第十七章
「やはり・・・!」
南小四郎は門の表札を見て、背筋を伸ばした。家の中に入るまでは、小四郎の心の中では同姓同名であって欲しいという気持ちが強かった。しかし、その気持ちも刑事や鑑識課員が動き回るむんむんとする部屋に入った途端に、呆気なく消えた。
居間のエアコンのスイッチは入っているようで、冷たい空気の糸が動き回る人間の間を縫うように流れているのを、小四郎は少しだけ感じることが出来た。
南小四郎警部はペーパーナイフを持ち、呆然と立ち尽くしている男を見て、愕然とした。彼は男に近付いて行き、
「おい、六太郎。俺だ。南だ、南小四郎だ」
と怒鳴ったが、もし名前を前もって聞いていなければ、何処の誰とも分からなかっただろう。それ程、異様な面持ちの表情をしていて、目が虚ろで空中の一点を見つめていたのだ。男は確かに彼の知る大森六太郎だった。しかし、彼の知る十七歳の六太郎の風貌からは余りにもかけ離れていた。
小四郎は六太郎の肩をつかんで、激しく揺すった。六太郎の表情に何の反応もない。
「・・・」
南小四郎は肩をつかんでいる手に力を入れた。それでも、六太郎は顔を歪めず、その表情に変化はない。
(おい、どうした・・・)
と、小四郎はあの頃のようにぶん殴りたい気分になったが、まだそこまで感情が乱れていなかったので、今度は六太郎の肩を大きく揺すった。だが、六太郎の様子が変わることはなかった。
南警部は被疑者が自分の妻や家族を殺してしまい、正常でなくなってしまった人間を何人も見て来た。もちろん、平然としている奴もいた。普通なら驚きはしない。だが、この男は大森六太郎なのである。こんなことがあって言い訳ない。
小四郎は大森六太郎の視線の先に目をやった。この家の居間は、一階二階は吹き抜けになっていたが、六太郎はその広い空間を見ていた。だが、その空間に小四郎の目を固定させるものはなかった。
こんなに近くにいるのに、俺だと気付かない。俺だけじゃない。この男は、ここにいる見知らぬ十人ほどの人間にも気付いていないのかも知れない。今の体格は大森六太郎の方ががっしりしていた。
(十六年・・・いや)
十八年振りに会った六太郎だが、見た感じ、あの頃とそれ程体格は変わっていないようだ。しかし、余分な脂肪が付いてように見えるのは、歳のせいか。こいつも、そんな歳になったのだ。小四郎は近頃の自分と比べて見た。
「何が、あったのだ?」
と、南小四郎は呟いたが、何があったかは、誰が見ても分かる状況だった。
六太郎の足元には女が倒れていた。女は顔を上に向けて、六太郎を見上げる形になっていた。その時、女は誰かに殺され意識がなくなって行く時間、目を開け六太郎を見ていたのかどうか分からないが、今は目を閉じ優しい表情をしていた。
「先生。久しぶりですね」
南小四郎はかがみ込んで女の体を調べている杉本外科の院長、杉本勝に声を掛けた。警察が検視をお願いしている医者の一人である。
「そういうことになりますね」
杉本監察医は笑って、答えた。
「先生に、これまで何回ともなくこんなことをお願いしていますが、多分こんな質問は初めてと思うのですが・・・この女、なぜ笑う、いや微笑んでいるのですか?」
小四郎には女の唇が微笑んでいるように見えるのである。
「さあ・・・。警部にも微笑んでいるように見えますか?」
「俺には見えますね。こういう場所で死んだ奴の顔が笑っているのは、初めて見ます。しかも、この女、これ以上の幸せがないという微笑だ」
杉本監察医は、女の左手首をつかみ、南警部に見せた。
「見て下さい。幅二センチ七ミリの黒い痣が手首に巻き付いています。真っ黒い蛇が巻き付いているように見えます。見え方にもよりますが、生きている蛇に見えることもあるでしょう。死に顔に微笑み。全く好対照です。何か不気味さを感じますね、私には」
南小四郎は監察医の問いには答えず、立ち上がった。彼はこれまで数えきれない程の死体を見て来た。その表情は苦しみにあふれ、自分を殺した者への恨みか、それともこの世への未練か、カッと目を大きく見開き、誰かを睨み付けている死体もあった。だが、この女は違っていた。
「この女は?」
南小四郎は六太郎を見た。彼の脳裏をすうっと、あの頃の風が吹き抜けて行った。彼の肌に沁みこみ、残っていた軽い感じの風だが、今は何だが重いって感じがした。その風が、彼を一気にあの頃に戻した。
「この女は、大森六太郎の妻、真奈香です」
ここに着いて時から小四郎にへばり付いていた谷口刑事が、小四郎の独り言に答えた。
(真奈香・・・)
南小四郎はもう一度微笑んでいる死体を見た。名前にははっきりとした記憶はなかったが、何処かで見たことがあるような気がした。いや、気のせいなんがじゃない。はっきりと小四郎の記憶の中に残っていた。
(ということは、この女・・・志摩の女か!)
