第十一章
「あっ」
智香は真奈香の顔を見た。母真奈香の頬が微かに動いたような気がしたのである。真奈香の表情にはまだ微かに生気が残っている・・・。
(この人は生きている)
と彼女は思った。お母さまは死なない。絶対に死ぬわけがない。
(そうだ、この人が死ぬわけがない)
真奈香が生き返りそうな気がする。他の人を生き返らして、自分の命を自由に扱えなはずが無い。智香は母の力を信じて、少しの動きも見逃さないとし、母から目を逸らそうとはしない。
だが、真奈香に何の変化も起こらなかった。真奈香を賛美し、そうであって欲しいという気持ちは、智香の心を動かしたが、それは一瞬の希望の輝きに過ぎなかったのか。真奈香の閉じた目は開こうとはしなかった。唇もやはり動こうとはしなかった。
(だめなのですか?)
智香は自分に問い掛けた。当然、答えは返って来るはずもない。彼女は母真奈香が死ぬなんて、一度も考えたことがなかった。
(私は・・・)
智香はこの世界で本当に一人になってしまったのか?
智香にとって、この感情は耐えきれない恐怖だった。彼女にとって、真奈香は母以上の存在だった。真奈香はこの世界の仕組みなどあらゆることを教えてくれる先生だった。智香が唯一尊敬出来る人だった。彼女は真奈香からまだ何も教わっていないのと同じだった。
大体、智香は真奈香が何処で生まれ育ち、父六太郎と何処で知り合い、どのような恋愛をしたのかさえ知らなかった。
(それに・・・)
智香は大きく深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。しかし、彼女の考えはまとまらなかった。言葉に出来ない寂しいという気持ちが、彼女を焦らせ苛立たせた。彼女は真奈香に教わり、自分が今までにやったことを思い出そうとした。真奈香に対して何かが出来るかもしれないと思ったからである。
彼女は自分の近くに、何かが動く気配に気付いた。
「お前たち・・・!」
智香は居間の空間にいくつかの白く飛び回るものに気付いた。彼女が作り、彼女が命を与えた白い友達だった。彼女を心配し、いつの間にか集まって来ていた。
「私にはお前たちがいたわね。お前たちに命を与えることが出来るのも、お母さまの力なのかも・・・」
智香は少し安堵した。周りを飛び回る白い友達に微笑んだ。だが、すぐに物足りなさを感じた。
(だめ。やはり、私にはお母さまがいないとだめだ)
智香は首を振った。母真奈香は、智香には理解することが不可能な存在だった。彼女は両手を前に出した。
(この私は、何?この黒い痣は・・・)
自分の持つこの不思議な力はどういうことなのか、真奈香に聞くのが怖かったから聞かなかった。いつも真奈香の力を見て驚かされていたが、この力がどういうものなのか教えてくれてはいなかった。智香はただ当たり前のように、この事実を受け取っていた。あの一年で勉強し学んだことで、この力の偉大さを知った。ただ、それだけ、それ以上の何も得ていない。
(ああ・・・)
彼女は毒づいた。智香は真奈香の細い体を抱き締めた。母真奈香の肌の温かい感触を忘れないために。
でも、智香に残る真奈香の温もりの記憶は微かにしか感じ取ることが出来なかった。
(お母様は、何処へ行こうとしているのですか?智香も一緒に連れて行って・・・)
真奈香の体がだんだん冷たくなって行くのがはっきりと感じ取れた。智香は母をもっと強く抱き締めた。智香をこの世界に一人残していかないで、と母の心の中に届けと叫んだ。
「ねぇ、お母さま」
智香は涙声で、甘えるように呟いた。真奈香の一番嫌いな智香の行為だった。
「いつものように怒っていいですよ、お母さま。だから、目を開けて」
だが、真奈香の目は開くことはなく、真奈香の厳しく叱る声は何処からも聞こえてこなかった。
