです」
「そうか」
小四郎は考え込んでしまった。いるようです、ということは、直に会っていないようだ。会いに行かなくてはならないだろう。しかし、そこには間違いなく、あの人がいる。六太郎の妹・・・あいつの妹・・・小四郎はあの人の顔をはっきりと思い浮かべられなかった。記憶の中に強引に入って行くと、ある少女の姿に辿り着いた。
「どうしますか?」
はっきりしない南警部に、谷口刑事が急かせる口調で聞いて来た。
「あぁ、行きますよ。行かなくてはならないでしょうね」
小四郎は気持ちの昂りを押さえられなかった。
大森六太郎の家は、どちらかと言うと邸宅という雰囲気があったが、隣りの津田の家は、この辺りではごく普通の敷地の広さであり、家は二階建てで、家族三四人が住むのに十分な建坪だった。
多分妹砂代の住む家も、六太郎が金銭面で援助するか、それとも、小四郎は、あいつのことだから全部あいつが建ててやったような気がした。あいつがどんなに妹を可愛がっていたか、小四郎は良く知っている。玄関の表札には津田英美と家主の名前があり、続いて砂代、孝子とあった。
(子供が、一人いるのか!)
小四郎は口元をゆがめた。彼の脳裏にセーラー服を着た砂代の姿が浮かんだが、すぐにその幻影を振り払った。彼の記憶の中にいる砂代は、中学生のままだった。
小四郎は唇を強くかみ、苦笑した。
「どうかされました?」
明らかにいつもと違う南警部に、小林刑事は戸惑っていた。
「何でもない。おい」
小四郎は小林刑事にインターホンを押すように、目で合図した時、また背筋に冷たい怖気を感じた。今度は感じというあやふやなものではなく、手を触れれば、そこにある感覚だった。そして、それは小四郎自身に向けられている怖気だった。彼の体は、ぶるるっ、と震えた。
(間違いなく、何かがいる。得体の知れない誰かがいる)
だが、彼を攻撃して来るといった気配ではなく、彼の存在が邪魔だと言いたそうな気であった。
小四郎は後ろを振り返った。やじ馬の数は、彼が来た時より減ってはいなくて、むしろ多くなったような気がした。この中に、いるのか・・・?
(いない)
と、小四郎はすぐに判断した。まだ、近くに奴は・・・もう、奴といっていいだろう。奴が何をしようとしているのか、彼には分からない。
小四郎はやじ馬の中に、怪しい別の男の姿をとらえた。明らかに怖気を感じた奴ではない。
「あいつは・・・」
途中で車を降り、現場まで歩いて来た時、小四郎に気付かれ逃げて行った男が戻って来ていた。
小四郎とまた目が合った。一瞬、小四郎の動きは止まった。男の動きも止まった。また逃げるのか、と彼は自問した。
「誰だ?」
小四郎は呟いた。呟いたくらいで、相手に聞こえる距離ではない。
「誰が、ですか?」
小林刑事は自分に話し掛けられていると思い、警部に聞き返した。
南警部は小林刑事に何も答えずに、やじ馬の方に歩き出した。彼は動きを速め、走り出した。
「待て!」
その男は、南警部が走り出す前に、次の動きを読み取ったのか、ますっかり明けきっていない薄闇の中に消えて行った。
「誰ですか?」
小林刑事も走って逃げて行った男を確認した。
「分からん。ここに来る時に見かけた男だ。二度目だ。二度とも逃げた。気になる男だ。また、俺たちの前に現れるような気がする」
小四郎は、そんな気がした。彼の、《そんな気がする》は結構当たるのである。何の根拠もない勘ではなるが・・・。
小林刑事はインターホンを押した。家の中から明かりが漏れている。
(寝られるものか、こんな時に!)
南小四郎の父と母がそれほど時を空けることなく死んだ時、多少面倒ではあつたが、志摩に帰った。その時、大森六太郎に会いに行こうか迷ったが、結局足は座神の方に向かなかった。
(なぜ・・・?)
