第十五章
南風荘から西に向かって歩いて行くと、名古屋鉄道、通称名鉄の常滑線の線路が見えて来る。踏切を渡り、もう少し行った所に、あそこがあるあそことは、名前のない小さな社である。なぜか、その小さな社だけは覚えていた。
南小四郎警部は東海市寺屋敷町に住むようになって、六年になる。毎日この道を通り寺屋敷駅まで行く。それなのに、こんな所に社があるのに気付いたのは、二年くらいまえである。彼が見過ごしていたのか、社が小さかったからなのか、また考えられないことだが突然出来たからなのか、小四郎には判らなかった。
名前のない小さな社が線路に沿って南に十分近く歩くと、寺屋敷駅がある。南小四郎はたまにある休みの日、その辺りまでぶらぶら散歩に行くことが多い。何をするでもない。何もする気もない。時間は小四郎の気持ちなどかまわずに過ぎて行く。彼は、そこが気に入っていた。
その内、昼近くになる。普通列車しか止まらない駅だから、駅前にアーケイドの商店街はない。小さな洋服店や雑貨店などが疎らにあるだけである。
決まって十一時三十分ころ、寺屋敷駅から県道に向かって二三十メートルくらい行った所にあるたぬき屋という小さな大衆食堂に入る。六十代の夫婦がやっていて、なぜか妙に小四郎の心を落ち着かせてくれる。ここに来た頃の小四郎は、見掛けは屈強で何者をも恐れない鋭い目付きをしていた。まだ二十代だった。しかし、心の方はずたずたに砕け散っていた。離婚し、独りになり、娘の恭子にも会うことが許されていなかった。
そんな気持ちの日が永遠に続くようにさえ感じていた。重苦しい日々の連続だった。春という季節がやって来ていたが、自然の生物が芽生える時の息吹さえ感じ取れない、彼の心の情態だった。休みの日、アパートの狭い部屋にいると、余計に空しくなりじっとしていられなくなる。
アパートを出て、ただ歩くだけだった。その日は風邪気味で少し熱があったようだ。自分の体の状態にさえ注意を払っていなかった。時計を見ると十一時を回ったところだった。何かを食べる気分ではなかった。だが、たまたま目に入ったたぬき屋にはいった。
テーブルは八脚あるが、小四郎はたぬき屋が満席になったのを見たことがなかった。まだ十二時には時間があったので、客は一人もいなかった。たぬき屋の親爺は厨房の前の椅子に座っていた。入って来た小四郎を見て、親爺はひょいと頭を下げた。
小四郎は玉子焼きと冷奴の皿を取り、飯も小さいのを頼んだ。箸を何度か口に運んだが、熱が上がって来たからなのか、心が正常でないからなのか、気分が悪くてそれ以上も食べられなかった。玉子焼きを一切れと豆腐の形を少し崩しただけだった。
「親爺さん、すまんな」
そう言って、小四郎は席を立った。
たぬき屋の親爺は、申し訳なさそうな顔をしていた。玉子焼きがまずかったのではとても勘違いしたのかも知れなかった。そこまでたぬき屋の親爺の気持ちを読んでいるのなら、熱があるもので・・・と言えばいいものを、小四郎は何も言わずに、その日はそのままたぬき屋を出た。
そんなことがあったためなのか、小四郎はたぬき屋に通うようになった。そして、いつの間にか老夫婦と顔なじみになった。自分が弱い一面を見せたらだめだと思いながらも、時には妻のこと恭子のことを話すこともある。
老夫婦と打ち解けて言葉を交わすようになったが、小四郎はここでも自分が刑事だとは言っていない。彼は、そのような素振りをみせないように気を配っている。しかし、人間は思うほど鈍感ではない。南風荘の住人には見せない面を、小四郎は老夫婦に見せているかも知れない。今の彼には唯一自分が南小四郎で居られる場所なのである。
老夫婦は小四郎に他の常連客とは違う何か異様なものを感じ取っているかもしれない。気分がいい時には一時間以上も入り口の横のテーブルを陣取り座っていることもある。その席は、入って来る客の表情がよく観察できる。刑事としての観察力を養っているのではないが、この一日を小四郎は十分気に入っている。
小林刑事からの電話では、「怪我をした人がいる。
「急がないと、その人は死んでしまうかも知れない」
と、救急に知らせが入り、救急隊員が現場に行くと、夫らしき男がナイフを持ち、傍にはすでに息絶えた妻らしき女が倒れていたということだった。状況は間違いなく事件だが、今の段階では何があったか断定することは出来ない。
ただ、こういう時の小四郎の勘は鋭くて外すことはないのだが、この先しばらくは休みの日が少なくなり、たぬき屋にはしばらく来ることはないと思った。
踏切を渡ると、すぐに広場がある。子供たちが遊ぶのには十分の広さだった。休みの日とか学校が終わって、家でのゲームに飽きた子供たちには絶好の遊び場所になっているようだった。地図にも載らない小さな社は、広場の奥にあった。
小さな石の鳥居があり黒や灰色のつるつるの石が敷き詰めてある参道の長さは十メートルほどで、その先にそれ程大きくない森がある。樹木の色や艶から受ける印象は相当古い。
古い社は大きな神社で見られるような気の柵で囲いをしてあるわけではない。だから、近寄り難い神聖さはなかった。
その昔、近くを通りかかった旅人の目に止まり、この先の旅の安全を祈ったに違いない。そういう印象を抱いてしまう古さがあった。しかし、なぜここに・・・と思ってしまう。
(なぜ、俺は気付かなかった?)
