第十三章

津田砂代はなかなか眠ることが出来なかった。

(今日はどうしたのかしら?)

この暑さのせいで?そんなことはない。名古屋のこの苛々する暑さは、

(今日だけじゃない。毎年そうなんだから)

ここまで分かっているのに、この体が締め付けられるような不安は、

(何なの?)

彼女の胸の奥の方で、ナメクジのような生き物がざわついていて落ち着かなかった。

愛知県の名古屋に来て、四年が過ぎた。まだ、この嫌な感じの暑さに慣れない。この気が狂った異常な暑さに、たった四年で慣れろというのは無理。彼女はきっぱりと言い切った。

(だから、違うの。寝られないのは、この暑さのためじゃない。あぁ・・・何なの、この嫌な感じ?)

砂代は胸の中を気味の悪い生き物が這いまわる嫌な感じを、はっきりと認識していた。頭を振り、吹き飛ばそうとしたが消えない。いやな気分だった。彼女はこの嫌な感じに似たものを、以前味わったことがあるのをはっきりと覚えていた。父喜久雄が母を殺した少し前に感じた胸騒ぎに似ていた彼女の場合は、間違いなく殺した。それは誰もが否定していない。また、

(私に何かが起ころうとしているの?)

砂代が十七歳の時だった。

「嫌!」

砂代は強く首を振った。彼女の記憶の中から半ば強引に消し去っていた父と母の映像だが、時々彼女の心の隙間を縫って、彼女を悩まし続けていた。彼女は夫の英美がベッドにいないのに気付いた。

(何処へ・・・?)

砂代はいぶかったが、こんなことー英美がいなくなるーは以前からないことはなかった。あの人は名古屋のむんむんした暑さに耐えられないので、人間の気配に気付いてカエルのように気ままにぴょんぴょんとまた外へ出て行ったのかも知れない。彼女は気付かないふりをして、何も言ったことがない。

大阪にいた時は、このようなことは一度もなかった。

(あの頃は、二人とも若かった)

砂代の兄六太郎に、こっちに来いという知らせを受けた。英美は名古屋に来てから、彼女に何処へ行ってくるとも言わずに一人で出て行くことが多くなった。必ず帰って来るのだが、彼女が英美と知り合った頃は何度も警察に捕まったことがあるから心配しているのである。

(慣れない仕事の連続で、気疲れして眠れない日があるんだろう。そんな日は独りになりたいのかもしれない)

 砂代は英美に同情し、こう自分に言い聞かせた。そうであって欲しい。彼女は心から祈った。

 「俺の近くに住まないか?志摩の家じゃないぞ。あっちはあっちで買い戻した。俺は今名古屋にいる。みんな・・・いる。お前も、来い」

 兄の六太郎から突然の誘いがあった。みんなとは、誰とだれなのか、すぐには彼女には分からなかった。

名古屋に来た時、砂代たちの住む家もちゃんと用意してあった。兄は妹に約束していた。必ず家を建て直し、お前を呼び返すから、と言って砂代を一人で大阪に送り出した。砂代が十七歳の時だった。

 六太郎と砂代の父大森喜久雄は、三重県の志摩地方で真珠の店を二つ持っていた。だが、時代の急激な変化が、人間にどのような心の変化を与えるのかを読み取れずに、倒産してしまった。読み取れなかったのは何も大森喜久雄だけではなかった。地元の海産物の店やホテル、旅館、民宿などもみんな同じだった。完全に観光地化されてきた志摩では、ただの真珠だけではそれまでのように店を維持していくことが出来なくなったのである。

 砂代はまだ高校を卒業していなかった。兄六太郎から、お前は高校だけは卒業しろ、金は俺が何とかするからと言われた。

 

しかし、債権者たちの厳しい取り立てに、卒業した時には、彼女の心はボロボロになってしまっていた。六太郎に勧められたこともあるが、志摩にこれ以上いるのが嫌になり、彼女は大阪に出た。六太郎は必ず家を立てなおし、お前を迎えに行くと約束して、彼女を送り出した。

 大森砂代は大阪で、一人で暮らすようになった。独りという不安と恐怖はそれまで感じたことのない苦しさだった。寝られない日も、寂しくて泣いた日もあった。でも、彼女は耐えた。生きているかぎり、耐え忍ぶしかなかった。六太郎をまじかに見て覚えたことだった。何処からか誰かに見られているという怖さから逃げるように、いろいろな仕事をした。志摩で起こったことを忘れられず、やけくそになり心も体も傷付けた。何度も泣いたし、ほんの少しだけ笑いもした。

 そんな時、津田英美と知り合った。その頃英美は仕事もせずに、大阪の鶴橋、難波などの細い路地ばかりを好んでぶらついていた。共に生きる気力のない者同士が出会っただけ。少しの感動もない出会いだった。直ぐに一緒に住み始め、子供が出来た。孝子である。子供が出来たことで、英美は、少しは働くようになった。  

 それでも、砂代のパートの収入が大事な生活費の半分以上を占めた。家賃三万円のボロアパートは惨めだったが、その頃の彼女は今日英美と別れると、本当に独りになってしまうという恐怖があった。

