第十章

大森智香の目は見知らぬ男を捉えたまま動かなかった。

 「誰?」

 智香はやっとこの言葉を呟いた。しかし、その声は男に聞こえたのか、智香に判らなかった。

さらに、もう一度、

(誰なの?)

と、自分の心の中で呟いた。

この時、

「あっ!」

と彼女は叫んだ。今度ははっきりと居間の中に響いた。

智香は見知らぬ男の動きをはっきりと捉えた。男は体や腕を動かしたのではない。彼女の目が捉えたのは、男の顔の表情である。男の目が潤んで泣いているように、彼女には見えた。

智香は驚き、戸惑った。

(この人は…泣いている)

この異様な雰囲気の中で、智香には奇怪に見えた、

(なぜ泣くの?)

智香の幼く敏感な感受性は、この居間の中に漂っている普通でない空気を感じ取っていた。

(いや。いや)

違う。智香は何かが起こりつつあるのを知っているのかもしれない。だからこそ、その何かを感じ取っていたのか?

智香はまだ震えていた。心の中から噴き出そうとする高揚が震え・・・多分怖いという気持ちと闘っていた。彼女の心は混乱し始めていた。そして、彼女はいつもの自分に戻れと言い聞かせ、闘っていたのだ。

大森智香は夢の中に初めて現れた白虎と青龍を見て、心を乱してしまい、急いで夢の世界から逃げ出した。今は、その状況とは違っていた。ここは、今という現実の世界の小さいけれど、彼女にとって何よりも快い空間であるはずであった。

何処からか吹いてきた風が、智香の体にまとわりついて来た。その風は快かったが、理解し難い圧迫感が、その快さを消し去っていた。

(何が・・・?)

智香は見知らぬ男に引き付けられていた。なぜ・・・この人は私の名前を知っているのと、彼女の疑念は、ここに戻った。

智香の家は国道一号線から大分と離れていて、昼間は大型トラックがかなりのスピードで飛ばして行っても、轟音は聞こえない。しかし、夜になると、その大型トラックのゴーという轟音が踊るようにしてベッドにいる彼女の頭上を通り過ぎていくことがある。今は彼女の背後をゴーという音を立てて通って行くがエアコンの音と微妙に絡み合い、同調し、居間の中に停滞していた。

「あっ!」

と智香は大きな叫び声を上げたが、それ以上声にならない。見知らぬ男は彼女の前に来ると、立ち止った。

智香と見知らぬ男は向い合うが、しばらく声がない。

そして、次の瞬間、見知らぬ男は智香の両手首をぎゅっとつかみ、彼女の嫌いな黒い痣を悲しい目で凝視した。

「何なのですか?いたい・・・離して下さい」

智香は怯えていた。今にも気を失いそうな気分だった。男が手首をつかむ力が強く、智香は痛くて顔をゆがめた。

「離してっ!」

と、智香は小さな声で言った。

「はっ、すまない」

と、見知らぬ男は智香の余りの痛がりように驚き、慌てて彼女の手首を離した。

「やっと会えた。やっと会えたのだ」

見知らぬ男は間違いなく泣いていた。

(この人・・・なぜ泣くの?)

智香は男の涙を見て、変な人だなと思った。

「すまない。すまない。ずつと探していた。やっとお前に会えたのだ。これが、泣かずにおれようか」

見知らぬ男の表情は微妙に変化していて、何度も悲しい目で智香を見つめた。すると今度は、彼の目付きは厳しく智香を見つめた。

「これから先、お前の歩みを邪魔する者たちに負けるな。限りない道のりだが、お前なら必ず到達することが出来る。私たちみんながそうであったように、自分を信じるのだ。みな、夢を持ち、希望を抱き、互いに愛し合っていた。あれからもう四百年以上も立ってしまった。やっとわれわれの歴史が動くのだ。私はいつもお前の側にいるからな」

見知らぬ男はこう言うと、智香を抱き締めた。智香には、この見知らぬ男が何を言っているのか、さっぱり理解出来なかった。

(何なの、この優しさは・・・)

智香は見知らぬ男に抱かれている不思議な快さに戸惑った。

「誰なのですか、あなたは?」

「今は言えない。時が来れば、名乗ることもあるだろう。それまでは・・・それよりも、急がなくては」

見知らぬ男はこう言うと、倒れている女の傍らにしゃがみ込んだ。彼は倒れている女の耳元に、何か言葉を掛けているように見えた。智香は耳に神経を集中させたが、何を言っているのか全然聞こえて来なかった。しかし、

「ありがとう。良くここまで育ててくれた」

という震える声が微かに聞こえた。

この後、六太郎の方を振り向き、

「ありがとう。お前にも礼を言う」

そして、智香に向かい、闘いは、これからだ。お前の敵は、もうそこまで来ている。宿命から逃れることは出来ない」

というと、見知らぬ男は開いている庭に面したガラス戸から飛び出して行った。

大森智香は体から力が一気に抜けて行くような不安定な気分に襲われた。彼女は今にも倒れそうで、かろうじて立っている状態だった。彼女の目には父しか映っていなかった。見知らぬ男はもういない。智香は気力を振り絞って、

「お父様」

と叫ぶ。智香の叫び声に、六太郎はやはり振り向いてはくれなかった。四五歳くらいまでは六太郎の足に仕切りにしがみついていたが、物心が付いて来ると、いつの間にか父との距離を置いている自分に気付いた。だんだん父の体に触る時間は少なくなって来ていたが、父の体の感触はまだはっきりと残っていた。

