第十四章

津田砂代が兄六太郎の家に行く時には、通常は裏木戸からにしている。

 「お前がこっちの家に来る時には、わざわざ玄関に回らなくてもいい」

と六太郎から言われていた。昼間はともかく夜・・・今日のように深夜には安心して行き来することが出来る。六太郎の気遣いなのかもしれないと彼女は思っている。

裏木戸なんて、今の時代には余り使っている人はいないかもしれないけど、志摩の座神では多分今も使っている家が多いはずである。彼女は兄の使う古い言葉からも、志摩で起こった自分の家族の哀しい出来事を完全に忘れられないでいた。

 裏木戸といっても、一旦外に出なくてはならない。普通の裏木戸のように誰もが自由に入れるのではなくて、ちゃんと鍵付きになっている。五つの数字を重ね合わせなければならない特別な鍵になっていた。

 救急車のサイレンは間違いなくこっちに向かって来ていた。砂代はそう思い始めていた。今の所、耳をつんざくというほどの音ではない。彼女の不安通り救急車がここに向かっているのならば、その内この近辺が騒がしくなるのは間違いなかった。

 大森六太郎がなぜ栗谷町字栗谷という土地に家を建てたのか、砂代には分からない。一般の社会とは別離したような錯覚に陥ってしまう不可思議な場所だった。この感覚は、志摩にいる時と似ていた。彼女には逃げるように出て来た座神だっただけに、兄に呼ばれここに住み始めた時、彼女はしばらくすれ違う人の目ばかり気にしていた。

 幸いにして、ここに住む誰もが彼女の過去を全く知らなかった。砂代が話さない限り、彼女の過去は誰も知ることはないのである。娘の孝子がまだ九歳ということもあり、学校の行事などに出て、砂代は何人かの友達が出来た。砂代は彼らに自分の過去を話したことはない。

 砂代は通りに出た時、すぐに背筋を怖気が走った。その瞬間、彼女は急いでいる足を止めた。

 (何?)

と彼女は周りに目を配った。

 (何かが・・・誰かが・・・?)

砂代にはよく分からなかったが、自分を見ている誰かが、自分の傍に何かがいる、と感じた。手を触れれば間違いなく感触がある何かがいる。でも、何も見えない。恐怖心からなのか芽生える震えが、彼女の全身を襲って来た。

 砂代はもう一度家の周りを見回したが、何も目にすることが出来なかった。彼女の耳には相変わらず救急車のサイレンが聞こえて来ていた。しかも、彼女の不安通り、サイレンの音量はかなり大きくなり、もうそこまで来ているという気がした。

(この感じは救急車のせい?違う!それだけじゃない)

「いけない。急ごう」

と砂代は自分に言い聞かせた。一刻も早く、この不安なのか恐怖心なのか分からないが、理由を確かめなければならない。しかし、

(やはり)

何かがいるという感覚は消えていなかった。彼女の心は落ち着かず、なぜか焦っている。通りに出て、どのくらい経つのかという時間の感覚も失っていた。

裏木戸の鍵の番号を五つ合わせようとしている時、彼女は今この瞬間はっきりと人の気配を感じたので、もう一度振り向いた。

夫の英美だった。

英美は家の方に向かって歩いていた。父喜久雄が母を殺した時の異常な不安を通り越した心細さが蘇り、彼女はかろうじて立っていた。自分の意志では絶対に思い出すことがなかった。彼女は英美に声を掛けようかと思った。だが、彼女は体の中から出て来る言葉を押し殺した。誰かが早く来て、と叫んでいる声が聞こえたような気がしたので、一人で兄の家に入ることにした。

「あっ!」

砂代は裏木戸が開いているのに気付いた。

(誰が・・・?)

