第九章
階段の降りる途中で、智香の足は止まった。足が震えている。それは、彼女が目にした光景のためである。
(何なの?)
彼女は自分の目が捉えた映像に一瞬戸惑った。はっきりしない理解に苦しむものだった。一刻も早く自分の目で、その状況を確かめる必要がある。
智香は箸って階段を降り、居間に飛び込んだ。
「何が起こっているの?」
彼女は呟いた。
少し前までは足の震えだけだったが、今智香の体全体に移り小刻みに震えていた。二十畳の居間は静寂の中にあり、エアコンのブゥンという小さな音が気味悪い振動で響き渡っていた。彼女の心に映し出された映像通り、居間には父六太郎がいた。いつもはソファに座り、階段の方を向いているのだが、今日は智香に背中を向けて立っていた。この時、彼女は不快感を抱いた。しかし、その感覚をこの瞬間は追及する気にはなれなかった。彼女は真奈香が見えないことが気になった。何処に・・・。
(お母様は・・・?)
智香は母の姿を探し求めた。絶対に、
(ここにいるはず)
だと言い聞かせた。彼女は徐々に視界を広げていった。そして、彼女の目の動きはすぐに止まった。
父大森六太郎の足元に誰か・・・女の人が倒れていた。薄い水色のワンピースに白いパンツを着ている・・・女の人が倒れていた。
彼女にはその水色の服に見覚えがあった、すぐに母真奈香の着ている服に似ていると彼女は思った。そこからは、背中しか見えなかったのだが、
(お母さま)
だと認識した。彼女がいつも甘えていた背中だった。細く弱々しい体だったが、柔らかく温かかった。間違いなく智香の母真奈香である。白の似合う真奈美だった。だから、いつも白い色の何かを身に付けていた。
(なぜ、お母様はそうした姿でいるのですか?)
智香は、真奈香がなぜそのような格好で倒れているのか分からなかった。こんなに傍にいるのに、いつものようになぜ気付いてくれないのか、彼女には全く想像すら出来なかった。
夢の中で叫んだ悲鳴のような声に呼応し目覚め、その時聞いた悲鳴に似た声は・・・確かに聞き覚えがあった。彼女の頭の中は混乱していた。
智香は恐ろしいことが起こっているのを感知しているのか、冷静な判断を出来ないでいた。彼女はまだ何かを探し求めていた。もう自分はそれを見ているのかも知れない。余りにも認めたくないために意識しないでいるのか。彼女の目はゆっくりと動き、そのものを探している。
ソファの前にあるクリスタルのテーブルには、真奈香が淹れたであろうコーヒーが半分ほど飲んで置いてあった。大伴六太郎は夏のどんなに暑い時でも、コーヒーはホットで飲んでいた。飲み残したコーヒーの水面に、白い天井のシャンデリアの光が反射して、一瞬光りが波打ち、智香の目に飛び込んで来た。
智香の目は自分を相変わらず不安にしている何かを求め動いている。庭に面した窓は人ひとり通れるくらい開いていた・・・エアコンが動いていたのにである。彼女がいつも目にする光景とは何かが違っていた。不快な違和感があった。
彼女の視界の中で何かが動いたのである。智香の知らない人が六太郎と向い合って立っていた。ちょうど智香とも向い合うことになる。
「誰?誰ですか?どなたですか?お父様のお客様ですか?」
大森六太郎が真珠を主とする貴金属の販売をやっていたため、仕事関係の人がよく訪ねて来たし、時々夜遅く見知らぬ人を連れて来ることもあった。
そんな時、礼儀正しくして、はっきりとした口調で挨拶するように真奈香には、小さい頃から厳しく言われていた。
「智香だね」
見知らぬ男の声は非常に落ち着いていた。
智香は顔をこくりと下げ、頷いた。彼女は見知らぬ男が自分の名前を知っているのにも驚いたが、素直に頷いた自分にもびっくりした。
この時、智香は慌てて両手を後ろに隠した。
男の目が、彼女の手首の黒い痣を見ているのに気付いてからである。家から出る時は、他人から手首の黒い痣が見られないようにいつも気を使っていた。家の中でもやっぱり見られるのが嫌で、長袖の服を着ていたが、外に出る時ほど気を使ってはいなかった。両手首の黒い痣は、智香の最も他人に見られたくない体の一部だった。
母真奈美は、
「智香よ、その黒い痣を隠してはいけません。あなたの避けることの出来ない宿命なのですから」
と、見知らぬ男の人はいった。
(なぜ、この人がそんなことを言うの!)
「なぜ・・・」
智香は口ごもった。すると、
「耐えろ、どんなに苦しくても耐えなさい」
見知らぬ人に言われるまでもない。彼女もそのように振舞っていたつもりだった。でも、どうしても黒い痣を見られる苦痛には耐えられなかった。時々襲って来る激しい痛みも不気味でいやだった。智香は真奈香がいう宿命の意味が分からなかった。彼女はふっと考えることがある。この先、ずっと私を苦しめるのではないのかしら、と。
そして、今、何だか一番見られたくない人に見られたような気が、智香にはした。
「お父さま」
黒い痣がきりきりと痛み出した。見知らぬ男に対する、この理解し難い気持ちを教えてくれるのは、父しかいない。彼女はそう思った。
「お父さま、お願い。何か、言って。こっちを向いて。その男の人は誰なのですか?」
智香はこの堪えられない不安から、私の方に振り向いてくれるように父六太郎に訴えた。しかし、六太郎の反応はなく、目の前の男を見続けていた。
智香の目は自然と六太郎と向い合っている男に流れた。
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