第五話

智香の机の前の壁に掛かっている水彩画が掛かっている。卓が描いた絵である。

「俺が描いた絵だよ。やるよ。気に入ったら、お前の部屋に掛けてもいいよ」

智香が掛けてくれるとは思っていなかったのだが、予想に反して、智香の机の前に掛けてくれている。

飯島卓は、その自分の絵を満足な心持ちで見ていた。

窓から梅雨明けの暑苦しい日差しが飛び込んで来ている。

(暑いが・・・)

緩い風がゆったりと部屋の中に忍び込んで来ている。やっぱり気持ちはよかった。窓は開けっ放しになっていて、鈴鹿川の派川の堤防が見え、馬鹿でかい樟が手を延ばせば届きそうだった。

今、飯島卓は智香の机に座っている。智香は美和と白いティシュペーパーで何やら創っていた。智香を見て、

(何かが変わった、智香の何かがが変わった。何か・・・分からない)

卓はそう感じていた。その何かが、今も分からなかったのだが、智香が一年間どんな病気で、何処の病院に入院していたのか、彼は初め少しも興味がなかった。もちろん、友だちとして心配もしていた。だが、こうなれば、そうはいかない。

真奈香に、

「智香は何処の病院に入院をしているんですか?」

と、訊いても教えてくれない。

「いいんですよ、一年経ったら、元気に帰って来ますから」

という返事しかない。余りくどくど聞けない。気にはなっていたけど、一年後を待つしかなかった。

そして、一年後、変わらぬ智香が、卓の前に現れたのだった。

病気だったらしいが、やつれた様子もなかった。そこで、改めて訊いた。

「何処が悪かったんだ?」

今までの智香だったら、ちゃんと答えてくれると思ったのだが、

「へへっ・・・」

こんな笑い方をする智香は初めてだった。この時、彼は、

(変わってしまった)

と認めるしかなかった。今、彼の前にいる智香は一年前と同じだった。違うのは、卓が、智香が変わったと感じている印象だけだった。

以前の彼女の部屋は、この年頃の女の子がそうであるような明るい色のベッドのシーツやカーテンが支配していた。ピンクでもちょっと薄い感じの色合いが好きのようだった。 それが今は、シーツは白だったし、カーテンはうすーい茶色がかった色で、妙に大人の雰囲気が漂っている。

(可笑しい・・・やはり、変だ)

と卓は思わずにはいられない。

今卓が座っている木製の学習机は窓の横にあり、小さ目のベッドが頭を窓辺に向けて置いてあった。彼女の部屋に入った右側には四段の箪笥と三段のカラーボックスがあった。カラーボックスの上段のスペースにはミッキーマウスとハローキティーの人形がそろってドアの入り口を向いて置いてあった。だけど、

今智香と美和は白いティッシュペーパーを丸めたり切ったりして人形やら得体のしれない形をした生き物たちを作り、部屋の真ん中の丸いカーペットの上にきれいに並べられていた。

それらは・・・いや彼らはといった方がいいかも知れないが、智香が遊びに行こうと声を掛けると、みんなが動き出す。彼らは止まっている時には人間の目に触れるが、動き出すと見えなくなる。だから、この辺りの人たちは智香以外見えていない。時には智香の行動は奇異に映っているに違いない。もちろん、卓にも動く彼らは見えない。しかし・・・どうやら、なぜだかわからないのだが、美和には見えるらしい。

「美和、お前・・・」

その後が言葉にならない。だから、訊かない。二人がそれなりに楽しんでいるからいい。彼はそう思って、二人を見ている。

飯島卓は自分の描いた水彩画に目が行く。この春、桜の花びらが散る前に描き上がった絵であった。この時には、智香が帰って来ると知らせを受けていた。退院祝いになれば・・・と思って、書いたのである。

卓は腕を組み、ふっと軽い溜息を吐いた。

そして、笑みを浮かべた。智香が描いた絵だ、と彼は自分に言い聞かせた。一人の女の子が、手前に背中を向けている。

モデルは智香のようで、ちょっと横を向き、上目で何かを見ている。何を見ているんだろう、と卓は思った。彼女の視線の先に目をやるが、そこには白い壁があるだけだった。

(分からない・・・どんな意味がある白い壁・・・俺はどんな気持ちで描いたのか、いくら考えても思い出せない)

俺には分からない。卓は二度首を振った。だからこそ、今の得体の知れない智香だからこそ、俺は智香に惹かれる。この構図が一番似合っている。そう思ったに違いない。だからこそ、彼が智香という女の子を想像し空想を働かせて、彼は興味を持っている。

(おやっ!)

