第六章

飯島卓は自転車を止め、もうすっかり暗くなってしまった空を見上げた。いくつかの星が輝き始めていた。まだ星たちは静かに、互いに語り合う時を待っているように見えた。 星の数を数えようと思ったのだが、自分の気持ちはどうやら智香の部屋で自分の描いた絵を見ているようだった。

「どうしたの、卓君?」

いつもと違う卓に気付いたのか、池内美和も自転車から降り、並んで歩き始めた。

卓はすぐに返事をしなかった。輝き始めた星を見ているようだったが、何か他のことを考えているようにも美和には見えた。

もっと小さい頃、美和は父と星を数えたことがあったような・・・そんな記憶が残っていた。五つだったか、もっと小さかったかもしれない。彼女がよく覚えていないのだから、父の背中におんぶされながら数えたような記憶が残っているのかもしれない。彼女の記憶の中に、父の顔や姿はほとんど消えてしまっていた。

その後、父は美和の側からいつの間にかいなくなってしまった。美和はそのことについて、母の直に聞いたことはない。美和自身転校を嫌がったので、それまで通っていた同じ学校区にあるマンションに引っ越した。そこの近くに卓が住んでいたこともあり、良く遊んだり、同じに学校から帰ったりした。

美和は直の前では泣かなかった。母への反発心があったのかもしれない。その反動で、彼女は学校でよく泣いた。泣くことに、心の中に安らぎを得ていたのかもしれない。

とにかく美和はよく泣いた。

そして、もう一人、転校して来た女の子で、よく泣く子がいた。それが、大森智香だった。その子は、余り・・・というより、ほとんど学校に出て来なかった。クラスでは、その子が学校に出て来ないということが評判になり、美和はどんな子か気になった。一度会いたいと思い、行って見ようと決めた。

しかし、美和は一人でその子に会いに行く勇気はなかった。そこで、卓に相談した。卓自身も気になっていたらしく、男の自分が一人で行くのはへんに怪しまれる。そこで卓は美和を連れ、智香の家を訪ねることにした。

会って見ると、ごく普通の女の子で、彼自身よく耳にしていた引きこもりの陰気くさい女の子ではなかった。智香と美和はすぐに打ち解け、まるでずっと友達であった見たいに話がはずんだ。彼は美和を連れて来て良かったと思った。

(何だ?俺は何のために、この二人を会わせたんだ)

二人を会わせようと、意識的に仕組んだのではない。学校に行こうとしない泣き虫の智香とまったく理由が分からなく泣いてばかりいる美和が会ったら面白いだろうな、と思ったことも、美和を誘った理由だった。

(面白いかも知れない)

強いて挙げるなら、この悪ふざけの理由である。結果として、良かったと卓は満足している。

星はたくさん出て来ていたが、けっして数えられないことはなかった。

美和は卓に目をやった。卓は、彼女と同じように夜空を見上げていた。心の中が、なぜか急に痛くなった。

(こり胸が痛いの・・・何?)

美和が抱いた疑問は、それだれだった。彼女には、その胸の痛みが何なのか浮かばなかった。

「こんなに遅くなるの、久しぶりだよね」

卓は独り言のように呟いた。

「えっ、そうかな。そうだね。そうなのかな・・・私、よく覚えていない。智香に初めて会いに来たのが、六年前?」

「違うよ。五年前だよ。霧ヶ谷小学校の二年になった時、智香は転校して来た。でも、あの子は学校に出て来なかった。転校して来る前のことは分からないけど、本当に一度も出て来なかった。智香は、僕たちよりも一つ年上だよね。智香から詳しいことは聞いていないけど、何か理由があるのかも知れないね。とにかく、今日学校で何があったか、智香に話に来るようになって、俺・・・不思議な女の子だと思った。普通、学校に来ないのはいじめられているとか、仲間外れにされているとかの理由があるんだろうけど、智香の場合じめじめした暗い雰囲気が全くないんだからね」

