第二章

大森智香は華奢な体で、十三歳にしては背が低く、その白い肌は一層幼さを際立たせている。今日の彼女の服装はベージュのミニスカートに白い細い肌の手首を覆い尽くしてしまうほどの緑と薄い青のチェック柄の長袖のシャツを着ていた。ミニスカートは、彼女の細い足の線に形よく合い、似合っていた。シャツは形としてはごく普通に見えたが、彼女に清潔な感じを与え、十三歳の少女らしい印象を、見る人に与えていたに違いない。

この少女を見る者は誰もが心に、もう一度あの少女に会いたいという欲望のようなものを感じさせてしまう。でも、

(何かが、変・・・)

ごく普通のシャツの何かが見苦しい。彼女の着るシャツは、こんなに暑い日なのに袖が長い。彼女の細い魅力的な手首をすっぽり隠していた。

(なぜ・・・)

と声を掛けたくなる。

でも、今彼女を見る人よ。彼女・・・そう、智香の楽しそうな笑顔は、問い掛けられた彼女ばかりでなく、聞いた者をも不機嫌にさせない。だから、みんな喜んで彼女を見て、楽しむだけ。

でも、ちょっと待って。やはり気になることが・・・手を、右でもいい、上げた手から長い袖がずれ、手首に黒い何かが見える。

見る人の目の錯覚ではない。確かに、見える。智香の白い肌には、黒い色は不釣り合いな色に見える。黒は目を背けたくなる嫌な色。待って、逃げないで。その黒いもの、不気味な感じのそれは時々長い袖から見えたり隠れたりしている。

「何なの?」

と、聞きたい気分にさせる。

でも、智香の楽しそうな笑顔は、そんな不機嫌にさせるような質問をする気にさせない。そんな彼女をよく見て。時々黒い何かが見えると、彼女のもう一方の手で袖をひっぱり隠しているのに気付いてしまう。やっぱり気になるのかもしれない。ちょっぴり意地を張って、楽しく振舞っている気がしないでもないんだけど。

智香の、

「遊ぼうよ」

という合図の誘いがあるまで、白い友だちたちは動き回っている。地面をはったり歩いたりするものの動きは鈍い、空に浮かぶものはふわりふわりと宙を舞い、ちょっとした心地よい風にでも遠くに飛ばされてしまいそうだった。地面を這うものは歩くのもぎこちなく、生まれたばかりの動物の赤ん坊がお母さんの乳房を求めるように、みんな彼女の方に近寄って来る。

十三歳の大森智香の行動範囲は限られていた。なぜそうなったのか。誰かによって、そうされてしまったのか。おそらく智香を取り巻いている環境が、自然とそうさせたのかもしれない。多分に、母真奈香の影響がありそうだ。しかし今それを語ることはやめにする。いずれ、追々理解されるだろう。

それはそうと、大森智香のことである。

智香は小学校でさえ、その期間の六年間、彼女自身学校にそれ程興味がなかったようだから気にはしていなかったが、通算で六十日も行っていない筈である。

それでも、どうにかこうにか中学生になったが、この慣習のようなものは少しもかわっていなくて、中学生になって最初のこの一か月、まだ一度も学校に行っていなかった。よく言う引きこもりなのか、と思うかもしれないが、ちょっと違うようだ。

智香の母、真奈香は学校に一年間の休学の届を出した。

その紙片に、病名は何も書いてなかった。ただ、ある病気で・・・とあった。

母真奈香は、どこの病院に入院したのかも説明していない。また、智香の友だちにも知らせていなかった。

いずれにしろ、彼女は一年間、みんなの前から姿を消したのだった。何があったのか、このお話が進むにつれてはっきりすることになる。それまでは、長々とした説明はしない。

つまり、一年遅れて中学一年になったことになる。

そして、ちょうど一年後、彼女はこの現実に戻って来たのだった。

三か月がたった。

今日は一学期の最後の日、つまり終業式だったが、彼女は怖い怖いと言いながらも一人で外に遊びに出て来ている、彼女の大切な白い友だちが傍にいるにせよだ。

勢い良く外に出たのはいいが、智香はすぐに走るのを止めた。彼女は体をぴくりと震わせた。誰かが自分を見ているような悪寒を感じたのである。

(まただ)

と彼女は思った。彼女には覚えのある感覚だった。今日だけでなく、ここ三か月前から気になって仕方がなかった。

(誰・・・?)