卓は首を傾げ、ちょっと不満足な目を曇らせた。

(もう少し、そうだね。二十度くらい視線を下げれば完璧だ)

彼はそう確信する。出来れば、俺たちを、俺を真正面で見て欲しいんだが、

(無理か・・・俺だけ・・・いや、俺を見てくれ)

彼は、デッサンだけでも良かったのだが、智香の心の奥底に秘めたような物悲しい雰囲気が絵の中に生まれるのを、彼自身が嫌った。余りにも智香の持つ重苦しさが表に出ていたからである。

だから、水彩画で彩色したんだ。卓は、それが良かったと思っている。現実の智香とはかけ離れているような気がするが、彼自身はこの絵を気に入っている。いい出来でないことも分かっている。彼自身それが分かっているから、智香に、

「どう・・・?」

と、聞けないでいる。ただ、智香は依然として絵を外さないでいてくれる。

「ねぇ、卓君。一矢お兄様は、お元気?」

智香の

(一矢)

という声に、卓はすぐに反応した。

「兄貴は、元気だよ」

卓がこう言った後、智香の頬が緩んだように見えた。彼はそれを見逃さなかった。なぜ、あの人のことを聞く。兄一矢を、卓はいつからかあの人と呼ぶ。彼は智香の反応に苛立ちに似た感情を覚えた。卓は続けて、

「なぜ?」

と、いった。

智香は答えなかった。彼女が兄一矢の存在に、この頃非常に敏感になってきている。その気持ちは、

(これって・・・まさか!俺の気のせいか・・・)

もしれない。

智香は美和と向い合って座り、白いティシュペーパーでまだ何やら作っていた。卓には何を作っているのか分からない。美和が両手を器用に動かしている。それを、智香が真似をしている。

「何を作っているんだ」

と卓が口を挿んでも、返事がない。しかし、何を作っているのか分からなかったのが、次第にはっきりとした形を表す。はじめは、美和がポケットティシュから一枚取り出し、鳥を作り始めたのが最初だった。それを智香が興味を持ち、二人が顔を合わすとやたらと作ることが多くなった。そんなことを、ここ数日、彼はぼんやりと覚えている。

(美和・・・そんなに手先が器用だったかな?)

美和は指を器用に動かし、何かを・・・リスか・・・リスを作っている。智香は目を大きく見開き、見入っている。

卓は美和を不審な目で見つめた。美和の小さい頃を、卓は知らない。同じ小学校だったが、美和という泣き虫の女の子をいるのを知ったのは、卓の家の近くのマンションに引っ越して来てからである。クラスが違った。だけど、何度も女の子の鳴き声は聞いてことがあった。それが、池内美和だったと後で知った。

今、卓の目に映る美和は泣き虫の女の子ではなかった。そんな印象が変わった。美和は変わってしまった、いつからか。

(いつ頃から・・・)

智香も変わった。こっちははっきりしている。再び卓の前に現れてからである。

そんな目で二人を見ている卓だが、智香と美和が向い合い、遊んでいるのを見ていると、彼はほっとした気分になった。美和が智香に教えた遊びだった。学校に行っていない智香の気休めになれば、と美和が思い付いた遊びのようだった。それにしても、智香は作るのがうまくなったと卓は思う。覚えて、そんなに日数は経っていない。

最初、智香の作るものは形にならず、ただティシュペーパーを丸めたに過ぎないようなものだった。それが、今はちゃんとした形になるようになった。

ただ、智香の場合、彼女の想像力の奔放さは普通の人間とははっきりとちがっていた。《確かに人間・・・女の子》

そう子供の自由な創造が、智香の頭の中で作り出されていた。しかも、それらは現実の生き物を根底に生み出されていた。そういう創造されたものを見るのは、卓には何よりも嬉しかった。だが、彼にはその喜びを語り合う相手が一人もいなかった。

(兄貴!兄貴か・・・あの人は、元気だよ)

「何か、用?」

卓は智香の口から兄の名前が出たのが不満だった。智香の前では出来るだけ感情的な苛立ちは出さないようにしているが、あの人の名前が出た時には、彼の苛立ちは一瞬にして頂点に達した。

彼は目を窓の外にやった。

まだ陽は日中の暑さを残している。明日から夏休みだから、智香とはいつもより長くいるつもりだった。そのことは、美和も承知していた。だけど、一番星が見える頃には帰るようにしたい。卓は遊びに夢中になる智香と美和を見ていると、自分の歳が分からなくなる。俺は二人の身元引受人ではない。そう思われても、卓は怒る気にもなれなかった。智香は十二歳だが、卓と美和は十一歳になったばかりだった。

「何も・・・ないよ。卓君にお兄様がいるって、知らなかった」

卓はあの人、兄、一矢がいるっていうのは、誰にも話していなかった。智香が一矢に会ったのはたった一回きりだった。

「今度、連れて来ようか?」

卓は、こんなことを言った自分に驚いた。彼は間違っても一矢を智香に会す気はなかった。

「・・・」

「何?」

智香は何も答えなかった。彼女は卓から目を逸らし、器用に指を動かしティシュペーパーを形にしていく美和の手元で止まった。

(兄貴のことを考えているのかな?)

と卓は思った。すぐに、違うと確信した。そう思いたかった。智香の心はどこか別の場所に行ってしまっている。俺には分かる。彼は、ここでもまた確信をした。

(こいつ、あの人が好きなのかな?)

