第八章

「孝子ちゃん」

津田孝子の部屋の明かりは消えていた。もう、みんなは寝ている時間。

(会いたい)

と智香は思った。せめて声だけでも聴きたい。昼間なら窓を開け、大声で話すこともあった。しかし、今は、もう日付が替わっている。こんな時間に、窓越しに話すのには距離が在りすぎた。智香より孝子は二つ年下だったが、気性は激しくしっかりしていて、何処となく弱々しさのある智香とは違った印象がある。普段は、年上の智香が孝子に甘えたりし、何かと頼ったりしている。智香には何でも話せる友達以上の存在である。

それでも、白虎や青龍の存在は話していない。卓や美和のようにほとんど毎日会いに来てくれているけど、二人は智香の秘密の存在だった。本当は毎日でも会い、遊んだり話したりしたいのだが、孝子の方が応じてくれない。

今日は、もう眠れそうにもなかった。結局、この時間まで智香は孝子に会わなかった。声も聞くこともなかった。こんな日、前に、

(あったかな?)

孝子が傍にいてくれるだけで、今の不安を和らげてくれるような気がした。それにしても、 今日はなぜそわそわしているのかな?考えるが、これと言って思い当たることはなかった。ただ、朝も遊びから帰って来た時も、母真奈香の様子が気に掛かっただけである。うつらうつらと目をつぶる智香だ。智香の今日の眠りは浅い水辺を彷徨っているよう。


「待ってぇぇぇ・・・!」


大森智香は奇異な悲鳴に似た声を聞き、目を開けた。自分の声かと疑うような音質の高い叫び声だった。彼女はベッドの上で二三度のた打ち回った。

夢の中の智香に向かって、白い大きな何かが襲い掛かって来たのである。その瞬間は、彼女の白い友達が彼女に反乱を起こしたのかな、と思った。

(まさか・・・?でも、待って、私をあの時代に連れて行ってくれた白い鳥・・・?)

智香はすっかり目が覚めている。白い鳥が傍にいる感覚はもうなかった。

待って・・・どういうこと?あの子たちは人の言葉を話せない。まさか・・・そんなことはない。いつもあんなに楽しく遊んでいるんだから。

(反乱なんて、あり得ない)

智香は自分の体が震え慄いているのに気づき、手で唇を押さえた。微かに彼女の唇は震えていた。確かにその唇の感覚は感じ取れた。まだ完全に夢から覚めていない。彼女の目は虚ろのままだった。

智香は悲鳴ような声を聴いたのは分かっていたが、ひとつ、不可解なことを感じていた。その悲鳴に呼応するように、彼女の耳に同じような悲鳴が聞こえた・・・ような気がしたのである。しかも、その悲鳴は智香の聞き覚えのある声だった。

(まだ目がさめていない)

智香は両手で頬を抑えた。

 「ああ、目を覚ませ」

そして、智香は目に力を籠め、目を開けた。

(夢・・・?)

「違う」

智香の目は大きく見開き、何かを探していた。見覚えのある白い天井が、彼女の視界を真っ白にする。ここは、智香の部屋である。

(それはいい)

と彼女は納得をする。だが、すぐに自分の探しているものがないと分かると、彼女は、

「何?今の・・・待ってとは、女の人の叫び声は・・・悲鳴じゃない・・・私の知っている人の叫び声?おかあさま・・・?」

と呟いたが、はっきりとした言葉にならない。彼女は自分の不安を言葉に言い表せない怖さを感じた。

智香は見慣れた部屋の中をきょろきょろと再び探し回った。さっき聞こえた悲鳴の人を探したが、誰もいない。ここじゃない。彼女は助けを求めた。誰に・・・?

「ビャッコ。セイリュウ」

こんな時には、誰よりも頼りになると彼女は思っている。余り好きでない二人だけれど、こんな時にこそ私の役に立ってくれる。そう約束してくれたことがある。

(いつ・・・だった)

そんなことは、今はどうでもいい。

智香は結構白虎を信頼していた。青龍の無愛想で怖い顔は何か恐ろしいことが起こった場合、自分を守ってくれるんじゃないかと思ったりもした。でも、青龍の目は、冷たい。

突然智香の夢の中に現れ、いつの間に友だちに似た存在になってしまった二人だった。まだ人間が人間らしく生きていた時代から逃げ出した、五郎太という、暴れん坊を探しているという。夢という言葉が生き生きしていた時代から来たという。そんな時代が何時なのか、頃歌がその時代で何をしたのか、彼女には分からなかったが、どんな時代にも悪いことをするものはいるらしい。今の時代でいう刑務所のような場所にいたが、隙を見て逃げ出したらしい。時を行き来し、悪いことをするかも知れないので、二人が五郎太を連れ戻しに時を移動しているらしい。

智香はその話を聞いた時、首をひねった。実際、二人が追っている五郎太を、彼女はまだ一度も目にしていない。それに、五郎太はまだ彼女の夢の中に現れていなかったのである。

だから、二人の言うことを、彼女はまるっきり信用はしていなかった。

何時ごろからか智香にははっきりとした記憶はないんだけれど、彼女の夢の中から二人は飛び出し、現実の世界に現れるようになった。その頃から、彼女は二人に親しみを感じるようになった。といっても、甘えたくなるような存在ではなかった。