突然、智香は顔をしかめた。余りの痛さに、真奈美を抱く力が緩む。
「痛い!痛い、痛い」
また、黒い痣が痛み出した。今までにない、痛みの強さだった。それに、今までなかったことだが、両方の手首の痣が同時に痛み出した。
(こんな時に、どうして私を苦しめるの?まるで、私の不幸を楽しんでいるよう。私の耳には甲高い笑い声が聞こえる)
智香は痛みに耐えて、真奈香を抱き続ける
智香の黒い痣は両方の手首にあるけど、母真奈香は左の手首にだけあった。彼女は一度だけ、「この黒くて気味の悪い痣は、どうして智香の手首にあるのですか?お母さまが知っているのなら教えて下さい。まるで生きている蛇が巻き付いているようなんです」
と聞いてことがあった。
真奈香はちょっとだけ悲しい表情を見せ、智香を見つめた。目が潤み、智香には泣いているように見えた。でも、こんな気弱な所を見せてはいけないと思ったのか、厳しい目で智香を見つめ、
「これは・・・そうですね、これは、私たちの宿命、避けられないあなたの宿命なのです。智香の痣は、お前も気付いているように両方の手首にあります。私の宿命よりずっと重いものです。悲しんではいけません。生きることを悲観してはいけません。宿命から逃げてはいけません。重い宿命はあなたに大きな苦痛と恐怖、激しい悲しみを与えるかもしれませんが、それを乗り越えた時、いいえ、それらを乗り越えている時、あなたは限りない力を得ているはずです」
と言った後、娘を見て、にこりと微笑んだ。
「私の言っていることが理解し難いようですね。その内、分かります。あなたを一年間遠い時代に行かせたのも、それなりの理由があります。今は何も分からなくていいです。やがて、あなた自身が体験し、突き進んでいかなくてはならないのです。そう、そうですね。その時、あなたが得る力がどのようなものなのか、私には分かりません。それであなたは喜びを得ることはないかも知れません。でも、他の人が、あなたを取り巻く人々が限りない喜びと心の安らぎを得るはずです。智香。あなたの宿命に従いなさい。私とあなたの祖先がそうであったように。私たちの家系はやっとあなたと出会えることが出来たのです。夢と希望を多くの人々に与えることで、あなたの体を愛で一杯にして下さい。その時、あなたも心の安らぎと細やかな幸せを得るかもしれません。それで、いいではありませんか。母は、お前は宿命に負けないで生きていけると信じています」
黒い痣を見る度、痛みを感じ苦痛に耐えている時、智香は母のこの言葉を思い出す。でも、 でも・・・。彼女には真奈香の言った避けられない宿命が何なのか分からないでいる。いつか詳しいお話を聞こうと思っていたが、怖くて聞けなかったのが悔しい、彼女の正直な気持ちだった。
智香は目をつぶった。というより、もうこれ以上目を開けていられない疲労感に襲われていた。彼女の体から生きて行こうという力、気力のすべてが抜けて行くのが、不思議なことに自分の肉体が萎えていく姿がはっきりと見えた。
ずっと、ずっと遠いところから何かの声が聞こえて来た。人間の優しい声・・・女の人の声だった。
(お母さまの声だ。間違いない。お母さまが私を呼んでいる。そうですね、お母さまですね。あぁ、何を言っているのか、智香にはよく聞こえない。待って、待って下さい。待って・・・何処へ行こうとしているのですか?)
やがて、女の声がついに聞こえなくなった。
(待って、待って・・・)
大森智香は気を失ってしまった。
飯島一矢は、家を出た時には自分が何処へ行こうとしているのか、はっきりとした認識はなかった。とにかく心が命ずるままに歩いた。そして今、自分が何処へ行こうとしているのか、はっきりと意識をしていた。
(僕は、こんな時間にあの子に会いに行こうとしている。なぜ?)
