第十六章

 愛知県の南端を東西に走る国道一号線は一旦三重県に入いるが、小林刑事の運転する車は三重県に入った後すぐに東に折れた。しばらく行くと、栗谷掛橋が見えて来る。その向こうが栗谷町である。その先は海だった。

 「異様だな」

 南小四郎は呟いた。彼の率直な印象だった。

 「はい。とても海の近くの町とは思えない所なんです。昼間はそれ程ではないのですが、この時間帯は不気味そのものです。お化けでも出てくれれば納得しないでもないのですが、正直そんな怖さではない怯えを感じてしまいます。ただ、非常に事件の少ない場所で、今度の場合もまだ事件だと分かっていませんが、もし殺人事件なら初めてじゃないんですか」

小林刑事は覚えたばかりの文章のように何の感情も込めずに話した。その間も彼の目は栗谷掛橋の向こうに広がる暗闇の町に引き寄せられていた。

 車が栗谷町栗谷に入ると、南小四郎は、

 「何だ?霧か?変な所だな。それに・・・この嫌な気分は何だ?」

 と顔をしかめた。そして、上体を起こし、前に乗り出した。

 「はい。この時間からは・・・ここは、こういう所のようです。さっきも言いましたように事件らしい事件のない所ですから。私もこんな時間にここに入るのは初めてなんです」

 小林刑事の体は緊張感で肩に力が入り、固まっていた。彼は人が死んでいる事件現場に入るのは初めてではなかった。しかし、そんなのは何度経験したって慣れることはないと南小四郎警部は思っている。

 「おい、しっかり前を見て運転しろよ。それにしても、何度も言うが、変な所だな、ここは。変な所・・・いや、気味が悪いな」

 小四郎は自分の感じたままを言葉に出して、自分自身を納得させようとした。しかし、この町の雰囲気にあったぴったりの言葉が浮かんで来なかった。

 「あっ、あそこです」

 パトカーのシグナルが回っていたから、小林刑事が言わなくても、そこが事件現場だと分かった。

 「おい、ここで降りる。俺はここから歩いて行くから、先に行ってくれ」

 はい、と言った。南警部が車から降りると、小林刑事は五十メートルくらい先の事件現場に車を走らせた。

 南小四郎は、どういう連中が、明らかに何かがあったと予想される場所に集まって来ているのか気になった。それは、ここ栗谷町に入った時に感じた雰囲気が影響しているのかもしれなかつた。

 多分、おそらくこの町に住むほとんどが《息苦しい人間》に違いない。

(そうだ)

さっき、俺はこの言葉が思い浮かばなかったのだ。彼らは何かがあると集まって来て、話のネタを探しに来るのである。そこで彼らが得る情報が真実であろうがなかろうが関係ない。彼らが見た真実を捻じ曲げて、人が楽しく興味がもてるように、新しく作り上げてしまう。自分たちが創作した自慢の噂話の中で、自分たちの主人公がどんな傷付こうが、彼らには心も痛まない。ただ、大きな声で笑うだけである。小四郎はそんな例を何度も見たし、聞きもした。

南小四郎自身が志摩を離れた後、両親の死んだ時以外志摩に帰っていない理由の一つである。こういう所は、彼の一番嫌いな住み家だった。

 栗谷町に昔から住んでいる人の家の敷地は広く、建物もりっぱなものが多い。近鉄の名古屋線が栗谷町の真ん中を通過しているようだ。賃貸のアパートやマンションが目に入る。夜だから確かな数は分からないが、七八棟はあるようだ。駅は、それほど遠くはないようだが、普通列車しか止まらないのだろう。それでも名古屋に近いから、通勤に便利なのだろう。

気に入った」とここはいい所だと住んでも、すぐには住む人の本質まで変えはしないが、ここの土地を買い、家を建て、時間が経つと、いずれは変えてしまうかも知れない。

南小四郎はそんなことを考えながら、事件現場に向かって歩いて行った。

 「あれか!」

この辺りの家と違い、総檜つくりがりっぱで、大きな家の前にパトカーが止まっていた。

 やじ馬は二十人ばかり集まっていた。明らかにここの住人でない人間を見つけるのに一番都合のいい人数だった。紛れ込んでいる人間は気付いていないだろうが、ここの住人でないのはすぐにわかる。

 「あいつか!」

 小四郎は現場の様子を盗み見するような格好で見ているひとりの男に気付いた。

 歳は二十代後半だろうか?非常に落ち着いた風な感じが、却って、小四郎の興味をひいた。ひょっとして三十の半ば・・・俺とそう違わないかも知れない。小四郎はゆっくり男に近付いて行った。

 (誰なんだ?)

 小四郎は、なぜか親しみのような感情を持ってしまった。アパートやマンションがあるが、ここの住人でないのは確かである。

 男は近付いて行く小四郎に気付いた。男と小四郎の目が数秒あった。先に逸らしたのは男の方だった。

男は、近付いて来る見知らぬ男が自分のとって良からぬ存在だと気付いたようだった。男は小四郎に背を向け、その場を離れようとした。

「おい!」

南小四郎警部は叫んで、威嚇した。

男は一瞬止まったように見えたが、そのまま走り去った。まだまだ闇の中の時間帯にある空間に消えた。消えた・・・そういう印象だった。

「チッ!」

小四郎は舌を鳴らした。

まあ、いい、と彼は自分を納得させた。もちろん、多少の悔しさはあるが、まだ事件なのか分からない状況なのだから、深追いするのは止めた。たとえ、重要な事件に発展したとしても、逃げ去った男が関係しているのなら必ず浮かび上がってくるような気がした。

南小四郎は再び歩きかけた時、急に足を止めた。

(何だ、この寒気は!)

小四郎の背筋に今まで感じたことのない怖気が走った。

(誰かがいる。この近くに、誰かがいる)

小四郎の感じる気は得体の知れないものだったが、確かな存在だった。しかし、この怖気の相手は誰なのか?

(俺じゃない)

それだったら、何も俺が感じなくてもいいのではないか?

なぜ、こんなに体が震えるのか!

(俺が震えている?)

「馬鹿な!」

小四郎は、こんなに怯えている自分が信じられなかった。彼は家の中に入る前に、やじ馬の方に振り返った。だが、彼が注意を払うような者はいなかった。

 

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