それは・・・砂代に会うのが怖かったというのが正直な気持ちだった。今も、彼は座神の話すら避けていた。
(俺の古里の生き様を話したいと思わない。あれこれ考えるのも避けて来た)
他人と六太郎も砂代も、その後どのような人生を送ったのか、小四郎は何も知らなかった。彼の心の中には、砂代はセーラー服を着た、心に傷などない清潔なままの印象が残っている。だから、こんな事件に巻き込まれた砂代の心に喰いこむような傷を思うと、彼の心は痛んだ。
砂代を守ってやりたい、と小四郎は思った。そう思うだけで、彼の心臓はキュッと締め付けられた。長い間忘れていた心の痛みである。
すぐに、玄関の模様ガラスに人影が浮かんだ。
女だと分かる。
玄関がゆっくりと開いた。
現れた女は、小さな声を、
「あっ!」
と、あげた後、軽く頭を下げた。
今、この時間に、家を訪ねて来るのは、警察以外ないと分かっていたようだが、それでも人相の良くない男二人が睨み、立っているのには驚いたようだった。
南小四郎の思い描いた砂代とは違っていたが、確かに彼の記憶に残っている大森砂代の面影があった。
あれから十五、六年も経っているのである。人間、それぞれに与えられた人生を生き、大なり小なり苦労する。人間の裏の人生を見ている小四郎に、それが分からぬ訳がなかった。 何があった!何かがあったのだろう。
南小四郎も砂代から目を離さずに、頭を下げた。
「ちょっと話を聞かせていただきませんか?」
と、小四郎はいつもと違い、優しく言った。
砂代は頷き、二人を中に招き入れた。
中に入ると男が立っていた。
年取った方の男、刑事が自分の後ろの男を、鋭い目で睨んでいるのに砂代気付いた。
「主人です」
と、砂代が言うと、英美は少しおどおどとした落ち着かない様子を見せた。
「こんな時間に、すいません」
と、小四郎は型通りの挨拶をした。彼の目は英美から離れなかった。この男の体を頭のてっぺんから足の先まで観察し、どういう人物なのかを推理し始めた。職業病なのかもしれない。小四郎は、この男が少なくとも何回かは警察のやっかいになったことがある、と見抜いてしまった。
居間に通されると、改めて、
「お話したいことが・・・」
とり言うと、砂代の方から話し始めた。
救急車が来る前に、兄の娘の智香を連れ出した自分の行動をうまく説明する自信はなかったが、砂代は自分の心の中の不安とは裏腹に、たんたんと語った。
不思議と言葉に詰まらなかった。今も六太郎の居間の情景は、彼女の脳裏に鮮明に残っていた。あそこに気が抜けたように立っていた男の人は、彼女の知る優しい兄ではなかった。だけど、兄の足元に倒れていたのは間違いなく義姉の真奈香だった。真奈香は真っ赤に濁った血の絨毯の上に横たわっていた。砂代の目から、まだ血で覆われた絨毯の色が消えていなかった。
なぜ、兄に話し掛けなかったのかって?そんなこと・・・私には分からない。私には何が起こったのか、さっぱり分からない。十数年前、父が母を殺した時のことを思い出したのかって言うの?彼女は否定しない。彼女は、何度も頭を振った。
話すことがなくなると、砂代は明らかに上司と思われる刑事を見つめた。まだ、話すこと・・・話さなければならないことはあるのかも知れない。でも、今は、これ以上は無理だと感じた。疲れが、彼女の体を呑み込んでいた。
大森智香は、今眠りから目覚めようとしていた。
飯島一矢は強い気配のする方に移動し始めていた。
「おい、何度もいう。誰だ、お前は?」
一矢は強い調子で言った。彼は、自分の言葉が得体の知れない相手に届いていると信じている。
津田英美は極度の緊張感に陥り、体が小刻みに震えていた。彼は自分を睨んでいる刑事から目を逸らしていた。彼は自分に言い聞かせていた、俺は、今は悪いことはやっていない、だから、刑事なんかを怖がることはない、と。だが、あの人は違う。俺は、あの人が怖いんだ。
大森六太郎の家から逃げ去った見知らぬ男は、今もそこにいた。彼の表情は悲しそうで苦痛に満ちていた。しかし、彼の心の片隅に密かな喜びも感じていた。今、その時が来ようとしていた。四百年以上も待ったことになる。
そして、そこに間違いなく不気味な気配を放っていた黒い影も、やっとその時が来たと喜びを隠せないでいた。後は、あいつに確かめるだけだ。あいつが小娘であろうと構うものか。黒い影は笑いたい気分だった。だが、
「何・・・何だ!」
自分とは相反する空気の流れに気付いた。
(奴か!何者だ!)
その時、黒い影はやっと来た喜びを、一瞬にして打ち消した。気になる気配が、一つではなく、二つあったのである。
(もう、一つは・・・)
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