智香は気になり、

「どうして私の夢の中に現れ、しつっこく付きまとうの?」

と聞いてみたことがある。

そうしたら白虎はぎょっと目を開き、(その目は猫にそつくりだった)智香を睨み、

「一つには、俺たち二人をこうして現実の世界に引き寄せてくれたことが理由です。俺たちは逃亡者を夢の中の時間を移動しながら追い掛けていますが、現実の世界に行くにはその時代に生きる誰かの力を借りなくてはいけないんです。なぜなら、逃亡者も誰かの力を得ているはずだから。この場合、逃亡者は五郎太です」

智香は気になり、訊いた。

「五郎太という人は、誰の夢の中に現れたの?」

白虎は返事にこまったような顔をする。

「分かりません、今の所は。我々は、智香様・・・あなたが必要だったのです。だから、俺たちは智香様に感謝しています。俺たちの力が必要なら、いつでも力になります」

と白虎から聞かされていた。

「もう一つは、・・・?」

智香は訊いた。だが、こっちは答えてはくれなかった。ただ、

「そう遠くない時期に、智香様が体験されます。その時まで、あなた様を守らなければなりません。私たちはあなたを敬います。それは、感謝の気持ちからです」

とだけ妙に意味ありげに見つめて言ったのを、彼女は覚えている。

(まだ、何かを隠しているような印象がある)

それが何か、智香にはやつぱり分からない。

とにかく分からないことが多い二人だった。どうして私を守らなければならないのか良く分からなかったけれど、実際恐怖を感じている今が二人に助けを求める、その時のような気がした。

(それなのに・・・)

智香の呼び掛けに、白虎の返事はなかった。

この頃、あの二人が自分の傍にいる感覚を強く感じていた。その理由は彼女には分からなかったが、この頃理解出来ない緊張感の日が続いていた。母真奈香にはこんなことは言えなかった。実際、二人に対して煩わしい気持ちもあった。あんな大きな体だから、他人に目立ってしまう、と気にはなっていた。

でも、二人がどういう魔術・・・魔法を使っているのか?どうやら智香以外二人を見ることは出来ないようだった。なかなか現れないので、

(もういい)

と智香は腹を立て、足を二度踏ん付けた。

(どう、この怖さ!)

を表したらいいのか、彼女には分からなかった。それでも、このままここに立ち止っていてはいられないと、彼女自身理解した。白虎と青龍が来ないのなら、もういい。勇気を出して、さっきの悲鳴の声の正体を確かめに行こうと彼女は決心した。

大伴智香は、母真奈香の姿を求めた。この時すでに彼女の心の中で激しい拒否反応が起きていた。真奈香の姿を求めているにも関わらず、悲鳴の女の人がどうしても真奈香だと認めようとしなかった。もう彼女の心の理性は事実を認めているのにだよ・・・この気持ち・・・誰にだって分かるよね。

お母様は、ここにはいない、と智香は断定した。そう願ったと言った方がいい。

「ああ・・・何?私は何を見ているの?」

智香の心に見えている映像は、少し先の時間を走っていた。彼女の心に移る映像はあまりにも衝撃的であった。

 (何なの?何が起こったの?まさか・・・でも・・・)

まだ実際の場面に遭遇していないのに、智香の心は乱れ始めていた。彼女にはすでにその状況を見ていたのである。

彼女は居間に向かって走った。この家の居間で起こっているであろう映像を、彼女の心ははっきりと捉えていた。それ以上は実際居間に行って、自分の目で確かめなくてはいけない。     

(嘘だ!)

「そんなことはない」

彼女は叫んだ。それほど疑念を持ってしまうような映像だった。

 (何処なの?お母様は何処にいるの?)

智香の心の映像には真奈香の姿はなかった。心の動揺は、彼女の視界を狭めていた。それなのに、

(この不安・・・いやな予感は、何処から来るの?お母様は、何処?)

とんでもないことが起こっているのは間違いなかった。それも、智香が今まで自分の目で見たことがないし、想像したこともない恐ろしい何かが起こっている。まだ彼女は自分の部屋から出ていない。その時、心の視界が鮮明になった。

 「・・・」

言葉が出て来ない。智香は自分の部屋から出た。

智香は体が激しく揺れているのを感じた。その揺れがだんだん大きくなって行くような気がした。その揺れが心臓の鼓動に共鳴していた。

もうぐずぐずしてはいられない。彼女は部屋から出た。居間からの階段を上がった突き当りが真奈美だけの部屋で、智香はまだ一度も入ったことがなかった。真奈香の部屋に何があり、どうなっているのか非常に興味があった。だが、

「その時が来るまで入ってはいけません」

と強く言われていた。真奈香の言葉は絶対だったので、部屋の前にさえも行ったことがなかった。

自分の部屋を出た智香の動きに、少しの躊躇もなかった。階段の下から明かりが漏れている。まだ、お母様はお父様を待っているんだ。それとも、お父様はもう帰って来ていて、ゆっくりとお話でもしていらっしゃる。智香は時々見かける父と母の姿を思い浮かべた。

「きっと、きっと・・・」

彼女は強く念じた。でも、

(見えない。私には、お母様の姿が見えない)

智香は体がばらばらになってしまいそうだった。

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