智香は家の周りに目を配ったが、誰かがいる気配はなく、それ以上の見られているという感覚は消えていた。あの二人ではないのは、智香には分かっていた。

この栗谷町はそれ程大きな町ではなく、周りが水で取り囲まれていた。地形そのものが不思議な様相をなしていて、今の時代から・・・というより時間から遮断されている雰囲気があった。

日本の本州、中部地方を南北に走る木曽川と長良川の流れが伊勢湾に流れ込む。その一番最後の場所に、栗谷町はある。それ程大きな町ではなかったが、海辺の町としては非常に複雑な地形を作っていた。また誰が意識して作ったものか分からないが、知らない人がこの町に入り込んだら、そう簡単に抜け出せない迷路のような道が走っていた。

この辺りは通称、霧が谷と呼ばれていた。もちろん、谷もなければ山もない。なのに、空気の流れが時間の変化に関わりなく、変わり易い。不思議な自然現象なのだが、解明はされていない。

また、海が近く、濃い霧が度々発生する。実際は気象学的には山岳で発生する霧とは違うらしい。複雑な地形は空気の流れを絶えず変え、地表の温度を変化させている。滞る川の水温が異常に高くなることがある。そんな時、栗谷町独特の霧は発生する。時期は定まっていない。

その原因の一つかも知れないが、平安時代以前には鈴鹿山系からもう一つの河川がここ栗谷地区に流れ込んでいたという痕跡が残っているらしい。この事実は学校で教わることはなく、ここに住む者なら自然と知っている。このことは、この地区の存在そのものに重要な意味を持たせているのだが、それは人の知る所ではない。

さらに、もう一つ加えるなら、栗谷町を数百メートル上空から見下ろした時、星形の地形がはっきりと浮かび上がって来るのだが、この事実を知る人は少ない。たとえ、人が知った所で、偶然だろうと言葉で片付けられてしまうのは間違いない。

今現在の栗谷町は、町全体を、今の時代から遮断するために堤防が取り囲んでいるように見える。栗谷町の異様さを際立たせ、一層の孤立感を高めるため堤防は作られているわけではない。堤防は遊歩道のように整備され、町民の誰もが散歩やちょっとした運動をしている姿を毎日見ることが出来る。

大伴智香は今日も学校にも行かないで、白い友だちと遊んでいる。そんな光景を目にしても、堤防を散歩やランニングする栗谷町の人は何も言わない。ちょっと不思議な気がする。今日が一学期の終業式なのを町民の誰もが知っているのに、すれ違う人はみんな、お早う と気安く声を掛けて通り過ぎて行く。

「お早う」

いつも出会う犬の太郎と散歩するおじいさんが、やはりいつものように声をかけて来た。そして、

「今日は、一人かね?」

と、いつもと違う智香の今日の光景の答えを求めて来た。

「おじいさん、お早う御座います。はい、お母様は、今日は気分が悪いから一人で行きなさいって。だから、私、今日は勇気を出して、一人で来ちゃいました。私、少し怖いし不安。でも・・・おじいさんは今日も元気ですね。太郎、お前も元気だね」

智香は自分の気持ちを元気にするために大きな声で答えた。太郎はわんわんと二度吠え、尻尾をくるくると回し、自分も元気なのを彼女に教えた。

「良かった、良かった。今日のあんたがいつもと違い、ちょっと寂しそうに見えたんでね。みんなも元気そうだね。あんたは、一人じゃないんだね。こんなに多くの友だちがいるんだからね」

智香の周りにいる白い友だちを、おじいさんは嬉しそうに眺めた。彼女をよく知っているこの町の人にはけっして不思議な光景ではないのである。

この時間、堤防の散歩や運動に来る人は少ない。仕事や学校に行ってしまっているから。もうすっかり太陽は上り、暑いくらいである。汗は彼女の首の辺りに滲んできていた。それでも彼女は長いシャツの袖をまくり上げはしない。

「みんな、おいで」

智香は手を振り、みんなを呼んだ。みんな、可愛い私の友だち。彼女はにこりと顔をほころばせた。

(人・・・誰?)