一矢は自分に問いただした。彼は両手を組み合わせ、強く握り締めた。すぐに組み合した手を解き、また組み合す。彼はその動きを何度も何度も繰り返した。何かの疑問の答えが得られない時、人生とかの悩みを考えている時、彼の両手は自然と組み合された。
初め、一矢はこの仕種が何なのかさっぱり分からなかった。
(去年までは)
一矢が奈良平安の時代に興味を持ったのは、この疑問を解きたかったからである。彼は自分のこの奇妙な癖と奈良平安の時代とが、初めは結び付かなかった。だが、日本史の歴史を習い始めて二か月くらいしてから、その時代の闇の世界を支配した陰陽師の存在が一行だけ書かれていた。そのページの左端に、彼の癖がそっくりそのままデッサンされていたのである。
(臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前・・・)
全部で十二文字あった。結ぶ印も、十二あった。一矢は今この文字を何度も繰り返し、唱えている。この一年で、彼はすべてを知ることとなった。
「あの子・・・誰だったか?」
一矢は女の子に全く興味などなかったのである。
あの時代に行き、陰陽の知識を得、修行した。あの子は、初めは泣いてばかりいたが、その内泣かなくなった。
(そうだ、とも・・・智香といったな)
少し前に日付は七月二十一日に変わっていた。こんな時間だからすれ違う人は少ない。それでも、一矢が家を出てから二十人以上の人とすれ違っている。意味のない言葉をぶつぶつ呟き、心身が高揚しているから、自然彼の形相は鋭くなっていた。すれ違った人が、この少年に道を開け、避けたとしても不思議ではない。
家を出てすぐ、一矢の耳に誰かの声が聞こえて来た。唸り声にも似ていて、語り掛けて来ているようにも聞こえた。耳にうるさく、煩わしい声だったが、その内、聞き取れるようになった。
(誰かが・・・俺を呼んでいる・・・)
「誰だ?」
一矢は問うた。
当然、答えはない。
(気のせいか・・・)
一矢は一瞬そう思うが、すぐに違う、気にせい・・・なんかじゃないと肯定した。あの子ではない。卓の友達の女の子ではない。汚らしい男の声である。
ここで突然一矢は立ち止り、背筋を伸ばした。
当然、印を結ぶのは止めている。一矢は何気ない動作で後ろを振り向く。家を出た時から弟の卓が後を付けているのには気付いていた。
出て来い、と叫ぼうとしたが、一矢は思い留まった。呼び出して、どうなる?どうにもならない。一矢はまた歩き始めた。今度は、印を結んでいない。ごく普通の高校生に戻っている。
池内直は名古屋中央医科大学付属の病院、C棟の五階の集中治療室にいた。ベッドには娘の美和が足に包帯が分厚く巻かれ、右の腕にも包帯が巻かれていた。どうやら顔を守ろうとして、右の腕で防御したらしい。交通事故で負った怪我の手術が終わって、二時間ほど経つ。見る限りでは、容態は良くなっているのか、それとも悪いままなのか分からない。娘が生きているという生命の躍動が、こんなに近くにいるのに感じられない。
直はいつものように仕事を終え、帰宅した。時間は午後七時四十分であった。離婚してから変化のない生活をするようになった。彼女が望んでいるのではない。今はそうするしかない、と半ば諦めている。
娘の美和は中学生になったばかりの十一歳である。十一月には十二歳になる。まだあれこれ考えるのは早いが、美和への今年の誕生日プレゼントは何にするか決めていた。まだ、何も言わないでおこう。他にも美和の欲しいものがあるかもしれない。今はこの子にだけ愛情を注げばいいと自分に言い聞かせていた。だから、直は美和の言葉や興味を示すものに注意を払っていた。
自宅のマンションは名古屋市の南区にあり、窓から伊勢湾が見える。二年前に彼女の父に援助をしてもらい、買った。とても女一人で買えるものではなかった。父は、こっちの家に帰って来いと言っていたが、直の方がいやがった。一度言い張ったらなかなか妥協しないと知っている父は、彼の言うこっちの家の近くにあるマンションなら、という条件で、金を出してくれた。幸いにして美和も転校という手段を取らなくて良かったから、父の条件を飲んだのだった。
駐車場に止めた車から降りた時、直はいつものように三階の右から二番目の部屋の窓を見た。まだ明かりは点いていなかった。
「おやっ!」
と直は不安を一瞬感じた。なぜ・・・?