彼女はこの裏木戸を開けられる者の顔を思い浮かべたが、すぐに浮かんできたのは英美だった。

しかし、英美はここから出て来なかった。

「やはり、何かが、変・・・?」

砂代は改めて自分に言い聞かせた。彼女は大きくなっていく不安を抱いたまま、兄六太郎の家の中に入った。


飯島一矢は今自分が向かっている先に、弟卓の友達、智香の家があるのを知っている。しかもそこに行くのが目的で、俺はこんな時間に歩いている、とはっきりと意識している。

(ただ・・・なぜ・・・)

そこに向かっているのかという疑問の答えは出していなかった。一矢の耳には救急車のサイレンの音が聞こえていた。自分はあの音と同じ所に向かっている、と一矢は確信している。

時間は深夜の十二時を過ぎていた。彼の通う高校は、今日七月十九日は一学期の終了式だった。学校に行かなくてはいけないので、家に帰って少しでも寝ておこうなんて、一矢は考えなかった。これまでも、前日の夜一睡もしないまま学校に行ったことが、何回もあった。だからと言って、彼は一度だって学校で居眠りをしなかった。

一矢は今体の中にある、これまでに感じたことのない心の高揚の塊りに驚いていた。

(これは・・・何だ?)

僕は何かをしなくてはいけない。

(何を・・・?)

「何をせよと言うのだ。僕の着持つとは別に、誰かが、僕に来いとささやいている」

(何が、あるのだ、そこに?誰が、いる?誰が待っているのだ?)

一矢はぶつぶつと呟いている。彼の心とは別にた。。自分の体を制御出来ないでいる。

(恐怖心を取り除くために、僕は言いなりになっているのか?怖い!僕が・・・そんなことはない)

どうして僕が・・・怖がる?一矢はすぐに否定した。

不思議なことに、一矢は今までに恐怖心なんて抱いたことがなかった。彼の心の記憶に残っている限り、怖いとか怯えで体が震えるなんて、これまで一度もなかった。彼は十七歳だ

が、限りなく遠い過去の記憶の中に入って行くことが出来た。

可笑しなことだが、母のおなかの中にいた頃までということである。ただ、彼はその一歩手前の所で踏みとどまり、引き返している。今の現実とは、違う別の何かが゛あると予想している。その先に見えたのが幻想なのかも知れない。何かが見えたのは確かだった。このことに関して、一矢は何の疑問も抱かなかったし、みんなやっていることだと思っていた。だから、普通の人が全く信じないことを、誰にも話さなかった。

一矢は一度記憶の彼方を目指したことがあった。自分の真の姿が見える過去に興味がないはずがない。一年前、二年前・・・この辺りは彼の記憶にもはっきりと残っていた。しかし、彼はすぐにその先に進むのをやめてしまった。なぜか・・・彼にはなぜだか分からないが、この時は、暗闇しか見えなかったのである。

(なぜ・・・その先には光明が見えたかも知れないのに?)

一矢は何度か自分自身に問うたが、答えを得ることが出来なかった。そして、彼はいつの間にか自分の過去に興味を示さなくなった。というより、ここしばらくは・・・である。

飯島一矢が目指していた家が見えて来た。大森智香という少女は、弟卓の友達であって、彼、一矢の友達ではなかった。だから、智香と話したのは、あの一年で挨拶程度の会話が一二度あるだけだった。

(それ以外に・・・一度だけ、一条で見かけ、後をつけたことがある・・・)

今、この時期に、彼女の家の中に入っていいのか?どうすればいいのか、彼に迷いはなかった。

一矢はまた両手を組み、印を結び始めていた。

(ここに・・・)

自分が導かれた理由を、彼は考えようとしていた。分からないから、彼は苛立ちとは遥かに違う感情の乱れを感じていた。

(何かが・・・いる、この近くに・・・見える)

一矢の興奮の度合いは間違いなく増していた。今の所、その因は、彼にも判然としない。彼は救急車のサイレンの音量に耳を集中させた。救急車はもうそこまで来ていた。

(ほほう!)

一矢はにやりと笑った。この先に何かがいる、

(この家の中か!)

