第56話 選ぶ
「まさかそこでお礼言ったりなんてしないですよね? 松岡先輩」
そんなつもりはなかったのだが、つい口を出してしまった。
拓海は、決して悪い奴ではない。だがどうにも優しすぎるところがある。
それに、拓海は自分たちの会話が玲奈に聞かれていることを知らない。もちろん、その盗み聞きに関しては拓海に非はないのだが──きっかけを作ってしまったのは祐輝だ。
拓海も美咲も、祐輝の登場は予想外だったのだろう。驚いて目を丸くしている。そしてこういう時、立ち直りが早いのはたいてい──。
「私たちの話、聞いてたの?」
やっぱり、たいてい女子の方なのだ。先に口を開いたのは美咲の方だった。
「森下さんがあの計画に乗ったのは、松岡先輩のためだった、というところは聞こえてきました」
祐輝は慎重に──だがその慎重さは悟られないように──言った。正確な答えではないが、少なくとも嘘ではない。
「お礼……か」
拓海はつぶやくように言って空を仰いだ。それから美咲に向き直る。
「……俺のことを心配してくれるのは嬉しいし、ありがたいよ。けどこれは俺が自分でなんとかすべき問題だから」
拓海の答えでは不満に違いない。美咲はかすかに唇を尖らせた。
「私は余計なことをしたって、そう言いたいのね」
拓海がどう考えているかはわからないが、祐輝が端的に答えるとすればイエスだ。
でも拓海には、幼馴染を糾弾することはできないだろう──さっきも言ったように優しすぎるのだ。
これは勝手な憶測だが、美咲はそれをわかっている気がする。
(──! そういうことか!)
突然、祐輝の脳裏にひらめくものがあった。
わかっているのは美咲だけではない──拓海もなのだ。
さっき盗み聞きした拓海の「こんなことができるのは美咲しかいない」という発言──これはこのことを言っていたのだ。拓海に責められることなく玲奈に手を出せる人間は、美咲以外にはいないと。
もっと関係の薄い人間なら、拓海も制裁を加えることを厭わないに違いない。でもそれが仲もよく付き合いも長い幼馴染だったら。拓海には自分を責めることなどできないと、美咲は最初からわかっていてこの計画に手を貸したのだろう。
「余計なことといえばそうかもしれない。ただ俺が言いたいのは……俺のためを思ってやったことだとしても、玲奈を危険な目に遭わせたのは許せないと思う。たぶん、ずっと……美咲でも」
そう言った拓海は苦しげだった。だがそれでも、最低限言うべきことは言ったのだ。
「危険な目ってそんな……!」
美咲はつい思わず、といったふうに反応した。しばらくの間気絶させた程度では危険とは言えないということらしい。
でも本当にそう言えるのだろうか。たとえば玲奈に呼吸器系の疾患があったら? 朔也が力加減を誤って気管に損傷が出たら? 酸素の欠乏で脳に後遺症が残ったら?
もちろんこれはいずれも仮定にすぎない──いや、運よく仮定で済んだだけだ。
「実際に襲われる経験をしたことがない人間に、それを想像しろというのは、酷だとは思いますが」
美咲の認識の甘さに、思わず口を挟んでしまった。
「後遺症って、身体的なものだけとは限らないですからね」
祐輝はあの日の帰り道での玲奈の様子を思い出す。いつかは慣れて元通りになれるのかもしれない。でもそれまでは、事あるごとに怯えることになる。
もちろん具体的なことは言わないが、拓海なら何か感じるだろうと思っていた。
「これからは……何も手は出さないでほしい。協力であっても。美咲とは……絶縁はしたくない」
拓海はそう言って唇を噛んだ。
つまり、今後何か手出しをしたら絶縁すると言っているのだ。美咲にもその意味は伝わったらしい。その顔に初めて、傷ついたような表情が浮かんだ。
以前も感じたことだが、拓海にはこういう言葉選びの癖がある。無意識に決定的な言い回しを避けているのだろう──それでも相手にはきちんと伝わっているのだが。
「私は……佐々木さんとの関係がどうなろうと気にしないけど、拓海との関係が切れるのは嫌よ」
そう言って美咲は目を伏せた。おそらくそれが一番の本音なのだろう。
美咲は美咲で、受け入れなければならないのだ。拓海が幼馴染である自分よりも、彼女である玲奈を優先しようとしていることを。
そしてきっと、自分が「彼女」に選ばれることはないということを。
だがそれを手伝うのは自分の仕事ではないと祐輝は思う。つまり、言うべきことは言ったし聞くべき言葉は聞いたのだ。長居は無用だろう。
祐輝は無言で会釈だけして、その場を後にした。
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