(気のせい・・・)
(でも、何だろう、この不安は?)
友達の家に行って、まだ帰って来ていないのかもしれない。またあの子の家だ。ずっと学校に出て来ない子の家に。余程気が合う子なのかもしれない。美和があの子のこと・・・なんて言ったかな、ともか。智香と言う子だ。一年間、何処かの病院に入院していたらしいけど、うんもう帰って来たのと言っていた。美和はそんな智香と一緒にいるのが嬉しいようだ。話してくる美和を見ていて、つくづくそう思う。気が弱く泣き虫なのは、直にない性格だった。直には不満だが、あの人との子供だから、とあきらめている。でも、智香の家に行くようになって、弱い性格が少しずつ変わってきていた。
(いや・・・違う、もっと前だ)
それに卓君が美和を誘って、いろいろな所へ連れて行ってくれている。美和は素直に彼の誘いに喜んで付いて行く。直は美和のやりたいこと、やろうとしていることを何一つ邪魔する気はなかった。
直は、今感じた不安の意味を、すぐに知ることになる。
このマンションで直と一番気が合う一階下の北山康子が、顔色を変え、怯えた顔で彼女に向かって走って来るのを見て、何かがあったと直感した。
初め、康子に何かがあったのかな、と思ったが、さっき感じた自分の不安から、すぐに美和に何かがあったに違いないと直感した。康子はまだ子供がなく、美和を自分の子供のように可愛がってくれていた。だから、突然の事故を自分の身内に起こったことのように思い、激しく動揺したようだった。
しかし、康子以上に動揺してしまったのが、直だった。とても車を運転できる精神状態ではなかったので、康子の車で美和が運ばれた病院に向かった。途中、直は一言もしゃべらなかった。彼女は心の中で、
(なぜ、なぜ・・・)
と何度も繰り返した。なぜ、の疑問の意味も分からないから、その答えは出ない。
集中治療室のベッドにいる美和を目にして、事故にあったという現実を認めないわけにはいかなかつた。
「後は、この子の生きようとする精神力だけです」と医者の説明があった。説得力のない言葉だった。
(ということは、この子は、もうだめだということ)
直は不埒にもそう思ってしまった。彼女は、美和の心と体の成長を認めていないのではない。でも、
(この子にそういう力はあるの?自分で生きようとする意欲はあるの?)
この子は私の子供には違いない。でも、今は考えたくもないあの男の子供でもある。
直は美和の仕種や性格に、あの男に似たものを見つけてしまう。この先、私はこの事実から逃れられない。
この場に及んで、直の心は混乱していた。
「でも、生きて・・・」
直は呟いた。彼女は泣いていた。あの男と別れてからは泣くまいと誓い、一度も泣いたことがなかった。康子には病院に着くと、ありがとう、大丈夫だからといって帰ってもらった。こんな無様な醜態を見られなくて良かった。
でも、今は泣いていいと思う。泣かして欲しいと誰かに言いたかった。彼女は空中で手を動かした。ものにも人にも当たる感触はなかった。
直は一瞬眩い光を感じた。
(何?)
と、彼女は目を押さえたが、それ以上の思考はなかった。だが、これは現実の現象ではないなと思い、目を開けることはなかった。
直はベッドの端に寄り掛かっていたが、自分の頭が誰かに撫でられているような感覚に気付いた。しかも、自分がよく知る快い感覚だった。
「あっ!」
直は顔を上げた。
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