卓は次の言葉を失ってしまった。もっと他に言い様があったような気がした。しかし、実際、大森智香という女の子がよく分からなかった。

だからこそ、智香の分からない不思議な魅力に惹きつけられて、飽きもせず、嫌にもならずほとんど毎日智香に会いに来ている。

「そうだよね。私みたいな女の子がいるのは、聞いていた。わたし、すっごく興味があった。でも、会いに行く勇気がなかった。卓君から誘われて、智香と会った。何処にでもいる女の子だった。でも、何処となく不思議な雰囲気のある子だとすぐに分かった」

卓はこくりと頷いた。

「私、聞いたの。なぜ、学校に来ないのって。みんな、智香を待っているのよ、と言ったの。でも、智香は何も答えてくれない。どうしてなのかしら?時には、思い悩むような表情を見せる時はあっても、みんなから嫌われる暗さはない。そんな女の子。卓君と私は智香が学校から気持ちが離れて行かないように、ほとんど毎日智香に会いに来ている。何をするでもない。私も学校であったことを話したり、私の唯一の特技であるティシュペーパーでいろんなものを作って遊んだりするだけ。卓君は・・・」

美和は卓の反応に興味を持った。卓は男の子だから、

(私みたいに遊べないんだから)

卓は、美和の視線を感じたのか、笑った。

「俺か、俺の特技か・・・どうだろうね。智香の心に寄り添えているのかな?」

(俺の特技は気に入った背景や人がいたらデッサンしたり、水彩画を描いたり・・・)

と言いたかった。こんなことは、自慢出来ることではなかったので、言葉に出さなかった。二三秒、言葉が途切れた。

「美和と智香は似ているね。気が弱いこともよく泣くことも・・・怒るなよ。俺はお前に感謝しているんだ。智香の相手になってもらっているんだから。俺では、あそこまで智香の心を解きほぐせないよ」

「そうかな」

美和は嬉しそうに目を細めた。

「なぜ、智香のことがそんなにまで気になるの?」

「分からないよ。俺にも全く分からないんだ。智香の不思議な魅力にもてあそばれているのかもしれない。お前こそ、なぜ、智香に気を使うんだ。俺には、そんな風に見える」

「私にもよく分からないの。智香と話していると・・・側傍にいると、変な言い方だけど、お母さんになった気分になるの。どうしてなのかな?」

「お母さんか・・・よく言うね」

と、卓は言ったが、笑いはしなかった。

美和は卓から目を離さずに、

「とっても気になっているんだけど、卓君は智香が好きなの?」

と、聞いた。

「好きか嫌いかと聞かれれば、好きさ。だけど、恋する方のかと言うと、そうじゃないとはっきりと答えられる。だったら、何なんだ、と自分にきくが、何も答えは返って来ない」

卓は話しながら美和を睨んでいた。何だって、美和はこんなことを聞くんだ、と思いがあった。俺だって、女の子を好きになることだってあるさ、と言葉に出そうだったが、思いとどまった。そして、今は智香に恋する気持ちは持っていない。

(今・・・)

という言葉をもう一度繰り返した。

智香は俺より、兄貴が気になるようだ。

(何だって智香は兄貴を気にするんだ)

と考えた。考えたが、卓はこの考えの先に答えがないのを知っていた。結論のないことを考える自分に、むっと彼の感情が苛立った。

「ごめん。変なことを聞いて」

美和は卓の気分を害したのに気付き、

「ごめん」

と謝った。彼女はそんな気分を変えようと、

「本当に、不思議な女の子だよね。同じ女の子から見ても、そう思う」

と、また話題を智香に移した。だが、卓の方は違った。

「あっ、そうだよな。俺の兄貴も・・・こっちは不思議というより、変な男だな。古い時代の仏像に興味があるんだって。あの歳でだよ。何でも、飛鳥、平安時代に生きた人々を調べているらしい」

卓は、へへっと笑った。

「兄貴と話したんじゃないよ。兄貴のいない間に、兄貴の部屋に入った時、そのような走り書きがしてあったのさ。なんでも、陰陽師・・・暗黒の支配・・・とか書いてあったね。あっ、そうだ」