小四郎は胸が締め付けられるような快い痛みを感じた。この瞬間、彼の感情は志摩の時代に飛んでいた。
(こいつには、確か・・・妹がいたはずだが・・・)
ここまで思い出し始めると、小四郎の回想は止まらない。だが、この快い時間を、
「警部!」
と呼ぶ小林刑事の聞き慣れた声に、完全に遮断されてしまった。
南小四郎は夢から目覚めた時の不機嫌な目で、小林刑事を睨んだ。
小林刑事は、何をしているんですか、と言いたそうだった。彼は、こんな警部には慣れているらしく、軽蔑したような目で睨み返した。
「分かっている。もう、連れて行っていい。今、この男に何を言っても無駄だ。起こったことに満足な説明も出来ないだろう。これ以上、ここにいても邪魔になるだけだ」
南小四郎は六太郎の右手からペーパーナイフを取ろうとしたが、まるで石の手で握っているようで、指一本動かすのにちょっとした力が入った。小四郎は指を一本一本ナイフから離していった。
「先生、こんなものでも人を殺すことが出来るんですね」
小四郎はペーパーナイフを谷口刑事に渡した。
「刺さった場所と角度が良ければ・・・です」
杉本監察医は答えた。
「頼む。所轄じゃないぞ。大学病院に連れて行ってくれ」
小四郎は杉本監察医に目をやり、この判断でいいですねと了解を求めた。
杉本監察医は、軽く頷いた。
大森六太郎は二人の刑事に両脇を抱えられ、連れて行かれた。ナイフを手から離したことで、彼の硬直した体は少し軟らかくなったのだろう。ぎこちない足の動かしだったが、自分の力で歩いて行った。しかし、その間一度も小四郎の目を向けなかった。
「何があった?」
南小四郎警部はまた自問した。彼は、なぜこんなことが起こったのは知りたかった。しかし、今その答えは返って来ない。もっと時間が必要だった。
飯島一矢はまだ栗谷町にいた。しかも、大森六太郎の庭の木が小さな林のように並ぶ中に、気を消していた。彼は、卓の友達が中年の女に抱えられながら出て行くのを見た。そして、今、警察が来ている。少し前、一人の男が、多分刑事だろうが両脇を抱えられ連れて行かれた。何かが起こっているのは確かだった。気にはなったが、誰もいなくなった家の中を覗く気にはならなかった。自分の関係ない事柄に、一矢は全く興味も示さなかった。は
一矢がここに留まっているのは、それが理由ではなかった。何かが・・・いた。ここに・・・この近くに何かが・・・。
(何だ?誰だ?生きものか?)
一矢は問うた。
(誰だ、お前は?)
一矢の背筋に、一回鋭い電流が走った。
(僕、いや、俺のことより、お前こそ、誰だ。答えよ)
一矢の問いに答えはない。目に見えぬ相手が、一矢を嫌っているようだ。
(お前、なぜ俺と話せる?)
一矢の手はゆっくりと印を結んでいた。時々、彼の手の動きは止まり、少し経つとまた動かし始める。
(そんなことは俺にも分からない。お前は、ここで何をしようとしている?)
一矢には、もうすぐここで何かが起ころうとしているのは、予想できた。目に見えぬ相手が何かをやろうとしているのも、予想できた。が、それ以上は、今の彼には何一つ判断出来なかった。一矢の、この予想は外れているかもしれないのだ。
(うるさい!黙っていろ。命が惜しかったら、俺のやることを邪魔するな)
「待て!」
一矢は叫ぶ。
突然、目に見えぬ相手の気が消えた。
(何処へ・・・何処へ消えた?)
一矢は集中して探したが、見つけられなかった。一矢は体を小さくして、自分の気配を消し続けた。彼がいつの間にか会得した力だった。というより、あの一年で会得した技術と思考だった。
(まあ、いい。俺は、自分の宿命を受け入れたのだ)
「もう、考えまい」
彼が自分自身に持つ疑問は、まだいくつもあった。何一つ答えを導き出していない。時を待つしかないと思っている。その内に、その答えを導き出してくれるような気がした。卓の友達も気にはなった。なぜ、あの子があそこにいたのだ?
「ちっ!」
一矢は、何が起こるかを見届けるまで、彼はここを離れる気はなかった。
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