 何年か前に六太郎が言ったことなどすっかり忘れていた時だった、彼女の元へ兄の使いの人が現れたのは。

 英美は六太郎のいる名古屋へ行くのを嫌がった。

 砂代は六太郎に英美と同棲して子供が出来たのは知らせていなかった。だけど、六太郎は英美のことも孝子のことも知っていたようで、あなたを責める気はないと社長は言っています、と使いの人は説明した。

それでも、英美は躊躇していた。それまでの生活から他人をそう簡単に信用しなくなり、人への不信感からが、それまで一度もあったことのない六太郎への不安をつのらせた。自分が定職に就かずにふらついた生活をしていることや砂代と同棲し子供まで生まれたことを、彼は六太郎に責められると言い張った。

 砂代は、そんな兄ではないと夫を説得した。英美は縛られる生活を嫌ったのだろう。英美は、徳島県の周りが山ばかりの所で生まれ、バスか朝と夕方の二時間に三本あるかないかの所で育った、と英美は砂代に言葉少なに説明した。彼女が聞いたから答えたが、そうでなければずっと話さないつもりのようだった。英美は一人でそこから出て来たが、行き着く場所は別に大阪でなくても良かったようだ。たまたま大阪だったに過ぎない。縛られた不自由な生活だった、とふっともらしたが、彼女は、何が不自由だったの、と聞いても正友は黙ったままだった。

 「そこは、どういう所だったの?」

 と聞いても、英美は一切何も話さなかった。

 他人から惨めな生活に見えるが、英美は大阪で得た自由が気に入っているようだった。

「そんなの自由じゃない」

と砂代は言ったことがある。そして、

 「このままでは私たちの生活は終わりなのよ」

 と絶対に言う気もなかった言葉を出してしまった。

 兄、六太郎の使いが来たのが四年前。それ以前に六太郎は惨めな境遇から立ち直っていたことになる。六太郎が打ちひしがれていたのは、三年足らずということになる。

 砂代は名古屋に来て、兄の成功を目の当たりにして、驚きと嬉しさで胸の高鳴りがしばらく消えなかった。砂代は兄がよく言うやり手だとは思わない。時々見せる気の弱い性格から、実業家といった風貌も精神の強さもないというのが、彼女の妹としての印象である。父の喜久雄もそうだった。彼女の記憶には兄の優しさだけが焼き付いていた。

 (何が・・・?)

兄をここまで努力と頑張りをさせたのか、砂代には良く分からなかった。名古屋の中心地からは大分と離れているが、彼女の記憶にある志摩の家と同じくらいの大きさの家を建てていた。その隣りに、砂代たちの住む家を建て、おまけに人手に渡った志摩の座神の家も買い戻したという。

 ただ、彼女には不安があった。それは、兄六太郎も父喜久雄と同じように実業家などではないということである。また父とおなじような何かが起こるのではないかという不安というよりは、言い知れぬ怖さを彼女は感じていた。

 でも、その兄のおかげで、今こうして落ち着いた生活をしていられる。兄に言葉に言い表せない感謝を抱いていた。

 六太郎は、

「私の秘書をやってもらう」

と英美に言った。どうやら真珠など貴金属の知識を覚えさせるようだった。

 砂代は、英美に真珠を主とした貴金属販売の仕事が出来るとは思わなかった。案の定、英美は初めから嫌がり、家に帰って来ると小言ばかりを言っていた。砂代は根気良く英美に言い聞かせていた。

 その甲斐もあって、英美の小言は次第に少なくなっていった。時々彼女の前からいなくなるのは、以前のように自分なりの自由な時間が欲しいからだ、と彼女はかってに理解していた。

 砂代は、英美も良く頑張ったと思っている。慣れない仕事で疲れているんだろう、寝ている顔は、彼女が一番好きだった頃の英美の優しさが寝顔に浮かんでいる。今の生活がこのまま続けばいい、と砂代はいつも心の中で願っている。

 津田砂代がもう一度エアコンのタイマーを一時間後にセットし終わった時、救急車のサイレンの音が耳に飛び込んで来た。

 この気の狂った今の時には、特に珍しいことではない。この気の狂った暑さが、人間の体も精神もめちゃくちゃにしてしまっている。名古屋の一風変わった都市では、一夜に二度や三度耳にするのはざらである。人間が活動している証拠なのである。何が起こっても不思議ではない時間と季節なのである。

 (また、事故なのね)

 と、いつもは聞き流すが、今日の彼女は違った。

 (もしかして・・・)

 そういう勘と言うか不安が、砂代の心に生まれた。

 いつかはまた自分の身近で何かが起こるという恐怖心を抱いていた。砂代の消そうとしても消せない記憶だった。

 そういう気持ちもあるのだろう、

(お兄さんに何かが・・・)

起こっている、と彼女は確信してしまった。その瞬間から、不安は間違いなく恐怖に変わった。あの頃の記憶が蘇り、ぞくぞくと背筋の震えが止まらなくなった。彼女はじっとしていられなくなり、家を飛び出した。

 (何処へ・・・?) 

 もちろん、隣りにある兄の家にである。彼女の心に迷いはなかった。

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