卓には気になることがあった。美和に相談するようなことではなかったのだが、口に出したからには言うしかなかった。

「去年、その兄貴が、ちょっと日本中を歩き回って来ると言って、一年間家にいなかったんだよ。智香が入院していた時期と同じなんだよ」

美和はちょっと顔色を変えたように見えたが、

「ふう・・・ん」

とだけいった。

「そうなんだ」

卓は空を見上げた。星の数は、さっきとそれほど変わっていないように見えた。卓は美和氏是が気になった。じっと卓を見つめたままだ。

卓は、兄一矢を嫌いとか軽蔑しているのではない。ただ、ちょっと変・・・自分のは全く別の存在だと思っているには過ぎない。智香はどうして兄貴の名前を出したのかな、とまた考えてしまった。

「卓君のお兄さん、素敵だわ」

美和はこういった後笑みを見せ、恥ずかしそうな素振りをした。彼女は一矢に二度ばかり会ったことがある。初対面の時は、一矢の冷たい感じのする目に睨まれ、美和は動けなくなり、泣いてしまった。

卓は美和の体がぶるぶる震えているのが分かった。気絶してしまうんじゃないのか、と心配したが、何とかそれ以上取り乱しはしなかった。

「お前は、兄貴が嫌いじゃないのか?」

卓は、ハハッと声を出して笑った。

「からかっているの。笑わないで。嫌いじゃない。一矢さんのことを嫌いなんで、一度も言っていないから」

美和は真顔で卓を睨んだ。

「怒るなよ」

「怒ってなんかいない。卓君が、そんな風に言うから」

卓は美和から目を離さなかった。なぜだか分からないが、今美和から目を離すと、もう二度と会えないような気がしたからである。

(馬鹿な!)

卓は吐き捨てた。だが、声には出さなかった。

時々美和は卓と喧嘩ではないが、激しく言い合いをすることがある。おとなしくて気が弱いと見られていて、自分でもそう思っている所がある美和だが、本当は結構気が強いのかも知れない。お母さんに似ているのかな、と美和は思う時がある。だが、卓は美和のお母さんに会ったことはない。

美和は気分を変えようと夜の空に目をやった。もうすっかり夜になっていた。

母直のことを考えると、気分が滅入り、苛々して来る。星がきれいに輝いていた。そろそろうっとうしい梅雨が明ける。梅雨以上に嫌な夏はもうそこまでやって来ている。

「じゃ、行くね」

美和は自転車に乗った。ゆっくり歩いていても走っても、分かれ道にたどり着く。美和は栗谷町の隣り、海辺町の賃貸マンションに、母の直と二人で住んでいた。栗谷町から海辺町に帰るには堤防沿いの道を行くのが近道だった。途中の栗谷掛橋の信号を抜けると、後は一直線だった。卓はいつもこの橋の信号の所まで送って来ることにしている。この栗谷掛橋には国道二十三号線から迷い込んで来る車が多く、事故も多かったからである。

名古屋方面からも伊勢方面からでも走って来ると、なかなか海が見えてこなかった。地域の人間性にもよるのかもしれないが、海に出られない苛々がちょうどピークになるのがこの辺りだった。とにかくこの辺で曲がれば海に出られるだろうという安易な考えから迷い込む。だが、栗谷町の異様な雰囲気から、ほとんどの車が慌てて引き返すことになる。 ところが、栗谷町の中を走る道は迷路のような複雑な交差していた。そのため一旦町の中に入り込めば、なかなか町の中から出られない。車のドライバーは町の雰囲気にも呑まれ、焦り出す。この時にはもうドライバーは尋常でない心持ちになってしまっている。

ここで別れる時には、卓は、

「気をつけろよ」

と必ず声を掛けるようにしている。

「うん」

という美和の返事に、

「あぁ」

といつもの調子で答えた。それほど彼女の声も仕草も、いつもと変わりなかった。

美和はいつものように自転車で家に向かった。卓は美和の後姿を確認した後、少し自転車を押しながら歩いた。急いで家に帰る気分ではなかった。少し歩き、卓は振り返った。美和の行く先の信号は青だった。彼は自転車に乗った。何かが気になって仕方がなかった。

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