智香は歩くのを止め、急に顔を強張らせた。今日家を出た時に感じた、誰かに見られているような視線をまた感じた。彼女は遮るもののない空間に注意を払ったが、誰かが隠れている気配はなかった。

(間違いない。誰かが・・・いや、何かが?)

智香は、この感じは人ではないと思った。それなら、

(何?)

彼女にはすぐに答えを出すことが出来なかった。あの二人でもなかった。あの二人、白虎と青龍は家を出た時からずっと彼女の後を付けて来ていた。もう一人、いやもう一つ智香を見つめる冷ややかな目があった。

だが、その目も、また消えた。

「あぁ、もういい。今ははっきりしないことに気を使いたくない。遊ぼう。みんな、行くよ。私の体に触ってごらん」

智香はこう叫ぶと、堤防から河原に向かってぐるぐる回りながら降りて行った。それ程急勾配の坂ではないが、うまくバランスを取らないと足を絡めてしまい、前のめりに倒れてしまう。誰だって心配して声を掛けたくなる。

でも、大丈夫だ。彼女はまるで天上から舞い降りた天使のように踊っている。白い友だちは、そんな彼女から離れないように一生懸命に後を追い掛けている。

「ほっ、ほほ」

一番に堤防の下に降りた智香は振り返り、自分を追って来る白い友だちの様子を見た。みんな、彼女の大切な友だちなのです。彼女が創り、彼女が命を与えたのです。

「みんな、地面がでこぼこしているから危ないよ。みんなを置いて、智香は何処へも行かないからね。ここで待っているから、ゆっくりおいで」

智香はにこにこと笑顔で叫んだ。

智香の顔色が変わった。

「あっ、ラン。危ないよ」

ランは、彼女が最初に創った友達だった。優しい風にもふわふわ飛び舞うティシュペーパーで形を創るのは難しく、慣れない手付きの智香を見て、美和は笑っているだけだったが、時々手伝ってくれて出来たのが、ランだった。智香は猫を創ったつもりだったが、顔が細長く体がスマートなバランスの悪い猫になってしまった。四つの足も揃っていなくて、歩くのも見ていて可哀そうになる。でも、智香はそんな体で懸命に歩こうとするランが大好きだった。彼女は倒れたランを助けに行こうとしたが、ランは自分で立ち上がった。

「良かった。ラン、いい子だね。みんなもだよ。さあ、おいで」

智香はランを掌に乗せ、河原に降りて行った。もちろん他の白い友だちも、彼女の後を付いて行く。

梅雨の時期ではあったが、ここ数日雨は降っていなかった。そのため川の水量は少なかった。川の水は砂利の起伏の間をくねくねと一筋の流れを呈していた。川辺の雑草は青々と輝いていて、目に快い刺激を与えていた。智香は白い友だちと一緒に河原の砂利の上に降りた。

「よし、行くよ」

智香はランを持ったまま走り出した。靴は履いていたが、うまく踏みつけられなくて走り辛かった。それでも、外で遊ぶというのは気持ち良かった。白い友だちも彼女から離れまいと後に続いた。

智香は走り始めてすぐに、みんなを止めた。

「待って。みんな、ストップ」

智香に従順な白い友だちは、彼女の急なストップの声に驚き、ぶつかりあうものや止まることが出来ずに二メートルも先に行ってしまうものもいた。みんな、何事があったのだろうと智香の方を見た。

