第十二章

南小四郎警部はアパートの部屋の鍵をゆっくりと左に回した。カチッと気に障る音が、彼の耳に侵入した。彼の脳が一瞬キリッと痛む。

「ちっ、しまった」

小四郎は小さく舌を鳴らした。

(聞こえたかな?)

南小四郎の目は隣の部屋の窓をみた。

(明かりが点くかな?)

小さな音だった。大丈夫だ。背中がピリピリと二度神経質に震え、びびっている自分が嫌になるほどよく分かる。彼は腕時計に目をやった。午前一時三分だった。昼間じゃない。真夜中だ。事件で呼び出しがあるのは、いつも大体こんな時間だ。

小林刑事から、

「殺人事件になるかも知れません」

と連絡が入った時には隣りのエアコンは止まっていた。多分、今頃はぐっすり寝ているんだろう、あの女。しかし、あの時はもっと小さな音だった。それなのに、次の朝、文句を言われた。

 (南さん、夜は寝るものですよ、か)

笑ったね。あの時は、ただ俺の運が悪かっただけだ。

 南小四郎は笑った。声だけが死神みたいに調子のいい女の顔を思い出したのだが、こんな時に、俺は何を思い出しているんだ。彼は体が震えたのに気付いた。あの女にひびっている自分が可笑しかった。

 南小四郎はアパートの住人と挨拶程度の付き合いしかしていない。このアパートに住んで六年になるが、小四郎がどんな仕事をしているのかなんて誰も聞いて来ない。そして、わざわざ彼の方から刑事をやっているなんて言うこともない。だから、彼が刑事だなんて誰一人知らないはずである。

名古屋市内に通う冴えない中年の会社員だと思われているのかも知れない。小四郎はそれでいい、と思っている。刑事という仕事は、他人に、特に一般の人たちに自慢するような職業だとは思っていない。

南小四郎は革靴の音が廊下に響かないようゆっくりと歩いた。しかし、すっかり履きつくした靴だから、ひびくような音はしないはずだ。今では珍しい木の廊下で、建てて結構時間が経っていた。木の廊下の床板は所々反り返っていた。歩くとギィーとかゴリッとか気の障る音がすることがある。その音が靴底に響き、水虫が暴れているような嫌な感じがした。誰かが文句を言っても良さそうなものだが、誰も大家に文句を言わない。しかし、この苛立つ音は、アパートの防犯に役立っているのは確かだった。

愛知県警察・港南署の小林和男刑事から連絡があって、すぐに部屋を出た。通常丸の内にある愛知県警への出勤は、名鉄の常滑線の寺屋駅から名古屋に出る。その後、地下鉄に乗るのだが、特に深夜などに起きた事件の時は、管轄の署から南の住むアパートまで迎えに来てくれる。今度起こった事象が殺人事件に発展するのか、今のところは分からない。小林和男刑事は港南署にいる。ということは、起こった場所は港南署圏内になる。小林刑事はいつもアバートの前まで迎えに来てくれるが、彼が到着するまでにはもう少し時間がある。

今日一日暑苦しい部屋にいたためかも知れないが、少し歩きたい気分だった。気持ち良かった。

「あそこまで行くか」

南小四郎は躊躇することなく歩き出した。

一階二階とも五つの部屋があり、小四郎の部屋は二階の真ん中だった。階段を降り、駐車場まで来た時、やはり誰かが起きたのではないかと気になった。彼は堪らず振り返った。

二〇一号室の部屋の明かりだけが点いていた。

あいつ以外、みんな寝ているようだ、と小四郎は思った。

あいつは特別だった。七月中旬の名古屋の気温は、毎年尋常じゃない暑さになる。もうそこまで来ている夏の暑さと名古屋独特の梅雨の蒸し暑さが空気中で喧嘩をする。どちらも負けず嫌いで、なかなか負けを認めない。彼らは人間の苦しみなどお構いなしだ。裸で動かずにいても、体が何重もの縄で絞め付けられているようで、息苦しい感覚に陥ってしまう。

二〇一号室の住人は何でも新聞に入るチラシのデザインの仕事をやっているようだった。時には頼まれれば演劇や歌手の公演のポスターも描いているらしかった。南小四郎は特に気にはしていなかったが、部屋の表札に名前がないこともあって、いつの間にか気にするようになった。そうかといって、改めて調べることはなかった。

このアパートに入った頃、やはり夏だったが、階段を上がって行くとキッチンの窓が開いていたことがあった。相変わらず部屋の戸は閉まっていた。余程、暑かったのかも知れない。小四郎は本当に興味深々で、二〇一号室の中をうかがった。あいつはいなかった。部屋の中は紙や雑誌が散らばっていた。奥の六畳も雑然としていて、人柄を探ることは出来なかった。