確かな確信を得たようだった。彼は心躍る満足感を持った。

「何だ?人か・・・誰だ?」

一矢の印を結ぶ手に力が入った。

ここだ。ここに、何かが、誰かがいる、と自分の気持ちを奮い立たせた。その存在と相対するのが、あの子である.彼の記憶の中から少女の姿を呼び起こすのに、それほど時間は掛からなかった。

「会いたい!」

一矢は、なぜか叫んだ。

そのために、ここに来たのではないのは、彼はよく理解していた。彼の心に小刻みな動揺が走った時、少女の家の裏木戸から誰かが入って行くのに気付いた。女・・・だった。一矢がその女の後を追って、少女の家に入るのに戸惑いも躊躇もなかった。


俺も智香の家の中に入るべきか・・・飯島卓は迷った。彼はそうすべきと決めたのではなかった。彼の体が行動を起こさせた。兄一矢に続いて、智香の家の中に入った。ひょっとして一矢に対する嫉妬心があったのかも知れない。


「おかしい!変だわ。やはり、何かがあったんだ」

津田砂代は、自分が感じた不安は勘違いじゃないと確信した。

(あの時と同じ・・・)

彼女はこのまま倒れてしまいそうな圧迫感に耐えていた。

裏木戸から入ると、すぐに兄の家の庭に出る。座神の家から見える志摩の英虞湾を模倣して造った庭のようであった。この時間の庭の映像は、座神の家から見える実際の英虞湾と同じように陽が落ちて静寂そのものだった。六太郎がこのような庭をどうして造らせたのか、彼女には分からなかった。そして、六太郎がこの庭を毎日見て、何を思い返し回想しているんだろうと彼女は考えてみたことがある。しかし、この点についても彼女には理解出来ない兄がいた。

六太郎の家の居間は、こんな時間でも明かりが点いていることが多かった。彼女は深夜゜白壁の土塀越しに何度も目にしていた。英美から夜遅く商談で人が訪ねてくると聞いたことがある。彼女が可笑しいと思ったのは、居間のガラス戸が開いていたことである。六太郎は昼間でもそうだが、特に夜は必ずガラス戸を閉めるように神経質なくらい言っていた。だから、こんな時間に開けっ放しというのは、確かに変だった。

(誰かがいる。兄の知らない誰かがいる)

近付く救急車のサイレンの音が、砂代を一層急き立てた。早く行って、何があったのかを確かめなくては

(・・・)

砂代の脳裏をただ呆然と立ち尽くす父、倒れ動こうとしない母の映像が蘇る。あの時は、他に誰もいなかった。でも、今日は、

(・・・誰かいるの?)

また、あのような場面に遭遇するのではという不安と怖さは、彼女の足の動きを鈍らせる。

開いているガラス戸から覗き込んだ居間の光景を目にした時、砂代は一気に別世界に吸い込まれたような錯覚に陥った。

「何が・・・あったの?」

それ以上の言葉が、彼女の口から出て来なかった。彼女の目は視界の中で動いているものを探し求めた。しかし、幸いに彼女が気になっていた不審な人物はいなかった。

津田砂代はすぐに目に映った情景を理解した。この後、自分の取った行動が正しかったのか間違っていたのか、彼女には分からない。ただ、今のこの生活を守らなくてはならない、と思ったのははっきりと覚えていた。

「お兄さん!」

砂代は呆然と立っている六太郎に声を掛けたが、返事はなかった。そればかりか、彼女がいるのにも気づいていないようだった。あの時の父と同じだった。彼女はもう一度声を掛けようとしたが、何があったの、という言葉を呑み込んだ。

兄六太郎は血の付いたペーパーナイフを握り締めていた。そんな兄の足元に倒れていたのは真奈香だと分かった。何が起こったのか、彼女はすぐに理解した。

(同じことが・・・どうして同じことが起こるの?ここで、何が・・・!)

と何度も自分を問い詰めた。真奈香の体の下から流れ出ている黒い液体は、血だと分かった。

そして、そんな傷ついた真奈香を抱きながら、気を失っている智香に気付いた。この子だけが正気だと彼女は直感した。彼女は智香を抱きかかえ、救急車を到着する前に家に連れて帰った。

(この子は、まだ十二歳なのよ)

砂代は体の中から込み上げて来る気持ちを抑えるのに懸命だった。

今、私は泣くわけにはいかないと強く思った。

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