智香は足元をじっと見ていた。初めは驚き、次第に悲しい顔になり、今にも泣きだしそうに目を潤ませていた。彼女の足元には、砂利の石に挟まり、苦しそうにしているたんぽぽがいた。

「みんな、見て。私の大好きなたんぽぽさんが今にも死にそう」

智香はすぐに行動を起こした。白い友だちも傷付いたたんぽぽを見て心配そう。彼女は萎れた茎の部分にそれ以上傷をつけないように、石を取り除いてやった。たんぽぽの全身が現れたけど、相当弱っているように見えた。

「今、助けてあげますからね」

智香はこう言うと、根から埋まっていた砂を取り除き、たんぽぽの体を両手で包み込むように持った。

それまで死んでしまいそうに見えたたんぽぽの黄色い花の色が一瞬輝いた。

その輝きはすぐに小さくなったが、消えてしまうようなことはなかった。

「有難うって、言っているのね。いいんですよ、たんぽぽさん。今から元の元気な体にしてあげますから」

智香は手に持ったたんぽぽをどんよりと灰色に曇った空に掲げた。

智香は目を瞑り、心を落ち着けた。そして、心から祈った。母、真奈香が弱ったものを再生しようとする時口ずさむ言葉を、智香は語り始める。それは、智香が修行し覚えた呪術だった。

「私たちを創って下さった方、いつも私の心に語り掛け、生きる力を与えて下さる方、そして、宿命の下に生き続ける私たちを愛して下さる方。このたんぽぽさんに新しい命を与えて下さい」

智香は自分の語る言葉に恥ずかしさも後ろめたさも感じていなかった。自分の言葉に自信を持っていた。白い友だちの動きは完全に止まっていた。彼らは今智香のやろうとしている姿に酔いしれているように見えた。実際、彼らは人が酔っぱらった時のように体がゆっくりと揺れていた。中には倒れ込むものもいた。自分たちも、この智香の力によって生まれて来たことを実感しているように見えた。

その時、それまでどんよりと灰色に曇っていた雲が割れ始めた。太陽の一筋の光が智香の持つたんぽぽに集中した。すると、たんぽぽの体が見る見るうちに、空にまっすぐ伸び切った姿になった。

白い友だちは、智香の力に改めて驚いているように見えた。たんぽぽの命が救われた喜びを、彼らの喜びは言葉で表せない。地を這う白い友だちは嬉しさの余り激しく動き回り、互いにぶつかり合ったり、宙に浮かぶものはぐるぐると智香の周りを回り始めた。

「みんな、みんな、たんぽぽさんの命が助かったのを喜んでくれるのはいいんだけど、落ち着いて、落ち着いて。みんなでこれからたんぽぽさんの新しいお家を探しに行きましよ」

智香の意見に異論があるわけがない。彼女はみんなを堤防の上まで連れて来ると、そこから見える景色に目を巡らした。

半分ぐらい体が回った所で、彼女の動きは止まった。

「あそこがいいわ」

と言って、智香は指をさした。

堤防の斜面の中ほどに太くて大きな樟があった。古い樟だと誰でも分かるが、どれだけ古いのか、なぜこんな所にあるのか、誰も知らない。ただ、太い幹も生きもののようにでこぼこしていて、今も、そしてこれからも成長し続ける逞しさを感じる。母真奈香は智香に言ったことがある。

「この木は、私たちを守るためにあるのですよ」

智香は真奈香の言う意味が分からなかった。だから、はい、と返事するだけだった。

「私の樟さん。私たちをずっと守ってくれている樟さん。お願いです。私と同じようにこのたんぽぽさんを守って下さい」

智香は手に持ったたんぽぽを樟に差し出し、樟の木の先端を見上げた。

「お願いね」

そして、彼女は樟の木の根元にたんぽぽを植えた。

この時、消えていたあの二人の気配に再び気付いた。智香のよく知る二つの目が自分に向けられていた。

「二人とも、もう、いいから。隠れてないで出ていらっしゃい」


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