卓はやきもちみたいな気持ちを抱いた。しかし、彼は首をひねった。俺は智香が好きなのか?彼にはよく理解できなかった。

「いいよ。あの人・・・じゃない。兄貴が暇を持て余している時に連れて来るよ」

と言って、智香の反応を観察した。

智香は卓の方を見て、笑った後、またすぐに美和とティッシュペーパーで遊び始めた。

今年、二〇〇四年の四月の三日。卓は名古屋の栄にあるカルチャーセンターの水彩画教室に行っていた。最初の頃は母の君江の付き添いだった。卓を家に一人で置いておくには余りに危険だったので、同じに連れて行った。その内君江が水彩画というよりもともとそんなに興味がなかったのかも知れないが、行く日がだんだん少なくなっていった。君江とは反対に、卓が知らず知らずの内にそういうことに才能を発揮し出した。中学生になり本格的に勉強し出し、教室にも一人で行くようになっていた。

卓は知らなかったのだが、一矢はその日、愛知県博物館で公開していた中国仏像店に行っていたようだ。最初に一矢に気付いたのは卓だったが、声を掛けようかどうか、彼は迷った。卓はいつものようにしていようと決めた。

いつも、そうだった。駅や学校帰りの一矢とすれ違っても挨拶をすることはなかった。小さい頃から兄一矢の存在には気付いていたのだが、身近な存在ではなかった。兄弟の間では絶対に存在しない近寄り難い雰囲気が、一矢にはあった。

(何が・・・いうのではない。人間としての根底から、自分とは違う人だと卓は感じていた。

(この人は絶対俺の兄貴ではない)

卓は今も考えることがある。現実は父慎之介がいて母君江がいる。そして、兄の一矢と彼は同居している。この事実は消すことができない。余計なことだが、

(父・・・どうしても好きになれなかった)

卓は一矢とは互いに体を触れ合った記憶がない。一矢の手の感触がどんな感覚なのか、卓は全く想像すら出来ない。多分兄弟なのだから、ずっと同じ屋根の下で暮らしていたんだろうけど、卓には一矢がある日突然何処からか現れた、という印象しかないのである。   これらの思いは、誰にもぶちまけたことはなかった。

(それに・・・)

卓には気になることがあった。この人はある日突然、

(みんなの前から消えた)

のである。そして、現れた、また突然に。

(何を考えているんだろう・・・)

四五日前に、卓が学校から帰ると、一矢は家にいた。一年ぶり・・・だったが、言葉は交わさない。

卓は目を逸らして、改札口に行こうとした。彼はすぐに足を止めた。名古屋駅は連休でごった返す人混みの中に馴染みのある人が、彼の目の中に入って来たのである。振り向くと、やはり大森智香だった。そして、その日は、智香の母真奈香も一緒だった。

「へぇ」

卓は驚いた。智香が、こんな場所に出てくることはなかった。真奈香もこういう雑多な場所に来るような人じゃない、と印象を彼は持っていた。

後で卓は智香に、何処へ行っていたんだ、と聞いた。真奈美に連れられて御園座で歌舞伎を見に行ってきたらしい。何でも、歌舞伎の舞踏劇「保名」というのを見たと智香は言っていた。悲しい話で、真奈香は何度も泣いていたという。

「智香、お前は?」

と聞いたら、返事はなかった。智香は泣き虫ではなかった。泣いたのを一度もみていない。

「どうしたの?」

卓は思い切って声を掛けた。

「あっ、卓君」

智香もここで会ったことに驚いていた。この時、卓は一矢が足を止め、自分たちの方を見ているのに気付いた。彼はどうしょうか迷ったが、近付いてくる一矢を見て、

「兄貴の一矢だよ」

と、智香に紹介した。この日が、智香が一矢を知った最初だった。卓はそう思っている。そして、以後卓が知る限り、智香は一矢と会っていないはずである。

一矢は智香と真奈香を交互に見つめた。言葉はなかった。

智香は何も答えなかった。真奈香は一矢から視線を外さなかった。一矢はすぐに改札口に歩き出していた。その後を真奈美は追っていた。

改札口に入る前、一矢は足を止め、真奈香の方を向いた。そして、軽く一礼をし、改札口に入って行った。

卓は兄一矢の行動にも驚いたが、その時の真奈香の印象を忘れない。遠い昔に別れた愛おしい人に会ったような潤んだ目をしていた。智香は、何だか知らないが、目を輝かせていた。卓はふっと感じたのだった。

卓は兄一矢の顔を思い浮かべた。すぐに頭を振り、一矢の顔を振り払った。実に取っ付きにくい兄だった。彼が思うに、一矢は得体の知れない兄だった。

「連れて来るよ」

と卓は智香に言ってしまったが、この約束を実行することはないだろう。彼は自信を持って、そう言えた。運命が望まない限り・・・そう宿命が動かない限り兄貴と智香が親しくなることはない。

(宿命が・・・)

卓は確信していたのだが。


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