キッチンのデーブルがあいつの仕事机になっているんだろう、何処かの市民センターである浪曲ショーのポスターらしき絵が見えた。あいつが描いたポスターのようだった。

あいつの部屋だけは人の出入りが激しかったが、特に夜は時間関係なしに人がやって来ているようだった。印刷会社やいろいろな会社の宣伝担当の人が出来上がった原稿を取りに来ているようだった。

あいつは二十四五・・・か?いや、もっといっているかも知れない。ひょっとして俺と同じくらいに思えないこともない。人間の年齢なんて外見では判断つかない。髪の毛はぼさぼさで、何日も頭など洗ったことがない印象がある。体は結構大きく、小四郎が一瞬身を引いてしまうほど身長が高い。何度も顔を合わせていないが、人に与える威圧感は相当なものだった。職業柄かも知れないが、あいつの目が異様に輝いていたのを見逃さなかった。そして、その輝きの中に、暗く冷たい感じがあったのを、小四郎ははっきりと覚えている。刑事としてのある種の勘だった。

(もっと若いのか・・・近頃見ない若者だ)

と、その時、小四郎は率直な考えを抱いた。

南小四郎は苦笑いをした。

もし、あいつが小四郎の推理通りの歳なら、小四郎とは一回り以上も違うのである。俺はそんな歳なのか。小四郎は体が急にそわそわし出した。彼は服のポケットの中を探った。こんな時の癖で、なかなか取れない。もう煙草はない。一人になってから、煙草は止めた。理由はない。ただ、何をするのも面倒臭くなってしまった。煙草を吸う動作さえ億劫になってしまったのだ。

南小四郎は、その頃からあいつの得体の知れない不気味さに、可笑しな心境だが、苛立ちから不可解な男として頭の中にこびりついている。だから、二年前か、その年の八月、夏のど真ん中の暑苦しい時、いつもと違う駐車場側の階段から上がって行ったことがある。事件と事件の合間にある、ちょっとした気休めの時である。

(もちろん、目的は・・・(

この時期だから、あいつの部屋の入り口が開いているのは分かっていた。事あるごとに、あいつに心を奪われていた。あいつが部屋にいない時もあるようだった。なぜなのか?調べる必要は、その時は何もなかった。

あいつの部屋の中を覗き見る気は、重々あった。あいつが、その頃抱えていた事件に関係しているわけではなかった。ただ、あいつに゜が誰なのかという個人的興味が強かった。

案の定、入り口は開いていた。南小四郎はあいつと言葉を交わしたことはなかった。だから、こんにちは、と図々しく部屋の中に入って行くわけにはいかなかった。だが、その時は急に我慢できない衝動に駆られた。

(何か言葉を掛けるか)

小四郎は階段を上り切った所で立ち止り、背筋を伸ばした。

その時、小四郎の目は部屋の中にいるあいつを捉えていた。相変わらず雑然としていて、描き損じた紙や雑誌が散らかっていた。あいつは机に向かい、覆いかぶさるような格好で筆を持ち、何やら描いていた。上半身裸で細身に見えたが、筋肉質の体は黒光りして、小四郎の目には美しく見えた。

あいつは、人の気配を感じたのか、顔を上げた。

小四郎の目と合った。

小四郎は瞬間ビクッとした後、体が震えた。

冷酷な視線を感じた。

南小四郎は軽く頭を下げた。その後、彼は顔を上げると、奥の六畳にかかげてある一枚の絵に気付いた。彼の全身に怖気が走った。わずか数秒の印象である。彼は今もその絵の印象を忘れない。


もうひと部屋、らんらんと明かりが点いていた。

二〇三号室のキッチンの明かりが消えていない。南小四郎の部屋である。六畳の和室と四畳半のキッチンだけだが、トイレと風呂も小さいがちゃんと付いている。今の小四郎は独り身だから十分の広さである。

あいつも・・・女が出入りするのを見ていないから独りなんだろう、と妙な満足感を、小四郎は持っている。夫婦だけなら、これでも十分の広さかも知れない。

しかし、子供が一人でもいれば、狭い。そんな家族が一階にいる。夫である男は朝早くアパートを出て行く。妻の方は愛想のいい女である。顔を合わすと、彼女の方から何かと小四郎に話し掛けて来る。小四郎は挨拶程度の当たり障りのない会話をするだけである。素っ気すぎる。もっと話し相手になってやればいいと思うことがある。いつの間にか素直な気持ちで女と話すことが出来なくなっていた。

(もう二度と家庭を持つことはない)

