第七章
池内美和は母、直のことを考えていた。栗谷掛橋が見えて来た。あそこの信号を渡れば、あとは一本道である。
(なぜ、今この時にあの人のことを考えてしまうの?)
と彼女は思った。彼女は拒絶したつもりだったが、考えることが止まらなかった。
なぜ美和の父と離婚し、一人になるのを望んだのか、直は、隠すことなく自分の娘に話した。美和が十歳の時、木曜の夜八時テレビを見ながら話した。ミュージックステーションをやっていた。直は、改まった気持ちで話す気は全くなかったようだ。
美和は少しも驚かなかった。ずっと小さい頃に父が自分の前からいなくなった。彼女は詳しい年齢は覚えていない。ぼやっとした記憶が残っているだけだった。それだけで十分だった。大人の事情なんて知りたいとも思わないし、母にそれを要求する気もなかった。
ただ、直はあの人がどんな男だったのかは、美和に一言も話さなかった。おそらくあの人の顔なんてぼんやりとした記憶しかのこっていない筈である。わざわざ嫌いになった男の思いだし、美和に話したところで、どうなるものでもない。そう思っているのかもしれない。
(しかし・・・)
直は次の考えに移るのを躊躇しない。今は、十一歳の娘を育てるのに懸命に働いていた。この自由を奪われた生活に不満はなかった。その内、十五か十八くらいになったら、この子が私から離れて行く頃になったら、今度は間違いのない恋をしたいと直は夢を抱いていた。そして、この頃その時期が近付いて来ているような気がしていた。
母がなにを考えているのか、美和には想像できなかった。母の目は生き生きしていて輝いていた。しかし、母をえらいとは思わなかった。確かに母が働いていることで、まあ普通生活をしていられた。毎月五千円の小遣いをもらい、まあ欲しいと思うものは大体買ってもらっていた。感謝はしている。
しかし、この頃、妙に母の仕草から言うことからすべてが気になり、反抗することが多くなった。
(確か・・・)
二日前だった。夕食に出たから揚げの数が気になり数えてみると、美和の方が一個少なかったのである。気付いた時、こんなことで苛々するのはいけないと思ったが、私の方が一個少ないよと言ってしまっていた。
直はちょっとびっくりしていたが、ごめんと言って、大きいから揚げを美和の皿に置いた。
栗谷掛橋の手前に来た。
少し前、五分くらい前
(・・・)
美和にはその時間に確信はなかったが、一台の車が信号を無視し、すごいスピードで走って行ったのに彼女は気付いていた。こんな時間だが・・・また、海を見に行ったんだ。彼女はいつもの感想を持った。栗谷の町の外れには海はあるけど、そこまで行ける人はほとんどいない。それ程、栗谷の街中は複雑に入り乱れていたのである。あの車も何処かでUターンして来て、戻って来るのかな。彼女は、そんなことを考えていた。
信号は少し前に青に変わっていた。
(確かに・・・)
美和ははっきりと記憶に残っている。もうすぐ信号は黄色になり、赤になる。彼女はこの信号機の時間経過の特徴を覚えてしまっていた。彼女は自転車のスピードを上げた。
美和は、また考え始めた。どうして、こんな時に、母のことを考えるの、と思った。母、直はきれいな人だった。娘の目で見ても、そう思った。
だが、
(なぜだか・・・)
その後の思考が続かなかった。
その数時間後、美和の意識はあったが、すぐに消えてしまいそうな弱々しいものであった。そして、まさに意識が消えようとする時、彼女は白く輝いた光に吸収されてしまうのである。彼女には、その白く輝いた光を以前どこかで見たことがあるような気がした。
その同じ夜、飯島卓が美和と別れて五時間後くらい、日付が変わろうとしていた。
卓はなかなか眠ることが出来なかった。まだ十一歳なのに、この十月には十二歳になるのだが、眠れない夜が多かった。今日も、その日だった。こんな時、描き掛けの水彩画をじっと眺めていると、心が平静になり、いつの間にか寝ていることもあった。だけど、今日はそんな気分になれなかった。
こんな時、卓は無理に眠ろうとしなかった。相変わらず蒸し暑い夜だった。彼は部屋に入ってから、窓は開けっ放しにしていた。時々、窓から顔を出す。全然涼しくはならないのだが、暑いという気分を少しは和らげられた
「あっ、兄貴」
卓は家を出て行こうとする一矢の姿を認めた。こんな時間に何処へ行くんだ?卓は首をひねり、兄が何処へ行くのか興味を持った。多分、今日一矢の話が二度話題に上ったからだろう。そして、彼は今まで取ったことのない行動をすることになる。彼は、一矢の後をつけることにした。
大森智香はいつもより少し遅い時間に夢の中に入ろうとしていた。彼女は、眠るということは夢の世界に旅に出るという気持ちがあった。
父の六太郎はまだ仕事から帰って来ていなかった。真珠を主とする貴金属店を名古屋の栄と名古屋駅前のホテルに出店していた。今度、大阪にも新しい店を出す計画があり、智香はここ二三か月六太郎の待つことなく寝る日が多くなっていた。
「今日も遅いようですから、智香はもう寝なさい。私はお父様をお待ちしていますから」という母に、
「はい」
と智香は答えた後、二階の自分の部屋に行き掛け、何かが気になり振り向いた。でも・・・と言おうした。この瞬間、彼女の両方の手首にある黒い痣に、今まで感じたことのない痛みが走った。その痛みが、彼女の言葉を奪った。智香は顔をゆがめた。
「どうしたのですか?」
母真奈香の問い掛けに、
「いえ、何でもありません。おやすみなさい」
と言って、二階に上がった。真奈香は智香の両方の手首に黒い痣があるのを知っている。母真奈香には左の手首にだけ、同じように黒い痣があった。だが、二人でこの痣のことを改めて話し合うことはなかった。
ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。黒い痣の痛みは、今は収まっていた。何かが今までとは違い、彼女の知らない所で得体の知れない何かが動き始めているような怖さがあった。今までだって痣に痛みを感じた。でも、今さっきの痛みの強さは初めてだった。言葉に出来ない不安があった。
そして、ベッドに入ると、突然襲った睡魔は、無理矢理智香を夢の世界に旅立たせた。そこには、白虎と青龍がいるはずである。彼らがこの不安を無くしてくれるような気がした。
だけど、今日はそこへ辿り着く前に、白い大きな光が智香に向かって突っ込んで来た。
智香は両手を交差して、顔を覆った。
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