第四章
家に着くと、智香はすぐに母真奈香の様子を見に走った。
(お母様は何処かに行ってしまっていないのでは・・・!)
という胸騒ぎを、智香は心の騒めき、なぜか
(ひょっとして・・・?)
一層の寂しさを抱いた。この気掛かりは、いつも彼女の心の中を彷徨っていたような気がしてならなかった。
(お母さまがいない生活には、あの一年ですっかり慣れている筈なりに・・・わたし、ずっと一人だったのだもの。そりゃ・・・あの時代の人と友だちになれたんだけど・・・)
物音がしない静かな空間に迷い込んでしまったようだ。家の中は、そんな感じがした。大きな声で、お母様と叫びたいが声が出ない。でも、お母様、お母様と小さな声で呟いているのが、自分でもはっきりと意識が出来た。何度目かにお母様と叫ぼうとした時には、智香は居間の前まで来ていて、ここにいるに違いない、と思った。智香は、
「お母様!」
居間に飛び込んだ。やはり、
そこには、いつもの母真奈香がソファに座り、飛び込んで来た娘にびっくりしている。
「どうしたのです、そんなに慌てて」
「だって・・・」
嬉しさで、後の言葉が続かない。いつものように自分がかってに想像して、心配しただけなのである。そんな夢ばかり見ている自分の性格、時には夢と現実をごっちゃにしてしまうこともある、彼女自身がそのことを一番よく知っている。また、母真奈香も、
「また、いろいろ想像をめぐらしたのですね」
いつものように微笑んでいる。
智香はそんな母の姿を見て、ほっとした。真奈香はゆったりとした気分で、庭の景色を眺めていた。庭に面したガラス戸は一杯に開け放されていた。まだ朝の空気の感覚は残っていたが、もう少しで暑い夏の空気に変わろうとしていた。
「おや、どうしたのです、帰るのが少し早くはないですか?みんなと、もっと遊んでくればいいのに」
真奈香は智香に微笑んだ。
(でも・・・)
彼女には母の存在そのものが、いつも近寄り難かった。生きている人として間違ったことをした時には、真奈香から厳しく叱られた。
(こわい・・・)
というより、自分のお母様だけど、近寄り難い存在にいつも感じている。でも、その後の笑顔が、智香には堪らなく好きだった。今、その笑顔が、遊んで帰って来た智香を迎えた。
庭は細長く扇形になっていて、奥行が出るように奥が小高くなり、所々起伏を作り、立体的に出来上がっていた。真ん中には池が作ってあったが、小さなリアス式海岸のようにいくつかの島の形は変形させてあった。その池を守るように周りには起伏のある地形が形成され多くの樹木が植えてあった。明らかに何処かの地形を模しているように見えた。
智香はそう感じたことはあったが、その地形が何処なのか聞いたことはなかった。
池を取り囲む起伏のある地形の向うには、津田孝子の家がある。孝子は智香の父六太郎の妹、砂代の子供で、智香と同じ一人っ子だった。それに、いとこ同士ということもあり、本当の姉妹のよう仲が良かったのだが、二人ともそのような関係に少しの抵抗もなかったようだ。
学校から帰って来た時には、決まって池の向うから孝子の声が聞こえてくるが、今日はまだ聞こえて来ない。学校から帰って来ていないのだろう。一瞬、彼女の心を寂しさがふんわりと覆う。庭の周りには白い壁塀で囲まれているから、滅多に波打つことはないのだが、彼女は水面に小さな波を見た。見たような気がしたのかもしれない。その気持ちが、彼女に不安を呼び起こした。
(なぜ、今日はこんな気持ちになるんだろう?)
彼女の心に答えは返って来ない。
智香は庭に下り、空を見上げた。彼女が白い友達と散歩に行く時にはそれほどの暑さを感じなかったが、今は気が変になってしまいそうな暑い日差しが照りつけて来た。
この寂しさと不安が気になる。
(なぜなんだろう!お母さま・・・)
この寂しさ、不安の原因がこの人なのだと智香は認識していたのだが、それ以上考えを。進められなかった。だけど、その自分の考えを強引に打ち消した。なぜなら、お母様は、
(今私の傍にいるんだ)
彼女は自分に言い聞かせた。
(お母様・・・)
智香は居間のソファに座り、母と向かい合った。彼女を見つめる真奈香の目と合った。彼女は今そこにいる母が、とてつもなく嬉しかった。散歩に行く前に抱いた不安を完全に拭い切れたわけではなかったのだが、いつものお母様だと心の中で叫び、そしていつも言われているように笑みを浮かべ、真奈香の傍に走り寄った。
居間の中は蒸し暑くなって来ていた。
「お母様・・・」
智香は真奈香の前に立った後、母の後ろにまわり、抱き付いた。
真奈香は肩を少し震わせ、驚いた様子を見せた。
「どうしたのです?何か良いことでもあったのですか?明日から夏休みでしょ。卓さんと美和さんが、もうすぐ来てくれますよ」
「別に、何もありません。お母様が元気でいて下さるのが嬉しいのです。はい、お母様のおっしゃる通り、卓君も美和ちゃんももうすぐ来てくれます。二人の足音が、はっきりと聞こえます」
智香は白虎に言われた言葉が不安になって、白い友だちとの遊びを途中で切り上げ帰って来たことは言わなかった。だって、あの二人の存在を知らないのだから。
智香は何度か真奈香を見ては、目を逸らした。
(ひょっとしてお母様に嘘を付いたのは初めてなのかもしれない)
と彼女は目を震わせた。彼女は胸が締め付けられるような苦しさを覚え、両手で自分の体を強く抱き締めた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありません、お母様」
智香は嘘を言った心の動揺を隠そうとした。智香は真奈香から目を逸らし続けた。自分の気持ちを真奈香に見透かされているのでは、
(きっと・・・そう、見透かされているに違いない)
智香にはよく分かっていた。だけど、そうしないではいられなかった。こんな気持ちを持つのは初めてだった。
(私・・・どうかしたのかしら?何かが、変・・・)
彼女は何度も自分に問い掛けた。
しかし、智香を納得させる答えは浮かんで来なかった。こんな気持ちのまま真奈香の傍にいるのは・・・心がぐちゃぐちゃになり、身体が張り裂けてしまいそうだった。それでも、白虎が言ったことが気になり、真奈香の傍から離れる気にはなれなかった。
(何かが起こりそう・・・怒りに狂った黒いものが近づいて来る)
これって、私の気のせい?
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