小四郎は心にそう決めていた。だから、自分の考え・・・いや、女と一緒に暮らすという欲望を、日々の自分の考えの中から消してしまっている。

「私たちは間違っていたんですね」

と、良子が言った時一言も言い返さずに、小四郎の方から家を出た。

その時、小四郎は良子の背中に隠れている恭子を見た。

(確か・・・)

五歳だった。その表情が、彼の脳裏から今もこびついて離れない。悲しい目をしていたが、泣いてはいなかった。じっと何かを我慢しているように見えた。恭子が泣くときは、いつも彼の胸に抱き付き泣いた。今はまた俺が傍にいるんだから、こっちに来て泣けばいいのにと彼は思ったのを覚えている。思い出したくない情景だったが気を抜くと、小四郎の心に襲い掛かって来た。一〇二号室の子供は見た所三歳くらいだが、父親に抱かれている姿を見ると、小四郎は恭子を思い出してしまう。

南小四郎の母は四年前に、父は二年前に死んだ。母は肺がんだったが、父は交通事故だった。彼には父も母もこれと言って理由もなしに、実に煩わしい存在だった。十五六の頃理由もなしに無口になり、二人の反対を押し切って東京の大学に出た。結果として東京にいる四年間母親からの仕送りはあったが、彼としては有っても無くてもどっちでも良かった。小説なんかほとんど読まない彼は、例えにぴったりの言葉が浮かばないが、どんなバイトでもして石に噛り付いてでも大学をしてやるつもりだった。

警察官になるつもりはなかったが、なってしまった。両親は喜んだが、小四郎はそんな気持ちにはなれなかった。二人を喜ばすために警察官になったのではない。たまたまそうなってしまったのである。もうその親もいない。彼にうるさくあれこれ言ってくる者は誰もいないのである。長い間体中を縛っていた鎖がほどけた気だるさがあった。それでも、今、時々妙な寂しさを覚えるのはなぜだろう?

(可笑しい・・・)

小四郎は胸をくすぐられる感じがした。

(今日は・・・いや、この頃かな?)

どうして感傷的な気分になるのは、なぜなんだ?

南小四郎はこの淀んだ気分を変えようと思い、キッチンの明かりを消しに戻ろうかと考えた。小林刑事がこっちに着くのにはまだ少し時間がある。慌てることはない。

(よし!)

と自分に言い聞かせ、少し戻りかけたが、すぐに彼の足は止まった。そして、

「やめた」

と一言呟いた。今からあのむんむんとした部屋に戻る気にはなれなかった。今日一日苦しんだのである。あの暑いのは、

「もういい。もう、ごめんである」

南風荘の看板が二階の通路側の手摺に掛かっている。南小四郎が南風荘に来た五年前と同じ赤の色だ。夜はそう見える。だが、昼間、名古屋の夏の容赦のない太陽の下では小豆色に変える。部屋のいた時は扇風機の熱風に当たりながら、自分はまだ正気であると言い聞かせていたが、外に出て思うに、精神の半分は気が狂っていたんだと実感する。南風荘から離れるに従って、体の芯に残っているむんむんとした暑さが消えて行くような気がした。

「ああー」

気持ち良かった。三十を半ば過ぎた小四郎の丸みを帯びて来た体は急に軽くなった。

南小四郎はリアス式海岸の宝庫である三重県の志摩半島の真ん中、鵜方に生まれた。そこで十八歳まで住んでいた。志摩の夏は嫌いではない。この気持ちは今も変わらないが、この年齢になると、体の方が夏の暑さ、特に名古屋独特の蒸し暑さを拒否するようになって来ていた。

志摩の夏が妙に懐かしかった。ここしばらく名古屋の夏しか知らないこともあった。志摩に帰ろうと思えばいつでも帰れた。それ程、小四郎は志摩の近くにいたのである。しかし、今の彼に自分を納得させるような理由はなかった。だから、彼は帰らなかった。

南小四郎は南風荘の小さな駐車場を横切り、前の通りに出た。普通車がかろうじて対向出来る道幅で、周りは田圃ばかりの道である。いつもは、ここまで小林刑事は迎えに来てくれる。

小四郎はあそこに向かって歩き出した。十メートルも歩かない内に、周りの景色は田圃に変わる。田圃の稲穂は鈍い金色に変わろうとしていた。名古屋の夏なんかに負けてはいなかった。小四郎は思いっきり深呼吸をした。

「違う!」

南小四郎はため息を突くように声を出した。彼のよく知る志摩の空気とは違うということである。

名古屋鉄道の常滑線が百メートルくらい先に見える。そこの踏切に立つと、小四郎が小林刑事と落ち合うあそこが見える。少し前まであることなんて全く気付かなかった名前のない神社である。

「俺は、駅の行き帰り、どの道を歩き、何を見ながら帰って来ていたんだ」

(しっかりしろ!)

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