南小四郎は歴史のこういうものに興味がないわけではない。事件によっては歴史の知識が必要な時もある。実際に起こった事実と比べ、歴史の真実の部分だけを抜き出し、より正しい推理を働かせなくてはならないこともある。
だが、今は、この社が気になる程度だった。名前のない小さな社は、周りの風景と実に不釣り合いな存在感があった。社の背後にある樹木の下は、一層の雑草が生い茂っていた。その先はどうなっているのかというと、何処かの家の屋根が見えた。そこから見ると、ここはどのように見えるのだろうと彼はふっと考えたことがあった。考えただけである。すぐにかんがえたことすら忘れた。
実際、社の裏側に行ってみたことはない。今の所、気になるほどの興味はあるが、それ以上のことはなかった。
南小四郎は誰もいない小さな社の広場を見回した後、鳥居の前の石段に腰を下ろした。
この時間に子供たちがいないのは分かるが、あいつらもいなかった。
(ここは、あいつらにはちょうど良い場所ではないのか!)
と彼は思った。誰にも邪魔されない場所だったら、男と女・・・どんどん気が昂って来るはずである。そんな場所なのに、人ひとりいない。これから、人が死んでいる現場に行こうとしている刑事がいるだけである。
(そうか。そういう場所ではないのか)
小四郎は妻の良子を、
(何処へ誘ったのか・・・)
思い出そうとした。
南小四郎はすぐに苦笑した。彼は何も思い出せなかった。彼は良子と何処へ行ったのか。何を話したのか。そこで、何をしたのか。みんな忘れてしまっていた。
南小四郎警部は黙って窓の外を眺め、すれ違う車に見ていた。
小林刑事は助手席の南警部に時々目をやり、今の段階では四十字足らずの説明で済む事件に、どんな反応を示すか興味を持って見ていた。
小四郎は窓を一杯に開けた。風が一気に車内に吹き込んできた。彼はその風を大きな顔で受け止めた。小林刑事は、警部のその姿が可笑しかったので、笑おうとしたが相手が警部だったので唇を引き締めた。
生暖かい風だったが、少しひんやりとした空気が混じっていたので気持ち良かった。小四郎は座席に深くからだを沈めた。彼は、ふっとこのまま何処かへ行ってしまいたい気分になった。
志摩の海が懐かしかった。夏の夜空も、名古屋のむんむんとした暑苦しさに参っているように見えた。小四郎の目は、今見える星の彼方にある志摩まで一気に飛んだ。この頃、妙に志摩の海の青さが、小四郎の目の前をよぎって行くことが多かった。三十も半ばを過ぎると、みんな、こうなるのかな・・・と小四郎は思ったりもした。
志摩の地に貼りつくような濃い海の緑も、今では断片的な絵でしか思い出せなくなっていた。それ程長い間、彼は志摩に帰っていなかった。
「むっ!何?」
小四郎の細い頬がビクッビクッと二度震えた。
「誰だって?誰の家に向かっているんだ?」
小四郎は座席に沈めていた上体を起こし、小林刑事を睨んだ。
小林刑事は知らせを受けた事件のあらましを話すのをやめた。
「何のことを言っているんですか?」
「誰だ?誰の家に向かっているんだ?」
小四郎は繰り返した。
「えっ。あぁ、大伴六太郎という人の家です」
「大森六太郎・・・」
「そうです。それが、何か・・・?」
「大森・・・いや・・・」
小四郎はその後の言葉が出て来なかった。志摩のことを妙に思い出すようになっていた時に、小四郎の良く知る名前が出て来た。しかも、事件の被害者・・・加害者としてである。今の所、どっちなのか、彼には判らなかった。
(あいつか!あいつなのか?あいつ・・・名古屋に来ていたのか!)
小四郎は自分の知っている大伴六太郎の顔を思い浮かべてみた。
十七の時か・・・高校を卒業してから会っていないな。小四郎の脳裏を大森六太郎に関したいろいろな映像が流れた。彼の知る六太郎なのかは分からないが、そうだとして彼の脳裏に浮かんだのは十七歳の六太郎だった。
そして、彼、南小四郎も十七歳に戻っていた。小四郎の心は乱れ始めていた。今向かっている事件現場にいるのが、まだ彼の知る友人と分かったわけではないのにである。
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