智香は六太郎の前に回った。そこで改めて、

「おっ・・・」

と吐露し・・・だが、次の言葉が出て来なかった。

父の顔が目に入った瞬間、彼女の肌に残っていた父の快い感触はすぅっと一気に消えてしまった。

「おとうさま」

智香はゆっくりと言った。そうでもしなければ、この人は自分の言葉を理解してくれないと思ったからである。目の前にいる男の表情は、彼女の心に残る父六太郎ではなかった。男の目は智香の存在に気付かず、この今いる現実とは違う世界を見ているように、智香には見えた。

大森六太郎は三十歳を超えてから腹の辺りに肉が付き始めていたが、スーツを着て見繕いをした彼は太り始めたという印象を他人に与えなかった。もともと血色が良く特に夏になると肌がさらに黒くなるが、客相手の仕事柄からか愛嬌のあるほど良い肌の黒さに見えた。だが、今の六太郎はその肌の黒ささえ醜く見えた。

(この人は・・・少なくとも今見る人は、私のお父さまじゃない)

父六太郎の生気のない顔を見て、智香の体は大きくぶるっと震えた。

(でも、それじゃ、お母さまは・・・)

智香は一瞬動揺した。彼女の目は六太郎の足元に倒れている女の人に動いた。だが、彼女の目は、その途中で止まった。

六太郎の右手には愛用のペーパーナイフが握られていて、赤い血が必要もないのに付いていた。そして、今、ペーパーナイフの先から血が一滴二滴と続けて落ちた。その落ちた血の先には、智香の見慣れた母真奈香の背中があった。

「お・か・あ・さ・ま・・・」

智香の心は混乱していた。しかし、彼女の思考回路が動き始めたのも事実だった。

何が起こったのか。何が起こりつつあるのか。最初に居間の光景を目にした時から、彼女は認識していた。ただ、目に入るすべてを認めたくなかったのである。今、彼女は母真奈香の死を想像していた。今、死んでいこうとしているこの人は、私のお母様、智香の母であることをもう一度確かめようとした。

智香は戸惑いを隠さない。

計り知れない力を持った真奈香が死ぬなんて、智香には信じられないことだった。絶体に認めたくないことだった。彼女は真奈香を抱き起した。薄い水色のワンピースは、いろいろな色の絵の具を混ぜて綺麗な色を作ろうとしたが、結局望みの色にならなくて、最後にやけくそになって黒を混ぜてしまい、醜く濁った色に染まっていた。このワンピースは名古屋駅の地下街で、この水色はお母さまに似合いますと智香が言うと、真奈香はいいでしょうと買った服だった。その服が、こんな惨めな色になるというのは、智香には大きな衝撃だった。

「お父さま、何があったの?なぜなの?お父さまが、お母さまにこんなことをしたの?」

六太郎の答えはなかった。彼の視線は智香に向くことはなかった。

「お母さま、お母さま」

智香の叫びは怯えていた。真奈香の返事は無い。抱く体のどの部分からも、智香には母が生きている、生きようという生気は感じ取れなかった。

「もう遅い。もう、本当に遅いの。何をやっても無駄なの?何をやっても無駄なのかもしれない・・・」

智香は改めて自問した。

(死ぬの。お母様さまは本当に死ぬの。この状況が反対なら、お母さまは私に新しい生命を与えてくれると思う。でも、今は違う。いや、違うわ。お母さまはまだ生きている。今、死んで行こうとしている。遠い所へ行こうとしている。私は・・・今のあたいなら、お母さまを、この現実に引き戻すことが出来る。でも・・・お母さまは許してくれない)

と、智香は歯がゆく思う。彼女は首を強く振る。

「だめ、だめなのですか、お母さま」

母の言葉は絶対だった。

「ああ・・・」

智香はそれを止めることさえ出来ないのだ。

智香は真奈香の手を握り締めた。もっとはっきりと母の生命の存在を感じたかったから。

(・・・)

真奈香の手にいつもと違う違和感があったが、間違いなく母真奈香の手の感触だった。この時、智香の目は激しく動き回った。

「これは・・・」

と、声に出したが、後は言葉にならない。真奈香も通常一年を通して長い袖のある服を着ていた。そのことについて、改めて真奈香に聞くようなことはなかった。

(私と同じ、黒い痣がある)

智香は激しく動揺した。真奈香は意識して腕の黒い痣を隠そうとした気配はなかった。智香が気付かなかっただけかもしれない。

どういう状況でこうなったのかは分からない。真奈香が倒れたことで左の腕の袖が引っ張られ、黒い痣が現れたようだった。智香は自分の腕の痣と比べてみた。同じ痣で、蛇が腕に巻き付いているような紋様だった。

(どうして・・・)

智香は右の腕を見てみた。だが、真奈香の右の腕には黒い痣はなかった。

(なぜ・・・どういうことなの?)

智香の叫びに答えてくれる声はなかった。彼女は六太郎に答えを求めた。

智香は顔を上げた。六太郎の様子に変化はなかった。

智香は勇気を振り絞って、真奈香の身体を起こし、顔を見た。

真奈香の表情はいつものように優しかったし、智香に微笑んでいるように見えた。智香は真奈香の手を握り締めた。もっとはっきりと母の存在を確認したかったから。

(・・・お母さま)

抱き起こした真奈香の体の温かさも、智香の知っている心地良いものだった。

「お母さま、何か言って・・・」

智香にとって、遠い国への旅はもう始まっているのか、真奈香の目は完全に閉じようとしているように見えた。智香は気が狂ったように叫び声を上げることも、誰かを呼びに行くために立ち上がろうともしなかった。

そして、智香は自分の頬を真奈美の頬に付けた。生き続けなければならない者は、死んで行く者との最後の別れを誰にも邪魔をされたくない。そういう気持ちが、智香に何んの行動を起こさせなかったのかもしれない。

「・・・何なの!」

智香は真奈香の頬に微かな動きを感じ取った。

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